観音崎

観音崎

[1] 観音崎

Webページ

[2] 東京湾海堡, , http://www.geocities.jp/kamosuzu/kaiho.html

観音崎公園の三軒家園地には第三海堡の案内板がある。しかしながら,その地図に記された付近,観音崎京急ホテル上方の走水沖を眺めて見ても,今では第三海堡の姿は見あたらない。

明治新政府は,首都「東京」を護るため,東京湾口の富津岬から観音崎を結ぶライン上に,当時の大砲の射程距離を考慮して,2.5km間隔で三つの海堡を築いたが,大正12年に発生した関東大震災で,第三海堡は大半が崩壊水没してなかば暗礁と化してしまった。

国土交通省は平成12年(2000),東京湾を航行する船舶の安全を確保するため,東京湾口航路整備事業に着手,7年の歳月を費やして,平成19年(2007)撤去工事はようやく完了した。このため,現在,三軒谷園地から見ることができるのは,第一海堡と第二海堡だけになってしまった。

[3] 国土交通省関東地方整備局 東京湾口航路事務所, , http://www.pa.ktr.mlit.go.jp/wankou/rekishi/kensetu.htm

明治新政府は、帝都「東京」を護るため、東京湾海防計画に取り組むこととなりました。東京湾海防に属することは軍事機密であったため、多くのことは伝わっていませんが、さいわい大日本帝国陸軍築城部:『東京湾要塞築城史』が残されておりますので、主としてそれによりながら経緯を辿ってみることとしましょう。

明治から大正にかけて陸軍元帥として陸軍に君臨した山県有朋(1838〜1922)は、明治4年(1871)、『軍備意見書』を提出し、日本列島の要塞化を主張しました。これを実現するため、山県はお雇い外国軍人を活用しました。明治6年(1873)には、陸軍省のお雇い外国軍人でフランス国の陸軍中佐マルクリーに東京湾を視察させ、『我国海岸防御法案』を提出させました。続いて明治8年(1875)には、フランス国の陸軍中佐ミュニエー、工兵大尉ジュールダン、砲兵大尉ルボンに『日本国南部海岸防御法案』を提出させました。この中では、第一防御線(観音崎〜富津岬〜猿島)、第二防御線(品川付近)を護るための砲台建設を提案しています。これらはいずれも海岸や島に砲台を築くものです。

■東京湾要塞の建設■

明治13年(1880)、陸軍省は観音崎第一砲台と第二砲台の建設に着手しました。これは明治時代最初の砲台建設工事でした。その後、東京湾口部には、首都東京と横須賀軍港を護るため、24の砲台が造られていきました。これらの砲台郡は、東京湾要塞といわれています。第一海堡、第二海堡、第三海堡は、東京湾要塞の中でも観音崎〜富津岬〜猿島の防御線をより強固にして、敵艦の東京湾の侵入を阻止する目的で海中に築造された砲台です。

一方、陸軍の内部には、海堡ではなく、外国軍艦の侵入を防ぐための湾口堤防の建設を唱える声もありました。この間には、明治13年(1880)、3〜4トンの石で堤防を築き、波浪に対する安定実験を行ったりしています。お雇い外国軍人の意見を鵜呑みにせず、色々な検討を行っていることが分かります。ともあれ、幕末の江川計画に始まり、明治初期のお雇い外国軍人の計画、陸軍内部のさまざまな検討を経て、ようやく東京湾海堡の建設が始まるのです。

■東京湾海堡建設にたずさわった人たち

■設計と施工■

東京湾海堡建設計画の初めから活躍したのが陸軍技師の西田明則です。とくに難工事となった第三海堡工事では、明治25年(1892)4月から明治

[4] 灯台下暗さ - デイリーポータルZ:@nifty, , http://portal.nifty.com/kiji/130813161415_3.htm

近隣で灯台といえばやはり三浦半島ではないか。幕末から明治にかけて、房総半島と相対する狭い水道の安全航行の為に、日本で最初の西洋式灯台が建設された地である。

[6] 第一海堡, , http://www011.upp.so-net.ne.jp/fortress/tokyobay/fortno1_1.htm

千葉県の富津岬を訪れると、その先の海上に、二つの人工島を見ることができる。それが第一海堡と第二海堡である。「海堡(かいほう)」とは、人工島に築いた砲台という意味である。

※神奈川県よりに第三海堡も築かれたが、関東大震災で大部分が海中に沈み、近年座礁事故を防ぐために撤去された。

なぜ海堡が築かれたのかは、現地の地形を見れば容易に理解できる。明治時代、帝都東京への砲撃を防ぐためには、東京湾への敵艦侵入を防がなくてはならなかった。湾口両岸の観音崎(神奈川県)と富津岬(千葉県)に砲台を築けば内湾への侵入を抑止できるが、地形上の制約で砲撃可能な時間が限られるため、敵艦の数が多ければ強行突破されるおそれがあった。できる限り砲撃可能な時間を確保し、かつ大量の大砲でいっきに敵艦を全滅させるにはどうすればよいか。導き出された答えが、第一~第三海堡の築城であった。設計は、ロシアのクロンシュタット海堡群を参考に行われた。

第一海堡は、富津岬に陸地に近い、水深約5mの海中に築かれた。当初は28cm榴弾砲14門に加え、12cmカノン4門、19cmカノン1門などを備えていたが、関東大震災後に大改築が行われ、特に左面は完全に姿を変えた。28cm榴弾砲は4門と大幅に数を減らされたが、第二海堡から15cmカノン2門入砲塔2基が移設された。この砲塔はアジア太平洋戦争の終戦まで現役であったため、進駐軍によって徹底的に破壊された。

関東大震災による海底の隆起により、第一海堡と富津岬が地続きとなり徒歩で渡れるようになったが、潮流の変化により昭和40年代に砂州が途切れ、再び、船でなければ渡ることはできなくなった。さらに現在は、所有者である財務省が、不発弾調査が済んでいないことや崩落の心配を理由として、上陸を禁止している。無断で上陸されないよう注意願いたい。

※このページで紹介する現地の写真は、上陸が禁止される前に調査した際のものである。

世紀の大工事で完成した海堡の遺跡には、国防史上だけでなく、土木史上でも、はかり知れない価値があるわけだが、残念ながら現時点では上陸禁止のまま放置され、観光資源や歴史教材として有効に活用されていない。近年、南側護岸の崩壊が進み、中央部の機関砲座が崩れ落ちた。このままでは、現存する他の遺構も失われてしまうであろう。まずは、これ以上の崩壊を防ぐ手立てを行政機関にお願い

[7] 隧道レポート 横須賀市の明治隧道たち, , http://yamaiga.com/tunnel/yokosuka_meiji/main.html

横須賀市はトンネルの多い街である。

最近の調べでは、市内にある道路用のトンネルの総数は56で、神奈川県内の総数が81というから、余裕で過半数を占めている。

そして、古いトンネルが多い。

『横須賀市史』によれば、昭和30年には既に42のトンネルが供用されていたという。

多くの地域では「地域最古参」と呼ばれておかしくないような古隧道が、この街には無数にあるわけだ。

なぜ、これだけ多くのトンネルが掘られて来たのか。

それは言うまでもなく地形的な理由が第一である。

同市は全域が三浦半島に位置しているが、この半島には細かな起伏が非常に多い。

さらにトンネルは人が掘るものである。当然、人間の営みが深く関わっている。

同市域は江戸末期以降、浦賀港および横須賀軍港を中心としての市街化が大変進んだが、このことがトンネルを大量に掘らしめた。

次いで、地質的に砂岩が多く掘削に適していたと言うことも、古くから多くのトンネルが掘られた原因である。

それでは、この横須賀市に最初の隧道が掘られたのはいつなのだろう。

下の表は、『横須賀市史』をもとに私が作成したものである。

横須賀市内の明治竣工隧道 (現在の市域にあるもの)

トンネル名

[8] 東京湾要塞 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E6%B9%BE%E8%A6%81%E5%A1%9E

東京湾要塞は、帝都東京を脅かす海からの攻撃に備えるため、明治政府によって1884年より建造開始された東京湾周辺の軍事施設の集合体で、最初は清国北洋水師、次にロシア太平洋艦隊の来攻が想定しての施設であった。主要な設備は、千葉県館山市の洲崎から富津市の富津岬にかけての沿岸と、浦賀水道を囲む形で神奈川県三浦市の城ヶ島から横須賀市の夏島にかけての沿岸に建造された沿岸砲台、三つの海堡(かいほう)からなる。

1894年に「臨時東京湾守備隊司令部」が置かれ、翌1895年には「東京湾要塞司令部」が横須賀市上町に置かれた。

日露戦争の旅順攻囲戦においては、東京湾要塞が持つ28サンチ榴弾砲のうち米が浜砲台より6門、箱崎高砲台より8門、他4門が旅順へと送り込まれ、第二回旅順総攻撃以降ロシア軍陣地攻撃・旅順港砲撃に使用された。

昭和時代には、沿岸砲台には軍縮によって余剰となった艦砲が海軍から移管・設置され、東京湾の湾口部全体を射程に納めることとなった。これにより東京湾要塞は沿岸砲台の射線を第一線、海堡と横須賀近辺の射線を第二線とし、二段構えで湾内に侵攻する敵艦隊の撃破が可能となった。

東京湾海堡[編集]

詳細は「海堡」を参照

東京湾要塞の重要な設備として、東京湾入口の最挟部である富津岬から観音崎を結ぶように造成された人工島の海堡がある。海堡には砲台と砲台を運用するための設備が備えられ、浦賀水道の沿岸砲台を突破した敵艦艇を海上から砲撃する任務を持っていた。このため各海堡の備砲は横須賀側の猿島や走水の砲台と合わせて全体で浦賀水道全体を射程に納めるように配置され、沿岸砲台と協調して敵艦艇を左右と前から挟撃する態勢が取られていた。

海堡は、明治の中頃に建設が始まり30年にわたる海上工事と多大な工事費、及び犠牲者を出しつつ大正時代に完成を見て15センチカノン砲などが配備された。

しかしながら、第三海堡が完成した2年後の関東大震災によって第二・第三海堡が被災、復旧は困難との判断になり除籍され、第一海堡のみの運用となる。第三海堡は特に地震による被害が甚大で、4.8メートルも沈下し全体の三分の一が水没してしまい、その後も少しずつ侵食が進み暗礁となってしまう。

近年、海上交通の安全において、第三海堡は大きく支障があるとのことで、2000年12月から2007年8月にかけて撤去作業が行われた。第一・第二海堡は

[9] あじこぼの自転車たより:散歩と回収車 - livedoor Blog(ブログ), , http://blog.livedoor.jp/ajikoboo/archives/50602494.html

夜の自転車が大好きなアヤシイおやじです。

ミニベロ、クロスバイク、ロードバイクで

毎日毎夜走ってます。爆

いつものように休日散歩に出ました。 ・強風と光さんさんの葉山港赤灯台 ・本日もあれこれ行き止まりの迷宮へ 背中に何か生えています。 大根(大)100円、キャベツ(大)50円を大楠高校あたりで買いました。 ・佐島隧道 流線型の新しい造形です。 このトンネルの遙か昔、昭和3年頃掘られたトンネルがあるそうな... 借り物の写真です。 旧佐島トンネルらしい?新トンネルの場所でしょうか? とにかく、開通おめでとうございます。爆 それとも、蓋がされたこの物件でしょうか? やっと発見できましたが近寄れず。(/TДT)/ ・関根川を湘南国際村へ トンネル内でパンクしました。(TДT) 外まで押して、いざ修理です。 あ、あれ?ポンプ忘れた!あほー めでたく奥様の回収車に助けられましたとさ。 ------------------------------------------------------------------ 5/19 休日散歩 走行距離 44.0km 走行時間 2時間43分 平均速度 16.2km/h あじこぼマイレージ 16,052ap(+44) 5/18 ナイトラン ご近所金沢区コース(しげちゃんライド) +秋谷コース 石号 走行距離 50.2km 走行時間 2時間36分 平均速度 19.2km/h あじこぼマイレージ 16,008ap(+50) ------------------------------------------------------------------

[10] 富津岬の軍用鉄道, , http://hkuma.com/rail/futtsu03.html

岬先端にそびえ立っているのは五葉松を形どったという明治百年記念展望塔。

自転車を降り、そのてっぺんまで登ってみた。

風がだいぶ強くて高所恐怖症ぎみの私は少しヒヤヒヤしたが、そこから見る東京湾の眺めは最高だ。

前方遠くに第一海堡、第二海堡が浮かんでいる。

ちょっと驚いたのは、現在の地図上では繋がっていない筈の岬の先端から第一海堡の間が、干潮のせいなのかほぼ陸続きになっていた事だ。

北側の海岸が埋め立てられ、その分、少し南からの砂の流れに押し寄せられたような格好で、岬と海堡の間を繋ぐような湾曲した浅瀬が形成されていたのだ。

振り返って今来た道の方を遠望してみると、緑に覆われた細長い岬の両側に白い波が打ち寄せている。

軍用軌道はあの真ん中あたりを通っていたわけだな、等と想像をたくましくしながら眺める景色に興味は尽きない。

ほんとうは、お握りでも買って来てこの展望台で食べようかと考えていたのだが、実行に移さずに良かった。

景色はいいが思いのほか高所感があって風も強く、私にはとてもそんなのんびり出来る場所じゃない。

第一、物見客が次々やって来るこの狭い場所でお弁当を広げるのは、少々… いや、かなりひんしゅくものだろう。

階段を下り、再び自転車に跨ってコースを折り返す。

途中で左手に富津岬荘の看板があったので、そこを目印として建物脇から海岸へと抜け出した。

裏手に築堤状の砂利道があるが、地図を重ね合わせてみると、どうもここに本線から分岐する形で引込線が引かれていたようなのだ。

昭和に入ってからの事だが、フランスから列車砲が一門だけ輸入されて陸軍の「九〇式二十四糎列車加農」(加農はカノン砲の事)となり富津岬で性能テストが行なわれたというので、ひょっとするとこのあたりに留置されていたのかも知れない。

列車砲というのは、鉄道貨車の荷台に超大型の大砲を設置した移動式の兵器である。

道路よりも重量物を運ぶのに適した鉄道の長所を利用した武器だが、反面、線路の無いところへは持って行けないという短所がある。

この、日本で唯一だった列車砲、結局この地で性能試験が行なわれただけで国内では実戦に使われず、太平洋戦争開戦前後に遠く満州の地へ運ばれて行ったという。

引込線跡の海岸側先端あたりには、砂に埋まった鉄人28号の頭のような建物が、今でも海の方を向いてひっそりと残っている。

これは一見トーチカのよ

[11] 第二海堡そばで海保に逮捕!, , http://www.measure.jp/meal/report/fisherman/japancoastguard/index.html

今回は東京湾の先っちょ、走水まで頑張って旅に出て、ビシアジを釣ろう!そう気合を入れて7時出港を目指して集合、面子は合計4名でいくが、なんと!海上保安庁につかまる。という珍事件。そしてアンカーのウィンチ部品が欠損、ヤマハボートの人に根岸マリーナからボートでウィンチを持ってきてもらい、釣りには気合が入らず、結局「孫メゴチ」を引っ掛け、ヒトデを2つ釣り上げると言う意味のわからない結果で終わった。次回は気合を入れよう。

[12] 国総研資料 第 37 号, , http://www.nilim.go.jp/lab/bcg/siryou/tnn/tnn0037.htm

本研究は,東京湾口屈指の軍事施設として建設された第二海堡を対象とし,その景観的現況調査とその特長の整理,現景観のもつ即物的価値の明確化,ならびに関連する景観整備事例を整理し,今後議論しうる第二海堡の景観整備に対する指針検討に資する資料とすることを目的とする。

1914年に竣工した第二海堡は,関東大震災による被災,戦後の米軍による接取・爆破を経て,現在は若干原型をとどめるも構造物の各部分が倒壊・散在するといった状態となっている。細長い「へ」の字型の特徴的な平面形状を呈しているため,各構造物が線的に配置されており,それぞれの場所ごとに特徴的な景観を呈している。特に平面的に現存する砲塔などの「固定式構造物」と,隠顕式砲台や探照塔のように破壊された地下空間が露出し垂直秩序の卓越する「隠顕式構造物」とが現景観の特徴を形成している。

加えて,即物的な「廃墟景観」としての価値獲得の可能性について,既存研究における産業廃墟景観評価の枠組みをもとに探求している。特に東京湾岸に点在する同時代の戦跡(猿島,第一海堡,観音崎,花立等)との比較検討を行っている。

最後に,既存構造物にできるだけ手を加えずにコンテクストのみ操作する近代化遺産の景観整備手法事例を紹介し,技術史的ならびに社会的価値が明確化された後の景観整備手法に対する指針への示唆を試みた。

履歴

[14] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054525428070

メモ