[1] 蕪木八幡神社
35.6446308052439 140.44780254364
概要[編集]蕪木古墳群は、南房総から続く房総台地の東端にあたる山武市松尾町蕪木の標高40メートルの台地上に築かれた古墳群であり、前方後円墳4基と円墳15基で構成されている。このうちの2個の前方後円墳、1号墳と5号墳の発掘調査が、1952年(昭和27年)と1953年(昭和28年)に日本大学によって行われた。なお、5号墳については日本大学の調査後にも、1989年(平成元年)に山武考古学研究所によって墳丘測量と横穴式石室の再調査が行われた。また、17号墳と18号墳は1984年(昭和59年)土砂採取事業に伴い、調査が行われ後消滅した。1号墳は、朝日ノ岡古墳と呼ばれ、蕪木八幡神社の境内にあり社殿によって南側のくびれ部の一部が削平されている。本古墳は前方部を西に向けた、全長76メートル、後円部径48メートル、前方部幅40メートルの前方後円墳であり、周溝は盾形で二重に巡っているが、東側の周溝は千葉県道62号成田松尾線の工事によって破壊されたという。出土遺物については、須恵器、土師器、管玉のみが記録されている。埴輪列は墳丘の中段と裾部の上下2列に配され、墳丘中段には、円筒埴輪、人物埴輪、馬形埴輪が、周溝に沿った基壇裾部には、円筒埴輪と、人物、水鳥、鶏の形象埴輪が交互に並べられていた。5号墳は、1号墳の東南約150メートルに位置する前方部を南西に向けた、全長47メートル、後円部径20メートル、前方部幅20メートルを測る前方後円墳であり、高さは前方部後円部とも4メートルである。墳丘南側のくびれ部に開口する前室と玄室をもった複室構造の切石積み横穴式石室があり、石室天井が崩落しており盗掘された痕跡が見られるものの、比較的多くの副葬品が残されていた。小規模な前方後円墳ながら副葬品には傑出したものがみられ、長頸壺を含む須恵器3個、鉄製直刀12振、銅製馬具1組分(轡・雲珠・辻金具)の他、鉄鋲約50個、金銅製素環耳飾4個、ガラス小玉46個など多くの飾りとともに、他に例を見ない金銅製鞘入刀子(刀子と金銅製刀子鞘)・金銅製巾着形容器1個が出土した[1][2]。築造時期については、1号墳は6世紀後半、5号墳は埴輪は出土せずこのことから6世紀末と、また17号墳と18号墳も6世紀末と推測されている。位置[編集]本古墳群は、九十九里平野中央を流れる木戸川の東岸に位置し、JR東日本総武本線松尾駅の北
概要[編集]
蕪木古墳群は、南房総から続く房総台地の東端にあたる山武市松尾町蕪木の標高40メートルの台地上に築かれた古墳群であり、前方後円墳4基と円墳15基で構成されている。このうちの2個の前方後円墳、1号墳と5号墳の発掘調査が、1952年(昭和27年)と1953年(昭和28年)に日本大学によって行われた。なお、5号墳については日本大学の調査後にも、1989年(平成元年)に山武考古学研究所によって墳丘測量と横穴式石室の再調査が行われた。また、17号墳と18号墳は1984年(昭和59年)土砂採取事業に伴い、調査が行われ後消滅した。
1号墳は、朝日ノ岡古墳と呼ばれ、蕪木八幡神社の境内にあり社殿によって南側のくびれ部の一部が削平されている。本古墳は前方部を西に向けた、全長76メートル、後円部径48メートル、前方部幅40メートルの前方後円墳であり、周溝は盾形で二重に巡っているが、東側の周溝は千葉県道62号成田松尾線の工事によって破壊されたという。出土遺物については、須恵器、土師器、管玉のみが記録されている。埴輪列は墳丘の中段と裾部の上下2列に配され、墳丘中段には、円筒埴輪、人物埴輪、馬形埴輪が、周溝に沿った基壇裾部には、円筒埴輪と、人物、水鳥、鶏の形象埴輪が交互に並べられていた。
5号墳は、1号墳の東南約150メートルに位置する前方部を南西に向けた、全長47メートル、後円部径20メートル、前方部幅20メートルを測る前方後円墳であり、高さは前方部後円部とも4メートルである。墳丘南側のくびれ部に開口する前室と玄室をもった複室構造の切石積み横穴式石室があり、石室天井が崩落しており盗掘された痕跡が見られるものの、比較的多くの副葬品が残されていた。小規模な前方後円墳ながら副葬品には傑出したものがみられ、長頸壺を含む須恵器3個、鉄製直刀12振、銅製馬具1組分(轡・雲珠・辻金具)の他、鉄鋲約50個、金銅製素環耳飾4個、ガラス小玉46個など多くの飾りとともに、他に例を見ない金銅製鞘入刀子(刀子と金銅製刀子鞘)・金銅製巾着形容器1個が出土した[1][2]。
築造時期については、1号墳は6世紀後半、5号墳は埴輪は出土せずこのことから6世紀末と、また17号墳と18号墳も6世紀末と推測されている。
位置[編集]
本古墳群は、九十九里平野中央を流れる木戸川の東岸に位置し、JR東日本総武本線松尾駅の北
大堤権現古墳を出てから30分くらいでしょうか。目印となる項目が少ない地図をぐるぐる回して、ハンドルもブンブン回して、ようやくたどり着きました。車を停めたときに近くの人にどこからきたのか聞かれましたが、そりゃそうです。ここは間違いなく観光地じゃありません。不審者にも程があります。 さてここ朝日ノ岡古墳は、蕪木(かぶらぎ)古墳群の1号墳で、蕪木八幡神社の境内にあります。前方後円墳のくびれた場所が社殿でちょいと削られています。また二重の周溝があったそうですが県道の工事でなくなってしまったとのこと。 境内に人気は無く、それ以外の気配は絶えません。右下写真を見ても薄暗さが判っていただけるかと思います。社殿のすぐ後ろが高くなっているので、古墳の位置はすぐにわかりました。 発掘記念碑(左下写真)はちょっとだけ登ったところに建っています。
大堤権現古墳を出てから30分くらいでしょう
か。目印となる項目が少ない地図をぐるぐる
回して、ハンドルもブンブン回して、ようやく
たどり着きました。車を停めたときに近くの
人にどこからきたのか聞かれましたが、そりゃ
そうです。ここは間違いなく観光地じゃありま
せん。不審者にも程があります。
さてここ朝日ノ岡古墳は、蕪木(かぶらぎ)
古墳群の1号墳で、蕪木八幡神社の境内にあり
ます。前方後円墳のくびれた場所が社殿でちょ
いと削られています。また二重の周溝があった
そうですが県道の工事でなくなってしまったと
のこと。
境内に人気は無く、それ以外の気配は絶えませ
ん。右下写真を見ても薄暗さが判っていただけ
るかと思います。社殿のすぐ後ろが高くなって
いるので、古墳の位置はすぐにわかりました。
発掘記念碑(左下写真)はちょっとだけ登った
ところに建っています。
朝日ノ岡古墳 前方後円墳 墳長76m、後円部径48m、同高約6.2m、前方部幅40m、同高約6.2m 蕪木旭ノ岡ほか 台地 円筒埴輪、形象埴輪、横穴式石室、須恵器、土師器、管玉 千葉県の歴史資料編考古北西から。右手前が前方部隅、左奥が後円部。蕪木八幡神社境内にある。楯形で二重の周溝が巡り、6世紀後半の築造と推定されている。南東から後円部。南側括れ部付近を社殿造営で削られているが他はよく残っている。西から前方部。1952年の調査報告で、主体部は、床はセンを平敷きし粘土壁面を焚き火してかためた焼粘土槨とでもいうべき石室、としているが、「千葉県の歴史」では軟砂岩切石積の横穴式石室と考えたほうが妥当、としている。後円部から前方部。前方部から後円部。(撮影 2011/02)
朝日ノ岡古墳 前方後円墳 墳長76m、後円部径48m、同高約6.2m、前方部幅40m、同高約6.2m 蕪木旭ノ岡ほか 台地 円筒埴輪、形象埴輪、横穴式石室、須恵器、土師器、管玉 千葉県の歴史資料編考古
北西から。右手前が前方部隅、左奥が後円部。蕪木八幡神社境内にある。楯形で二重の周溝が巡り、6世紀後半の築造と推定されている。
南東から後円部。南側括れ部付近を社殿造営で削られているが他はよく残っている。
西から前方部。1952年の調査報告で、主体部は、床はセンを平敷きし粘土壁面を焚き火してかためた焼粘土槨とでもいうべき石室、としているが、「千葉県の歴史」では軟砂岩切石積の横穴式石室と考えたほうが妥当、としている。
後円部から前方部。
前方部から後円部。
(撮影 2011/02)
千葉県山武市松尾町蕪木地区の「八幡神社」(萩本泰将宮司)本殿奥で見つかった、鍵のない「開かずの金庫」が地元住民の話題となっている。20日、本殿改修祝いを兼ねて行われた祭礼に集まった地元の人たちも、初めて見る金庫に「何が入っているのか?」と、想像を膨らませていた。関係者によると、八幡神社は山武杉に囲まれたこの地に移転して400年以上になるという。今年4月に行われた改修工事の際、これまで誰も入らなかった本殿の奥から古い金庫と2基のみこしが見つかった。金庫は鉄製で高さ77センチ、幅48センチ、奥行き53センチ。扉面の鍵穴部分には菊の紋章と「明治十四年内国勧業博覧会」の刻印があった。130年以上経過しており、鍵の所在などを知る人もいない。地区最年長の宮崎好雄さん(93)は「自分も中身を見たことはないが、聞いた話では、金の幣束(へいそく)や鏡など神を奉る道具が入っているようだ」という。氏子総代長を務める押田芳幸さん(64)は「専門家に依頼して開けることも検討しているが、いっそこのままにして保管した方がいいのか。結論は出ていない」と話し、謎は続いている。【吉村建二】
千葉県山武市松尾町蕪木地区の「八幡神社」(萩本泰将宮司)本殿奥で見つかった、鍵のない「開かずの金庫」が地元住民の話題となっている。20日、本殿改修祝いを兼ねて行われた祭礼に集まった地元の人たちも、初めて見る金庫に「何が入っているのか?」と、想像を膨らませていた。
関係者によると、八幡神社は山武杉に囲まれたこの地に移転して400年以上になるという。今年4月に行われた改修工事の際、これまで誰も入らなかった本殿の奥から古い金庫と2基のみこしが見つかった。金庫は鉄製で高さ77センチ、幅48センチ、奥行き53センチ。扉面の鍵穴部分には菊の紋章と「明治十四年内国勧業博覧会」の刻印があった。130年以上経過しており、鍵の所在などを知る人もいない。
地区最年長の宮崎好雄さん(93)は「自分も中身を見たことはないが、聞いた話では、金の幣束(へいそく)や鏡など神を奉る道具が入っているようだ」という。
氏子総代長を務める押田芳幸さん(64)は「専門家に依頼して開けることも検討しているが、いっそこのままにして保管した方がいいのか。結論は出ていない」と話し、謎は続いている。【吉村建二】
[6] この記事はSuikaWiki Worldで2013-10-25T05:28:04Zに作成されました。 2013-10-25T06:06:30Zに最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933389012