籠岩

籠岩

[1] 広瀬川籠岩 (かごいわ)

Webページ

[2] 源流から苦地橋, , http://www.stks.city.sendai.jp/sgks/WebPages/hirosegawa/hirose1.htm

第1回 広瀬川を歩く 「源流から苦地橋」 目次へ

山形県との県境、関山峠の東側から始まる広瀬川。

私たちが見慣れている広瀬川からは、想像もつかないほどの小さな沢でした。

そこから南東に流れながら沢を集めて水量を増やし、V字型の深い谷を刻んでいきます。

やがて、「新川ライン」「奥新川ライン」で知られる新川川と合流すると、

大小の様々な滝が連なる鳳鳴四十八滝や熊ヶ根橋付近の自然崖など、

広瀬川はその姿を多彩に変えていきます。

広瀬川の呼び名

広瀬川の源流

旧関山街道と番所

坂下境目御番所跡

旧関山隧道殉難碑

旧いずみ橋

作並温泉

湯渡戸橋

相生橋

作並宿御番所跡

新川川

新川川の木流し

旧荒沢鉱山

鳳鳴四十八滝

今井山不動尊

鷹の巣

学川淵(ガッカフチ)

カゴ岩

熊ヶ根橋

熊ヶ根堰

野川

熊ヶ根の糸滝

青下水源地

青下川の木流し

伊達政宗公の川狩り

広瀬川の魚捕り

仙台市の電気と水道の源

赤生木温泉旧町民憩の家

赤生木

1 広瀬川の呼び名

今は広瀬川と言っているが、昔の人達は自分たちの村や部落の前を流れる川は

自分達の部落の名前をつけて呼んでいた。

例えば、「作並川」、「熊ヶ根川」、「愛子川」などというように部落の名前がついている。

これらは、「安永風土記書出」にも出ている。

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2 広瀬川の源流

宮城県と山形県の境界の関山トンネル(国道48号線)の約300mほど手前の左側に

標柱が立っている。その標柱は建設省で立てたものであるが、「名取川水系一級河川

広瀬川上流端」と記されている。

そこが風倉沢と坂下沢との合流点で広瀬川の上流端になっている。

法律で河川の本流を決める条件としては、流域面積の広さ、流量の多さ、

社会的位置などがポイントになる。

この上流端より名取川の合流点(仙台市日辺付近)までが広瀬川で、流路延長

約45kmある。

「広瀬川源流付近」

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3 旧関山街道と番所

弘法山、聖山、文殊山、放山などの地形と落合付近の山(ドンデラ山)などが、

山形路の通行を阻んでいたようだ。また、城の後ろから攻め入られてはたまらないから

青葉城の背後地であったことも交通が少なかった理由になるだろう。

したがって、七北田川や名取川の流域に比べると交通網の整備はだいぶ遅れていた

ようで、二口峠や関山峠に行く際には七北田方面から宮城地区に入っていたものと

[3] 広瀬川, , http://www4.atpages.jp/jinkosatou/z000b58q9.htm
[4] , , http://www42.tok2.com/home/kaidoumiyagi/sekiyamakaidou.html

仙台〜山形間は、東北横断自動車道の開通によって1時間15分という通勤並の時間となり、両市を核とした二つの県の地域で育った物心両面の交流が盛んとなり、気軽に買い物も出来るという一つの文化圏となっています。

人や物の交流の運び手は、江戸時代は人や馬でした。明治になると馬車の時代となりますが期間は短く、すぐ鉄道や自動車の時代となり、現在に至っています。

馬車の時代は明治9年の明治天皇東北巡幸に始まり、明治15年には関山街道にトンネルが開通し車道が完成します。笹谷街道も明治26年には山形県側が、同28年には宮城県側の改修が進み馬車の往来が可能となりました。

街道の名称も太政官布告によって最上街道が羽前街道と変えられました。余談ですが、関山街道は地図を見ると同じ路線を山形県側が関山街道、宮城県側が作並街道となっています。

仙台・山形をを結ぶ関山・二口・笹谷の三街道は三位一体で三者が有機的関連を持ちながら両城下を結んでいました。関山街道と二口街道の間は、東から茂庭道、仙台街道、板颪道、大雲寺道があり、板颪道(イタオロシミチ)は秋保の長袋から笹谷街道の川崎に通じていました。二つ目は、定義(ジョウゲ)道を含めて街道沿いに85の道標碑が立っています。ずいぶん人通りが多かったことを石碑は語りかけてくれます。

江戸時代の関山街道は仙台から奥羽山脈の関山峠(標高640�b)を越えて天童市で羽州街道と合流しており、ほぼ現在の国道48号と重なっています。

二口街道には、欽明天皇が天然痘の治療に秋保温泉の湯を用いたとか、平重盛(小松殿)の後裔基盛が長袋に居を構え秋保氏を名乗った、或いは平家落人伝説があります。また板碑も二口街道沿いに確認されていますが、関山街道の熊ヶ根以北にはそれらしい伝説・史実はないようです。

ここで試論として、東北大学植物園に残る「最上古街道」の延長を板碑でたどってみようと思います。

『仙台市史 特別編5 板碑』の「3 太白区秋保町湯元字青木 岩谷堂板碑群」(�E)について「この地は岩谷堂山とも呼ばれて、慈覚大師が立石寺を開く前に精舎を建てたが、領主のいやがらせにあって立ち去ったという伝説を伝える岩窟が山の中腹にある」と記されています。

《板碑でたどる最上への道》

この板碑の東の朱点線をを図でたどると弥勒寺にある元亨碑(�D)、さらに郷六館跡(�B)の建武

履歴

[5] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933278044

メモ