砂糠山

砂糠山

[1] 神津島砂糠山

Webページ

[2] 道路レポート 神津島の砂糠山にある廃道, , http://yamaiga.com/road/sanukayama/main7.html

今回の探索日は2013年4月1日で、翌々日の早朝に無事帰宅した私は、旅の興奮の醒めぬうちに早速、あれやこれやの机上調査をスタートした。

その成果を発表する前に、机上調査中にこういうもの(→)を見付けて笑わせていただいたことを書き記しておきたい。

私が探索中に窓口を訪ね、衝撃の“養蚕施設”証言を得た神津島観光協会の公式ツイッターアカウント( @kozusima さん)が、こんなツイートで世の中の【島フェチ】を島へ呼び込もうとしていたのである。

フェチだぞ、フェチ。

フェチって……、あれだろ…。

まあ、私が探索中にだいぶやばくなっていることは否定しきれない(詳しくは この漫画 に…)が…。

いずれにせよ、オブローダーの説明が面倒だと思った私が、自己紹介を適当にした結果が「史跡マニア」なわけである。

で、相変わらず観光協会サイドは「 養蚕場所として使われた(使おうとした?)神津島のある場所 」という(少し当日よりも自信がなさそうな)表現で、“養蚕施設”説を推している。

本当かよ!

島の外から恐縮であるが、私がっきっちり カタ 付けたる!!

文献調査 〜『伊豆諸島東京移管百年史(下巻)』および『神津島村史』を読む〜

遠くの図書館から取り寄せるまでも無く、最寄りの日野市立図書館に所蔵されていた上記の史誌が最初のターゲットとなった。(こんなとこでも、伊豆諸島が確かに東京“都内”なのだと実感する)

そして、個人的な疑義はさて置いて、島民の証言があるという理由から、最も有力な説とみられた「養蚕」について調べてみると…。

2冊とも、神津島の養蚕について専門に述べたページが1ページずつあった。

どちらも1000ページを越える大冊であるから、この分量は多いとは思えない。もちろん文章も読んだが、砂糠山で大規模な養蚕事業が行われたことについては、記述がなかった。

が、それでもこれら文献は、私の大きな誤りを正す役割を果たした。

[9] 神津にいくばぁ(神津島), , http://thecometworld.web.fc2.com/kozu-51-sanukayama-haidou-6.html

天空の廃道 砂糠山の養蚕場跡 冒険日2013.12.7

導入>STEP1>STEP1.5>STEP2>STEP3>STEP4>STEP5>STEP6

いざ天空の廃道へ! 〜STEP6〜 歴史を知る

ふと、気になった衝動から探検を始めたわけであるが、

すごい発見は嬉しく思うが、大きな疑問が残ってしまった。

なぜ、あんなところに道が?

いったい何をしていたのか?

気になってしまう。

この鉄塔。

この道。

これは一体全体なんだろうか・・・。

ではでは、疑問解決のために調査開始!

まずは、聞き込み調査!

調査その1 母に聞いてみる。

そしたら、すぐに。

<あぁー、あそこは昔、蚕をやってたぁっつぅでー

!

早速、有力情報!

なんと蚕を飼育していたとのこと。

そもそも昔は、だいたいの家庭で蚕を飼育し生糸を作っていたらしい。

<だけん、どんな感じでそこに造られたかは知らないやぁー

しかし、詳細はわからないとのこと。

ここで、この本の登場。

調査その2 「神津島村史」を調べる

「神津島村史」

ペラペラ・・・

おっ!

第3章 第6節 養蚕業 p167

いつのころから判らないがかなり古くから行われていた。本島には野生の桑の木が多く、かなり大木になっているものもあり、葉肉が厚く養蚕には良質の飼料であるといわれていた。

村内にも機織り機も普及していてまゆを紡いで布地を織り、「地織り」と称して着物にする者もあり、今でもそれが残っている。

養蚕業の最盛期には野生の桑のみででは足りず畑に苗木を育成して増産に励みマユの選別に熟練した娘たちが集団で本土の養蚕業に出向き指導した時代もあった。

昭和十三年ごろは約二二〇貫の数量を上げ一三〇〇円くらいの収入があったことことが、「東京府市町村概観」に記されている。

特に蚕室は設けず、住宅の畳を上げて部屋を臨時の蚕室にして操業したので、温度調節等には苦労したようであるった。

桑の質は非常に良いことと、孤立した島だけに桑及び蚕の病菌がなかったため、種マユに適していたので、昭和時代に入ってからも盛んに続けられたが絹の需要が減少し、昭和初期には絶滅してしまった。

あれ?

あれれ?

有力手がかりなし・・・。

あちゃー。すこし行き詰りです。

・・・休憩。

温泉にでもいこう。

ふぅー

と、

[12] 神津島 - 地質概説 -, , https://gbank.gsj.jp/volcano/Act_Vol/kozushima/page3_1_9.html

神津島周辺の地形

地質概説

地史(地質図を含む)

岩石

地質各説

神津島

氷長石化作用を受けたデイサイト溶岩

流紋岩単組成火山

秩父山火砕堆積物(Cb)

面房火山(Mb)

長浜火山(Nh)

観音浦火山(Kn)

ハシルマ火山(Hm)

砂糠山火山(Sn)

221m山火山(Nn及びCbの一部)

262m山火山(Nr及びCbの一部)

那智山火山(NC及びCbの一部)

松山鼻火山,大沢火山及び高処山火山

じょうご山火山(Jg及びCbの一部)

花立火山(Ht及びCbの一部)

穴の山火山(Ay及びCbの一部)

神戸山火山(Kb及びCbの一部)

天上山火山(Tj)

祇苗島

恩馳島

文献

2014/03/25

このデータ集は5万分の1地質図幅

「神津島地域の地質」(一色,1982)から抜粋,再構成したものである.

このデータ集を引用する場合,次のように引用すること.

一色直記 (1982) 神津島地域の地質.地域地質研究報告 (5万分の1 図幅),地質調査所,75 p.

砂糠山火山(Sn)

島の東海岸,観音浦から横瀬鼻・砂糠崎を通って,多幸湾東北東端の釜が下に至る海食崖や横瀬鼻の北西約0.3kmで海に至る大川の川底に露出する流紋岩溶岩を砂糠山火山と呼ぶことにする.この火山は Tsuya(1929)の第一期のε1-Lava,谷口(1977)の砂糠山溶岩にほぼ相当する.その分布範囲は南北約2km,東西約0.6kmである.溶岩の厚さは,例えば砂糠山稜西側では,海面上だけでも約150m,上部から下部への岩相変化,すなわち塊状軽石質-真珠岩質-黒曜石質-石質から(第14図),溶岩上半部だけしか露出していないと考えられるので,実際には200-300mはあるのではないかと推定される.溶岩流出に先立って放出されたと考えられる火砕物の存在は確認されていない.谷口 (1980)は彼の砂糠山溶岩(谷口,1977によれば黒雲母流紋岩)が「角閃石片を含むきわめてスフェルライ卜質な,厚さ60cm程度の岩脈によって貫入されている」と記載している.この岩脈の特徴は,「(a)きわめてスフェルライト質で,角閃石,斜長石,石英,ガラス,基盤岩及び砂糠山溶岩等の破片を多数有する.(b)顕著な“流動分化”(但しこの場合は,上記鉱物片や岩片が軸部に集中する)を示す.(c

[13] 神津にいくばぁ(神津島), , http://thecometworld.web.fc2.com/kozu-48-haidou.html

2013年4月1日。

ついにあの方が人知れず神津島に上陸した。

あの方とは、

サイト「山さ行かねが」管理人であり、

古き良き「交通」を体験するオブローダーの「よっきれん」さん。

廃道・廃線・未成道・隧道・林鉄・酷道などを愛し、探索し、

サイト上で公開し、オブローダーを仕事としている方である。

神津島にも存在するであろう、ヨッキれんさんの大好物を5ヶ所紹介します。

【神津島 廃道、廃線、廃墟マップ】

【廃線】

名組湾のトロッコ跡

神津島ではトロッコ跡とか言われている場所で、

大人気観光スポットである赤崎遊歩道のすぐ近く。

「神津にいくばぁ」でも「トロッコ跡」として紹介しています。

ヨッキれんさんのサイト「山さ行がねが」で探索レポートが、

神津島の石材積出軌道 序 前編 後編と紹介されている。

神戸山で採石した石材を山から索道で降ろし、トロッコに乗せ、船に乗せ搬出した。

【未成道】

大黒根トンネル〜返浜

道をどこまで作るのだろうか。

海岸線の道路は日に日に延びていく。

磯を埋めて、落石防止の策をして、岬があればトンネルを掘り、道を延ばしていく。

ヨッキれんさんのサイト「山さ行がねが」で探索レポートが、

神津島黒根の未成道 【1】 【2】【3】【最終回】と紹介されています。

ここでは、大黒根トンネル側をメインに紹介します。

【廃墟・廃屋・廃ホテル】

沢尻湾廃墟群

バブルの頃に建てられたが営業することはなかっと言われる廃ホテルや、

食堂や温泉の廃墟も付近に存在する。おもしろいところ。

廃ホテルと廃屋2軒を紹介します。

【廃道・廃墟】

砂糠山の養蚕場跡

第二次農業構造改善で、島の外れに作られた養蚕場。

政治、行政主導で作られたが、村からの道もなく、

わずかの間しか使用されず放棄された。

多幸湾から海岸沿いに磯を進み、

突き当りの谷を登りきると、ここにたどり着ける。

壮絶!その一言に尽きる。

2014年3月4日に発売

DVD「廃墟讃歌 廃道ビヨンド Obroad Beyond 」でも紹介される。

【廃道・廃展望台】

観音浦展望台

道路は伸び、観音浦の上あたりまでやってきた。

その先も作っていたが、平成12年の地震で崩壊し、ついに放棄したという。

今は、観音浦への山道の入り口付近で封鎖させられ

[14] 道路レポート 青ヶ島大千代港攻略作戦, , http://yamaiga.com/road/oochiyo/main10.html

前回の最後に公開した全天球動画の録画開始ボタンを押す直前に撮影したのが、この写真だ。海抜60m付近の階段通路上から大千代港の全景を俯瞰した。

この直後に私は、全天球カメラを聖火の如く右手に掲げながら、直下に見える二段の平場(港の基部)のすぐ上まで文字通り駆け下った。

あとから要した時間(=動画の再生時間)を確認すると、約66秒だった。

また、上記を含む、海抜70m付近の“引き返し地点”から基部に下降するまでに要した総時間は、約5分だった。

普段、ここまで時間を意識しながら探索することはないが、ストレスを感じるどころか、逆に私の人生では未体験の“敏腕ビジネスマン”にでもなったような心境で、爽快だった。これが、エリート・オブローダーだ!(笑)

それから私は探索済の基部内を速やかに移動し、写真内の★印(基部の下段南端付近)へ向った。

そこを起点に、矢印に示したルートで、 最後の未探索領域である基部と岸壁の連絡道路へ入っていく。

9:34 《現在地》

上の写真の★地点から、岸壁への通路入口を見ている。

険峻な青ヶ島にあってはここも非常に低い土地といえるが、それでもまだ海抜15mほどあり、ほぼ0mに位置する岸壁まで、この正面に見える傾斜路を下って行く。

なお、航空写真および現地を確認した限り、岸壁へ至る通路はこれしかないようで、選択の余地は存在しない。

それにしても……

車道 なのである!

ここからは! (←力説)

ここに来て、高低差にして百数十メートルぶりとなる車道との再会であった。

それも、上にあったような軽トラサイズの小さな車道ではない。

大型ダンプさえ悠々と通過できそうな、地方港湾に相応しい規模の車道である!!

面白すぎる!

以前の回にも書いたが、地続きの陸地に存在する他の車道や集落と完全に離れている、 離れ小島・飛び地的な車道 は、 神津島の砂糠山 の例を含めて、もはや島という“小世界”ならではのものであるかもしれない。

本土(内地)にはもう、こういう場所が残っていない可能性がある。

こういう状況を示す“陸の孤島”という表現も、実際は比喩的なものになって久しく、その比喩でさえも最近はあまり用いられていない気がする。

右の写真は、この場においては車道の象徴のようにも見える、ガードロープの支柱だ。

本来ならば見慣れた道路構造物だが、限界を超

[15] 神津にいくばぁ(神津島), , http://thecometworld.web.fc2.com/kozu-51-sanukayama-haidou.html

天空の廃道 砂糠山の養蚕場跡 冒険日2013.12.7 作成日2014.3.19

導入

なぜ、そこに道があるのか!?

誰もがそう思ってしまう道が神津島にあった。

インターネットでふらふらネットサーフィンをしていたら見つけてしまったその道。

国土交通省の「ウォッちず」という誰でも閲覧可能な地図サイトの神津島の地図をご覧下さい。

灰色の四角い記号は何か建物のある記号。

点線の記号は車道ではないが、徒歩道などがある印である。

つまり、地図から読み取れば、

ここには建物があり、道があるということになる。

あるということになるが、

あの有名なgoogleマップの航空写真でここを見てみると・・・

建物らしきものはあった!

しかし・・・道は。。。

というか、道の部分は崖ではないかと思われるのだが・・・

むむむ〜、

一体全体ここはどうなっているのだろうか!?

疑問は膨らむばかりである。

・・・よし、行ってみよう!

海岸線は磯伝いに、そこから山に向かっていくのは谷であると思われるから、なんとかいけるだろう!

というわけで、いざ、疑問を解決に参りましょう!

2013年12月6日(金) 横浜大桟橋

やってまいりました。 ここは、神奈川県、横浜大桟橋。

秋から春にかけての金、土曜日夜は、竹芝桟橋を出航した各島経由神津島行の大型客船は横浜を経由します。運賃も少し安くなり、家から近いので横浜から乗船します。

出航時間は23:30。

待ってました。今宵、お世話になる「かめりあ丸」です。

この船も2014年6月7日に東京竹芝桟橋を出航するのが最後。

神津島を翌6月8日に出航すると引退となります

残り少ないであろう、かめりあ丸をかみ締めながら島に向かいます。

いざ、乗船!

2013年12月7日(土) 船中泊、神津島到着

2等席で大広間の雑魚寝。

エンジンの音を感じながら船は南へと進んでいきます。

朝6時、夜が明ける前に伊豆大島へ到着。

多くのお客さんが下船していきます。

ダイヤモンド富士ならぬ、ダイヤモンド利島を見れるのも船旅の醍醐味。

見えてきました。我が故郷神津島。

長年住み、長年遊んでいましたが、まだまだ知らない場所がたくさんある大冒険島だ。

今回は村落の港「前浜港」とは反対側の「多幸湾」に入港。

つまり今回の

[16] 963 砂糠崎2=神津島村砂糠山(東京都)20,000年も続いた後期旧石器時代を生き繫いだご先祖さまたちは偉大だなぁ:でんでんむしの岬めぐり:So-netブログ, , http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2013-06-06

でんでんむしの岬めぐり

草木もなびく佐渡の岬めぐり中。自称『岬評論家』でんでんむしの日本全国津々浦々突端出っ張りコレクション。電車とバスときどきタクシーとレンタサイクルでってスゴくない? 年表もね。

履歴

[17] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054527954820

メモ