登竜橋

登竜橋

[1] 東京都道204号日原鍾乳洞線登竜橋

Webページ

[2] 道路レポート 第二次 日原古道探索計画 , , http://yamaiga.com/road/nippara2/main2.html

2007/1/23 11:24 【現在地】

日原古道から「とぼう岩」へ挑戦する試みの、重要な道程である旧日原橋。

江戸時代に書かれた『新編武蔵風土記稿 巻之百十五』日原村の項では、本橋を指して「長さ八間幅三尺、日原村へゆく橋なり、板にて作れり」とある。

当時の橋は、渡した丸太の上に板を敷いただけの板橋だったのだろう。長さ約15m幅90cmほど。

既に街道としての役目を終えた今日でも橋が原型を止めていたのは思わぬ収穫であった。が、これを渡って先へ行くとなれば話は別だ。

最近この橋を渡ったという話を私は聞いたことがなかったので、なおさら渡れるのかという疑念を払拭できなかった。

橋の下の川の流れは徒渉出来ないほどではない。

いままで、幾つもの廃橋を渡ってきたが、こいつはちょっと得体が知れない。

その理由は明らかに、この工事用足場のような鉄板にある。

これではまるで、伝説上の怪物、フランケンシュタイン…。

死肉のような朽ち木の橋に金属を組み合わせ、一応はそれらしい形になっているのだが……。

もしこの足場がなければ「渡れない」と即決しただろう朽ちっぷりなのだ…。

ここはトリ氏も明らかに躊躇している…。

結局、万が一のことがあっても死ぬほどの高さではないということに力を得て、フランケンブリッジに挑戦することになった。

もちろん渡るのは一人ずつだ。

足場の板は肩幅ほどしかなく、手摺りとなるべきワイヤーもぎりぎりまで細い。

今のこの橋を渡らしめる物はワイヤーから直接につり下げられた金属足場であって、本来の木製の渡り板はただの負荷でしかない。

ご覧の通りその一部はワイヤーから外れ、後はもう落下の時を待つだけになっている。

そして、その為に橋全体のバランスが横へずれており、足場が左に5度くらい傾斜している。

かるく霜が降りたような冷たい鉄板は、如何にも滑りそうで恐ろしさを倍増させた。

橋の上からは、幅広になった日原川を見渡せる。

この辺りはかつて、山で伐った木材を川に流して輸送する「管流し」を行うために「鉄砲出し」をした場所だという。

鉄砲出しとは、川に一時的な堰を(多くは木材で)作り、堰を壊したときに予め河原に置いた材木を激流で押し流す事。

東北ではこの管流し(鉄砲出し)を林鉄が代替するようになったが、ここ日原では車道が建設されるまで行われてきた

[4] 道路レポート 都道204号日原鍾乳洞線 旧道 , , http://yamaiga.com/road/nippara/main2.html

11:43

日原トンネルはまさに日原地区の生命線。日原と外界を繋ぐ戸口のようである。

トンネルを出るとそこは東日原。

日原集落まではもう500m。

だが、日原トンネルの旧道へはここで方向転換。

旧道の入口は、日原トンネルを出た、まさにこの場所にある。

写真は、日原トンネルを出るとすぐに渡る登竜橋から日原側を写しているが、橋の向こうの左側に、崖に向かって出っ張っているガードレールが見える。

そこが、新旧道の分岐点であった。また道路を挟んで反対側、向かって右には旧々道が分岐している。

待避所として使うには邪魔な位置にカーブミラーが立つ登竜橋袂の余地。

今来た方向を振り返る。

ここからは、旧道が山肌に残した創痕を鮮明に見ることが出来る。

険しい岩場。

この奧に、あの松の木峠旧道をも凌ぐという大崩壊地が潜むのか…。

※画像にカーソルを合わせると旧道を表示します。

ここで、日原トンネルの旧道について重要な情報がある。

旧道といっても、実は2世代分存在しているのだ。旧々道と旧道だ。

このうち、旧道には現道に較べれば短いものの隧道があった。それは古い地図にも描かれている。

そして、旧道は旧々道を概ね踏襲しているが、トンネルや橋の部分に違いがある。

現道の日原トンネルは昭和54年の竣功であったから、それ以前に使われていただろう旧道。

その日原側の入口となる橋は、現道の開通後早々に落とされたらしい。

橋の直下には氷川鉱山の坑道の一つが口を開けており、谷底にはトロッコが放置されているのが見えた。そして、レールも。

だが、いま目指すべきは谷底ではない。この旧道の行く手だ。

日原トンネルを迂回する旧道は、全長2km。反対側は現役の氷川鉱山の敷地や採石場となっており、どこまで辿れるのかは「不明」である。

「不明」と言ったのは、その端まで辿ったというレポートがないためだ。

大崩落地があるために…。

写真右側には、山肌に続く旧道の痕跡がくっきりと見えているが、

あそこまででさえ 行けない らしい。

ここから見る限り、道はしっかりしているし、それほどの障害はありそうもないのだが…。

一方、登竜橋の脇に残る旧々道敷き。そして、背後の古い砕石場跡。

あの高い岩場は自然の露頭ではない。ダイナマイトで爆砕された採石場の跡地なのだ。

旧々道はその麓をカーブして進み、日

[7] 日原トンネル旧道を歩く, , http://kasetsu.sukimakaze.com/hobby/nippara2.htm

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前回は、旧都道開通以前の道(部分)を紹介した。

今回からは、前回の訪問から1年後の2009年3月に、お馴染みスイッピ氏と共に訪れたときのことをレポートしていく。

スイッピ氏はこの探索の1週間後にはブログにてレポートを公開されていたのに対し、私ときたら公開まで4ヶ月以上開いてしまった。

いよいよ旧都道のレポート…と行きたいところだが、もう一つだけ読者様に見ていただきたいものがある。

今回は、この赤い円の範囲内をレポートしたいと思う。

ここは(現)日原トンネルの西側坑口附近である。

左の橋は「登竜橋」といい、現道はそのまま長さ凡そ1100mの日原トンネルの中へと続いている。

さて、写真の右側奥に青い道路標識が見て取れるだろう。

その道路標識が旧道のものであるのは、云うまでもない。

トンネルと旧道の分岐というものは、トンネルの坑口のごく近くにあるのが一般的なのだが(峠道などは除く)、

この日原トンネル新旧道分岐地点は、この写真を撮っている所なのである

とはいっても錆びた道路標識の方向には道は無く、数十メートルの虚空がただ続いている。

そしてその数十メートルの隔たりを経て、さらに奥へと道が続いている。

実は、嘗てはこの隔たりに橋(旧・登竜橋)が架かっていたのである。

この路肩の不自然な出っ張りは、嘗ての旧登竜橋の橋台だったのだ。

恐らく現日原トンネルを掘るに当たり、旧登竜橋の向きではルート設定に差支えがあったことから、

真っ直ぐ山に向かって新橋を作り、旧道へと向かう旧橋は落とされたのであろう。

橋が消えてしまったから、旧道へのアプローチは出来ないのだろうか?

そんなことは無く、ここにはこの旧登竜橋が出来る「さらに前の時代の道」が存在するのだ。

その道はこの写真の地点から左に分かれ、素直に山をトラバースし、トンネルの直前で現道と交差して

そこから旧道へと向かっているのである。この旧旧道のお陰で我々は旧道に進むことが出来るのだ。

さて、「路肩の不自然な出っ張り」を良く見ると、これまた古い手すりが存在する。

はてさてこの階段、一体何処に続いているのだろう…。

明らかに低い手すりと急傾斜の階段に、足を踏み外せば軽症では済まないなと思いつつ、我々は階段を降り始めた。

[8] 道路レポート 旧東京府道242号 日原氷川線 (日原5期道) , , http://yamaiga.com/road/nippara5/main3.html

2007/1/23 15:51

今回紹介する区間は、以前公開した「第二次 日原古道探索計画」の最終回直後に探索した。

これは当初から計画していたわけではなく、この日序盤の日原川右岸探索中に偶然発見し、これをとぼう岩からの帰り道として利用したのだった。

そしてその結果として、この道が日原集落まで都道とは別ルートで繋がっていることを確認。

晴れて昭和の築造でありながら謎に満ちた5期道ルートが、ほぼ完全に解明されたのであった。

現在地は、樽沢が日原川に滝となって落ちる対岸(左岸)。

樽沢を渡る橋があって然るべき地形だが、現存しない。しかし、前後に鮮明な道の痕跡がある。

この付近で、とぼう岩をへつって大正4年に開通した4期道と、昭和6年に開通した5期道とが接続していた。

厳密にどこが接点であったかは分からないが、ともかく5期道の開通によって初めて氷川〜日原間に荷車、自転車、バイクなどが通れるようになったとされる。

上の写真と同地点から、日原川上流を撮影。

写真中央の斜面に、コンクリート製でラーメン構造の橋台が写っている。

当時の日原川では盛んに「鉄砲出し」(川を使って木材を運搬すること)を行っていたために、水面には橋脚を下ろすことが出来なかったのだろう。

ここに、「惣岳吊橋」という名の巨大な吊り橋が架かっていたという。(目測だが、20〜30mの長さ)

同様の橋台は、右岸側にも残っている。

これが、5期道として記録に残るもっとも下流側のものである。

近づいてみると、このようにかなり大きな構造物である。

そして、この辺りは旧都道の数多い崩壊地の直下となっており、膨大な瓦礫が山腹を埋めている。

登ろうとすると音をたてて足元から崩れる状況で、転落云々というよりも単純にアリジゴク的な徒労を感じる。

なかなか登らせて貰えない。

ともかく、汗を掻いて橋台の上に立つ。

登り着いた左岸橋台付近より、とぼう岩方向を振り返って撮影。

禁漁区であるゆえ、また実は奥多摩工業の立入禁止エリアであるため、ほとんど立ち入る者のない谷底。

そこに失われた府道、「日原氷川線」が存在していたという確かな痕跡である。

昭和27年に都道が開通したことで廃道化したと思われるが、航空写真の記録によればその後も橋は存在し、50年代までは架かったままだったようである。

通常吊り橋が自然に落橋

[10] 廃道探索 奥多摩日原旧道大崩壊(歩鉄の達人), , http://www.hotetu.net/zuidouhaidou/090214nituparadaihoukai.html

東日原行きのバスは運転手と車掌が乗っている。非効率だが、見通しのきかない場所のチェックや落石をどかす為に乗車しているようだ。実際に帰りのバスで落石があり、車掌がどかしていた。

[11] 道路レポート 都道204号日原鍾乳洞線旧道 兎峰橋, , http://yamaiga.com/road/nippara6/main2.html

前回明らかにした事実というのは、右の図における旧道の「A」〜「B」の区間が、上の写真のような風景であるということだ。

その一部は一応、地形的に残存はしているが、「A」地点寄りのおおよそ150mは完全に消滅(上図の破線部分)している。

かつて路盤があったはずの位置が、確実に空中になっている以上、道の消滅を疑う余地はない。

ということで今回のテーマは…、

【完全消失区間の痕跡を求めて!】

…とはいいつつも、本当に現地に何一つ痕跡が無いならば、行っても仕方がないかも知れない。

実は前回も少し触れたとおり、この位置にあった道の“残骸”が現存している可能性を感じていた。

次の地図を見て貰いたい。

これは、「山行が」で取り上げる古地形図としてはだいぶ新しい、昭和55年修正版の5万分の1地形図「秩父」より、とぼう岩付近である。

そこには開通したばかりの現道(「日原隧道」の表記アリ)が描かれているが、同時に旧道もまだ描かれている。

そして旧道とその前後の道を追っていくと、3本の橋が描かれている。

西にある登竜橋は、今では橋台しか残っていない。

一方で東の倉沢橋は、昭和34年に建設された全長58m、高さ61mのワーレントラス橋で、現地にある案内板によると東京都が管理する都道橋のなかでは最も高いという。これは今も現役だ。

そして旧道の中間付近にも橋がある。

それはちょうど現在地点のすぐ東側で、まさに道が消失している領域内である。

重要なのはここからだ。

はい、現地の景色に戻ってきました。

前回も眺めた末端です。

矢印の所に、何か見えませんか?

赤茶けた鉄骨の塊のような物が。

相当に大きな。

[12] 旧日原トンネル@東京都西多摩郡奥多摩町|あれ!それ!これ!, , http://ameblo.jp/bashi-heppoko/entry-11749041831.html

とても都内とは思えない奥多摩町に、東京都道204号 日原鍾乳洞線という都道があります。そこには日原トンネルという長さ1107メートルのトンネルがあります。そして旧道と旧々道があり、そこに旧日原トンネルもあります。 まずは東(氷川)側の坑門前から、こちら側はほとんど関係ないので、ストリートビューから転載です。 坑門前で二手に道は分かれますが、左に分かれる方が旧道になります。しかしすぐに守衛所があり通り抜けることができません。ここは、奥多摩工業氷川石灰石鉱山なので、当然立ち入り禁止です。ってか入って発破にでも遭えば・・・解りますね。 では現道のトンネルを通って西(日原)側へ。その前にトンネル動画を(進行方向逆ですが)。 http://youtu.be/oLb9gEq82d8

っで日原側に到着。見えているのは登竜橋。 橋の上からの写真・・・ブレていて見難いですが旧道の跡が。 望遠で見てみると・・・道路標識? 西側の坑門のすぐ前に旧道に入る場所があります。 アスファルト敷きですが、道幅が1.5車線ほどです。此処を大型観光バスが通っていたのですね。 トンネル内カーブ注意の喚起の標識・・・んっ? 何か向こう側が大変なことになってますが・・・ とりあえず先に進むと坑門が。 少し近づいてみると・・・当たり前ですが厳重に封鎖されています。 封鎖ネットには注意の看板。 ちょっと字が薄いですが、どうやら発破に関する看板。はいっ!石灰石と一緒に粉々になりたくありません。 これより先(トンネル)は鉱山施設ですから立入禁止とのこと。逆に言えば、ここまでは東京都の土地ということか? 坑門前はすれ違いの為に広くなってますね。 金網越しに中を。思いつきでここに来たので、懐中電灯を持っていませんでした。とりあえずは風が通っているので貫通してますね。 坑門横には旧々道が続いています。っが、この先はさっきの写真の大崩落地帯! しかも日原川まで崩落しています。発破・大崩落・不法侵入等を冒してまで進む場所ではないでしょう。 私はここにて撤退します。ってか雪は降っている、すんげ~寒いしで、さっさと車に戻りたかったっす。 ちなみにこのあたりの崖の高さは50メートルぐらいかな。落ちたら死ぬな。 どうしても、自分の足でトンネルの先を知りたいって人は自己責任で! 私は絶対にお勧めしませんし、当ブログ及び私

[13] 荒川 (関東) - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E5%B7%9D_%28%E9%96%A2%E6%9D%B1%29

歴史[編集]

荒川は、江戸時代初期以前は現在の元荒川の川筋を通っていた。つまり関東平野に出たのち東へ下り、武蔵国・下総国境付近(今の越谷市・吉川市周辺)で南流していた利根川と合流、そこから合流と分流を繰り返しながら江戸湾(現在の東京湾)に注ぐ川だった。「荒」という名の通りの暴れ川でしばしば川筋を変え、下流域の開発も遅れていた。本流が今の綾瀬川を流れていた時代もあるが、戦国時代に水路が掘られて東の星川に繋がれ、綾瀬川と分流した[2]。

利根川東遷事業[編集]

1629年(寛永6年)に関東郡代の伊奈忠治らが現在の熊谷市久下で河道を締切り、和田吉野川の河道に付け替えて入間川筋に落ちるようになった。元の河道は、熊谷市で荒川から離れて吉川市で中川と合流する元荒川となっている。同時期の工事で利根川は東に瀬替え(利根川東遷事業)して古利根川流路から江戸川の流路を流れるようになった。付け替え後の荒川(元の入間川)は、下流で現在の隅田川の河道を通っていた。この部分は流速が遅く、台風で大雨が降るとしばしば溢れて江戸の下町を水浸しにした。明治時代の調べでは、大雨の際、熊谷市と川口市で最高水位に達する時刻の差が48 - 60時間あった[3]。洪水が人や家を押し流すことはないが、浸水による家屋と農作物の被害は深刻であった。しかし、荒川の舟運にとってはこの瀬替えによって水量が増えたことにより物資の大量輸送が可能となり、交通路としての重要性を高めた[4]。

荒川放水路[編集]

荒川放水路(あらかわほうすいろ)は、荒川のうち、岩淵水門から、江東区・江戸川区の区境の中川河口まで開削された人工河川を指す。途中、足立区千住地区、および墨田区・葛飾区の区境を経由し、全長22 km、幅約500 mである。1913年(大正2年)から1930年(昭和5年)にかけて、17年がかりの難工事であった。

計画に至る過程[編集]

明治43年(1910年)8月5日ごろから関東地方では長雨が続き、11日に房総半島をかすめ太平洋上へ抜けた台風と、14日に甲府から群馬県西部を通過した台風が重なり、荒川(現隅田川)を含む利根川や多摩川などの主要河川が軒並み氾濫し、死者769人、行方不明78人、家屋全壊2,121戸、家屋流出2,796戸に上る関東大水害が発生した。利根川左岸上五箇・下中森の破堤により群馬県邑楽郡一帯に被害が集中したほ

履歴

[14] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054529741267

メモ