甲州街道

甲州街道

[1] 甲州街道

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[2] 西武新宿駅はなぜ遠いのか 幻の東口乗り入れ計画 |エンタメ!|NIKKEI STYLE, , http://style.nikkei.com/article/DGXNASFK2103N_S2A121C1000000

日本一のターミナル、新宿駅。JRや私鉄、地下鉄が集結するこの駅で、ひときわ離れているのが西武新宿駅だ。なぜ、一路線だけ離れているのか。調べてみると、過去に何度か乗り入れ計画があったことがわかった。新宿の私鉄を巡る秘話を追った。 ■西武新宿からJR、乗り換えに6~9分

西武鉄道の黄色い電車を降りて駅ビルから外に出ると、JR新宿駅が遠くに見えた。JR改札までゆっくり歩いて6分ほど。人混みの程度や信号によってはもっとかかるかもしれない。 乗り換え検索サイト、「駅探」で調べてみると、西武新宿駅からJR新宿駅までは徒歩7分。「ナビタイム」では8分、「ヤフー!ロコ」では9分だった。駅探では分速60メートルで計算しているといい、乗り換え距離は420mということになる。 なぜこれほど遠いのか。西武鉄道に聞くと「昔のことでよくわからない」とのこと。同社には社史がなく、過去のいきさつについては伝わっていないようだ。

何か手掛かりがないか。「鉄道未成線を歩く 私鉄編」(JTBキャンブックス)などの著書がある鉄道愛好家の森口誠之さんに尋ねたところ、西武鉄道の常務がかつて鉄道雑誌のインタビューで詳しく語っていることがわかった。 図書館で入手したその雑誌、「鉄道ピクトリアル」の1992年5月号増刊「特集 西武鉄道」では西武鉄道の長谷部和夫常務(当時)が興味深い話を披露している。一部を引用しよう。 ■西武新宿駅は仮の駅だった 「西武新宿は当初仮駅だったのです」 長谷部氏によると、西武新宿駅はひとまず仮駅として設置し、駅前整備を待って国鉄新宿駅まで延長する計画だったという。 西武新宿駅が開業したのは1952年(昭和27年)。まずは現在の場所に簡単な駅舎ができた。この辺りには戦前、西武軌道という路面電車があり、新宿駅東口まで延びていた。国鉄への乗り入れは、この軌道跡を利用することになっていた。

[3] 仙川用水、入間川支流との交錯と、再びの隧道〜深大寺用水と入間川を紐解く(5) : 東京の水 2009 fragments, , http://tokyoriver.exblog.jp/17309787/

仙川用水、入間川支流との交錯と、再びの隧道〜深大寺用水と入間川を紐解く(5)��

2012年 01月 13日

深大寺用水東堀シリーズ、今回とりあげるのは「らんせん池」のあるつつじヶ丘公園の少し先の付近から、甲州街道沿いの隧道を抜けた辺りまで、下の地図で「今回記事」の区間となる(地図はgoogle mapより)。

下の写真は、前回の最後でとりあげた、らんせん池付近を水源とし深大寺用水に並行する小川。仮に「入間川西つつじケ丘支流」とでもしておこう (→小川の流れる谷の小字名が「狢沢」であることがわかった。よって、この小川は「入間川狢沢支流」と呼ぶのがふさわしいだろう(2012.5追記)) 。谷底の擁壁にそって曲がりくねった暗渠が下っている。地図によってはらんせん池の他に、この辺りにも池が描かれているものもある。右側の斜面の上をかつて深大寺用水東堀が流れていた。

[11] 八王子の廃なもの, , http://www5b.biglobe.ne.jp/~a-uchi/haibutu/index5b.html

中央線の前身である甲武鉄道が新宿〜立川間で開通したのは

八王子誕生のとき、明治22年4月のことです。そしてこの先の八王子に向って多摩川を渡

るために橋脚を造る必要があり、日野宿字下川原、現在の日野警察署北側付近で「日野煉瓦

製造所」が創業しました。

「日野煉瓦製造所」は明治21年から稼動し、そこで造られた煉瓦が橋脚に使われま

した。そして4ヶ月後の明治22年8月に八王子まで開通したのです。もちろん開通当初は

現在の上り線のみの単線で、そこには今でも開通当初の煉瓦橋脚を見ることができます。

ところが「日野煉瓦製造所」は明治23年に創業者の死亡で廃業してしまいました。

そのあとの明治30年になって「八王子煉瓦製造株式会社」

ができたのです。甲武鉄道の八王子〜上野原間は明治34年に開通していますのでその区間

に多く見られる煉瓦構造物(例えば水路や道路を跨ぐ橋、

湯の花トンネル、小仏トンネルなど)はこの工場の製品が

使われたものと勝手に想像しています。(根拠資料はありません)

京王線の八王子駅から上りの電車に乗って何気なく窓の外を見ていると、地上部に出

てすぐの右手に妙な構造物があるのに気づきます。あっという間に通過してしまいますが、

これが「煉瓦工場への引込線」の橋脚なのです。

現在の打越中学校の南で京王線と湯殿川に挟まれた地域に「八王子煉瓦製造株式会社

」が存在したということです。当時の住所では南多摩郡由井村北野ということになっていま

す。

[12] 橋梁レポート 国道20号旧道 旧国界橋, , http://yamaiga.com/bridge/kokkai/main2.html

2010/10/2 11:27 【現在地】

早速渡っても良いのだが、その前にもう一度、橋の周囲をよく観察してみる。

すると橋頭のすぐ上流に見慣れたハニーボックスとは違う、百葉箱のようなものが置かれている事に気付いた。

電線らしきものも引き込まれているぞ。

百葉箱のようなものの正体は不明。

おそらくは前回見た「観測局」に関わる観測機器の一つであろうと思う。

しかしそれよりも重大な発見があった。

苔むした橋台があるじゃあないか!これは明らかに、昭和4竣工旧国界橋のさらに旧橋(旧旧橋)の痕跡であろう。

事前情報は皆無であったが、ここは前述したとおり歴史深い甲州街道筋。

何代もの旧橋があることは不思議ではなかった。

(この橋の正体は本編文末で明かしている)

そしてもう一つ。

旧と旧旧橋の間に倒れている、1本の看板を見つけた。

錆びきっていて何が書かれていたのかは分からなかったが、大きさや位置から考えて、“白看”時代の案内標識であろう。

きっと「国界橋 KOKKAI.BR」と書かれていた。

旧旧橋の遺構と考えられる、石造橋台。

対岸の状況はまだ分からないが、旧旧橋も旧橋と同程度の長さを有する橋であったと思われる。

さすがに道幅は狭く、まさに見慣れた明治馬車道サイズといった感じだ。2間(3.6m)であろう。

興味深いのは、橋桁を収めるための橋台の凹みの深さである。

通常、この深さは床版の厚みに等しいわけで、そうであればこの旧旧橋の床版は50cm以上の厚みがあったことになる。

時代的に床版は木材であったろうから、太い材を2枚重ねて使ったのか。

いずれにせよ、かなり堅牢(かつ長径間)な木橋であったことが窺えるのである。

そしてその理由は、現存する旧橋の橋脚に現れていた(後述)。

旧旧橋についてもう一つ言えるのは、旧橋よりも1〜2m高い位置に架されていたということである。

旧旧橋台から旧橋を見ると、このようにやや見下ろす感じになる。

これも新旧世代の橋の一般的な関係性とは逆転している。

理由は定かではないが、釜無川の下刻作用によって河床が時代とともに下がっている可能性がある。

「角川日本地名大辞典 山梨県」の「釜無川」の解説文に、次の内容がある。

〜昭和57年8月の台風10号およびそれに続く大雨で、白州町国界橋から下流1800mの間が一夜にして、河

[14] 玉川上水 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4

『玉川上水起元』(1803年)によれば、承応元年(1652年)11月、幕府により江戸の飲料水不足を解消するため多摩川からの上水開削が計画された。工事の総奉行に老中で川越藩主の松平信綱、水道奉行に伊奈忠治(没後は忠克)が就き、庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)が工事を請負った。資金として公儀6000両[2]が拠出された。

幕府から玉川兄弟に工事実施の命が下ったのは1653年の正月で、着工が同年4月、四谷大木戸までの本線開通が11月15日とされるが、1653年2月10日着工、翌年8月2日本線開通とする史料もある[3]。

羽村から四谷までの標高差が約100メートルしかなかったこともあり、引水工事は困難を極めた。当初は日野から取水しようとしたが、開削途中に試験通水を行ったところ“水喰土”(みずくらいど; 浸透性の高い関東ローム層)に水が吸い込まれてしまい、流路を変更(「かなしい坂」参照)。2度目は福生を取水口としたが岩盤に当たり失敗した。こうした事情を受けて、総奉行・松平信綱は家臣の川越藩士安松金右衛門を設計技師に起用。安松は第1案として「羽村地内尾作より五ノ神村懸り川崎村へ堀込み-」、第2案として「羽村地内阿蘇官より渡込み-」、第3案として「羽村前丸山裾より水を反させ、今水神の社を祀れる処に堰入、川縁通り堤築立-」を立案した。

この第3案に従って工事を再開し、約半年で羽村・四谷大木戸間を開通し、承応2年(1653年)11月に玉川上水はついに完成。翌承応3年(1654年)6月から江戸市中への通水が開始された[4]。しかし、工費が嵩んだ結果、高井戸まで掘ったところでついに幕府から渡された資金が底をつき、兄弟は家を売って費用に充てたという[5]。

庄右衛門・清右衛門は、この功績により玉川姓を許され、玉川上水役のお役目を命じられた。

なお、玉川上水の建設については記録が少なく、よく分かっていないことも多い[6]。安松金右衛門については三田村鳶魚の『安松金右衛門』に詳しく記されている。

給水地域[編集]

玉川上水の給水地域は『御府内備考』に簡略で分かり易く説明されている。

玉川上水 (中略)今、此上水、流末広大にして四谷・麹町より御本城へ入、西南は赤坂・西の久保・愛宕下・増上寺の辺、これ松平豊後守屋敷の辺、金杉左右海手すべて北手、南東方は外桜田・西丸下・大名小路一円、虎御門外、数寄

[15] 新宿駅の立体模型ですっきりする - デイリーポータルZ:@nifty, , http://portal.nifty.com/kiji/161122198124_2.htm

さて、作った田村さんはどこを気に入っているだろう?

「ほらあそこ」と言っていたのは、JRから京王に乗り換えるときの通路である。

[16] 隧道レポート 都立長沼公園の明治隧道捜索作戦, , http://yamaiga.com/tunnel/naganuma/main.html

このレポートは、私が東京都日野市に移住してきてからの7年間で最も自宅に近い場所での廃道探索となった。

(ミニレポ202回で紹介した下久保バス停も同じくらい近いが、あれは廃道探索ではないので除外)

私が住む日野市平山から直線距離で1.5kmも離れていない、八王子市長沼(マピオン)を舞台とした探索である。

しかも表題の通り、こんな家のすぐ近くで、ガチの明治隧道捜索を行った。

言っておくが、私の家の周りは隧道が少しも珍しくない千葉や大分のような“トンネル王国”ではない。むしろ、一般にそれらが少ないとされるエリアだ。

しかもこれは有名物件ではない。ネット上では情報を少しも見付けられていない(あったらぜひ教えて欲しい)。

ここに引っ越してきてから7年間、この隧道の存在を意識したことは、一度もなかった。

なお、予めお断りしておくが、このレポートもまた机上調査が未了の状態で執筆を始めている。

これは例によって、公開することで情報が集まることを期待しての事であるから、お心当たりの情報がある方は、ぜひ一報ください。

あまり前置きが長くなるのも興醒めだろう。

早速、今回のレポートを行った唯一の情報源を、お目にかけよう。

今のところ、これだけが、隧道捜索の根拠。

この独特の風合いを持った地図に見覚えがある読者もいるだろう。

当サイトでも時折登場するこの地図は、迅速測図と呼ばれる、縮尺2万分の1を持つ本邦最初の地形図である。

関東地方分の測量時期は、明治14年から18年までであり、全国の5万分の1地形図が整備される20年以上も前の詳細な地図として極めて価値が高い。

まず、最初にツッコミを受けそうなので書いておくが、図の左下の「神奈川県南多摩郡」は誤記ではない。

同郡が東京都の前身である東京府に編入されたのは明治26年であり、この図が調製された時期には、北多摩郡、西多摩郡と共に、神奈川県に所属していた。

また、本編に関係するいくつかの地名を赤字で表記したが、当時は市制や町村制の施行以前である。左上の「八王子驛」は、近代の八王子宿を継承した固有の地名であり、鉄道の八王子駅とは関係が無い。(八王子に甲武鉄道が開通するのは明治22年である)

この小縮尺図では、とりあえず八王子と今回紹介する隧道の位置関係を大雑把に把握していただけれ十分だ。

補足説明として、明治1

[17] 平山城址・絹の道散歩 - 時空散歩, , http://yoyochichi.sakura.ne.jp/yochiyochi/2009/09/post-63.html

先日府中から国立に多摩川に沿って、また立川から府中へと立川崖線に沿って歩いた。その時気になっていたのは、多摩川を隔てて聳える多摩丘陵。あそこは聖蹟桜ヶ丘か、ということはその東の丘は米軍のレクレーションセンターのあるところか、あのあたりは高幡不動か、と、あたりをつけながら歩いた。 そのときふと、平山城址公園ってどのあたりだろう、と地図をチェック。昔南大沢から分倍河原に向かって歩いたことがあるのだが、平山城址公園のそばの道を越え、北野街道に出た。そのときは、日没時間切れのため結局、平山城址公園に行けなかった。そのことが少々心残りであったのだろう。ということで、とある日曜日、平山城址公園へとでかけることにした。 行く前に地図をチェック。平山城址公園のそばに長沼公園がある。またその西には野猿峠・野猿街道が走っている。さらにその西南には「絹の道」のマーク。横浜開港時、八王子で集めた絹を横浜まで運んだ道筋とか。絹の道って、多摩の歴史などを読んでいると、しばしば登場するキーワード。いい機会なのでそこまで足を伸ばすことにした。距離は10キロ程度。が、カシミール3Dでチェックすると、結構なアップダウン。多摩の丘陵を登ったり降りたりの散歩となりそう。少々膝に不安を覚えながらも、まずは最初の目的に京王線平山城址公園に向かう事にした。

本日のルート;京王線・平山城址駅>宗印寺>平山城址公園>北野街道>長沼公園>展望台・南陽口>長沼公園・野猿峠口>絹ヶ丘>白山神社>北野台>大塚山公園>絹の道>絹の道資料館>鑓水>小泉家屋敷>京王相模原線・多摩境駅 平山城址公園駅 平山城址公園駅に降りる。のんびりとした駅前。ローカル線の旅といった風情。駅前で案内をチェック。平山季重を巡る散歩コースといった案内がある。 さて、最初の目的地平山城址公園に行くルートを探す。穏当に歩くとすれば、北野街道をすこし東に戻り、先日南大沢から分倍河原に戻る際に歩いた峠越えの車道であろう。途中から公園に上る入り口もあった、かと。

宗印寺から丘陵に上る が、地図を眺めていると駅の南、北野街道からすこし丘陵地に入ったあたりに宗印寺。このお寺の裏山あたりから城址公園に上る道があるにちがいない、と故なき「確信」のもと歩を進める。 お寺に着く。眼下の眺めが美しい。登り道はないものかとチェック。お寺の西脇から山に向かう細道がある。とり

[18] 2008/04/21 富士見三峠+α, , http://kanigoro.soregashi.com/080421/080421.html

冬の間はスキーに明け暮れ、ほとんど走ってませんでした。 ということで、リハビリを兼ねて富士山をぐるっと回ってみることに。

富士五湖巡りは一年前の「 ぐるり、雲の富士山 」で実行済みなので、今回は「富士見三峠」を回ります。 スカッと晴れて富士山がキレイに見えるといいなと願いつつ、どんより分厚い雲の下、06:05出発。 で、「腹が減っては」ということで、朝マック。 店の前のバス停には出勤・通学の列が。月曜から遊びに出かけててすみません(笑)。

[19] 50年前の東京の風景wwwwwwwwwwwwww:哲学ニュースnwk, , http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4852766.html

1: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2015/04/05(日) 22:12:17.13 0.net

[20] 八王子城址散歩 そのⅢ;城山川に沿って「正面口」から八王子城址に向かい、城山山頂から城沢に沿って搦手口(裏門口)に下る - 時空散歩, , http://yoyochichi.sakura.ne.jp/yochiyochi/2013/06/post-227.html

八王子城址散歩 そのⅢ;城山川に沿って「正面口」から八王子城址に向かい、城山山頂から城沢に沿って搦手口(裏門口)に下る

八王子城址散歩も三回目。今回のメンバーは私を含め大学時代の友人3名。東京赴任の友人が関西に戻るに際しての記念散歩。散歩の希望コースなどを訪ねていると裏高尾辺りなどどうだろう、という希望が出てきた。が、裏高尾といっても旧甲州街道を進み小仏峠を越えて相模湖に出る、といったコースであり、「歩く」ことが大好きな人ならまだしも、それほど「歩き」に燃えることがなければひたすら街道を歩き、厳しい小仏峠を越えるコースは、少々イベント性に欠ける、かと。

その替わりとして提案したのが、少々牽強付会の感はあるも、「歴史と自然」が楽しめる八王子城址散歩。個人的にもこの機会を利用して、二回の八王子城址散歩を終え、唯一歩き残していた、オーソドックスな絡め手口からのコースを辿りたいといった気持ちがあったことは否めない。

で、コース設定するに、それほどの山歩きの猛者といったメンバーでもないので、誠にオーソドックスに八王子城址正面口、城下谷から御主殿跡などの山裾の遺構を訪ね、その後、山麓、山頂の要害部に上り、「詰の城」まで尾根を辿る。そこで大堀切を見た後、再び山頂要害部へと折り返し、城山からの下りは、私の希望を入れ込み、八号目・柵門台から城山沢・滝沢川に沿って城山絡手口方面に向かい、心源院をゴールとした。

搦手ルートの「隠し道」といった棚沢道、詰の城から「青龍寺の滝」に続く尾根道、「高丸」へ上る尾根道など、少々マイナーではあるが辿ってみたいルートはあるものの、それは後のお楽しみとして、今回の散歩でオーソドックスな「八王子城城址攻略ルート」はほぼ終わり、かと。

本日のルート; JR高尾駅>中宿・根小屋地区>宗関寺>北条氏照墓所>八王子ガイダンス施設_午前9時28分>近藤曲輪>山裾遺構_午前9時52分(御主殿跡)>山麓遺構_午前10時42分(高丸)>山頂要害部_午前11時(山頂曲輪)>尾根道を詰の城に_午前11時50分(詰の城)>ピストン往復>八合目・柵門台_午後1時20分>城沢分岐_午後1時25分>清龍寺の滝分岐_午後1時35分>清龍寺の滝_午後1時50分>松嶽稲荷_午後2時15分>松竹バス停‗午後2時36分>心源院‗午後3時>河原宿大橋バス停>JR高尾駅

JR高尾駅

集合

[21] 問屋場・高札跡 高幡山不動尊参道石柱, , http://www.c-hino.org/miru2/page/10oneday/oneday-10.html

問屋場・高札跡

日野宿本陣はす向かいにある白い建物は日野市立日野図書館です。ここに問屋場・高札跡の碑が立っています。このあたりが甲州街道日野宿の中心地でした。

ちなみに、この建物は日野郵便局本局として建てられたものです。

また、新選組ライブラリーが充実している中央図書館はJR中央線豊田駅から徒歩5分の場所にあります。

日野図書館の脇の道を入るとすぐに普門寺の観音堂が見えてきます。そのまま進むと小さな下り坂になっており、そこに日野用水下堰掘が流れています。下堰掘は宿内の家並みがある場所より一段低い所を流れていて、多摩川の堤防が長年の月日をかけて整備されるまでは氾濫原だった所だと思われます。

問屋場・高札跡からしばらくは甲州街道を歩きます 川崎街道交差点にある中島酒店、この店では街道沿いの家並みに特有の短冊状に仕切られた屋敷割を見ることができます。

店の横、駐車場入口を覗くと間口にくらべて奥行きの深い敷地になっているのが良くわかります。林家洋品店はデパートになくてもここにはある、といった品揃いで重宝がられているお店です。

街道に沿った民家の表札を見ていくと、落合、古谷、高木といった旧家が並んでいます。

高幡山不動尊参道石柱

川崎街道の入口に「高幡山不動尊参道」と書かれた石柱が立っています。左側面には地蔵堂、明治17年建立の文字が刻まれています。

この石柱はもともと甲州街道から大昌寺に向う、大門道の入口に立っていたものでしたが、昭和7年、現川崎街道ができたおり、ここに移されました。

[22] 東海道 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93

律令時代 [ 編集 ]

概説 [ 編集 ]

律令時代 の東海道は、東海道の諸国の 国府 を駅路で結ぶもので、各道に派遣された官人が諸国を巡察する為に整備された路を指す。律令時代に設けられた七道の一つで、中路である [2] 。律令時代の東海道の道幅は、中世や江戸時代の道より広く、より直線的に建設された。

その一方で、当時は大河川に橋を架ける技術は発達しておらず、 揖斐川 ・ 長良川 ・ 木曽川 ・ 大井川 ・ 安倍川 ・ 富士川 ・ 多摩川 ・ 利根川 (当時)といった渡河が困難な大河の下流域を通過するため、むしろ東山道の山道の方が安全と考えられていた時期もあり、東海道が活発になるのは、渡河の仕組が整備された 10世紀 以降のことと考えられている [3] 。

中世に大半が改廃されたため、当時の正確な道筋については議論されているが、おおむね以下のような経路を通っていた考えられている。

畿内から近国まで [ 編集 ]

首都 が 飛鳥 に置かれた時期には、 大和国 の 宇陀 が、東海道方面への入口だったと考えられているが、その後、 平城京 に遷都されると、平城京から 平城山 を北上し、木津から木津川の谷間を東へ入って 伊賀国 に入り、 鈴鹿山脈 と 布引山地 の鞍部を 加太越え で越えて 伊勢国 へ、 木曽三川 を下流域で渡って 尾張国 津島 へ、 名古屋市 を通り、 三河国 と続いていったと考えられている。およそ、現在の 国道163号線 ・ 国道25号線 ・ 国道1号 に沿ったルートであった。

ただし、木曽三川の下流部は古来より水害が激しく、実際には船による移動に頼っていたと考えられ、あるいは 飛鳥 や 平城京 から 鈴鹿峠 を経由してそのまま伊勢国の港から 伊勢湾 を横断する海路が用いられる事も多かったとみられている。だが、その一方でこうした船には馬を同伴させることが出来ず、東国から馬に乗ってきた旅行者は三河国か尾張国で馬を他者に預けて伊勢国に向かう船に乗る必要が生じたが、帰途時に馬の返還を巡るトラブルなどもあった(『日本書紀』大化2年3月甲申条)。このため、徒歩や馬で旅を続けようとする人の中には、本来は認められていなかった尾張国府から北上して美濃国にある東山道の 不破関 に出る経路も用いられていた。伊勢湾を横断する海路と東山道に出る脇道の存在は、江戸時代の 七里の渡

[23] 広重, , http://www42.tok2.com/home/toyotane/hirosige.html

歌川(安藤)広重の六十余州名所図会(え)

奥 州とも呼ばれた陸奥の国は六十余州の最北東端に位置し、山形・秋田以外の東北地方全域にあたる。

陸奥 松島風景 富山眺望之略図

最 上川は出羽三山(月山、湯殿山、羽黒山)を囲繞し、山形盆地を流れ、大石田上流の基点・隼などの恐ろしい難所をこえ、

庄内・最上境の連山板敷山の北を流れて酒田の海に入る。

出羽 最上川 月山遠望

常 陸(ひたち)国は関東平野の東北隅に位置して、西は下野(しもつけ)、南は利根川が流れる下総(しもうさ)、

北は奥州へつらなる磐城(いわき)の諸国があり、東は太平洋に面している。

常陸 鹿嶋大神宮

下 野(しもつけ、ほぼ現在の栃木県全域)の「裏見滝」は日光市の荒沢川にあり、滝の裏側から流れ落ちる飛瀑を眺めることが出来る滝で、

「華厳滝」「霧降滝」とともに日光三名瀑のひとつに数えられます。

下野 日光山 裏見ノ瀧

こ のあたりは昔、毛野(けぬ)とよばれる国であったのが分割して上毛野と下毛野となり、その後国名から「毛」が抜け(!)、上野、下野となったのだけれど、

音には「こうずけ」「しもつけ」と「け」が残っているのです。

榛名山(はるなさん)は山岳信仰の対象とされた山で、山頂にはカルデラ湖と榛名富士がある。妙義山、赤城山とあわせて上毛三山と呼ばれる。

上野 榛名山 雪中

千 葉県鴨川市にある内浦湾は別名「鯛の浦」とも呼ばれ、世界有数の鯛の群生地として国の「天然記念物」に指定されています。

貞応元年(1222)2月16日が日蓮聖人が安房の小湊(あわのこみなと)に生まれました。小湊には日蓮聖人生誕にゆかりの誕生寺があります。

安房 小湊 内浦

上 総(かずさ)の国は現在の千葉県の房総半島の北部にあたる。

伝承に拠れば「矢さしか浦」というのは矢指浦で、古名は玉の浦というが源頼朝の命令で1里ごとに矢を指したので矢指浦の名が付き、

またその矢が99本に達したことから「九十九里浜」と呼ばれるようになった。

浜の中央、どちらから数えても49本目となる場所(山武市蓮沼)には箭挿(やさし)神社が今も残る。

上総 矢さしか浦 通名九十九里

下 総(しもうさ)国は、南に上総ご境を接し、平野が広く開け、その他国との分界が難しく、武蔵・上野・常陸の諸国と分れたのは、

大体河の流れによったも

[24] 四方津駅 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%96%B9%E6%B4%A5%E9%A7%85

歴史

1910年 ( 明治 43年) 12月15日 - 国有鉄道 の駅として開業。旅客および貨物の取り扱いを開始。

駅から北西に2kmほどの所にある大野貯水池の建設工事の資材輸送を行うために開業した。貯水池は開業4年後の 1914年 ( 大正 3年)に完成している。

1960年 ( 昭和 35年) 4月20日 - 貨物の取り扱いを廃止。

1987年 (昭和62年) 4月1日 - 国鉄分割民営化 により、東日本旅客鉄道の駅となる。

2001年 ( 平成 13年) 11月18日 - ICカード Suica 供用開始。

2009年 (平成21年) 5月31日 - みどりの窓口 の営業を終了。

駅構造

単式ホーム 1面1線と 島式ホーム 1面2線、計2面3線の ホーム を持つ 地上駅 。 木造 駅舎を有する。ホームが嵩上げされていないので、乗・降車の際に段差が生じる。駅舎とホームおよびホーム間の移動は 跨線橋 を利用する。

上野原駅 管理の 業務委託駅 ( JR東日本ステーションサービス 委託)。 自動券売機 ・簡易 Suica 改札機が設置されている。かつては みどりの窓口 が併設されていたが、2009年5月31日で営業を終了した。

JR中央線は、 2020年度 を目途に東京 - 大月駅間のオレンジ帯で運行する列車に2階建グリーン車を2両連結させ12両編成運転を行なう。そのため当駅は、今後12両編成の列車が停車できるようにホームを延長する各種改良工事などが実施される [1] 。

のりば

番線

路線

方向

行先

備考

1

[25] 上野原市 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E9%87%8E%E5%8E%9F%E5%B8%82

20歳前後で男女とも人口が突出して多くなっているが、これは市内にある帝京科学大学の学生が多く居住するためである。

歴史 [ 編集 ]

2005年 ( 平成 17年) 2月13日 - 北都留郡 上野原町 ・ 南都留郡 秋山村 が合併して発足 [1] 。

隣接している自治体・行政区 [ 編集 ]

山梨県

都留市

大月市

南都留郡 : 道志村

北都留郡 : 小菅村

東京都

西多摩郡 : 奥多摩町 、 檜原村

神奈川県

相模原市 ( 緑区 )

行政 [ 編集 ]

市長:江口英雄(2009年3月20日 就任)

歴代市長

奈良明彦(2005年3月20日-2009年3月19日 1期)

市議会:議員定数18人

経済 [ 編集 ]

産業

農業

養蚕

絹織

特産品

まんじゅう

酒まんじゅう、王の入まんじゅう

ゆず

船守最中

木の実煎餅

教育 [ 編集 ]

大学 [ 編集 ]

帝京科学大学

高等学校 [ 編集 ]

山梨県立上野原高等学校

私立 日本大学明誠高等学校

小中学校 [ 編集 ]

上野原市立

上野原中学校

上野原西中学校

秋山中学校

島田小学校

上野原小学校

上野原西小学校

西原小学校

秋山小学校

交通 [ 編集 ]

鉄道

東日本旅客鉄道

中央本線 : - 上野原駅 - 四方津駅 -

中心となる駅:上野原駅

路線バス

富士急山梨バス

上野原営業所

高速バス

中央高速バス

中央道上野原

中央道野田尻

道路 [ 編集 ]

高速道路

中央自動車道

上野原インターチェンジ

一般国道

国道20号

五街道

甲州街道

名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 [ 編集 ]

祭事 [ 編集 ]

無生野の大念仏 ( 旧暦1月16日 前後と 新暦8月16日 ) 秋山地区 (無生野)、国の 重要無形民俗文化財

牛倉神社祭典(毎年 9月4日 - 9月6日 まで)

棡原獅子舞(毎年10月1週目の土日)【小伏、日原、猪丸、大垣外】

西原ふるさと祭り(毎年10月2週目の土日)

羽置の里びりゅう館

「長寿村」棡原 [ 編集 ]

現在の 棡原(ゆずりはら)地区 にあたる旧棡原村は「長寿村」として知られた。棡原は戦後の一時期まで山間部の 雑穀 や 菜食 中心の自給的な食生活で、 肉食 は少なかった。 1938年 ( 昭和 13年)に 古守豊甫 (こもりとよすけ)は代用 教員 ・後に 医師 として棡原村に通い、村人に長寿

[26] コモアしおつ (山梨県上野原市) - 新日本DEEP案内, , http://deepannai.info/commore-shiotsu/3/

<2ページ目を読む コモアブリッジを上がった先にあるのが、コモアしおつ唯一のショッピングセンターとなる「コモアプラザ」だ。上野原市を中心に店舗を構えるスーパー公正屋を中心に一通りの店舗が入っている、言わば村の買い物拠点。向かいには唯一と思われる金融機関、山梨信用金庫の店舗がある。やっぱりここは山梨県なのだ。 コモアプラザの近くに若干数ではあるが個人営業の外食店が点在している。地区全体の人口も限られているだけに、外食店はさほど多くない。 山の上にあるから「山の上接骨院」というベタなネーミングの接骨院が一軒。店らしい店といったらこんなところだろうか。 コモアしおつの住宅地に入ると、開放的な周回道路にそって街路樹と家々が規則正しく並んでいていかにもなニュータウンっぷりを見せている。かなり山奥にあるので、すっかり寂れてしまっているかと勝手な想像を巡らせていたが、その予想は外れた。 ニュータウン内の各地区ごとに適度な大きさの児童公園が整備されていて、子供の遊び場や犬連れの散歩も「安心して」利用できる作りになっている。 ニュータウンの街区はなんたらコムだのと呼ばれるセンター・ウエスト・サウス・ノースの4つに分かれていてその全てが戸建て住宅となっている。ニュータウン内の南東の外れに市立四方津小学校があり、小学校の脇から甲州街道に抜ける車道が続いている。 一部では真新しい建売住宅も並んでいて、まだまだ住宅需要があるような勢いを見せている。かなりの山奥にあるが、電車の便もあって、道路も中央道上野原インターが近い。自家用車があればそれほど日常生活には苦労しないようだ。 東京の郊外でよく見かけるマッチ箱のような見掛け倒しの一軒家とは違っていて、コモアしおつの住宅は家一軒の面積がかなり広い。さほど荒れている様子もなく、大阪の茨木台ニュータウンのようなマチュピチュ状態を期待していた我々にとっては拍子抜けするほどだった。 山梨県民になってしまうことと、カタカナひらがななゆとり爆発の地名が恥ずかしくなければ、そんなに悪くはないかも知れない。 ちなみに所在地の 上野原市 は人口3万人未満の市だが、2005年に市町村合併で北都留郡上野原町と南都留郡秋川村が合併して出来たばかりの自治体だ。 販売中の建売住宅の一つ。土地82坪、建物40坪で4480万。山梨都民の割にはやや割高な設定になっている。ある程度

[27] コモアしおつ : 写像的空間, , http://hoq2.exblog.jp/22753650/

なかなか表現しきれない、人に伝えにくい「好きな感じ」というものがある。僕の場合は、写実的なんだけど非現実的な風景、それも郊外住宅地で、なおかつイタリアかスペインか・・・そう、ウルグアイあたりの歴史的でもなんでもない・・・いや、日本の現実感のないニュータウンというか・・・。 そういうの町が空想上は好きで、中学の美術の時間にそういう町を歩いている自分の絵を描いたりして、周りに理解されなかったりしたわけで・・・。あえて言えば、 ホックニーの絵 のような写実的なのに現実感がない、あの感じが好きなのだ。あとはそう、 『ハロルドととむらさきのクレヨン』 とか。 とにかくこれは伝わらないので、個人ブログで勝手にやるのにぴったりなテーマなのだ。そして、その町は多摩ニュータウンとか既存の町と地続きなのはダメで、スペースコロニーのように独立していなければならない。 で、ついに見つけたのである。ずっと空想していたようなその町は 「コモアしおつ」 といい、半年越しくらいで今回歩く機会を得た。バブルの産物らしいが、この場合そういうのはどうでも良い。

これは「下界」の中央本線・四方津(しおつ)駅。いかにも山梨な里山的風景である。山の上に広がる「コモアしおつ」と既存の町は、駅から直通のスペースコロニー的なエレベーター・エスカレーターで結ばれている。

冒頭のような「伝わらない」写実的かつ非現実的な空気を表現するため、今回は「地元茅野市からは持ち出さない」という禁を破って チノンレンズ群 (28mm、35mm、55mm、135mm)を使用した。現代レンズや高級レンズにはないアナログな味が「非現実性」を、かといってトイレンズではなくちゃんとした本物のレンズなので「写実性」も十分に担保される。 ボディはEOS5DMK3とNEX-7の2台持ち。フルサイズとAPS-Cでレンズを使い分ければ、レンズ4本で事実上8種類の焦点距離を使うことができ、よりフレキシブルな運用が可能となるのだ。 また、近景以外は、ほとんどのカットで Cokinの121s (ND8ハーフグラデーションフィルター)を使用した。空を落とす形でグラデーションをかけることで、これも主に適度に人工的な雰囲気を出すためだ。Photoshopでも同様の効果が出せるが、やはり物理フィルターの方が表現に深みが出る。特にCokinは好みが分かれるが、色の

[28] 城外防御の拠点, , http://www7a.biglobe.ne.jp/~kyukaidou-tougemichi/jyougai-kyoten.html

さて探索を始めます。広い地域ですが狭い路を行ったり来たり、自転車が大活躍です。幾つもの資料や本を読み、穴の空くほどに地図を眺め、又本を読む。じっと地図を読んでいると本を誤解していたことにも気が付きます。 一先ずは高尾街道を宮の前まで行って、北西に進み城山川の流れを見るように月夜峰と呼ばれた台地に登ると城山川を挟んで北側にも台地状の尾根が続き敵の軍勢が城を目指して進む様子を、狼煙を上げて城に伝える施設だったのでしょうか。攻撃は夜中に行軍が開始され、霧も濃かったようで機能しなかったのでしょうか。現在の元八王子一丁目から三丁目までが旧城下に当たり、 現在の八王子市街地は、その後家康が関東に入府した後に旧城下の復興を断念し、新たに八王子を開発させた地域です。 北部武蔵から八王子を目指すとすれば、拝島辺りに集結し体制を整えてから進軍したのでしょうか。南下して多摩川を渡り、更に淺川を渡って水無瀬橋を渡ればここからが当時の城下と為ります。 東を水無瀬橋、南西を初沢城、北西を浄福寺城とする三角形にほぼ囲まれた地域を中心に探索してみましたので、地図を参照してください。

龍泉寺砦

水無瀬橋の上から上流よりやや西の方角をを眺めると、直ぐ近くに迫っている高台に、こんもりと見えるのが龍泉寺です。

砦といわれても狼煙台などが置かれていたか?防御ができる程の人数が詰められるような広さも無いところですが、この尾根がずっと西まで続いていて幾つかの狼煙台か連絡用の施設があったと見られていて、台地に登ると谷筋を行く道の情景が手に取るように眺めることができます。

七面堂砦

龍泉寺砦と同じように北の尾根状台地の東の先端にあり、南側と北側に夫々谷筋に、城へ続く道を見下ろす事が出来る位置にあります。同じように狼煙台等を設けてあったと考えられ、見下ろせば直ぐ下は四谷に置かれた前田の本陣に近く、初期に戦闘が開始されるよりも早く、敵の軍勢を見定める事も出きずに逃げさってしまったのではないかと、頼りなさにそう思います。

[29] 八王子城跡(太鼓曲輪) 2009/12/20:Born to run:So-netブログ, , http://born-to-run.blog.so-net.ne.jp/2009-12-20

◎9:52 西八王子出発 甲州街道、浅川ゆったりロード、町田街道、高尾街道のいつものコース。 ◎10:22 梶原八幡神社 神木梶原杉。梶原氏は鎌倉初期の地頭だったようです。 この裏の八幡社砦は、中央自動車道に削られてしまったそうです。 宮の前バス停から高尾山方面へ進んで太鼓曲輪へ行くため道(中央自動車道を渡る橋)を探したのですが、なかなか見つからないため犬の散歩をしていた方に尋ねることに。 聞いて正解です。この竹薮を抜けると橋があるとのこと。絶対わかりません。 ありました。 �「中宿橋」と呼ぶようですが、誰が渡るんでしょうね。橋を渡った後も道が見つからず、唖然としました。 やっと道が見つかったものの誰もいないし、どこへ行くのかも分からないし、犬が出てきたら怖いし、不安な気持ちでいっぱいです。 いくつかの小さなピークを超えると、いきなり崖が、、、これが太鼓曲輪の第一の『堀切リ』 のようです。尾根がコの字に削られていて、降りるのも登るのも大変です。その上、落ち葉はすべるし、石を掴んでもすぐ崩れるし、元F1レーサーのニュースが頭をよぎります。 写真で絶壁を表現するのは難しいですね。ちなみに『堀切り』とは尾根を渡って攻めてくる敵を阻止するために造られたようです。 その後もいくつか『堀切り』がありましたが、順番に『片堀切』『第二堀切』『第三堀切』『第四堀切』『第五堀切』と呼ばれているようです。これだけ続くとうんざりです。何度引き返そうと思ったことか、、、 途中分岐点がありましたが、上に向かう道(左)を選択。もしかしたらここが五叉路だったのかも??? 上から御主殿を見渡すことを楽しみに走りましたが、木が多くて結局見れませんでした。 やっと見覚えのある道に合流。前回、駒木野バス停方面へ向かったときに通った道です。もしかしたら、この先にあった不自然な崖は堀切りだったのかもしれません。 11:26 ここからは、荒井・摺差バス停方面へ。 高速道路の側道へでると、オオタカかトンビかわかりませんがたくさん飛んでいました 。 北条氏照が信長にオオタカを送ったという話もあるので、ここはオオタカということにしましょう。 ◎11:58 JR高尾駅到着 午後は楢原中学校でBrancoの交流戦観戦。夕方から高尾山へ行こうとしたのですが、時間がなくていけませんでした。

[30] 八高線 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E9%AB%98%E7%B7%9A

八王子駅 - 高麗川駅間 [ 編集 ]

中央本線 上りホームの反対側1番線から 八王子駅 を発車すると、右手に 横浜線 が分岐し 京王線 を跨ぐ。左へカーブし中央本線から分かれ、 浅川 を渡り、 国道16号 ( 八王子バイパス )を跨いで勾配を上っていく。 国道20号 (甲州街道)を潜って巨大な倉庫や工場の林立する 北八王子駅 に到着する。北八王子を発車すると勾配を下り、 中央自動車道 を潜ると間もなく 小宮駅 に到着し、勾配を下りながら 1945年 に 八高線列車正面衝突事故 のあった 多摩川橋梁 にかかる。多摩川両岸に向き合う 東京都下水道局 の二つの 下水処理場 を右手に見ながら鉄橋を渡ってしばらく直線に進むと 青梅線 を跨ぎ、青梅 電留線 、 米軍横田基地線 、 保線 基地などを大きく抱き込む形で左にカーブし、右手から 西武 拝島線 が寄り添ってきて 拝島駅 に到着する。

拝島駅を出るとすぐ国道16号の武蔵野橋を、 五日市線 、青梅線とともにくぐり、両線を左に分けながら住宅街の間のゆるい勾配を直線で上り、 東福生駅 に到着。東福生駅 - 箱根ケ崎駅間の路線は 横田基地 拡張にともない付け替えられたが、基地を完全に迂回したわけではなく、駅を出るとしばらく基地内の住宅やスーパーマーケットの間を走る。基地内を出て右に並行していた国道16号が、 瑞穂バイパス となり下をくぐって左に分かれていくと、コンクリート壁の間を抜ける。この部分は 滑走路 からすぐの延長線上にあり、未電化時代は トンネル となっていた部分である。これは昔、 飛行機 からの部品落下などが時おりあったためだが、飛行機の安全性向上もあり、電化の際に 架線 を張る邪魔になるため上部が取り壊された。 新青梅街道 を跨いですぐに、 箱根ケ崎駅 に到着。箱根ケ崎駅は拝島方面からの折り返し列車もある。以前は待避線もあったが撤去された。

箱根ケ崎駅を出ると、かつては本線の右側を複線のように貨物線が並走していた。撤去された現在は草に覆れ面影が乏しい。ゆるい登り勾配を進むと、瑞穂バイパスの跨線橋をくぐる。ここで、八王子駅から当線の左右を並行して走ってきた国道16号と一旦別れ、 川越市 までは、当線と 川越線 とは全く別ルートを走る。 埼玉県 入間市 に入り、 狭山茶 の 茶畑 の中を走り標高158メートルの八高線最高

[31] ディープな京都・崇仁地区: 柳原銀行記念資料館と金網フェンスに囲まれた無数の空き地 - ムラウチドットコム社長・村内伸弘のブログ, , https://murauchi.muragon.com/entry/789.html

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京都・崇仁(すうじん)地区: 柳原銀行記念資料館

"ディープな京都" 五條楽園 からタクシーに乗って、 同じく"ディープな京都" 崇仁地区 に入りました。以前から見学したいと思っていた、「柳原銀行記念資料館」でタクシーを降りました。

桜田儀兵衛氏の碑

桜田儀兵衛翁の顕彰碑の概要

柳原銀行記念資料館

銭座場跡

京都市崇仁隣保館新築記念

柳原銀行記念資料館の柳の木

柳原銀行記念資料館の外観 淡いグリーンの外観がとてもステキな洋風木造建築ですっ!

京都市登録有形文化財!差別に立ち向かった崇仁地域の誇り!!

柳原銀行記念資料館の側面

反対側の側面のガラス窓

こぢんまりとしていて、とてもすてきな洋館です!

中に入ってみましょう~

崇仁歴史マップ 「非人小屋」という言葉も見られます。

人権ゆかりの地をめぐる ポスター

柳原銀行記念資料館について

柳原銀行は、明治32(1899)年、柳原町(崇仁地域)の町長であった明石民蔵(あかしたみぞう)ら地元の有志によって設立されました。

被差別部落の住民によって設立された日本で唯一の銀行であり、当時、差別のために資金を得られなかった町内の皮革業者等に融資を行い、産業の育成・振興に大きく貢献したほか、その利子を地元の小学校の運営資金や道路建設資金に充てるなど、自力で差別を撤廃していく模範とされました。

大正期には、山城銀行と改称し、事業を拡大していきましたが、金融恐慌などの影響を受けて、昭和2(1927)年に倒産しました。

その後、建物は商店や借家として使用されましたが、昭和61(1986)年に道路の拡幅工事に伴う建物の取壊し案が出たことを契機として、地域では,建物をまちづくりのシンボルとして保存する運動が盛り上がり、保存に向けた様々な取組が行われました。また、平成元(1989)年に本市が実施した調査において、貴重な明治後期の洋風木造建築物であることが判明し

[32] ディープな京都・菊浜地区: 五条楽園(遊廓跡、旧赤線地帯)を探索 - ムラウチドットコム社長・村内伸弘のブログ, , http://murauchi.muragon.com/entry/788.html

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旧五条楽園エリア(京都市下京区)

五条大橋近くのサブウェイでデジカメの電池を充電して、準備万端!いよいよ、京都のガイドブックには載っていないディープな京都、遊廓跡(旧赤線地帯)の五条楽園エリアに侵入します。

「侵入」って、まあ、公道なので誰でも自由に入れるんですけどw

潜入とか、突撃とかって言葉も似合いますが、一応この記事のタイトルは "五条楽園の「探索」"としておきました。それではレッツゴー!!

五条大橋の牛若丸・弁慶像: 五条の橋の上で出会った牛若丸と弁慶を再現した銅像

牛若丸(義経)が弁慶の長刀(なぎなた)をひらりとかわし、橋の欄干に飛び移った瞬間のモニュメントです。

五条大橋。向こう側の山が清水寺方面です。

五条大橋の上から見た鴨川の流れ

この右側の地帯が旧「五条楽園」のエリアです。

上の写真の反対側: 五条大橋の上から見た比叡山(右の山)

五条大橋の欄干。牛若丸が飛び乗った欄干の子孫ですw

反対側の岸から見た旧「五条楽園」エリア

五条大橋のたもとのガソリンスタンド脇の道(木屋町通)に入りました。流れている川は高瀬川です。

鴨川を見ながらくつろげるカフェ・エフィッシュ (efish)。見るからにスタイリッシュな空間ですね。

源融の木

源融の木

源氏物語の光源氏のモデルとされる嵯峨天皇の皇子 源融(みなもとのとおる)の邸宅「河原院」の跡があり、この榎の大樹は、この邸内にあった籬(まがき)の森の名残とされる。すぐそばには小さな社と鳥居があり、榎大明神が祭られる。

光る君(ひかるきみ)~!京都らしいですよね!こんなある意味、観光客の立ち入らないような辺鄙な場所にも歴史がある。京都ならではです!

源融 河原院跡の看板

苔むす源融の木(エノキ)の風格がすごいです!

一体何人の男がこの木を見たのでしょうか?

鴨川沿いのお地蔵さん

お地蔵さんあたりから見えた鴨川

風情ある川辺の道

履歴

[33] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24795567257450806

メモ