2010/10/2 11:27 【現在地】
早速渡っても良いのだが、その前にもう一度、橋の周囲をよく観察してみる。
すると橋頭のすぐ上流に見慣れたハニーボックスとは違う、百葉箱のようなものが置かれている事に気付いた。
電線らしきものも引き込まれているぞ。
百葉箱のようなものの正体は不明。
おそらくは前回見た「観測局」に関わる観測機器の一つであろうと思う。
しかしそれよりも重大な発見があった。
苔むした橋台があるじゃあないか!これは明らかに、昭和4竣工旧国界橋のさらに旧橋(旧旧橋)の痕跡であろう。
事前情報は皆無であったが、ここは前述したとおり歴史深い甲州街道筋。
何代もの旧橋があることは不思議ではなかった。
(この橋の正体は本編文末で明かしている)
そしてもう一つ。
旧と旧旧橋の間に倒れている、1本の看板を見つけた。
錆びきっていて何が書かれていたのかは分からなかったが、大きさや位置から考えて、“白看”時代の案内標識であろう。
きっと「国界橋 KOKKAI.BR」と書かれていた。
旧旧橋の遺構と考えられる、石造橋台。
対岸の状況はまだ分からないが、旧旧橋も旧橋と同程度の長さを有する橋であったと思われる。
さすがに道幅は狭く、まさに見慣れた明治馬車道サイズといった感じだ。2間(3.6m)であろう。
興味深いのは、橋桁を収めるための橋台の凹みの深さである。
通常、この深さは床版の厚みに等しいわけで、そうであればこの旧旧橋の床版は50cm以上の厚みがあったことになる。
時代的に床版は木材であったろうから、太い材を2枚重ねて使ったのか。
いずれにせよ、かなり堅牢(かつ長径間)な木橋であったことが窺えるのである。
そしてその理由は、現存する旧橋の橋脚に現れていた(後述)。
旧旧橋についてもう一つ言えるのは、旧橋よりも1〜2m高い位置に架されていたということである。
旧旧橋台から旧橋を見ると、このようにやや見下ろす感じになる。
これも新旧世代の橋の一般的な関係性とは逆転している。
理由は定かではないが、釜無川の下刻作用によって河床が時代とともに下がっている可能性がある。
「角川日本地名大辞典 山梨県」の「釜無川」の解説文に、次の内容がある。
〜昭和57年8月の台風10号およびそれに続く大雨で、白州町国界橋から下流1800mの間が一夜にして、河