樽沢

樽沢

[1] 日原川樽沢

Webページ

[2] 道路レポート 第二次 日原古道探索計画 , , http://yamaiga.com/road/nippara2/main4.html

2007/1/23 12:39

蛮勇奮い立たせ突破した一つの斜面が、私とトリ氏を隔てた。

私は大声で彼女に迂回を提案し、この先の、おそらくかなり接近しているだろう“樽沢と日原川の出合い”での合流を申し合わせた。

私の足下には、いまだ微かな足跡があった。

だが、それが我々の目指す古道ではないということもうすうす感じていた。

結局私のこの判断が、トリ氏のオイシイ場面を見逃す原因となってしまったのだが。

つい100mほど手前までは、険しい斜面ながらも、そこに確かな道の痕跡が存在していた。石垣という。

しかし、ここに至るとそのようなものは全く見あたらない。

それでも、本当に微かではあるが人一人分くらいの踏み跡らしきラインが続いている。

それ故に、この道を容易には放棄できなかった。

斜面を下り始めたトリ氏から前方に向き直った私の前には、先ほど駆けた斜面を越える、更に危険な崖が待ち受けていた。

普段ならば、既に引き返していたに違いない悪辣な斜面。

石灰石の岩盤は風化が進み、手を掛ければグラグラ、足を乗せればカリッと剥がれる。

頼りになるのはこんな斜面でも健気に枝を伸ばす細い木々と、足下の微かな踏み跡。

一体こんな所に踏み跡を残したのは何者なのか?

人跡稀な山中に突如現れ、私を誘う一本だけの踏み跡。

その主が必ずしも人であるとは断定できない怖さがある。

たとえばカモシカやの足跡だとしたら、こんな感じで斜面に残っても不思議はないからだ。

12:42

トリ氏と別れてからの数分間、私は後ろを見ることもなくただただ斜面を前進した。

辿るべき道も見失い、ただ斜面に幾らかの歩けそうな場所を見つけては、そこを歩いた。

そして、やがて私は三方が切れ落ちた小さな尾根の上に辿り着いた。

尾根の周囲からは間近に沢の音が聞こえる。

特に東側の斜面の下からは、滝のような大きな音が聞こえた。

地形図を見ると、現在地はすぐに分かった。

もはやこれより先に崖沿いの道を見いだすことは出来なかった。

実際には余り詳細に探すことをしなかったが、もはやまともな道をこの先に期待は出来まい。

古道へ進路を修正すべく、トリ氏もいるだろう日原川の川原への下降を開始した。

下る前に、尾根の東側の縁に張り出した岩場へ行って、その下を覗き込んでみた。

そこには、水量以上に大きな渓声をあげる

[7] ミニレポ第212回 太平山トンネル構想, , http://yamaiga.com/mini/212/main.html

所在しません地 秋田県秋田市〜上小阿仁村〜北秋田市 探索日 ----.--.-- 公開日 2015.08.30

今回は、今まで当サイトで取り上げたことはないと思うが、実は私が大好きだというテーマをやりたいと思う。

そのテーマとは…

実現しなかった道路構想。

未成道に近いが、未成道といえば通常は、途中まで実際に建設されて、それでも完成しなかったものを指す。

今回取り上げるのはそうではなく、本当に構想だけで1mも建設がされず、かつ、構想自体も既に過去のものになってしまった、そんな「非現実道路」である。

道は存在しない=必然的に現地探索が成立し辛いので、基本的には机上レポートとなる。

別にネタ切れではないのだが、今後はこうした構想だけで消えてしまった道も、積極的に取り上げていきたいと思っている。

ただ、今回の道もまさにそうなのだが、基本的にこの手のネタを知るためには、古い新聞記事など、かなり目立たない情報に頼る必要がある。

なので、皆さまからの情報提供に今まで以上に頼る必要があると感じている。

皆さま何卒、「構想だけで終わった」道についての情報も、当サイト宛にお寄せいただきたい( 情報提供フォーム )。これは私の大好物である。

【周辺図(マピオン)】

今回取り上げるのは、 太平山トンネル構想 である。

数年前に秋田県の地方紙である魁新報のバックナンバーを検索していて見つけたもので、今のところはここに掲載した1枚の記事 ―昭和59(1984)年1月7日(土)夕刊― の他に情報は無い。

少なくとも魁の紙面には、これ以降採り上げられなかったようである。

こうしたことから、おそらく短期間で実現性が消えた泡沫のような構想だったと思われるのだが、とはいえ県民の講読率が極めて高い魁新報の夕刊1面に大きな紙面が割かれており、もし実現していれば、県の交通網を刷新しうるほどの大規模な構想である。

とりあえず、見出しの文字を拾えば構想の大まかな方向性は見えるだろう。

「太平山にトンネル構想」

「秋田市―阿仁地区を直結」

「関係市町村 59年度に促進協」

「経済活性化狙う」

などとあり、従来は太平山に阻まれ県都秋田市からの交通が不便な阿仁町(現北秋田市阿仁)に直行するトンネルの構想である。

そして、秋田県の現実の道路網を知っている人間であれば、一緒に掲載されている1枚

[8] 日原トンネル旧道を歩く, , http://kasetsu.sukimakaze.com/hobby/nippara1.htm

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“鍾乳洞と巨樹の神秘の里・おくたま にっぱら”

日原の観光案内のサイトに出ているスローガンである。

東京都西多摩郡奥多摩町にある集落のひとつ「日原(にっぱら)」は、只でさえ山深い奥多摩町の更に奥地に位置している

人口こそ500人に満たない集落だが、この日原集落のもつ役割は大きい。

第一に、奥多摩の主要な観光地としての役割を持っている。集落の中心から凡そ2kmほど谷の上流へ進んだ所にある「日原鍾乳洞」は、

昔は信仰地として、いまはレジャースポットとして多くの人を集めている。

そして第二に、この附近の山々に多量に含まれている石灰岩の存在だ。

時は戦後、コンクリートの需要は増える一方であった。

そんな時、日原で石灰が採れることが判明。その後あっという間に、日原は一大採取地と化した。

山は削られ、かつて村人たちが崇め畏れていた「とぼう岩」という大岩も、セメントの山となって消えた。

今もなお、日原の山は削られ続け、街ではビルが建設されている。

ここで、日原の交通の沿革を説明したいと思う。

日原の歴史は古く、室町時代頃に「原島家」によって拓かれたという。(余談:現在も日原集落を始めとする奥多摩町には「原島」姓が多い)

だが、原島家が日原にやってきたルートは現在の日原川を遡るルートではなく、北方の秩父より標高1500mを超える山々

(現在長沢背稜と呼ばれる尾根)を越えて、日原へ至るものであった。

では何故多摩川の支流にありながら、多摩川からでなく秩父方面から開拓の手が伸びたのか?

これは私の推測だが、おそらくその理由は、多摩川と日原集落を結ぶ日原川の急峻さにあると思う。

日原川は雲取山を源に発し、奥多摩町の氷川集落で多摩川と合流するまで、ほぼ全ての区間でV字谷を作っている。

なかでも日原付近はとりわけ急峻であり、恐らく何万年もかけて作られたであろうU字谷(両側が断崖)まで存在する。

そのU字谷(この両岸に聳える岩を、人々は「とぼう岩」と呼んだ)を、当時の人々は越える事が出来なかったのであろう。

ともかく、室町時代に日原集落は拓かれた。

やはり山を越え秩父へと向かうルートは遠すぎたのだろう、直ぐに下流の氷川へと向かう道が造られた。

ただやはり「とぼう岩」は超えられな

[9] 道路レポート 第二次 日原古道探索計画 , , http://yamaiga.com/road/nippara2/main.html

あの日、私は勝者ではなかったのか?

「都内最狂廃道」などと喧伝されてきた都道204号日原鍾乳洞線の旧道を危なげなく踏破した私は、有頂天だった。

旧道の終点で「あの道」を見るまでは。

私は急遽計画を変更し、「あの道」へ行くため対岸の作業道に入った。

決定的に時間が足りなかった。

それでも私は荒れ果てた作業道をチャリで疾駆し、巨大な吊り橋の残骸が残る廃鉱山へ行った。

そのまま、「あの道」目指し、危険きわまりない斜面にも進み出た。

全てが命がけだった。

しかし、孤軍奮闘もそこまでだった… (写真右)

結局私は日原古道の核心部。「あの道」へ辿り着くことは出来ず、迫り来る夕暮れに追い立てられるように撤退した。

再訪ではなく、再攻略を誓って。

…以上が私と日原のファーストコンタクトの要約である。レポートはこちら。

撤退の翌日、私は近くの図書館へ行き日原や奥多摩町に関する郷土資料を読みあさった。

その成果は前回のレポートで先取りして紹介した部分も多いが、以下に『日原風土記』という本から一節紹介する。今回目指すトボウ岩という地名の由来についてだ。なお、『日原風土記』は昭和43年に日原の開祖の血筋である原島氏が中心になって編纂された郷土誌で、前回紹介した奥多摩町史にある「日原みち」の記載もこの本が元となっている。以後、本レポートでは単に『風土記』と略す。

とぼう 奥多摩工業日原鉱山の基地になっているところで現在は「とぼう」または「とぼう岩」といわれているが以前は「とんぼうぐち」といっていた。「とんぼう」とは住家の出入口を指す方言で、この「とぼう」は日原部落の出入口ということなのである。

字地書 (作者注:明治期の字名を記した書) には「とんぼう口」とあり、一書には「蜻蛉宇トンボウ山」とあった。(中略)

日原村地誌草稿(地誌)には北岸の岩を「蜻蛉地トンボジ山」とし南岸の岩を「一の通り巌山」とし「これをもとぼう口といえり」と記している。

上記を受けて本レポートでは“とぼう岩”の表記を平仮名の「とぼう岩」で統一する。

また、前回レポート内での推測通り、とぼう岩は日原川の両岸にあったことが確かめられる。

私が目指す南岸のとぼう岩は特に「一の通り巌山」と言ったらしいが由来などは不明である。読みは「いちのとおりいわやま」であろうか?

次に、今回計画(予定)を地図上で簡単に紹

[11] 道路レポート 旧東京府道242号 日原氷川線 (日原5期道) , , http://yamaiga.com/road/nippara5/main3.html

2007/1/23 15:51

今回紹介する区間は、以前公開した「第二次 日原古道探索計画」の最終回直後に探索した。

これは当初から計画していたわけではなく、この日序盤の日原川右岸探索中に偶然発見し、これをとぼう岩からの帰り道として利用したのだった。

そしてその結果として、この道が日原集落まで都道とは別ルートで繋がっていることを確認。

晴れて昭和の築造でありながら謎に満ちた5期道ルートが、ほぼ完全に解明されたのであった。

現在地は、樽沢が日原川に滝となって落ちる対岸(左岸)。

樽沢を渡る橋があって然るべき地形だが、現存しない。しかし、前後に鮮明な道の痕跡がある。

この付近で、とぼう岩をへつって大正4年に開通した4期道と、昭和6年に開通した5期道とが接続していた。

厳密にどこが接点であったかは分からないが、ともかく5期道の開通によって初めて氷川〜日原間に荷車、自転車、バイクなどが通れるようになったとされる。

上の写真と同地点から、日原川上流を撮影。

写真中央の斜面に、コンクリート製でラーメン構造の橋台が写っている。

当時の日原川では盛んに「鉄砲出し」(川を使って木材を運搬すること)を行っていたために、水面には橋脚を下ろすことが出来なかったのだろう。

ここに、「惣岳吊橋」という名の巨大な吊り橋が架かっていたという。(目測だが、20〜30mの長さ)

同様の橋台は、右岸側にも残っている。

これが、5期道として記録に残るもっとも下流側のものである。

近づいてみると、このようにかなり大きな構造物である。

そして、この辺りは旧都道の数多い崩壊地の直下となっており、膨大な瓦礫が山腹を埋めている。

登ろうとすると音をたてて足元から崩れる状況で、転落云々というよりも単純にアリジゴク的な徒労を感じる。

なかなか登らせて貰えない。

ともかく、汗を掻いて橋台の上に立つ。

登り着いた左岸橋台付近より、とぼう岩方向を振り返って撮影。

禁漁区であるゆえ、また実は奥多摩工業の立入禁止エリアであるため、ほとんど立ち入る者のない谷底。

そこに失われた府道、「日原氷川線」が存在していたという確かな痕跡である。

昭和27年に都道が開通したことで廃道化したと思われるが、航空写真の記録によればその後も橋は存在し、50年代までは架かったままだったようである。

通常吊り橋が自然に落橋

[12] 黒部川 上ノ廊下, , http://www5b.biglobe.ne.jp/~yoshi-k/kamirou04.html

今年の夏のメイン企画は黒部川の上ノ廊下に決まる^-^

最大の難関でもあったお盆の時期の休暇取得も無事(無理矢理?)乗り越え夜行バスに乗り込んだ^-^;

扇沢から始発のトロリーバスに乗り黒部ダム駅に着いたのは7:10頃。

まずは10:00発の平ノ渡しに間に合うかどうかが今回の行程の第一関門だ!!

黒部湖左岸に付けられてる水平道を小走りを交えながらひたすら歩く歩く歩く…

お天気は僕達には珍しく快晴!! あつい暑い熱い

「なんでこんなあついねん!」って天に向かって嘆いてみる

「それは沢タイツ&ネオプレーンの足回りで歩くからや」と神の声が答えたもうた。。嗚呼・・(><)

失敗に気付いた時はすでに手遅れ、脱いでる時間なんてない。。嗚呼・・(T-T)

御山谷の切れ込みを過ぎ、V字に切れ込んだハシゴのアップダウンを越え、中ノ谷に着く頃にはへろへろ(@◇@)

もう、足あがりません〜 それでも最後の力を振り絞り平ノ小屋に10時前にたどり着くことが出来た。。

かっきー曰く「ここが第2の難関や」。。平ノ小屋の主人に『まあ、飲んでけ』とつかまるともう先に進めないとの事^-^;

しかし、お盆で忙しいからか?? 無事10時の渡しに乗ることを許可してくれたのだった。

渡し船で右岸にわたり、ひきつづき水平道をひたすら歩くあるくあるく。。

黒部湖の末端である黒部川のバックウォーターあたりに来ると道はハシゴの登り降りの連続になる(^^;

疲れた足にこの上り下りがつらい。。 足に乳酸がたまりまくり状態。

「もうかんべんしてえ〜」と叫んでみても勘弁してくれず。。 ひたすら登り降り…

ようやくひろびろした場所に出てほっと一息。だらだら進むと沢の音が聞こえてきた。

やっと東沢までたどり着いたあ\(^O^)/

ここは橋で左岸にわたりすぐにキャンプ適地。その奥が奥黒部ヒュッテだ。

ここでランチタイム^−^ コンビニで買ったパンをかじる。

ヒュッテで計画書を提出。情報を聞くと今日は先行パーティが3組ほど金作谷出合にビバークするらしい。

ちなみに水量は通常量で水温は低いとのこと。

キャンプ適地まで戻り東沢沿いに少し下って黒部川との出合に出る。

いよいよ、入渓だあ!! 3人それぞれ「かみろうー!!」「ひゃっほー!!」「うぉー!!」など意味不明な雄叫び^−^;

[13] 2002年夏合宿(黒部川上ノ廊下)[5/9], , http://www3.wind.ne.jp/TITWVOB/wv/archives/2002/02kurobe/index5.html

朝焼けを見た。この日はガイドブックを見ると朝の一本目で泳ぎがあるらしい。金作谷出合で避けた意味がないのでがっくり。水は思ったより冷たくない。しばらく水線沿いに右岸を歩いていたが、左岸に移って少し高巻いた。高巻きには道があった。その直後にやはり行けないところがあった。別にゴルジュになっているわけではないが、流速があって岸がハングしているのでへつりも難しい。あきらめて高巻く(*23)。これも道があった。1箇所、下りの道に行くと間違いで少し戻った。懸垂下降もなく沢に出る。立石奇岩の手前で一本。結局泳がなかった。

[14] 奥多摩工業の無人トロッコの見える場所 : 銅の匙、記憶の旅, , http://aizak3.exblog.jp/17114286/

日原鉱床と天祖山鉱床の位置 奥多摩工業と石灰採掘の歴史は、『多摩誌』の該当箇所をそのまま「more」に引用した。 京浜工事事務所の編纂した『多摩誌』はweb上で検索でき、全文が読むことが出来る。 3.2.2 奥多摩の石灰工業 建設省京浜工事事務所『多摩誌』 奥多摩町には古くからある製材工場(9工場,86人)のほかに,近年は電機部品等の工場も多くなってきたが(約20工場,350人),やはり最大の事業所は日原で石灰石を採掘する奥多摩工業であり,その関連企業である. 奥多摩工業は従業員数約300人で,日原に3個所の鉱山があり,いずれも氷川駅に運ばれて選鉱し,セメント工場や製鉄所へ出荷されているが,青梅市上成木にも梅ヶ平鉱山があり,瑞穂町富士山に化工場がある.また,奥多摩町倉沢に奥多摩化工があって,生石灰の生産を行っている. 奥多摩工業は,1927年に浅野セメントが買収していた日原の山林133町2反6畝を継ぎ,10カ年以内に当時の鉄道の終点御岳から氷川まで鉄道を建設し,石灰石の採掘を行おうとしたもので,日本鋼管と鶴見造船が300万円を出資して,奥多摩電気鉄道株式会社として設立されたものである. 鉄道は1941年に着工されて1944年に竣工したが,当時の地方鉄道法によって国有化され,会社は現社名となった. 氷川から戸望鉱床まで5kmの索道が建設され,実際に営業を開始したのは第二次世界大戦後の1946年であった.1947年の年産額は6.8万tであったが,1952年には39.8万t,1957年には126.1万tに達し,1961年には200万tを超えた. 採掘は朝顔坑の露天掘りで,底部からトンネルの運鉱路を通って岩松に集められ,ここで砕石される.砕石はさらに底部より鉱車に積まれトンネルの曳索鉄道を通って氷川に運ばれ,ここで選鉱される.カーバイド用やセメント用の鉱石はそのまま貨車で出荷されるが,高炉用や硝子用の4mm以下の細粉は水洗して砕石し,選別される.また,転炉用の生石灰を造るために,1961年,奥多摩化工が建設された(参52). 石灰石は1950年制定の新鉱業法によって新たに適用鉱物となったため,奥多摩工業は,1963年にかけて倉沢・天祖山・小川谷・已の戸・樽沢・御前山・川乗山など2,618haに鉱業権を設定した. そして戸望や油面を中心とした日原鉱床の貧鉱化に伴い,1

[15] 御嶽山 (長野県) - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%B6%BD%E5%B1%B1_%28%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C%29

火山活動[編集]

御嶽山は東日本火山帯の西端(旧区分による乗鞍火山帯の最南部)に位置し、古生層と中生代の濃飛流紋岩類を基盤(基底部は17 km四方の広さ)とし、基盤からの高さが1,400-1,900 mのカンラン石、複輝石、安山岩などで構成される成層火山である[5][9][32]。各方向に溶岩流を流れ出しているが、西に流れた摩利支天山第6溶岩流は、最も延長が長く約17kmに及ぶ。末端には安山岩の大岩壁巌立がある[33]。一ノ池を中心として、摩利支天山、継母岳、王滝頂上を結ぶ外輪山の内側がカルデラであると推測され、カルデラ形成前の姿は、富士山に匹敵する高さの成層火山であったと推測される。大爆発によって崩壊した土砂は土石流となって川を流れ下った岐阜県各務原市付近の各務原台地には御嶽山の土砂が堆積しており、水流によってできた火山灰堆積物が地層となっている。この大爆発によって剣ヶ峰、摩利支天山、継母岳の峰々が形成された複成火山であり、その山容はアフリカのキリマンジャロ山に似ている[34][35]。

従来、最後のマグマ噴火は約2万年前で以降は水蒸気爆発と考えられていたが、2006年(平成18年)に行われた岐阜県の調査および2008年(平成20年)に行われた国土交通省多治見砂防国道事務所や産業技術総合研究所の調査によれば、約5200年前の火砕流を伴う噴火を含め、2万年間に4回(約1万年前以降、約1万年前、約9000年前、約5200年前、約5000年前)のマグマ噴火を起こしている[32][36]。信濃毎日新聞の2007年(平成19年)4月30日の紙面に掲載された記事によると、岐阜県の調査によって、剣が峰北西6キロの下呂市小坂町内において、約5200 - 6000年前の火砕流が堆積してできた地層が発見され、五ノ池火口からの噴出物と考えられる火砕流の痕跡が確認された。最近の2万年以降の活動は水蒸気爆発と限定していた岐阜県・長野県それぞれにおいて、火砕流も想定しての、ハザードマップなど防災に関する見直しが行われる可能性が指摘されている。

1979年以降は断続的(1991年、2007年)に小規模な噴気活動が続いている[37][38]。気象庁により「火山防災のために監視・観測体制の充実等が必要な火山」に指定されていて[39]、山頂周辺には火山活動の観測のための地震計、空振計、傾斜計、火山ガ

履歴

[16] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054529691217

メモ