旧山城湖とは、新生代第三紀から第四紀にかけての地塊運動により、古生層の基盤が陥没した凹地に水がたまったものである。
以来200万年前から氷河期の終わる2万年前頃(数字などは気にしないで)までは、奈良盆地と続く満々たる一大湖沼であり伏見では、かすかに大岩山や稲荷山が顔をのぞかせる程度であった。
また、地殻の変動などで、瀬戸内地域が陥没、六甲山地の隆起など「大地」は大きく動く時代であった。
今からおよそ1万年前、大地も落ち着き、日本列島の原型が出来上がったのである。
その後、山城湖の水は山崎と男山の間を破って大阪湾に流出し、山城諸川による土砂の堆積により漸次陸化した。
一時大阪湾から海水が進入していたことは、各種の貝化石の発見によって実証済みである。
そのことで、山城盆地がその後隆起したことがわかります。
そうして湖面はだんだん縮小していき、最後に最低地に残されてしまったのが、巨椋池である。
川の流れは山を削り谷を埋め、平野ができ、大地が緑におおわれてくるようになる。
山城三川と言われる桂川・宇治川・木津川は天王山と男山の間から大阪へ流れ出るが、あまりにも狭いため3本の川の水を裁ききれず、伏見辺りに漂うことになる。
桂川は盆地の北に荒い砂礫を堆積し、今の京都市内の扇状地を形成した。
木津川は盆地の南に大量の微細な沙泥により、南山城平野を形成した。
さてどん尻に控える宇治川は、さぞやと思うのだが水量に比べて作り出す平野は微々たるものであった。
それは琵琶湖が多くの源流を集めてから宇治川に出すと言う、緩衝の役目をしているからである。
その結果、伏見は、京都と南山城にはさまれて、京都盆地では最も低い土地となり、また洪水時には他の2河川からの逆流により大量の水が停滞し、ミニ琵琶湖の如く遊水池の役目をするようになった。
これが巨椋池の原型である。
古墳時代に入っても、山城盆地は中央部が広大なる湖沼であり、その周辺部は葭葦繁茂した大湿沢地であったろう。
諸河川は洪水ごとに荒川となり、人々が生活する場所ではなかった。
しかし、その後、応神天皇の時代に多くの朝鮮からの渡来人があり、その人達は高度な土木技術をもって山城盆地の開発に尽くした。
さらに応神王朝は、淀川を南下し、次の王朝が河内平野の開拓に乗り出すことになる。
奈良朝の頃になると山城盆地内部は漸