東横線渋谷駅

東横線渋谷駅

[1] 東横線渋谷駅

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[2] 東横線・副都心線直通開始(1)渋谷地上駅最終日・代官山駅工事 - Reports for the future ~未来へのレポート~, , http://mirai-report.com/blog-entry-1253.html

去る 2013年3月16日(土)より東急東横線・東京メトロ副都心線の相互直通運転が開始 されました。1週間前の10日(日)に引き続き、直通運転開始前日の15日(金)と当日の16日(土)も再び渋谷駅周辺を中心に取材を敢行いたしましたので、その結果をご報告したいと思います。1回目の今回は3月15日(金)の 東横線渋谷駅(地上)最終日の様子と代官山駅の切替工事前後の様子 について時系列順にレポートいたします。 ▼関連記事 東横線・副都心線直通工事(1)新・渋谷駅(2013年2・3月取材) 東横線・副都心線直通工事(2)渋谷~代官山間(2013年2・3月取材) ■85年の歴史に幕を降ろした東横線渋谷駅地上ホーム 廃止1週間前の東横線渋谷駅。この頃になると徐々に撮影をする利用者も増えてきた。2013年3月10日撮影 東急東横線渋谷駅地上ホームは1927(昭和2)年の東京横浜電鉄渋谷~丸子多摩川(現・多摩川)間開業時に開設されたもので、これまで太平洋戦争、高度経済成長による利用者の激増などによる幾度の改変を受けながら 85年間 にわたり使用されてきました。現在の4面4線のホームになったのは 東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年 のことで、ホーム終端側3分の2には特徴的な 11連の半円形(かまぼこ形)断面の屋根 が設置されたのもこの時です。副都心線直通運転開始にあたっては、渋谷~代官山間を地下化し、東横線は2008年に開業済みの副都心線渋谷駅を新たな都心側のターミナルとして使用するため、 地上のホームは廃止 されることになりました。 廃止が近づいた3月上旬からは平日・休日問わず最期の姿を記録しようと大勢の鉄道ファンが集まるようになり、事故防止のため駅構内には多数の警備員・駅員が配置されるようになりました。また、 廃止を記念し手3月1日からは列車到着時の放送前に鉄道ファンとして知られる向谷実氏作曲のメロディが挿入 されるようになり、多くの利用者が別れを惜しみました。 【3/15 22:30】東横線渋谷駅営業終了まで残り2時間半 混雑する3月15日22:30頃の東横線渋谷駅2階正面口付近。 最終日となった3月15日は 平日 ということもあり、駅構内は夕方から いつもの帰宅ラッシュに加え、最後の姿を記録しようとする利用者により大混雑 となりました・このため、駅内外

[4] 東横線・副都心線直通工事(2)渋谷~代官山間(2013年2・3月取材) - Reports for the future ~未来へのレポート~, , http://mirai-report.com/?no=1243

東急東横線・東京メトロ副都心線直通開始に向けた準備の最終レポートの続きです。第2回目の今回は 渋谷~代官山間の地下化区間、代官山駅の切替工事に向けた準備の状況、地下化に合わせて開催される各種イベントの予定 などについてお伝えしてまいります。工事の概要などについては 前回の「(1)新・渋谷駅」の記事 をご覧ください。 ▼関連記事 東急東横線・東京メトロ副都心線直通工事(2013年1月2日取材・地上部分) (2013年1月15日作成) 東急東横線・東京メトロ副都心線直通工事(2012~2013年取材・地下部分) (2013年1月18日作成) 東急東横線・東京メトロ副都心線直通工事(2012~2013年取材)&再開発の現状 (2013年1月19日作成) ■直通・切替準備が完了!(つづき) 渋谷~代官山間地下化工事の概要と副都心線渋谷駅の状況はこちら ●渋谷~代官山間 左:渋谷川に並行する東横線高架橋。トンネルはこの直下にある。 右:山手線の交差部分は軌道の復旧が続いており、徐行がかけられていた。2013年2月9日撮影 ※クリックで拡大 地下化後のシールドトンネルは 並木橋付近から現在線の高架橋直下 に入ります。シールド区間は地上掘削はありませんが、掘進の際沈下などが予想されるため工事に先立つ2009(平成21)年頃に 鋼材や地盤改良などにより高架橋が補強 されています。また、JR山手線の交差部分から先は地上を切り開いてトンネルを建設するため、 線路が鋼材により仮受け されています。トンネル内の工事は完了しており、1月調査時から変化があったのはJR山手線の交差部分のみです。山手線の軌道は 地下の掘削の際橋梁構造に変更 されていましたが、工事が終了したため 元のバラスト軌道に戻す 作業が行われています。2月はじめの調査時は山手線外回りで復元作業が行われており、軌道がまだ安定していないため 45km/hの徐行制限 が設けられていました。 ●代官山駅 2013年3月10日の代官山駅 代官山駅構内でも15日終電後の切替に向けた準備が大詰めを迎えています。3月10日の調査時は ホーム床面に15日切替時の切断位置を示すマーキングが書き込まれた ほか、駅内外を分ける柵も以前より背の低い簡易的なものに交換されました。なお、15日当日は朝から切替工事に向けた準備が行われるため、 ホーム渋

[5] 朝日新聞デジタル:再開発で変わりゆく渋谷 シンボル相次ぎ消える - 社会, , http://www.asahi.com/national/update/0414/TKY201304140014.html

【大室一也】渋谷駅の再開発で、駅を象徴する建物が相次ぎ消える。関東初のターミナル駅直結デパート、東急百貨店東横店東館は80年の歴史に幕を閉じ、かまぼこ形屋根の東急東横線ホームは5月に取り壊しが始まる。戦争中も威容を保った百貨店は15年かけ、高さ200メートルを超える超高層ビルなど3棟のビルに変わり、周辺を含め新しく5棟の高層ビルが林立する。

東急百貨店東横店の東館は1934(昭和9)年、東横百貨店として創業した。銀座の和光を手がけた建築家・渡辺仁の設計だ。

阪急が大阪・梅田駅に開いた百貨店にならったという。駅には、黙っていても電車の乗客が来る。その客を狙った、今の「エキチカ」「エキナカ」ビジネスの先駆けだった。

戦争中、渋谷の街は空襲で焼け野原になった。その中で、地上7階建ての巨大な建物が屹立(きつりつ)していた様子を、古くからの住民はよく覚えている。

戦後、この百貨店の名を一躍有名にしたのが「東横のれん街」だ。日本で初めて、老舗の味を1カ所に集めた画期的な専門店街だった。

古くからの商業地の日本橋や銀座と比べ、新興の渋谷はいわゆる老舗が少ない。51(昭和26)年10月27日、東横百貨店と取引があった菓子店や水産加工品店など15店が集まり、東横線渋谷駅2階ホーム下の倉庫で営業を始めた。

[6] 渋谷駅 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E8%B0%B7%E9%A7%85

乗り入れ路線 [編集]

JR東日本の各線(後述)、東急の各線(後述)、東京メトロの各線(後述)、および京王の井の頭線という4社の路線が乗り入れるターミナル駅である。JR以外の各線はすべて当駅を起点・終点としている。

JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は山手線のみである(詳細は各路線の記事および「鉄道路線の名称」を参照)が、一般列車の運転系統としては電車線を走行する環状線としての山手線電車のほか、山手貨物線を走行する埼京線と湘南新宿ラインが停車し、旅客案内ではそれぞれ別路線として扱われている。なお、山手貨物線を経由する有料列車として、旧目黒川信号場から品鶴線を経由して総武本線・成田線に直通する特急「成田エクスプレス」、湘南新宿ラインと同じルートで東海道本線に直通するホームライナー(「ホームライナー小田原」「おはようライナー新宿」。後者は降車扱いのみ)が停車する。また、特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属している。

東急は次の2路線が乗り入れ、各路線ごとに駅番号が与えられている。

東横線 - 駅番号「TY 01」

田園都市線 - 駅番号「DT 01」

東京メトロは次の3路線が乗り入れ、各路線ごとに駅番号が与えられている。

銀座線 - 駅番号「G 01」

半蔵門線 - 駅番号「Z 01」

副都心線 - 駅番号「F 16」

このほか、京王井の頭線にも「IN 01」の駅番号が与えられている。

東横線と副都心線[1][2]、田園都市線と半蔵門線はそれぞれ相互直通運転を行っている。このため東横線・副都心線と、田園都市線・半蔵門線との駅は東急と東京地下鉄の共同使用駅であり、東急が一体で管理している。

駅構造 [編集]

当駅の特徴は渋谷という地名が示す通り、山手線に沿った南北の細い谷の底を中心として、駅が形成されている点である。当駅以外の首都圏の駅のほとんどでは、地上を走る郊外路線はJRに並行してホームを構えているが(品川駅、新宿駅、池袋駅、日暮里駅、横浜駅、北千住駅など)、当駅は前述した地形構造から、接続する各路線が安定した地形で路線敷設および当駅の接続を行うことが困難であり、多くの路線がJRと立体交差するように接続している。例を挙げれば、東京メトロ銀座線は当駅の地上3階を発車して地下にもぐり、東急東横線と京王井の頭線は都心部を走る路線であ

[7] 渋谷駅周辺の都市計画が決定…鉄道3社、渋谷駅周辺最大級のビルを建設へ (レスポンス) - Yahoo!ニュース, , http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130617-00000057-rps-bus_all

渋谷駅周辺の都市計画が決定…鉄道3社、渋谷駅周辺最大級のビルを建設へ

レスポンス 6月17日(月)23時59分配信

原宿方面から見た再開発完成後の渋谷駅周辺のイメージ。山手線渋谷駅の両脇に東棟(左)と西棟(右)、その中間に山手線の線路を覆う形で中央棟を設ける。

東京都は6月17日、渋谷駅周辺の都市計画を決定した。これにより同駅周辺の再開発計画は具体化の段階に移行。JR東日本と東京急行電鉄(東急)、東京地下鉄(東京メトロ)の3社は、渋谷駅周辺では最大級となるビルを建設する。 《画像:都市計画図やイメージパースなど》 今回、都市計画が決定したのは「渋谷駅地区駅街区開発計画」「渋谷駅地区道玄坂街区開発計画」「渋谷駅南街区プロジェクト(渋谷3丁目21地区)」の3事業。「駅街区」の事業主体はJR東日本と東京急行電鉄(東急)、東京地下鉄(東京メトロ)の3社で、「道玄坂街区」は道玄坂一丁目駅前地区市街地再開発準備組合、「南街区」は東急がそれぞれ事業主体となる。

渋谷駅地区駅街区では3棟のビルを設ける。JR渋谷駅の東側に高さ約230m、地上46階、地下7階の東棟を、西側に高さ約76m、地上13階、地下5階の西棟をそれぞれ建設。東棟と西棟の間には、現在の山手線の線路とホームを覆う形となる高さ約61m、地上10階、地下2階の中央棟を設ける。

また、各施設と東西駅前広場を結ぶ自由通路の拡充や、多層構造となっている各施設をエレベーターやエスカレーターで結ぶ縦軸空間、駅街区と宮益坂上方面、道玄坂上方面をつなぐ歩道橋(スカイデッキ)を整備。災害発生時の帰宅困難者を受け入れる一時滞在機能なども整備する。

敷地面積は約1万5300平方m、延床面積は約27万平方mで、渋谷駅周辺地区で最大級となるオフィス(貸床面積約7万平方メートル)と商業施設(店舗面積約7万平方メートル)を併せ持つ。東棟は2020年、中央棟と西棟は2027年の開業を予定している。

渋谷駅南街区では、3月16日の地下化により使用を中止した東横線の旧・渋谷駅と線路跡地を活用する。敷地面積は約7100平方m、延床面積は約11万7500平方mで、高さ約180m、地上33階、地下5階のビルを建設する。

また、国道246号をまたぐ東横線の高架橋を、駅街区と南街区を結ぶ歩行者デッキとして再利用し、旧・渋谷駅を象徴していたカマボコ屋根や目

[8] 東急玉川線 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%80%A5%E7%8E%89%E5%B7%9D%E7%B7%9A

下記のデータは特記なければ路線廃止時点(溝ノ口線については大井町線編入前)のもの。

路線距離(営業キロ):

玉川線:渋谷 - 二子玉川園間 9.1km

砧線:二子玉川園 - 砧本村間 2.2km

溝ノ口線:二子読売園 - 溝ノ口間 2.1km

軌間:1372mm

駅数:(起終点駅含む)

玉川線:15駅

砧線:5駅

溝ノ口線:4駅

複線区間:

玉川線:全線

砧線:なし(全線単線)

溝ノ口線:二子 - 溝ノ口間

電化区間:玉川線・砧線・溝ノ口線とも全線(直流600V)

閉塞方式:スタフ閉塞(砧線)

歴史[編集]

玉電(玉川線)は、1896年(明治29年)、玉川砂利電気鉄道により、二子多摩川付近の砂利を東京都心に輸送することを主目的として、東京市麹町区の三宅坂と玉川の間の路線開設が出願されたことを起源とする。1902年(明治35年)に渋谷 - 玉川間の軌道敷設が許されると、1903年(明治36年)玉川電気鉄道が設立され、1907年(明治40年)、玉川電気鉄道の手により渋谷 - 玉川間が開業した[1]。

玉川から運んできた砂利を都心に輸送するため、渋谷では、都心に線路を伸ばしていた東京市電と軌道が接続され、渋谷には砂利運搬車両の留置線も設置された。1922年(大正11年)、玉川電気鉄道により渋谷 - 渋谷橋の間に天現寺線が開通すると、玉川線と天現寺線は直通運転された。 1924年(大正13年)には玉川 - 砧(のちの砧本村)間に砧線が開業し、二子橋の上流にあたる大蔵付近(東京府北多摩郡砧村)の砂利の輸送を開始した。このように、砂利輸送を主目的とした性格から、「ジャリ電」と呼ばれることもあった。関東大震災後の市内補修の砂利運搬には威力を発揮した。

玉川電気鉄道は路線を拡張してゆく。1925年(大正14年)、三軒茶屋-下高井戸間に下高井戸線(のちの世田谷線)を開業。1927年(昭和2年)には天現寺線渋谷橋より中目黒に至る中目黒線を、同年溝ノ口線(玉川 - 溝ノ口)を開業した。溝ノ口線の開業時には、多摩川を渡る二子橋の建設費の一部を玉川電気鉄道が負担し、二子橋は橋の中央に線路が敷設された形態の道路・軌道の併用橋となった。

1934年(昭和9年)、二子橋より下流での砂利採取が全面禁止され、さらに玉川電気鉄道の経営権が東京横浜電鉄や目黒蒲田電鉄を経営していた五島慶太らに移って以降は、

[9] 大阪の地下鉄はなぜ相互乗り入れが少ないのか|高橋洋一の俗論を撃つ!|ダイヤモンド・オンライン, , http://diamond.jp/articles/-/71101?page=2

民間資本で始まった

東京の地下鉄経営

さて、東京の地下鉄の歴史を見よう。

初めて営業を開始したのは銀座線で1927年である。初めは東京地下鉄道(株)が経営し、その後に東京高速鉄道(株)と、東京では民間資本で地下鉄経営が始められた。

ただし、戦時体制になり、1941年に帝都高速度交通営団(営団)が設立された。名前に戦時色の強さが表れている。国、東京市が出資したほか、東京横浜電鉄、東武鉄道、京成電気軌道、小田急電鉄、西武鉄道、武蔵野鉄道、国鉄共済組合も出資した。銀座線は営団に引き継がれた。

以降、営団が地下鉄運営を行い、丸の内線から南北線まで作った。その間、重要な出来事が1951年に起こっている。営団は、その資金源を財投に求めたために、民間資本を追い出さざるを得なかった。その結果、営団に出資していた民間鉄道会社は資本を引き上げ、国と東京都だけになった。というのは、財投資金は原則として民間資本の入っている法人には提供できなったのだ。

この事実は、筆者が役人時代の1990年代後半に財投改革をしたときに勉強した。つまり、財投のスリム化は、対象法人の民営化と同時にできる。ある意味、財投からの卒業となるので、法人にとっても、日本経済にとっても好ましい話になる。その当時、営団はすでに財投の助けを必要としない法人だったので、民営化プログラムの筆頭になっていた。

その後、営団は、2004年に民営化され東京地下鉄(株)(東京メトロ)になり、すべての路線を継承した。民間資本からスタートしたが、60年たってようやく本来の姿に戻りつつあるのだ。東京メトロになってから、2008年に副都心線を開業し、現在に至っている。

都営地下鉄はどうだったのだろうか。もともと東京市は市営地下鉄運営の意向はあったが、予算の関係で実現できなかった。東京市は1943年に東京都になったので、市営地下鉄に手を出すことはなかった。それが結果として、民間資本を生み、営団を生んだ。

ただし、東京都は地下鉄運営をあきらめていなかった。1951年以降、営団で民間鉄道会社の資本を排除して、政府と東京都だけになっていたが、営団廃止を強く政府に働きかけ、東京都だけで東京の地下鉄を握ろう(営団の都営化)と思っていた。

一方、営団から排除された民間鉄道会社も面白くない。1955年にかけて、京成電鉄、東武鉄道、京浜急行電鉄、東京急行電鉄、小

[13] 構造に欠陥がある駅wwwwwwwwww:哲学ニュースnwk, , http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4856388.html

1: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2015/04/13(月) 10:13:48.77 ID:6syUqxmV0.net

[14] 並木橋あたりの旧東横線の橋脚 - 3 slides, , http://3slides.hatenablog.com/entry/2017/06/28/233817

まだ残ってました。完全に風景をぶったぎる存在でよい。

ちかよって、じっくり眺めると、いろいろ見所があります。

この 渋谷川 に沿ってくねくねと走り、渋谷駅にすべりこんでいたのでした。もう昔の話。

人気コンテンツだけにいろいろ記事がありますが、以下のがよかったです。

1番線:学んでみよう「東横線渋谷駅」と「東急東横店」のヒストリー|SPECIAL||渋谷文化プロジェクト

Nikon D700 + Ai Nikkor 50mm F1.4S

履歴

[15] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24795567326384878

メモ