木曽川

木曽川

[1] 木曽川

Webページ

[2] 御嶽山 (長野県) - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%B6%BD%E5%B1%B1_%28%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C%29

火山活動[編集]

御嶽山は東日本火山帯の西端(旧区分による乗鞍火山帯の最南部)に位置し、古生層と中生代の濃飛流紋岩類を基盤(基底部は17 km四方の広さ)とし、基盤からの高さが1,400-1,900 mのカンラン石、複輝石、安山岩などで構成される成層火山である[5][9][32]。各方向に溶岩流を流れ出しているが、西に流れた摩利支天山第6溶岩流は、最も延長が長く約17kmに及ぶ。末端には安山岩の大岩壁巌立がある[33]。一ノ池を中心として、摩利支天山、継母岳、王滝頂上を結ぶ外輪山の内側がカルデラであると推測され、カルデラ形成前の姿は、富士山に匹敵する高さの成層火山であったと推測される。大爆発によって崩壊した土砂は土石流となって川を流れ下った岐阜県各務原市付近の各務原台地には御嶽山の土砂が堆積しており、水流によってできた火山灰堆積物が地層となっている。この大爆発によって剣ヶ峰、摩利支天山、継母岳の峰々が形成された複成火山であり、その山容はアフリカのキリマンジャロ山に似ている[34][35]。

従来、最後のマグマ噴火は約2万年前で以降は水蒸気爆発と考えられていたが、2006年(平成18年)に行われた岐阜県の調査および2008年(平成20年)に行われた国土交通省多治見砂防国道事務所や産業技術総合研究所の調査によれば、約5200年前の火砕流を伴う噴火を含め、2万年間に4回(約1万年前以降、約1万年前、約9000年前、約5200年前、約5000年前)のマグマ噴火を起こしている[32][36]。信濃毎日新聞の2007年(平成19年)4月30日の紙面に掲載された記事によると、岐阜県の調査によって、剣が峰北西6キロの下呂市小坂町内において、約5200 - 6000年前の火砕流が堆積してできた地層が発見され、五ノ池火口からの噴出物と考えられる火砕流の痕跡が確認された。最近の2万年以降の活動は水蒸気爆発と限定していた岐阜県・長野県それぞれにおいて、火砕流も想定しての、ハザードマップなど防災に関する見直しが行われる可能性が指摘されている。

1979年以降は断続的(1991年、2007年)に小規模な噴気活動が続いている[37][38]。気象庁により「火山防災のために監視・観測体制の充実等が必要な火山」に指定されていて[39]、山頂周辺には火山活動の観測のための地震計、空振計、傾斜計、火山ガ

[3] 国道418号線を走ってみる・その3 (八百津町→迂回路→恵那市) - きたへふ(Cチーム)のブログ, , http://blog.goo.ne.jp/cars-kitahefu/e/944e3cbdca3d2a40b9c770d69eaa97f9

きたへふ(Cチーム)のブログ

ファミスタとは特に関係ありません。タブレット・スマホをご利用の方は、できればPCモードで御覧ください。

【記事作成日:2017/10/29、現地訪問日:2016/9/3】

このエントリでは国道418号線走行記の その2(旧根尾村樽見→八百津町) の続きとして、岐阜県八百津町の杉原千畝記念館付近から(ヤバイ区間を迂回して)恵那市に至る区間について記載しています。その他の区間については、下記リンクを参照ください。

・ その1(福井県大野市→岐阜県旧根尾村)

・ その2(旧根尾村樽見→八百津町)

・ その3(八百津町→恵那市) …このページ

・ その4(岐阜県恵那市→長野県平谷村)

・ その5(長野県平谷村→売木村→阿南町)

・ その6(長野県阿南町→天龍村→遠山郷)

1. 八百津町→武並橋(恵那市笠置町)まで

本来の国道418号線(深沢峡)経由の地図 ( google mapのデータ )

ここから先は国道418号のハイライトともいえる八百津町~恵那市間のエリアを通っていきます。 その1 の冒頭でも触れましたが、国道418号が酷道マニアから “キングオブ酷道” などと評されているのは、木曽川沿いのこの区間が超絶的にイカれているからです。(もはや車両が通れるレベルになく、通行止めになっている)

今回の走行区間の地図 ( google mapのデータ )

それで今回は、木曽川より北側にある迂回ルートを通っていきます。

現地を訪問した2016年時点で(そしてこのブログを書いている2017年現在も)国道418号線の迂回ルートはまだ全線開通しておらず、八百津町潮見まで開通している国道418号丸山バイパスより先は、岐阜県道353号(篠原八百津線)+県道402号(中野方七宗線)+県道412号(恵那八百津線)と経由して、木曽川にかかる武並橋付近で国道418号線に復帰するルートを進んで行きます。

01-国道418号に戻ってきました

杉原千畝記念館に寄り道して休憩していたブログ主ですが、13:10過ぎに再出発します。

上の写真の右下側の道がイカれた川沿いルートに続く道ですが、こっちの方には見向きもせず、トンネルのある丸山バイパス方面に進んで行きます。

02-高いところにかかっている橋が見えます

あれはV字の渓谷の間に架けられた

[4] 県道352号大西瑞浪線と五月橋 後編, , http://pcitorn-nitikaku.sakura.ne.jp/352part2.html

岐阜県瑞浪市北部の県道65号恵那観御嵩線(旧中山道)から分岐する県道352号大西瑞浪線。地図で見ると木曽川を渡って 国道418号 と接する少し手前で途切れ、点線表記になっている。

その実態はいかに。

県道からいさまつの2階部分を見る。

前述のように少しネットで検索しただけで山程出てくるこのいさまつや遊覧船の事であるが、いつまで営業していたかや、現役時代の様子などは全く見えてこないのが実情である。

当然近隣住民もおらず、聞き込み調査もできない。

[6] 旧楢川村, , http://www.geocities.jp/gunmakaze/column/15narakawamura.html

旧楢川村は、信濃川を南に遡って、どん詰まりのところにある。川の名前もいくつか変って、生活圏は奈良井川であるが、最後の水源は白川と呼ぶ。

ちなみに木曽街道には11宿ある。その一番目は贄川宿、最後の11番目は馬籠宿(旧山口村)である。街道の入口には、それぞれ「是より南木曽路」、「是より北木曽路」の碑がある。面白いことに平成の大合併で、両端の村が隣りの市に編入合併をして村名が消滅した。しかも山口村は、岐阜県の中津川市に越県合併をしている。だからと言って木曽街道の歴史が消えたわけではない。

話を元に戻すが、旧楢川村には冒頭に述べたように、三つの大字がある。奈良井と贄川は木曽街道の宿場であり、両宿に挟まれて木曽平沢がある。さらに言えば、重要伝統的建造物群保存地区として選定されているのが、”宿場町”の奈良井と、”漆工町”の木曽平沢である。

僕が生まれた贄川は、残念ながら、大正7年の大火で昔の面影は少なく、せめてもの慰めは、”贄川関所”が復元されたことである。そこで働く女性ボランティアの解説は、見学者の興味をそそり中々のものだ。2006年に放映された、NHKの総合テレビ「街道てくてく旅-中山道-」の旅人-勅使川原郁恵さんに、贄川宿を案内してくれたのも彼女たちである。

この旧楢川村における子供の頃の想い出は、あるものは記憶が薄れ、あるものは鮮明に覚えている。それらについては”子供の頃”に記述してあるが、風習・暮らし等の民俗の分野に属するものである。

<分水嶺-太平洋と日本海を分ける->

子供の頃の想い出を、民俗の面でしか捉えられなかった僕が、ふとしたきっかけで、別の視点から吾が楢川村をみつめることに目覚めたのは、5年ほど前のことである。その「ふとしたこと」と言うのは、2002年ころだったろうか、前橋市立図書館でリサイクルブックフェアがあって、そこで見つけた本によってである。題名は「日本の分水嶺」、副題が-地図で旅する列島縦断6000キロ-とある。これを貰ってきて、読み出したら実に興味深い内容だった。北海道の宗谷岬から、鹿児島県の佐多岬まで、太平洋と日本海を分ける大分水嶺が一本の線でつながるというものである。この大分水嶺に沿うすべての市町村について、著者は余すところなく興味深い解説を加えている。この連続線のほぼ中心に吾が楢川村があった。僕の知的好奇心は、この一本の線にとりつかれて離れ

[7] 川上幸義の東海道線創業史, , http://ktymtskz.my.coocan.jp/kawakami/tokai.htm

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序 写真集1 写真集2 東海道 山陽 九州 四国 山陰 ��

関西線 北陸 �

信越 上越 東北 奥羽 北海道 HOME

川上幸義の東海道線創業史

( 新日本鉄道史より鉄道と運輸の抜粋)

1 東京−横浜間の鉄道建設まで �@

2 東京−横浜間の鉄道建設まで �A

3 新橋−横浜間の建設

4 品川−横浜間、新橋−横浜間の開業

5 雇外人について――京浜間に在勤した人々

6 施設の改良――複線化、六郷川橋梁の架換え

7 横浜〜国府津・浜松および大船−横須賀の建設

8 明治4〜24年の東海道線東部の運輸

9 神戸−大阪間の建設

10 大阪−京都間の建設

11 京都−大津間の建設

12 雇外人について――京阪神間在勤の人々

13 長浜−武豊、大府―浜松、馬場−深谷の建設

14 明治7〜24年の東海道線西部の運輸

15 明治24〜39年の東海道線の改良、支線の建設

16 東京市街の高架線の建設

17 明治24〜30年の東海道線の運輸

18 明治30〜39年の東海道線の運輸 �@

19 明治30〜39年の東海道線の運輸 �A

20 明治30〜39年の東海道線の運輸 �B

1 東京−横浜間の鉄道建設まで �@�

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明治2年4月、明治政府が首都を東京へ移した直後のこと、横浜に住む英人アレキサンダーカンファーという者が、東京−横浜間に鉄道を敷設したいと政府に請願した。

首都東京と最寄の開港場横浜を鉄道で連絡しようという計画は、既に徳川幕府の時代に米人アルセポルトマンの出願があり、2年前の塵応3年12月老中小笠原壱岐守の名義で、江戸−横浜間の鉄道の建設・使用に関する免許状が出ていた。

ボルトマンは明治新政府に改めて既得権として承認されるように申入れてきたが、政府は明治2年2月

「鉄道は日本国が建設する」

との方針を示して断わったばかりであった。カンフアーは

「将来は政府の買上に応ずるし、共同経営でもいい」

と再願したが、当局は却下している。これは政府に先見の明かあった。

のちに鉄道局長になった井上勝の意見であると伝えられるが、大きい功績といわねばならない。

東洋の諸

[8] 国道418号笠置ダム〜丸山ダム区間(第四回), , http://pcitorn-nitikaku.sakura.ne.jp/418v4.html

岐 阜県東部を流れる木曽川にそった国道418号 笠置ダム〜丸山ダム区間 はどの道路地図にも国道を示す赤の実線でしっかりと書かれているにも関わらず、実際にはその大部分が車の走行がまったく不可能な事実上の廃道状態でありネット上ではきわめて有名である。

しかしそのレポートの多くは丸山ダム周辺の一般車も通行可能な区間(とはいえ一車線の断崖が続く道だが)を車でヒヤヒヤしながら通ったもので廃道区間を通り抜けたものは限られており、特に最近のものは少ないようだ。

今回はいわゆる「酷道区間」をレポートする。

さて、フェンスの向こうの完全封鎖区間を攻略した国道418号だが、ここからは「一応」車も通れる道に変わる。

しかし、どうもここまで一般車がフリーで入ってこれるという訳ではないようだ。

フェンスを過ぎるとダブルトラックが復活するが、中央と両側から緑の侵略を受けており、それ程頻繁に車両が通過する訳ではないようだ。

今までの廃道状態からは相当に改善されたが、ここが現役国道とは信じがたい事には変わりない。

未舗装の道を暫く行くと、簡易なゲートがあったが此処もまた一般車がフリーで入れる最終地点ではない。

今日は道の端に寄せてあったが、なにか作業が行われるのであろうか。

(追記)約1年後に再びこの場所を訪れた際もこのゲートはやる気のない感じで端に寄せてあったので、現実に封鎖が機能している訳ではないのかもしれない。

路肩に現れた「起点」。

そう、ここがかの有名な県道352号大西瑞浪線の起点である。

酷道から分岐する険道といった所だが、キロポストの向こうに道が見当たらないのは、単に廃道化したという言う訳ではなく、もともと車道として開通した歴史が無い為のようだ。

県道352号大西瑞浪線は、国道脇の急斜面を獣道レベルの道で下って行き、やがて木曽川の本流を渡るこの五月橋に到達する。

この五月橋を含む瑞浪市方面の全区間は非常に見どころ満載であり、実は踏破済みなのだがレポートはまたの機会に。

2010年12月 レポート公開しました

五月橋への分岐を過ぎても、国道418号は激狭のダートのままで、ガードレール等も無い。

この辺りは天気に関わらずいつもぬかるんでいるようだ。

恵那方面へ走り去る一台の軽自動車。

山仕事風のおじさんが二人乗車しており、この車は酷道マニアという訳では

[9] 南木曽町 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%9C%A8%E6%9B%BD%E7%94%BA

南木曽町(なぎそまち)は、長野県の南西部に位置する町。長野県下の町では最も人口が少ない。

妻籠宿及び三留野宿が、中山道の宿場町として発展した。また、面積の約94%を森林が占めている。

「日本で最も美しい村連合」の一つ。

地理 [編集]

南木曽町は、木曽谷の南端に位置し、中央を木曽川が流れている。支流には、岩倉川、与川、蘭川、坪川、男埵川がある。町の東部には、南木曽岳(1,679 m)や高曽根山(1,118 m)が、西部には、摺鉢山(796 m)や伊勢山(1,373 m)がそびえる。北西部には、柿其渓谷や田立の滝などがある。

気候 [編集]

年間平均気温は11.2 ℃と冷涼な気候である。過去に35 ℃まで上がった日もあるが、冬には-10 ℃前後まで冷え込む日もある。長野県北部とは違い、太平洋側内陸の気候に似ているため、夏季に降水が多く、冬の降水・降雪はそれほど多くない[1]。

隣接する自治体 [編集]

長野県

飯田市

木曽郡:大桑村

下伊那郡:阿智村

岐阜県

中津川市

歴史 [編集]

1961年(昭和36年)1月1日 - 西筑摩郡読書村・吾妻村・田立村が合併して発足。

1968年(昭和43年)5月1日 - 西筑摩郡が改称して木曽郡となる。

人口 [編集]

[10] 乗鞍岳 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%97%E9%9E%8D%E5%B2%B3

— 『日本三代実録』(873年)

が残されており、「愛宝山(あぼうやま)」と呼ばれその当時から霊山として崇拝されていた[17][18]。平安時代から室町時代にかけて古歌で「位山」と呼ばれ、1645年(正保2年)頃に乗鞍岳と呼ばれるようになったとされている[注釈 2][17][18]。1829年(文政12年)の『飛州誌』では、「騎鞍ヶ嶽」と記されていた[11]。飛騨側から眺めた山容が馬の鞍のように見えることから、「鞍ヶ嶺(鞍ヶ峰)」と呼ばれていた[12][19]。日本には同名の乗鞍岳が複数あり、「乗鞍」は馬の背に鞍を置いた山容に由来している[20]。信州では最初に朝日が当たる山であることから「朝日岳」と呼ばれていた[注釈 3][17][21]。最高峰の剣ヶ峰の別称が、「権現岳」[注釈 4][21]。魔王岳と摩利支天岳は円空が命名して開山したとされている[21]。1963年(昭和38年)11月に乗鞍国民休暇村(休暇村乗鞍高原)の開設に伴い、番所平と金山平と呼ばれていた周辺一帯が乗鞍高原と呼ばれるようになっていった[22]。南北に多数の峰が連なることから「乗鞍連峰」と呼ばれることもある[6]。

火山・地勢[編集]

日本の火山としては富士山、御嶽山に次ぐ高さである[23]。乗鞍岳は乗鞍火山帯に属し、複数の火山が南北に並ぶ複合火山である。千町火山体(せんちょうかざんたい、128-86万年前に活動した古期乗鞍火山)と烏帽子火山体、四ッ岳火山体、恵比寿火山体、権現池・高天ヶ原火山体(32万年前に活動を開始した新期乗鞍火山)で構成されている[9][23][24]。古い火山体の千町火山体と烏帽子火山体では、浸食と崩壊が進んでいる[24]。新期の火山体は山頂付近に分布する火山体や山腹に分布する溶岩ドームと溶岩流からなる大規模な成層火山。剣ヶ峰の噴火での直下西に権現池の火口湖が形成された[19]。約9000年前に現在の乗鞍岳の山容が形成された[25]。

山頂部は南北6 km、山体は北の安房峠から南の野麦峠まで南北15 km、東西に30 km、山域の面積は約250 km2と裾野が広いのが特徴で[23]、北アルプスの中では最も広い山域を持つ[19]。乗鞍高原などの8つの平原がある。火山湖と堰止湖の12の池があり、山頂直下西にある権現池は、日本では御嶽山の二ノ池に次いで2番目の高所にある湖沼。

[11] 土木学会図書館|旧蔵写真館 11.綾戸(あやど)橋, , http://library.jsce.or.jp/Image_DB/human/furuichi/lib11.html

1.解説

写真下部中央に下記の記載がある。―;Ayado−Bashi;−−;Gunba−Ken;―右端に下記の記載がある。 F.Nozawa,Enginner(何れも手書き)

Gunba−Kenを群馬県と理解するとこの橋は利根川上流の沼田市南端から子持村、赤城村北端にかけての綾戸峡谷に架かる橋と推定される。

図―1に示した視点を置くと、綾戸の隧道を含め、写真―11)と同じ景観であり、綾戸峡谷であることがわかる。

野沢房敬は1892(明治25)年頃約1年半の間群馬県に勤務して、多くの橋を架設している2)。図―2からもこの時期この場所に橋が架けられていたことがわかる。

以上からこの橋は下記の橋と評定する3)。

綾戸橋 1893(明治26)年5月竣功 橋長127m 幅員4.2m

2.清水新道4)

群馬県の前橋と沼田を結ぶ街道、すなわち現・国道17号は真田街道、清水新道、あるいは三国脇往還とも呼ばれていた。

この街道のうち、渋川と沼田間は利根川を挟んで東側と西側の二つの街道があった。東側ルートは参勤交代道路であったが、曲折・上下が多い。

これに対して、西側ルートは、ほとんどの区間が平坦であるが、沼田市南端と子持村北端の間は子持山塊が利根川に迫り、往時はこの間を「七曲がり十八坂」と称する山越えをしなければならなかった。この不便を解消すべく1846(弘化3)年に僧江舟が主導して利根川沿いに幅・高さ各2尺(0.6m)のトンネルを穿ち綾戸の穴道と呼ばれた。1863(文久3)年これを拡幅して、人馬が通れる隧道となった。1881(明治14)年に内務省が起工した清水新道の工事に際して、この付近は隧道を避けて、1885(明治18)年に図―2に示すようなルートとなり、利根川を棚下橋と綾戸橋(橋長127m幅員5.4木橋)とで渡った5)。1901(明治34)年に綾戸綾桜の両トンネルを含む西岸沿いの新道が完成して、綾戸橋ルートは廃道となった。

(図―3)

この西岸沿いの道路は国道17号として1966(昭和41)年大改修がなされている6)。

3.綾戸橋

1893(明治26)年に竣功した綾戸橋は写真から、多径間の木鉄混合上路トラス橋と推定できる。立派な親柱と高欄付きの橋梁である。

また、写真を見ると取り付け道路の石積みに下層と上層の2段が認められる。

おそらく、再架した

[12] 大井川 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BA%95%E5%B7%9D

静岡県

静岡市葵区、榛原郡川根本町、島田市、藤枝市、焼津市、榛原郡吉田町

大井川開発史[編集]

大井川は南アルプスの険しい山岳地帯を流下する。流域の平均年降水量は3,000mmと多雨地域に当たるため、古くから水量の豊富な河川であった。加えてフォッサマグナの崩落地帯が上流にあるため土砂流出量も多く、広大な河原を形成してきた。

特に中流部は大蛇行地帯であり、『鵜山の七曲り』と呼ばれる蛇行地帯も形成されている。また、大井川は国境としても利用され、古くは駿河国と遠江国の境界線とされていた。

近世・近代の治水[編集]

1590年(天正18年)、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃五ヶ国を領有していた徳川家康は小田原征伐の後、北条氏の旧領であった関東への移封を豊臣秀吉より命令された。この後、駿河には中村一氏が17万石の駿府城主として、遠江には堀尾吉晴が浜松12万石、山内一豊が掛川6万石として領有するなど秀吉恩顧の大名が封じられた。これは家康を仮想敵とした秀吉による東海道封じ込め政策の一環であった。

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いにおいて東海道筋の大名は秀吉の思惑に反し揃って東軍・徳川方に付いたため、戦後、一豊が土佐へ加増転封したのを始め、堀尾・中村等の諸大名は西日本へ転封となった。その後東海道筋は天領・親藩・譜代大名で固められ江戸の防衛に当てられた。この際、大井川に関しても、江戸の防衛に加え家康の隠居城であった駿府城の外堀の役目を果たすため、架橋はおろか船による渡し舟も厳禁とされた[1]。このため大名・庶民を問わず、大井川を渡河する際には馬や人足を利用して輿や肩車で渡河した川越(かわごし)が行われた。このため、大井川は東海道屈指の難所とされ、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と詠われた。もちろん、これは難所・大井川を渡る苦労を表現した言葉である。

[2]。

1696年(元禄9年)幕府は川の両側に川会所を設け、渡渉制度の管理のために2名から4名の川庄屋を置いた。川会所は島田と金谷に設置され、それぞれ大井川を渡河する拠点の宿場町となり賑わった。川会所は江戸の道中奉行の直轄として、毎日川の深さを計測して江戸に飛脚で報告したほか、川越賃銭や渡河の順番の割り振りの運営にあたった。とりわけ洪水の際には川留めが行われた。水深四尺五寸(1.5m)、人足の肩を超えると全面的に渡河禁止と

[13] 東海道 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93

律令時代 [ 編集 ]

概説 [ 編集 ]

律令時代 の東海道は、東海道の諸国の 国府 を駅路で結ぶもので、各道に派遣された官人が諸国を巡察する為に整備された路を指す。律令時代に設けられた七道の一つで、中路である [2] 。律令時代の東海道の道幅は、中世や江戸時代の道より広く、より直線的に建設された。

その一方で、当時は大河川に橋を架ける技術は発達しておらず、 揖斐川 ・ 長良川 ・ 木曽川 ・ 大井川 ・ 安倍川 ・ 富士川 ・ 多摩川 ・ 利根川 (当時)といった渡河が困難な大河の下流域を通過するため、むしろ東山道の山道の方が安全と考えられていた時期もあり、東海道が活発になるのは、渡河の仕組が整備された 10世紀 以降のことと考えられている [3] 。

中世に大半が改廃されたため、当時の正確な道筋については議論されているが、おおむね以下のような経路を通っていた考えられている。

畿内から近国まで [ 編集 ]

首都 が 飛鳥 に置かれた時期には、 大和国 の 宇陀 が、東海道方面への入口だったと考えられているが、その後、 平城京 に遷都されると、平城京から 平城山 を北上し、木津から木津川の谷間を東へ入って 伊賀国 に入り、 鈴鹿山脈 と 布引山地 の鞍部を 加太越え で越えて 伊勢国 へ、 木曽三川 を下流域で渡って 尾張国 津島 へ、 名古屋市 を通り、 三河国 と続いていったと考えられている。およそ、現在の 国道163号線 ・ 国道25号線 ・ 国道1号 に沿ったルートであった。

ただし、木曽三川の下流部は古来より水害が激しく、実際には船による移動に頼っていたと考えられ、あるいは 飛鳥 や 平城京 から 鈴鹿峠 を経由してそのまま伊勢国の港から 伊勢湾 を横断する海路が用いられる事も多かったとみられている。だが、その一方でこうした船には馬を同伴させることが出来ず、東国から馬に乗ってきた旅行者は三河国か尾張国で馬を他者に預けて伊勢国に向かう船に乗る必要が生じたが、帰途時に馬の返還を巡るトラブルなどもあった(『日本書紀』大化2年3月甲申条)。このため、徒歩や馬で旅を続けようとする人の中には、本来は認められていなかった尾張国府から北上して美濃国にある東山道の 不破関 に出る経路も用いられていた。伊勢湾を横断する海路と東山道に出る脇道の存在は、江戸時代の 七里の渡

[14] 2011年04月23日 : 夢乃又夢, , http://blog.livedoor.jp/donburi01/archives/2011-04-23.html

険道352号と酷道418号の分岐点はすぐだった。「大西瑞 浪線」のキロポストが埋まっている。意外にも険道352号は最近整備されたような形跡があり(それでも道幅は登山道レベルしかないが)歩くのに支障はなかった。数分で五月橋にたどり着く。 桜の満開の時期にはもう遅いが、まだ多くの山桜のピンクが山に色づいていて美しい。かつて深沢峡に観光客が訪れていたころは、多くの人々が桜のピンクと赤い五月橋のコントラストに見入ったことだろう。 五月橋は現在バイクはおろか自転車すら入れないようガードされているが、橋の上に立ってみる。グレーチングの下には木曽川の流れが見える。何度見ても足がすくむ(泣)。橋から丸山ダム方面をよく見ると廃茶屋「いさまつ」がわずかに顔をのぞか せていた。2008年にはいさまつに少しお邪魔したが、こうしてまだ建物があることに少し安心する。 対岸には名もなき小さな滝も見える。貸しボート屋があった頃 はここに近づけたのかもしれない。   「瑞浪市史料集三 なつかしの写真集(瑞浪市民図書館刊)」には昭和28年、32年の五月橋の貴重な写真が載っているが、この写真の中で八百津側に小屋が建っているのが確認できる。また昭和32年の写真は、この小屋から川面まで踏み分け道が続いているのもわかる。小屋は貸しボート屋だろうか。現在はどこにこの小屋があったのか、川 面まで続く道がどこだったのかも判別できない。   五月橋を離れ、ここから恵那方面に向かって歩く。酷道418号は所々に頼りなげなデリネーターを擁しつつ、荒れた路面を呈している。本当に今更だが、この道が1983年頃まで国道として機能していたとは信じがたい。しかしながら車で通れないわけではなく、現に比較的最近と思われる車の轍が路面に刻まれていた。 木曽川対岸に広がる砂浜のような美しい砂地に見とれつつ、名もない小さな橋を2つ過ぎると八百津と恵那の境界線にある名場居川にさしか かってくる。険道352号の分岐点から徒歩20分ほどの地点だ。川にかかる立派な橋はなんとなく「名場居川橋」という名だと思い込んでいたが、恵那市の住宅地図によると「川平橋」と名づけられていた。川平橋の手前には、頑健なガードレールが何人の侵入も拒むように設置されていた。ガードレールの手前には軽トラが停められており、真新しい轍はこの軽トラのものであることがわかった。車の持

[15] 忍野八海 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8D%E9%87%8E%E5%85%AB%E6%B5%B7

[編集] 歴史

800年-802年 - 富士山 延暦噴火

1934年 - 国の天然記念物に指定

1985年 - 全国名水百選

1987年 - テレビ朝日系番組撮影で潜水した海洋ダイバー2人がリールを持たず洞内に入り死亡。遺体回収に2週間かかる。(湧池、洞窟潜水)

[編集] 概要

延暦19年-21年(800年-802年)の富士山延暦噴火により、宇津湖が山中湖と忍野湖に分かれた。後に忍野湖が乾き盆地になり、湧水口が池(泉)として残った姿が忍野八海である。

「八海」の名前は、富士講の人々が富士登山の際に行った八海めぐりからきており、富士講では忍野八海のことを「元(小)八海」と呼んでいる。

その神秘的な自然景観や現象から、観光客も多く、富士山周辺でも人気のスポットとして知られている。しかし、周囲は観光客用の店や施設などが立ち並んで完全に観光地化されており、自然環境を満喫できる環境とはあまり言えない状態となっている。

[編集] 観光

忍野富士と呼ばれるほど富士山が美しく、冬場は泉より朝霧が立ち込め幻想的。一番深い「湧池」を中心にして7つの池を歩いて回る観光客が多く、一つだけ離れた「出口池」には少ない。また、あまり目立たない「鏡池」「菖蒲池」などを省く観光客もおり、そちらも比較的少ない傾向にある。

[編集] 観光化による自然破壊

美しく神秘的な自然の景観で有名であるが、近年は周辺地域の開発や土産物屋などの増加によって自然破壊が進んでおり、このままでは水質の悪化や湧水の枯渇が起きる可能性があると言われており、現在の忍野八海の状態について一部からは問題視されている。

「中池」は池本荘により人工的に掘削された穴である。「水車小屋」の水は「湧池」内部より汲み上げられている。その為、「湧池」の湧水量は激減し、2003年に池の縁が一部崩落した。また、水が「濁池」の中より「中池」へ流出したため、「濁池」の状態が著しく変化している。

[編集] 観光時における注意点

忍野八海には、その名の通り「8ヶ所」に池があるのだが、周辺にはそれ以上の数の池が存在する。ただし「出口池」「御釜池」「底抜池」「銚子池」「湧池」「濁池」「鏡池」「菖蒲池」の8つ以外の池は「忍野八海」とは何ら関係の無い人工池である。特に池本荘の正面にある「中池」は、比較的規模が大きく目立つ上に忍野八海の中心に位置する事などから、多くの

[16] 分岐のあるトンネル 蘇水峡トンネル, , http://www.geocities.jp/p_road12/tunnel/tn_bun_sosuikyou.htm

岐阜県八百津町の丸山発電所横にあるトンネルです。名称がハッキリしないのですが、道路施設現状調査書に「ソスイキョウ」とあるのでここでは「蘇水峡トンネル」とします。

このトンネル元は丸山ダム建設時に資材運搬用として敷設されたダム工事専用鉄道のトンネルです。平成13年に廃止となった名鉄八百津線の八百津駅より丸山ダム付近までの全長4kmほどの路線で、戦時中の昭和18年に着工したものの戦局の悪化と終戦により一時工事は中止され、結局昭和27年に完成、ダム工事終了により昭和29年10月には廃止になっています。

八百津駅から途中の錦織までは電化され専用の電気機関車が貨物の牽引をしていましたが、錦織〜丸山ダムの区間は昭和28年7月に延長開通したもので非電化で7tディーゼル機関車が使われていたそうです。この蘇水峡トンネルは非電化の区間にあったトンネルです。

専用線跡地はほぼ全線に渡り県道358号線になっていて自動車で通行することが可能です。

[17] 広瀬川 (宮城県) - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%80%AC%E5%B7%9D_%28%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C%29

広瀬川(ひろせがわ)は、宮城県仙台市を流れる名取川水系名取川支流の一級河川である。仙台市のシンボルとして親しまれている川であり、ヒット曲となった『青葉城恋唄』(歌/さとう宗幸)にも唄われている。

中流域では仙台市都心部の西縁から南縁を経て東流するが、都心部が広がる河岸段丘の段丘面と川面との間には数十mの高低差の段丘崖となっている。そのため両岸には自然が多く残されている。初夏の鮎釣り、秋の芋煮会など、市民が川面や河原まで降りてレジャーを行うことが多い。牛越橋より上流ではカヌーも楽しまれている。仙台七夕花火祭や広瀬川灯ろう流しなど、祭りの会場ともなっている。

地理 [編集]

宮城県仙台市青葉区作並の山形県境に位置する関山峠付近に源を発する。国道48号に沿う風倉沢と関山峠から流れる坂下沢が合流した地点が一級河川の上流端である。山岳地帯を南東へ流れ愛子盆地に入る。大倉川を合わせる辺りは両岸に河岸段丘を発達させている。盆地内の支流を集め、陸前丘陵の一部である権現森丘陵と蕃山丘陵の間を抜ける途中はV字谷を形成する。ここまで仙山線と国道48号がほぼ川と平行に走っている。V字谷を抜けると、仙台市街地へと達する。右岸に青葉山、左岸に仙台市都心部を見ながら、蛇行しつつ都心部の南西端を形作って流れる。この区間では、広瀬川によって古い段丘面(より標高が高い)から台原段丘-青葉山段丘、仙台上町段丘、仙台中町段丘、仙台下町段丘の4つに大きく分けられる段丘を形成している。愛宕大橋より下流では、南東方向に直線的に流れ、太白区四郎丸地区で名取川に合流する。

上流は紅葉の名所で作並温泉がある。上流の渓谷の景勝はもとより、市街地に入っても草木と崖が多く趣ある景色を作っている。化石採集の適地がところどころにある。埋れ木や珪化木の産地として有名である。宮沢橋から広瀬橋辺りにかけての区間で長町-利府断層を越え、それより下流では沖積平野を形成する。両岸に自然堤防が発達し、その微高地上では旧石器時代から古代の遺跡が数多く見られる。

歴史 [編集]

長町-利府断層より下流の両岸(沖積平野)にある微高地には、旧石器時代から古代の遺跡が数多く見られる。そのため、この地区が同時期の仙台平野の中心地と見られている。南小泉遺跡などの集落跡や遠見塚古墳がある左岸が当初は中心地だったようだが、後に古墳群がある右岸に中心地が移った

[18] 淀川 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E5%B7%9D

淀川(よどがわ)は、琵琶湖から流れ出る唯一の河川。瀬田川、宇治川、淀川と名前を変えて大阪湾に流れ込む。滋賀県、京都府及び大阪府を流れる淀川水系の本流で一級河川。流路延長75.1km、流域面積8,240km²。

また、琵琶湖に流入する河川や木津川などを含めた淀川水系全体の支流(支川)数は965本で日本一多い。第2位は信濃川(880本)、第3位は利根川(819本)となっている。

地理[編集]

大津市で琵琶湖から流れ出る。ここでは瀬田川(せたがわ)と呼ばれる。京都府に入るあたりで宇治川(うじがわ)と名を変え、さらに京都府と大阪府の境界付近、大山崎町で桂川・木津川と合流する。この合流地点より下流が狭義での淀川となる。その後も大阪平野をおおむね南流し、大阪市で大阪湾に注ぐ。都島区付近で旧淀川と分派し、以降大阪湾に注ぐ方を「新淀川」と称する場合もある。旧淀川は大川・堂島川・安治川と名前を変えて大阪湾に注ぐ。

なお、河川法上では琵琶湖が淀川の水源としている。従って、琵琶湖より流出する瀬田川・宇治川は法律上では淀川本流である。又、琵琶湖に注ぐ全ての河川も、水系では淀川水系として扱われる。更に、神崎川に合流する猪名川も、淀川水系として包括される。

淀川開発史[編集]

為政者の治水・利水[編集]

淀川流域は古来より政治・文化・経済の中心地として極めて重要な位置を占めていた。それ故古来仁徳天皇時代茨田堤の建設に始まり以後河川整備は繰り返されていたが、氾濫も度々起こり、時の白河法皇をして比叡山の僧兵・双六博打(賽の目)と共に鴨川の治水問題が悩みの種となっていた。

豊臣秀吉が晩年伏見に居を移すにあたって、宇治川(巨椋池)の改修を行った。その主なものは、槇島堤を築くことで京都盆地南部に流れ込む宇治川の流れを直接巨椋池に流れ込む形から現在のような伏見への流れに変えたことであり、このことにより宇治川は伏見城の外濠の役目を担うことになるとともに、水位が上がったことにより伏見城下に港を開くことを可能にした。また淀堤(文禄堤)を伏見・淀間の宇治川右岸に築き流れを安定させた。これにより、伏見は交通の要衝として栄えることになった。

江戸時代、徳川家康の命により方広寺大仏殿造営の為の資材運搬を鴨川を用いて行った角倉了以・与一親子は、恒久的な運河として高瀬川を開削し、京都への水運整備を行い、物流を発展させた。大

[19] 淀川大堰 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E5%B7%9D%E5%A4%A7%E5%A0%B0

淀川大堰付近の空中写真。淀川大堰左岸(右下)の毛馬水門を経て南東方向へ分流するのが旧淀川(大川)である。1985年撮影。

国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。

淀川大堰(よどがわおおぜき)は大阪府大阪市都島区毛馬町4丁目と東淀川区柴島2丁目にまたがる、一級河川・淀川本流に建設された堰である。

国土交通省近畿地方整備局と独立行政法人水資源機構が共同で管理を行う可動堰で、1964年(昭和39年)に完成した長柄可動堰を改造して1983年(昭和58年)に完成した淀川最下流にある河川施設である。大阪府と兵庫県への上水道と工業用水道供給を目的にしている。

沿革[編集]

古くから京阪神の大動脈として利用されていた淀川であるが、戦後高度経済成長に伴って阪神工業地帯の生産が拡大。それに伴って大阪市を中心とする地域では人口が爆発的に急増した。このため従来の水道施設では増え続ける人口へ対処できないことから、新たな水資源の開発が課題となった。

1962年(昭和37年)、水資源開発促進法が制定されて首都圏と関西圏への水資源需要に対応するための水資源開発公団[1]が発足。淀川水系は利根川水系と共に水資源開発を重点的に行う「水資源開発水系」に指定された[2]。これにより淀川水系では淀川水系水資源開発基本計画が策定され、上流部に高山ダム(名張川)・青蓮寺ダム(青蓮寺川)・室生ダム(宇陀川)が建設された。下流部には新淀川と旧淀川分離の際に建設された可動堰があったが、これを改良して大阪府・兵庫県への新規上水道・工業用水道供給を行うことを目的に改造。1964年8月1日に旧大阪中央環状線・長柄橋沿いに長柄可動堰が完成した。

その後建設省近畿地方建設局[3]は1971年(昭和46年)3月に淀川水系の治水計画の基本となる淀川水系工事実施基本計画を改定し、淀川下流部[4]における計画高水流量を大幅に改定した。この中で200年の一度の水害に対応する治水計画にするため、予想する流量を当初計画の約二倍にあたる毎秒12,000tの洪水量とした。こうした大幅な流量増加に対応すべく上流では日吉ダム(桂川)・比奈知ダム(名張川)の建設、中流部では堤防の増強、下流では新淀川・旧淀川の掘削と拡張によって治水を行おうとした。ところが、下流部の河道掘削と拡張を行う際に、長柄可動堰は洪水を安全に流下させる阻害要因に

[20] 名古屋駅 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E9%A7%85

日本の東西両京を結ぶ鉄道路線計画は、東海道経由と中山道経由のいずれにするかが、明治10年代後半まで決定されていなかった。1884年(明治17年)に中山道ルートの採用が決定し(中山道幹線を参照)たが、その建設資材を搬入するため、太平洋側と中山道を結ぶ鉄道路線が同時に計画された。

中山道の加納宿(現在の岐阜市)より三河湾に面した知多半島の武豊港までを結ぶ路線(現在の東海道本線の一部及び武豊線)がそれで、1886年(明治19年)4月1日に加納(翌年に岐阜と改称) - 熱田間がまず開業し、その翌月の5月1日に名護屋駅が当時の広井村笹島地内に開設された。場所は現在の駅より200mほど南方、今日では笹島交差点のある辺りであり、当時は葦が茫々と繁る湿地帯であった。低湿地帯が広がる盛土のため、金山台地を切り取るという大工事を要し、それは加納 - 熱田間開業の翌月へ名護屋駅の開設がずれ込んだ理由とされている[2]。

開設の翌年には名古屋駅と改称されるが、当時は「笹島ステンション」と広く呼ばれていた[3]。

その後、東西両京を結ぶ幹線鉄道は碓氷峠など山岳地帯の工事が予想以上に難航するとみられたこと、更に当時の名古屋区長(現在の市長格)である吉田禄在が中山道幹線では名古屋を通過しないことになり、名古屋の衰退を招くと、東海道経由への計画変更を政府へ働きかけたこともあり[4]、岐阜以西の幹線鉄道ルートは美濃路・東海道経由に変更され、名古屋は東海道幹線上の駅とされることとなった。またこの吉田により、名古屋駅の近くを通り、名古屋駅と市街地を結ぶ道となる広小路通も拡幅され、のちの1898年(明治31年)には京都電気鉄道に次いで日本で2番目の路面電車となる名古屋電気鉄道(→名古屋市電)がこの通り上へ開通している(笹島 - 県庁前間)。

1892年(明治25年)には、前年の濃尾地震で倒壊した初代駅舎に変わり、2代目の駅舎が竣工。そして1895年(明治28年)には関西本線の前身となる私鉄の関西鉄道が当駅まで乗り入れ、1900年(明治33年)には現在の中央本線となる官営鉄道線が名古屋駅を起点に多治見まで開業し、複数路線が乗り入れるターミナル駅へと成長した。

なお関西鉄道は後に名阪間輸送で官営鉄道と競うことを見込み、名古屋乗り入れ翌年の1896年(明治29年)には名古屋駅のすぐ南方、現在では名古屋車両区があ

[21] 富士川 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B7%9D

富士川(ふじかわ)は、長野県・山梨県及び静岡県を流れる河川。一級水系富士川の本流であり日本三大急流の一つに数えられている。

甲斐と駿河を結ぶ水運としての要路であり、古くから人々の暮らしに密着してきた。

釜無川本谷として、南アルプス北部、山梨県と長野県の県境に位置する鋸岳(のこぎりだけ)に源を発し、長野県富士見町にて八ヶ岳などからの源流とする立場川と合流しながら、山梨県北杜市まで長野・山梨両県の県境を成す。北杜市にて山梨県域に入ってから尾白川、塩川、御勅使川などと合流しながら甲府盆地を南流し、西八代郡市川三郷町と南巨摩郡富士川町の町境で笛吹川と合流する。ここまでを釜無川と呼ぶ。

釜無川の名前の由来には諸説あり、上流の「釜無山」にちなむというものや、「水量が豊富で流れが速いため、釜を洗おうとするとすぐに流されて無くなってしまうから」という伝承に近いものなどが挙げられる。その中でも有力視されているのが、絶え間なく流れる様子を表した「クマナシ(隈無し)」に由来しているというものである。

一般的に釜無川と笛吹川の合流点より下流を富士川と呼び、そのまま富士山の西側を南流し、途中早川、常葉川、波木井川など更に下って静岡県に入ると稲子川や芝川などの支流を合わせ、富士市の雁堤南で東海道と交差し、富士市と静岡市清水区との境で駿河湾に注ぐ。

呼び方[編集]

正式には「ふじかわ」と濁らない発音であり、東海道新幹線富士川橋など橋付近のに掲げられている看板には英語標記で「FUJIKAWA」と記載され、国土交通省の発行の記述は「ふじかわ」と記載されている。また流域の静岡県、山梨県では「ふじかわ」と呼ばれ、これは静岡における4音の川で、2音目が濁るもの(安倍川、地名の旧芝川町(現・富士宮市)など)で共通のルールであるが、全国的には「ふじがわ」と誤って発音されてしまうことも多い。

辞書での呼び名はまちまちで、講談社の日本語大辞典、三省堂の大辞林(goo辞書、excite辞書含む)では「ふじかわ」と記載されている一方、岩波書店の広辞苑、小学館の日本語大辞典やYahoo辞書でも利用されている大辞泉では、「ふじがわ」と誤って表記されている。他、NHKのアナウンサーでさえ「ふじがわ」と誤って発音をする場合がある(2012年のNHK大河ドラマ・平清盛では「ふじかわのたたかい」)。

「ふじがわ」と発言される理由

[22] 国道418号 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%81%93418%E5%8F%B7

概要[編集]

国道157号重複区間の温見峠を皮切りに、尾並坂峠、平谷峠、売木峠(旧道)などの峠を越えていく線形をとっている。

岐阜県加茂郡八百津町南戸(みなと)の岐阜県道353号篠原八百津線分岐点から恵那市笠置町笠置ダム付近までは狭隘路となっているが、付近で事業中の新丸山ダム建設に伴い水没することから、北岸にバイパス道路(丸山バイパス)が建設中であり、一部区間は2010年3月に供用を開始した。途中の新旅足橋では川の水面まで200mという非常に高い場所に橋がかけられている[1][2]。

国道157号との重複区間である、本巣市根尾能郷の冬期閉鎖ゲート付近も狭隘路となっており、道路状況に対する注意喚起のため「落ちたら死ぬ!!」と書かれた看板が設置されている。ここから黒津までの区間は7年近く通行止めとなっていたが2012年10月、復旧工事が完了し通行可能となった。

要目[編集]

陸上距離:243.3km

起点:福井県大野市神明町(上神明交差点・国道157号重複、国道476号起点)

終点:長野県飯田市南信濃和田(国道152号交点)

指定区間:なし

歴史[編集]

1982年4月1日:一般国道418号(長野県飯田市 - 岐阜県本巣郡根尾村)として指定。長野県飯田市から下伊那郡売木村は国道151号と重複。

1993年4月1日:長野県下伊那郡南信濃村(現 飯田市) - 下伊那郡売木村、岐阜県本巣郡根尾村(現本巣市)から福井県大野市を編入して起終点の方向を入れ替え、福井県大野市から長野県下伊那郡南信濃村(現 飯田市)となる。

重複区間[編集]

福井県大野市神明町(上神明交差点) - 岐阜県本巣市根尾板所:国道157号

岐阜県関市栄町3丁目(栄町3交差点) - 同市平和通6丁目:国道248号

岐阜県加茂郡川辺町中川辺 - 同町石神(新山川橋北詰交差点):国道41号

岐阜県恵那市山岡町馬場山田 - 同市岩村町(裏山交差点):国道363号

恵那市岩村町(一色交差点) - 同市上矢作町:国道257号

長野県下伊那郡阿南町新野:国道151号

長期通行止め区間[編集]

岐阜県加茂郡八百津町(岐阜県道353号篠原八百津線分岐点)から恵那市(笠置ダム付近)までの約17.7kmは、本区間を管理する岐阜県可茂土木事務所と恵那土木事務所が通行を禁止している。この区間は丸山ダムの嵩上げ計画である新丸山ダムによ

[23] 信州の架け橋 (長野県の橋)  -  清水橋, , http://93mini.blog135.fc2.com/blog-entry-87.html

Author:ふみゅう

突然、橋が好きになりました。現行の橋に限らず、橋跡を探し、道の変わり行きを調べるのも面白いです。 主に下路式の橋を紹介しています。 鉄筋コンクリートローゼ橋は、全て見ました。後は、古い鉄筋コンクリートの主塔の吊橋を探しています。吊橋は、主塔だけでも残っていれば、橋の歴史を感じさせられる良い存在です。 基本、歩いて橋を渡っていますが、橋が上下に揺れるのが苦手で、場合によって吊橋は渡れない事があります…。 面白い橋、吊橋(跡含む)があれば教えて下さい。どの橋ページでも構いませんのでコメントに記載して頂けたら幸いです。 愛車は、15年の付き合い! ☆☆ 気に入った橋、 このページに来るきっかけとなった橋に拍手を頂けると励みになります。 ☆☆

[25] 御母衣ダム - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%AF%8D%E8%A1%A3%E3%83%80%E3%83%A0

御母衣ダム(みぼろダム)[1]は、岐阜県大野郡白川村、一級河川・庄川本流最上流部に建設されたダムである。

電源開発(J-POWER)が管理する発電専用ダムで、高さ131メートルと日本屈指の規模のロックフィルダムである。只見川の奥只見ダム、田子倉ダムと共に「OTM」の頭文字で呼ばれ、同社を代表する水力発電所の一つである。ダム湖は御母衣湖。水没予定地から移植された荘川桜のエピソードでも知られる。

計画の発足[編集]

庄川は太平洋と日本海の分水嶺に当たる烏帽子岳付近を水源とし、白山連峰と飛騨高地の山間を概ね北に向けて流れ、富山湾に注ぐ北陸地方における大河川の一つである。流域の大部分は山岳地帯で占められ、シベリアから吹く季節風によって冬季は豪雪地帯となる。また夏も台風の通り道になりやすく、全般的に多雨気候である。降り注いだ雨は険しいV字谷を形成する峡谷を急流となって流れ、日本海に注ぐ。急流で水量の多い庄川は水力発電を行うには理想的な川であり、大正時代から黒部川や常願寺川など近隣を流れる河川と共に水力発電所の建設が進められていた。

1926年(大正15年)に白山水力電気が平瀬発電所の運転を開始したことに始まる庄川の電力開発は、浅野財閥総帥であった浅野総一郎の庄川水力電気により1930年(昭和5年)に小牧ダムが完成、当時日本屈指の出力7万2,000キロワットの小牧発電所が運転を開始した。同年昭和電力が小牧ダム上流に祖山ダム・祖山発電所を完成させ、以後庄川は下流から上流に向かってダム式発電所の建設が進められていった。民間で進められた事業は戦時体制の進展に伴い誕生した日本発送電によって庄川水系の電力施設は接収、1942年(昭和17年)には小原ダム・小原発電所が完成する。その日本発送電が1951年(昭和26年)に電気事業再編成令によって分割・民営化されると、庄川水系の電力施設は旧庄川水力電気・昭和電力の流れをくむ関西電力が継承し、成出・椿原・鳩谷の各ダム・発電所が建設された。しかしこれらのダムと発電所は余りある庄川の水量を十全に活用できるほどの貯水池を持たず、電力需要の多くなる冬季に発電能力を発揮しきれなかった。このため庄川の最上流部に巨大なダムを建設し、それによって形成される大容量貯水池によって下流の水量を安定化させ、下流に建設された発電所の出力を増強する必要があった。

すでにこう

[26] オランダ堰堤・大津市上田上 / 近江水の宝 [滋賀文化のススメ], , http://mizutakara.shigabunka.net/e750777.html

ヨハネス・デ・レーケ(Johannis de Rijke)という人物をご存じだろうか。明治6年(1873年)、内務省土木局に招かれて来日したオランダ人の土木技術者である。明治政府は近代化を目指して欧米の最新技術や学問、制度を国内に導入するために多くの外国人を雇用した。その中で水工技術者の一人としてオランダから招聘されたのが、デ・レーケだった。

優れた技術を実地で磨いていたデ・レーケの高い技術は、日本に来てすぐに発揮される。田上山の近隣では古来から寺社の造営あるいは住民の生活のために木々が伐採され、明治の初期にはあちこちの山林が荒廃し、土砂の流出が洪水の一因となっていたのだ。デ・レーケはたびたび氾濫する淀川の治水事業にかかわり、施工や監理を中心に担当した。明治10年代にハゲ山と化した田上山で砂防事業が開始され、その一環で明治22年(1889年)にデ・レーケの指導、日本人技術者・田邊義三郎の設計により造られたとされるのが、大津市上田上桐生町の砂防堰堤である。この砂防堰堤は築設より100年以上たった今でも健在で、デ・レーケの母国にちなんで「オランダ堰提」と呼称されている。ただし、この堰堤にデ・レーケがかかわったとする直接的な資料は残っていない。

[27] 荒川 (関東) - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E5%B7%9D_%28%E9%96%A2%E6%9D%B1%29

歴史[編集]

荒川は、江戸時代初期以前は現在の元荒川の川筋を通っていた。つまり関東平野に出たのち東へ下り、武蔵国・下総国境付近(今の越谷市・吉川市周辺)で南流していた利根川と合流、そこから合流と分流を繰り返しながら江戸湾(現在の東京湾)に注ぐ川だった。「荒」という名の通りの暴れ川でしばしば川筋を変え、下流域の開発も遅れていた。本流が今の綾瀬川を流れていた時代もあるが、戦国時代に水路が掘られて東の星川に繋がれ、綾瀬川と分流した[2]。

利根川東遷事業[編集]

1629年(寛永6年)に関東郡代の伊奈忠治らが現在の熊谷市久下で河道を締切り、和田吉野川の河道に付け替えて入間川筋に落ちるようになった。元の河道は、熊谷市で荒川から離れて吉川市で中川と合流する元荒川となっている。同時期の工事で利根川は東に瀬替え(利根川東遷事業)して古利根川流路から江戸川の流路を流れるようになった。付け替え後の荒川(元の入間川)は、下流で現在の隅田川の河道を通っていた。この部分は流速が遅く、台風で大雨が降るとしばしば溢れて江戸の下町を水浸しにした。明治時代の調べでは、大雨の際、熊谷市と川口市で最高水位に達する時刻の差が48 - 60時間あった[3]。洪水が人や家を押し流すことはないが、浸水による家屋と農作物の被害は深刻であった。しかし、荒川の舟運にとってはこの瀬替えによって水量が増えたことにより物資の大量輸送が可能となり、交通路としての重要性を高めた[4]。

荒川放水路[編集]

荒川放水路(あらかわほうすいろ)は、荒川のうち、岩淵水門から、江東区・江戸川区の区境の中川河口まで開削された人工河川を指す。途中、足立区千住地区、および墨田区・葛飾区の区境を経由し、全長22 km、幅約500 mである。1913年(大正2年)から1930年(昭和5年)にかけて、17年がかりの難工事であった。

計画に至る過程[編集]

明治43年(1910年)8月5日ごろから関東地方では長雨が続き、11日に房総半島をかすめ太平洋上へ抜けた台風と、14日に甲府から群馬県西部を通過した台風が重なり、荒川(現隅田川)を含む利根川や多摩川などの主要河川が軒並み氾濫し、死者769人、行方不明78人、家屋全壊2,121戸、家屋流出2,796戸に上る関東大水害が発生した。利根川左岸上五箇・下中森の破堤により群馬県邑楽郡一帯に被害が集中したほ

[28] 浜松駅 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%9C%E6%9D%BE%E9%A7%85

概要 [ 編集 ]

静岡県の西部の 政令指定都市 である浜松市の中心駅であり、 東海道新幹線 と在来線の 東海道本線 が乗り入れている。近隣にある 遠州鉄道 の 新浜松駅 と合わせて、県西部(遠州地域)の拠点駅としても機能している。

新幹線は、 東京 - 岡山 間(一部、東京 - 名古屋・新大阪間)の「 ひかり 」が毎時1本と、各駅停車の「 こだま 」が毎時2本停車する。また朝・夜に当駅発着の「こだま」が1.5往復(上り2本、下り1本)設定されている( 2014年 3月15日現在)。「 のぞみ 」は停車しない。一部の「ひかり」は上下とも当駅で「のぞみ」の通過待ちをする。

在来線は、日中は静岡方面が毎時4本(掛川行1本 [1] ,静岡以東行3本)、 豊橋 方面が毎時3本運転されている。また通勤客向けに当駅と 静岡 ・ 沼津 間を結ぶ ホームライナー が設定されている。特急列車は、寝台特急の「 サンライズ瀬戸 」「 サンライズ出雲 」の下り列車が停車するのみである。

歴史 [ 編集 ]

年表 [ 編集 ]

1888年 ( 明治 21年) 9月1日 - 鉄道院(のちの 鉄道省 → 日本国有鉄道 〈国鉄〉)による浜松 - 大府間の官設鉄道線開通により、その終端駅として開業。

1889年 (明治22年) 4月16日 - 官設鉄道が静岡まで延伸し、新橋までの既存線と直結。途中駅となる。

1895年 (明治28年) 4月1日 - 線路名称制定。東海道線( 1909年 に東海道本線に改称)の所属となる。

1926年 ( 大正 15年) 12月12日 - 駅舎を洋風の近代的建物に改築(2代目)。

1945年 ( 昭和 20年) 6月10日 - 空襲により2代目駅舎焼失。

1948年 (昭和23年) 10月15日 - 木造2階建の3代目駅舎完成。

1964年 (昭和39年) 10月1日 - 東海道新幹線が開業。乗換駅となる。

1971年 (昭和46年) 4月26日 - 貨物取扱業務の一部を新設の 西浜松駅 に移管。

1976年 (昭和51年) 10月1日 - 貨物の取扱を全廃。

1979年 (昭和54年)10月15日 - 東海道本線の高架化完成。これにより駅は東海道線から離れて設置された新幹線ホームと一体化し、利便性が向上。

1980年 (昭和55年)10月1日 - 新幹線「 ひかり

[29] 水力発電所ギャラリー 中部電力小坂川発電所 - 水力ドットコム, , http://www.suiryoku.com/gallery/gifu/osakagaw/osakagaw.html

歴史

所有:中部電力[運開]−中部電力[現在]

昭和58(1983)年11月:運用開始

発電の区分

種別:一般水力

発電形式(落差を得る方法):水路式

発電方式(水の利用方法):流込み式

出力

認可最大出力:21300kW

常時出力: 4300kW

水量

最大使用水量:6.00立方メートル毎秒

落差

有効落差:423.90m

設備

水車:立軸ペルトン水車 出力22000kW×1台

発電機:立軸三相交流同期発電機×1台

導水路(兵衛谷→濁河川):総延長986.1m、主要導水路 幅2.04〜2.24m×高2.04〜2.24m、延長931.2m

導水路(濁河川→発電所):総延長5660.4m、主要導水路 幅2.20〜6.00m×高2.40〜2.60m、延長5648.9m

上部水槽:縦14.37m×口径9.00m×高3.70〜8.72m

水圧鉄管:内径1500〜900mm、板厚8〜21mm、延長903.98m×1条

入口弁:ロータリーバルブ

放水路:幅2.50〜5.20m×高2.05〜4.45m、総延長19.3m

標高

取水位標高:1116.00m

放水位標高: 659.35m

面積

流域面積:38.3平方キロメートル

河川

取水:兵衛谷→濁河(にごりご)川

放水:小坂川

本データは(社)電力土木技術協会様の許可を頂いて水力発電所データベースより転載しております。(一部は現地案内板、銘板及び事業者様パンフレット等の資料より)

フォトギャラリー

発電所建屋と小坂川

落差400m超ともなると水圧鉄管の迫力も相当なものです。

(写真では伝えきれないのが残念です)

(2013-11-04画像追加、2012-11撮影)

雪に覆われていない時季の撮影、上の画像とは少し撮影位置も変えています。

(2013-11-04画像追加、2012-11撮影)

巌立峡の入り口付近から上部水槽が見えました(画像左上)

(2013-11-04画像追加、2012-11撮影)

上部水槽付近をアップで撮影、画像中央に水圧鉄管が少し見えます。

(2007-01-22画像追加)

発電所のすぐ近くには巌立(がんだて)と呼ばれる柱状節理の露頭が見られます。

[30] 特別企画!酷道418号を走破せよ! 4/4, , http://www.geocities.jp/teamkokudo/kokudo/R418gentuki/gentuki418-4.htm

二輪部隊が懸念していた最大の難所を、人数でカバーして強行突破を試みる。

一歩間違えれば木曽川に転落するので、原付に収納していた荷物を全て取り出してから持ち上げた。

万が一のことがあっても、被害が原付だけで済むようにと・・・

なんとか落ち返し地点まで到達。

しかし、原付はヤバい状態で止まっている。

そして、ついに最大の難所を攻略!

今になって TEAM原付 の ユウジ氏 が「俺もDTで来ればよかった」としきりに後悔していた。

階段を突破したら、ゴールは目前。

と思っていたが、見渡す限りゴールは見えない。

スタートから5時間、疲労がピークを過ぎた頃、ようやくゴールが見えてきた。

そして、ついに・・・

最後のゲートを越えるため、川岸ギリギリを走る。

これさえ越えれば・・・一堂の気迫が感じられる。

ついに通行止区間を踏破し、恵那市の笠置ダムまで到達した。

日没が迫っていたため、ハイペースで歩き続ける強行軍であったが、とても充実した一日だった。

参加者は当日こんなに歩かされるとは思っておらず、半ば強制的に無謀な企画に参加させられた格好だったが、楽しんでいただけたと思う。いや、そう思いたい。

一人では絶対に遂行不可能な(というかやりたくない)計画だったが、11人が団結し、協力し合ったからこそ実現できた。

廃車を覚悟のうえで原付で乗り入れてくれたアドレスさんをはじめ、当日集まってくれた全ての方に、この場を借りてお礼を言いたい。

現在、新丸山ダム計画が凍結され、今回踏破した区間が本当に将来水没するか、怪しくなってきた。

しかし、バイパス道路が建設途中である現状を踏まえると、全区間1車線であるこの廃道区間が復活するとは考えにくい。

今回、動力の付いた車両で踏破できたことは、我々にとって、将来かけがえのない思い出になることだろう。

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[31] 二股トンネル徹底調査!〜完結編〜 2/2, , http://www.geocities.jp/teamkokudo/kokudo/R418/futamata-2.htm

近くの集落・・・といっても、二股トンネル付近には人が住んでいないため、かなり遠くにはなるのだが、住民を見つけて早速調査を開始した。

畑で作業をしていたお婆さんを皮切りに、「どなたか知ってそうな人を教えてください。」と、色んな家や店を回った。

遠方からお嫁に来た人もいて、意外と戦時中からずっとこの地に住み続けている人は少なく、調査は難航した。

しかし、粘り強く多くの人たちから話を伺っているうちに、徐々に真実を知る人に近づいていった。

そして、ついに「二股トンネルは昔、内部で二つに分岐していた」という証言が得られた。

その証言によると、二股トンネルは、やはり丸山ダムの建設に絡んでいたようで、ダムの資材を運搬するルートになっていた。

その関係で、トンネル内部で二股に分岐させる必要があったようだ。

「今と違って小さいトンネルで、男の人なんかは背を屈めないと歩けなかった」との証言も、現実と矛盾しない。

なぜ分岐していたのか、理由ははっきりとはしなかったが、木曽川の水運と、この418号の陸運のハブとなる施設が、

ここ二股トンネルの直近にあったことと、関係があるようだ。

これで、一つの謎は解決したが、せっかくなので、さらに聞き込みを続けることにした。

さらに幾人かからお話を聞き、最終的には丸山ダムの建設に携わったという人にまで辿り着いた。

そして、ダム建設当時の作業環境や町の様子など、貴重な話を聞くことが出来た。

とても興味深い話ばかりだったが、丸山ダム及び二股トンネルについて、人柱説についても切り出してみた。

その方によると、ダムもトンネルも完成したのは戦後の話で、さすがに人柱なんて話は聞かなかった。

朝鮮人もたくさん働いていたが、終戦間際に強制連行を隠蔽するために虐殺したなんて話も聞いたことがない。

そんな事実があれば、少なからず噂が立つし、戦後も朝鮮人の労働者はたくさん働いていた。

[32] 国道418号線を走ってみる・その1 (前編・大野市→旧根尾村) - きたへふ(Cチーム)のブログ, , http://blog.goo.ne.jp/cars-kitahefu/e/b52c07817efaf3b902e4a9f2556ba08f

きたへふ(Cチーム)のブログ

ファミスタとは特に関係ありません。タブレット・スマホをご利用の方は、できればPCモードで御覧ください。

【記事作成日:2017/10/15、現地訪問日:2014/7/19、2016/9/3、2016/10/23】

ブログ主はいわゆる酷道マニアの端くれであります。そんなブログ主は昨年(2016年)の夏休みに横浜から北陸回りで福井・岐阜県境の冠山峠を走りに行った際に( 走行記 )、旧根尾村(岐阜県本巣市)から先は国道418号線を走って帰りました。

今さらではありますが、このエントリでは国道418号線を延べ3回に分けて(一部地域を除き)走破した記録をブログに残したいと思います。

1. はじめに:国道418号線について

国道418号線付近の地図( googlemapのデータ )

国道418号線は福井県大野市を起点とし、岐阜県関市や恵那市、長野県売木村や天龍村を経由して長野県の遠山郷(旧:南信濃村、現:飯田市)に至る約240kmの路線です。詳しくは WikiPediaの国道418号の項 を参照ください。

そしてこの国道418号線は、ブログ主のような酷道マニアからは 日本三大酷道の1つ とされており(残りの2つは四国の 国道439号 と紀伊半島の国道425号)、さらには キングオブ酷道 とも評されるような全国最凶(最狂・最恐)の国道としてその名を轟かせています。

この国道418号線が最凶国道として恐れられる理由の1つは、「落ちたら死ぬ区間」と評される断崖絶壁ガードレール無し狭路の 温見峠越えルート (国道157号との重複区間)を含むこと、そして最大の理由は岐阜県八百津町から恵那市(旧飯地村)までの 木曽川沿いの深沢峡の区間が超絶的にイカれているから であります。

この深沢峡付近の道路環境は災害で酷く荒れて(崩れて)いる上に、将来ダムに沈む予定の区間のために補修もされないことから、長らく廃道状態になっています。しかし国道418号の国道指定区間から外れていないことや、通行止めのゲート(警告)を越えて進入することが可能であったことから、ガチの酷道マニアの攻略目標になっていました。

深沢峡のイカれっぷりが判る酷道訪問記サイトや車載動画などは探せばいろいろと出てくると思うので、興味のある方は探してみてください。

参考リンク: 特別企画!酷

[33] 国道418号線を走ってみる・その4 (岐阜県恵那市→長野県平谷村) - きたへふ(Cチーム)のブログ, , http://blog.goo.ne.jp/cars-kitahefu/e/01302cc05e271eb71e38394a31418c0c

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【記事作成日:2017/11/1、現地訪問日:2016/9/3】

このエントリでは国道418号線走行記の その3(八百津町→恵那市) の続きとして、岐阜県恵那市から長野県平谷村に至る区間について記載しています。その他の区間については、下記リンクを参照ください。

・ その1(福井県大野市→岐阜県旧根尾村)

・ その2(旧根尾村樽見→八百津町)

・ その3(八百津町→恵那市)

・ その4(岐阜県恵那市→長野県平谷村) …このページ

・ その5(長野県平谷村→売木村→阿南町)

・ その6(長野県阿南町→天龍村→遠山郷)

1. 恵那市三郷町→旧山岡町→旧岩村町→旧矢作町まで

今回の走行区間の地図 ( google mapのデータ )

この節では、恵那市三郷町から旧恵那郡の山岡町→岩村町→矢作町と移動していきます。ただし恵那市は市町村合併で旧恵那郡を吸収合併した関係で、現在は全て恵那市となっています。つまり市内移動となります。

01-道の駅らっせいみさとを出発します

遅い昼飯を食べてお腹いっぱいの状態で再出発します。(15:30過ぎ)

02-この辺りは快適な快速道でした

空いている幹線道路といった感じでスイスイでした。

03-県道406号との分岐点

旧岩村町(国道257号)方面は左となります。

04-山岡の交差点 (15:40過ぎ)

ここで国道363号と交わる信号の無いT字路交差点に突き当たります。国道418号は左折して旧岩村町方面に向かいます(国道363号との重複区間)。

05-国道363号との重複区間

この辺りは片側1車線・オレンジセンターラインの(ブログ主の感覚的に)「いかにも地方の幹線国道」という感じになっています。

06-稲が実っています

ブログ主の好きな風景です。

07-明知鉄道の電車

この辺りの道路は明知鉄道と併走しています。たまたま(運転本数の少ない)列車と出会えることができてラッキーでした。

08-一色交差点 (15:50頃)

旧岩村町の一色交差点で左右を走る国道257号と合流します。国道418号は右折となります。

09-裏山交差点

先程の一色交差点から先は国道257号・

履歴

[34] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24795567390794964

メモ