旧江戸川

旧江戸川

[1] 江戸川旧江戸川 (きゅうえどがわ)

35.6387740379469 139.873809814453

Webページ

[2] 旧江戸川 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B7%9D

旧江戸川(きゅうえどがわ)は、千葉県と東京都の境界を流れる一級河川。その名の通り、かつての江戸川本流である。

[3] 三番瀬 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%95%AA%E7%80%AC

三番瀬 (さんばんぜ)は、 千葉県 にある 干潟 [1] 。干潟としては 東京湾 奥部最大の面積を誇る。なお、読み方は「さんばん せ 」ではなく、「さんばん ぜ 」が正しいとされる。特に 市川市 行徳 から 浦安市 にかけては 新浜 と呼ばれていた。

地理 [ 編集 ]

現存する三番瀬は、浦安市の埋め立て地の東沖に位置する、 江戸川 (江戸川放水路)の河口付近の干潟および浅海域を指し、 船橋市 、市川市、浦安市、 習志野市 の沿岸に接する。東端には船橋航路や 千葉港 があり、西端には 猫実川 河口や 新浦安駅 付近の 埋立地 が広がる。埋立が進む以前は、より西側の 旧江戸川 河口付近まで干潟や浅海域が広がっていた。

旧江戸川から供給される土砂によって、旧江戸川河口一帯の前置斜面の前浜干潟および浅海域に広く干潟や浅海域が形成され、現在の三番瀬は、その一部が埋め立てを免れて現存している状態である。

江戸川(江戸川放水路)河口の沖合いにある深さ6.5mの市川航路によって中央部で分断されており、東半分を「船橋側」、西半分を「市川側」と呼ぶこともある。東西5700 m 、南北4000mの範囲に広がっており、水深1m未満の面積は約1200 ha 。水深5mまでの海域を含めると面積は約1800haに達する。 千葉県企業庁 によれば、以浅の範囲は陸岸から沖合3~4kmの広い範囲にまで広がっており、海底勾配は1/1000程度と非常に緩やかな勾配で傾斜している。現在、大潮時に干出する面積はそのうち140haであり、かつての干出域が地盤沈下したものと考えられる。

なお、三番瀬の付近には、 谷津干潟 や 行徳湿地 (行徳鳥獣保護区・行徳近郊緑地特別保全地区・市川野鳥の楽園・ 宮内庁 新浜鴨場)などの干潟や水辺などが散在する。

歴史 [ 編集 ]

三番瀬という名前は、沖から離れるごとに高瀬、二番瀬、三番瀬と名付けていったことから始まったとする説 [2] があるが、「三番瀬」という名前が、いつごろつけられたものか、どういう由来によるものかなどは定かではない。

三番瀬周辺の低地において人が居住をはじめた最古の記録は 平安時代 であるとされているが、この地域で大々的に漁業が行われるようになったのは、 徳川家康 が 江戸 に入府し、西国で開発された 網 を使った漁法とともに西から漁民が移り住んできた

[4] 東京にも領土問題 千葉・埼玉との境界が未確定 :日本経済新聞, , http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0500G_V00C13A9000000/

葛西臨海公園から東京ディズニーリゾートを望む。右手にシンデレラ城がちらりと見える。左手の舞浜大橋より下流は境界線が定まっていない

東京都の地図を眺めていたら、隣県との境界線が切れている場所があった。国土地理院に聞いてみると、境界が決まっていない場所だという。実は東京都は千葉県、埼玉県との間で、境界を巡る「紛争地」を抱えている。なぜ境界が定まらないのか。東京都の「領土問題」を追った。

[5] 東京にも領土問題 千葉・埼玉との境界が未確定 :日本経済新聞, , http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0500G_V00C13A9000000/?df=2&dg=1

1970年代後半から80年代前半にかけて、東京ガスのパイプラインを巡って境界が問題となった。どこを境界とするかによって、固定資産税などの税収が変わってくるからだ。

何年も協議したが両者とも持論を譲らない。結局、1983年(昭和58年)、当時の自治相(現・総務相)の裁定で、双方の主張する境界線のちょうど真ん中を暫定的に境界と定めて税収を配分することになった。この暫定措置が、その後30年も続いている。

2010年には羽田空港の拡張で再び境界線問題が浮上した。滑走路そのものは東京都側にあったが、海面下の構造物の一部が千葉県の主張するラインを越えてしまった。このときも行政区域の確定には至らず、双方が確認書を交わしたという。

東京都は「今後も問題が生じた場合は個別に協議して解決する」方針。個別事例で起きた問題は、行政上の境界問題とは切り離すという。千葉県も同様だ。ひとまず行政上の境界は棚上げするという姿勢だが、その都度協議を重ねるより、根本原因である行政上の境界を解決した方が早いのではないか。お互い歩み寄る余地はないのだろうか。

[6] 東京にも領土問題 千葉・埼玉との境界が未確定 :日本経済新聞, , http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0500G_V00C13A9000000/?df=3&dg=1

江戸川区の主張するラインだと江戸川水門の右手にある土地が江戸川区の飛び地になる。市川市は旧江戸川の中心が境界と主張している(国土地理院の電子国土地図、緑のラインが都県境)

江戸川区と隣の千葉県市川市の境界線は、もともと江戸川の真ん中を走っていた。放水路の開削後は旧江戸川に境界が引き継がれたが、水門を造る際、旧江戸川の流れを西寄りに変えたことでそれまでの境界線が陸地上になってしまった。地続きの市川市か、川を挟んだ江戸川区か。この土地の帰属が、いまなおはっきりしていないのだ。

[7] 漁村の名残り「浦安」 (1) 当代島の船溜まり - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/post_385/

東京23区唯一という人工ではない自然の島「妙見島」を訪れたついでに、県境を跨いで浦安駅まで歩く事にした。

浦安橋を跨いで妙見島から対岸にすぐ都県境が現れる。此処から先はもう千葉県なのである。

かつて東京都と千葉県の境にある葛西や浦安といった町は鉄道も通っていない陸の孤島で、そこに住む人々はアサリや海苔などを養殖して生計を立てていた純朴な漁村だった。

戦後の高度経済成長期に入る中で旧江戸川流域で「黒い水事件」(江戸川漁業被害)と呼ばれる工場排水による深刻な環境汚染に見まわれ、その後は東西線開通後に急速に宅地化が進む中で、もはや漁業で生計を建てる事を諦め漁業権が放棄されるように至ってからも、旧江戸川沿いには漁村の名残りをそのまま留めるかのような船着場の風景が続いている。

浦安橋の上から見える旧江戸川沿いには、かつての漁港としてではなく屋形船や釣り船を経営する船宿の船溜まりが延々と続く。

これが東京・大手町駅から快速電車に乗ってたったの15分で見られる光景だなんて、毎朝寿司詰め電車に乗って都心へ通う痛勤千葉都民の皆さんも気づいているのでしょうか。

しかし橋を降りて歩道の階段に入ると途端に不法投棄が目立つ。一瞬異様な光景だ。

我々は捨てられたゴミの中に見てはいけないものを見てしまった。

人糞が落ちているのだ。しかも下痢便。

リアル浦安鉄筋家族である。

「WELCOME TO CHIBA」

ウエルカムとか言いながらとんでもないものに出迎えられてしまった。浦安橋東詰のカオスっぷりに早くもクラクラ。

浦安橋の東側は当代島一丁目になる。ここまで来ると浦安駅にはかなり至近であるものの街の雰囲気はかなり煤けている。人糞が落ちているかと思ったら目の前は打ち捨てられた廃屋。どうにもこうにも荒んでいる。

挙句の果てにはタクシーの運転手へ向けた注意書きが貼られている始末。

「タクシーの運転手の方 立小便 タバコ・ゴミのポイ捨て 通報させてもらいます」

…この殺伐っぷりは一体なんなのだ。

浦安橋を過ぎた後も廃墟になった民家や潰れた韓国系スナックなどなかなか香ばしい物件が散在しておりなんとも言えない気分にさせてくれる。そして、またしても不法投棄が…

県境や市町村境はゴミ捨てのルールが違っている等の理由で不法投棄が多かったりするものだ。

しかし程なくして浦安駅前メト

[9] 浦安市 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E5%AE%89%E5%B8%82

浦安市(うらやすし)は、千葉県北西部にある市。市内に東京ディズニーリゾートがあることで全国的に知られる。また、近年では財政力指数において常に上位に位置し(平成24年度では市として首位[1])、非常に豊かな市としても有名である。東京都特別区部への通勤率は49.5%(平成22年国勢調査)。

地理[編集]

東京湾の最奥部、旧江戸川(江戸時代までは太日川)の河口左岸の低平な自然堤防、三角州および埋立地からなる。市域の約4分の3は1960年代後半以降造成された埋立地が占めており、かつては3kmほど沖まで続く遠浅の海が広がっていた。旧村の集落はいずれも江戸川の派川である境川両岸の自然堤防上に位置する。

自然地形としての山や丘は市内に存在しない。築山としては、中央公園に高さ14mほどの通称「浦安富士」がある。

河川[編集]

旧江戸川(きゅうえどがわ)

境川(さかいがわ) - 今川、江間川(えまっか)とも

堀江川(ほりえがわ)

見明川(みあけがわ)

猫実川(ねこざねがわ)

地域[編集]

近年、東京都心までの通勤時間の短さや便利さや、市内に東京ディズニーリゾートが所在すること、埋立地を中心に計画的に整えられた住環境の良さが注目され、マンション建設が相次いでいる。新町地区のマリナイースト地区の地権者は都市再生機構(旧都市基盤整備公団)などであり、開発計画に基づいた開発が進められている。そのため道路が広く、公園が多いことから緑が豊かである。しかし、市の7割以上を占める埋立地は地盤がかなり弱く(残る地域も程度差はあれ地盤は弱い)、2011年の東北地方太平洋沖地震(震度5強)では液状化現象によって市の防災計画の想定を上回る深刻な被害が生じた。また、海に隣接し、埋立地部分が東京湾にせり出す形態のために風が強く、新町地区の高層マンションでは布団を干すことが禁止されている。

大字[編集]

浦安市には現在19の大字があり、港を除いた18大字で住居表示が行われている(舞浜は二・三丁目のみ)。

元町地区 - 古くからの浦安町域

中町地区 - 第1期埋立地(1962年 - 1975年)

新町地区 - 第2期埋立地(1975年 - 1981年)

現在の浦安市域は昭和中期まで現在市川市の一部となっている旧南行徳町・旧行徳町と一体的に「行徳」と呼ばれていた地域であり、近代以前の当地の歴史についてはこちら及び行徳

[10] 当代島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%93%E4%BB%A3%E5%B3%B6

地理[編集]

元町地区に属する。浦安市最北部に位置し、主に住宅地として利用される。一丁目に浦安橋、二丁目に浦安市消防団第三分団、三丁目に浦安市川病院が置かれている。東は北栄、西は旧江戸川を挟んで東京都江戸川区東葛西、南は猫実、北は市川市新井 ・島尻と接している。一丁目に隣接した北栄に東京メトロ東西線浦安駅が置かれており、利用されている。

地価[編集]

住宅地の地価は、2014年(平成26年)1月1日に公表された公示地価によれば、当代島1-12-19の地点で25万7000円/m2となっている。[1]

歴史[編集]

埋め立て前からの浦安町域内にあたる。

地名の由来[編集]

鎌倉時代に田中十兵衛がここを開墾したことにより、住みついた住民が当代(自分たちが生まれ育った時代)にできた島であるので「当代島」と名付けたと言われている。また、昔ここに灯台があったからという説もある。

沿革[編集]

1869年(明治2年) 葛飾県が設置され、同県の管轄となる。

1871年(明治4年) 廃藩置県後の府県再編により印旛県葛飾郡当代島村となる。

1873年(明治6年) 県の統合により千葉県葛飾郡当代島村となる。

1878年(明治11年) 郡区町村編制法により葛飾郡が分割され、東葛飾郡当代島村となる。

1889年(明治22年) 東葛飾郡堀江村、猫実村と合併し、東葛飾郡浦安村大字当代島となる。

1909年(明治42年)9月1日 町制施行。東葛飾郡浦安町大字当代島となる。

1981年(昭和56年)4月1日 市制施行。浦安市大字当代島となる。

1981年(昭和56年)10月1日 住居表示施行により、浦安市当代島一丁目~三丁目となる。

小・中学校の学区[編集]

市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。

丁目

小学校

中学校

[11] 浦安駅 (千葉県) - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E5%AE%89%E9%A7%85_%28%E5%8D%83%E8%91%89%E7%9C%8C%29

歴史[編集]

1969年(昭和44年)3月29日 - 開業。それまで陸の孤島と呼ばれた東葛飾郡浦安町は、以後急速にベッドタウン化をたどる。開業当時、快速は当駅を通過していた。

1975年(昭和50年)6月 - 平日日中と休日に快速が当駅に停車するようになる。

1981年(昭和56年)4月1日 - 浦安町が市制施行、浦安市となる。

1983年(昭和58年)4月15日 - 浦安市舞浜に東京ディズニーランドが開園。当時は当駅直近にあった浦安バスターミナルから運行される路線バスによる連絡輸送であった。

1986年(昭和61年)3月 - 平日朝ラッシュ時の中野方面行の快速が当駅以西各駅停車となる。

1988年(昭和63年)12月1日 - 東日本旅客鉄道(JR東日本)京葉線の舞浜駅が開業。東京ディズニーランド下車駅としての機能は同駅へ移ることとなった。

1996年(平成8年)3月16日 - 快速全列車が当駅に停車するようになり、東陽町駅 - 西船橋駅間無停車の快速は消滅。同時に当駅以西各駅停車の快速を「通勤快速」として運行開始。

2004年(平成16年)4月1日 - 帝都高速度交通営団(営団地下鉄)民営化に伴って、当駅は東京メトロに継承。

駅構造[編集]

相対式ホーム2面2線を有する高架駅。

快速停車駅であり、平日朝ラッシュ時の中野方面行のみ運行される通勤快速は当駅より各駅に停車する。開業から1975年まで、快速は当駅を含めた東陽町 - 西船橋間の途中駅をすべて通過していた。

駅務管区所在駅であり、浦安駅務管区として浦安地域、東陽町地域、行徳地域を管理する。

のりば[編集]

番線

路線

行先

1

[12] 国道357号 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%81%93357%E5%8F%B7

概要 [ 編集 ]

東京湾岸道路 (とうきょうわんがんどうろ)の一般部( 一般道路 )であり、「湾岸道路」という通称でも呼ばれる。東京都内における 都市計画 事業としての名称は東京 都市計画道路 幹線街路東京湾環状線である。自動車専用部として 東関東自動車道 、 首都高速道路 が並走する。 千葉市 、 川崎市 、 横浜市 と3つの 政令指定都市 を結ぶ。

大半の区間が 東京湾 岸の埋立地を貫く経路上に設定されているため、埋立地間の海上を中心に未開通区間が存在する。全線が1本でつながっていないため、一般国道のみで走破することは不可能である。

東京港臨海道路 の開通に伴い交通量の増大が予想されることから、新木場交差点 - 夢の島交差点間で連続立体工事が行われた [1] 。

路線データ [ 編集 ]

一般国道の路線を指定する政令 [2] [注釈 1] に基づく起終点および経過地は次のとおり。

起点�: 千葉市( 中央区 「村田町」 = 国道16号 交点)

終点�: 神奈川県横須賀市(未開通)

重要な経過地�: 習志野市(秋津三丁目)・船橋市(日の出町)・ 市川市 (千鳥町)・浦安市・ 東京都 江戸川区 (臨海町一丁目)・同都江東区(有明二丁目)・同都 港区 (台場)・同都 品川区 (八潮二丁目)・同都大田区(京浜島二丁目)・川崎市(川崎区)・横浜市(磯子区)

路線延長 �: 81.0 km (実延長65.4 km、現道62.3 km) [3] [注釈 2]

千葉県区間: 17.4 km(実延長17.4 km、現道17.4 km)

千葉市区間: 16.8 km(実延長11.2 km、現道11.2 km)

東京都区間: 25.3 km(実延長22.4 km、現道19.3 km、海上距離5.6 km)

神奈川県区間: 1.2 km(実延長- km、現道- km)

横浜市区間: 14.2 km(実延長11.4 km、現道11.4 km)

川崎市区間: 6.1 km(実延長3.0 km、現道3.0 km)

指定区間

千葉市中央区村田町893番229 - 東京都大田区 羽田空港 三丁目1番

川崎市川崎区浮島町516番1 - 同区浮島町525番

川崎市川崎区東扇島23番1 - 横浜市鶴見区扇島7番1

横浜市鶴見区大黒ふ頭15番155 - 横須賀市夏島町1番1 [4] [注釈 3]

路線

[13] 水路をゆく・第二運河 富岩運河で遊ぶ…9, , http://suiro.blog27.fc2.com/blog-entry-1609.html

(『 富岩運河で遊ぶ…8 』のつづき) ● 中洲ができた原因は、正横を通過したときに一目でわかりました。小河川が運河の東岸に河口を構え、ほぼ直角に流入していたのです。ガイドさんによれば、「がめ川」とのこと。変わった名前ですが、漢字ではどう書くのか、帰宅後に検索してもわかりませんでした。 カワウ君と鴨さんが、船がすぐそばを通過しても、驚くそぶりも見せずおくつろぎの様子。ここから眺めたかぎりでは、少なくとも表面は砂礫っぽく、泥っ気はありませんでした。がめ川も流速が意外と速いのでしょう。 艀船運河としての処理を徹底するなら、流入河川は伏越(アンダーパス)で立体交差させ、神通川に落とすのが理想的ですが、それができない理由があったのでしょう。あるいはここも、運河竣工時は可航河川として利用されていたのかもしれません。 ● 中洲が水面上に顔を出している面積はわずかでも、浅瀬は大きく流路中央を侵食しているようで、「ふがん」は右側の岸に寄せること寄せること、そのギリギリっぷりは相当なもの。ちなみに、赤い桁橋は国道8号線富山高岡バイパスを渡す、富岩運河橋とそのものズバリの名前。神通川の中島大橋につながっているとのこと。 操舵席後ろから前方を見ても、右舷から顔を出して後方を振り返って(下写真)も、接岸せんばかりに寄せていることが、わかるかと思います。 ● ゴロタ石のある水際が間近に迫り、引き波は浅い岸辺の泥を巻き上げるほど。 水面下に杭か、沈置物でもあるのか、小さなブイが揺れているのも不気味でした。船長のご苦労も大変なものと思います。 ● 水深はその後、たたみかけるように浅くなり、ついには0.61mまで! 想像の斜め上をゆく豪快(?)な河床の上がりぶりに、言葉がありません。 たびたび引用している矢野剛「運河論」(昭和10年4月発行)によれば、「朔望平均干潮面以下水深‥‥水閘の下流に於いては五尺八寸」つまり、中島閘門から下の感潮水域でも、平均干潮面から約1.76mの水深を確保する設計だったとのこと。先ほど下流で見た水深と、ほぼ一致することがわかり、また、がめ川の及ぼす影響が、いかに大きいかも理解できます。 これでは現役だった時代も、定期的な浚渫が欠かせないなど、ネックになっていたのではないでしょうか? どのくらい放置するとここまで堆積が進むのか、ちょっと興味を惹かれるものがありますね。 ●

履歴

[32] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933336203

メモ