日原川

日原川

[1] 日原川 (にっぱらがわ)

35.8257613709376 139.076204001904

Webページ

[2] 日原林道, , http://island.geocities.jp/rindou_tansaku/tokyo-top/to-056/to-056.htm

↓日原線では荒れ、ガレもなく、奥へ進むほど山深い山岳ダートの趣が増して

きます。登山者の四輪との遭遇を気にしなければそれなりに楽しめるでしょう。

……こんな感じ……

■奥多摩町の日原川の渓谷に沿って山深く分け入る半ダートのピストン林道で、都道204号線の終点が林道区間の起点となっている。川沿いに付かず離れずで遡っていくコースであるため、急な勾配は見られずに全体的に穏やかさが漂って走りやすい。雰囲気的には明るく、次第に山深く荒々しい山岳ダートの趣が濃くなり、同時に地形的な険しさも増すが、かといって荒れが見られるわけでもないので安心して楽しめる1本だろう。支線林道としては孫惣谷線と大ダワ線が存在するが、残念ながら共に普通に探索できない状態となっている。なお、当林道沿いには登山道入口があるため、ハイカーや登山者の車がしばし通行するので、すれ違いにだけは注意したい。

■JR奥多摩駅前から都204号線を日原川沿いに遡ると、都道区間の終点となった左右に別れる突き当たりにぶつかりますが、そのT字路の右手が「日原鍾乳洞」で、左折側が日原線の入口になっています。路面は一般道となんら変わりない舗装状態ですが、ここには目立つ林道標やら鍾乳洞の案内板が設置されているのですぐにそれと分かるでしょう。

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[3] 道路レポート 第二次 日原古道探索計画 , , http://yamaiga.com/road/nippara2/main4.html

2007/1/23 12:39

蛮勇奮い立たせ突破した一つの斜面が、私とトリ氏を隔てた。

私は大声で彼女に迂回を提案し、この先の、おそらくかなり接近しているだろう“樽沢と日原川の出合い”での合流を申し合わせた。

私の足下には、いまだ微かな足跡があった。

だが、それが我々の目指す古道ではないということもうすうす感じていた。

結局私のこの判断が、トリ氏のオイシイ場面を見逃す原因となってしまったのだが。

つい100mほど手前までは、険しい斜面ながらも、そこに確かな道の痕跡が存在していた。石垣という。

しかし、ここに至るとそのようなものは全く見あたらない。

それでも、本当に微かではあるが人一人分くらいの踏み跡らしきラインが続いている。

それ故に、この道を容易には放棄できなかった。

斜面を下り始めたトリ氏から前方に向き直った私の前には、先ほど駆けた斜面を越える、更に危険な崖が待ち受けていた。

普段ならば、既に引き返していたに違いない悪辣な斜面。

石灰石の岩盤は風化が進み、手を掛ければグラグラ、足を乗せればカリッと剥がれる。

頼りになるのはこんな斜面でも健気に枝を伸ばす細い木々と、足下の微かな踏み跡。

一体こんな所に踏み跡を残したのは何者なのか?

人跡稀な山中に突如現れ、私を誘う一本だけの踏み跡。

その主が必ずしも人であるとは断定できない怖さがある。

たとえばカモシカやの足跡だとしたら、こんな感じで斜面に残っても不思議はないからだ。

12:42

トリ氏と別れてからの数分間、私は後ろを見ることもなくただただ斜面を前進した。

辿るべき道も見失い、ただ斜面に幾らかの歩けそうな場所を見つけては、そこを歩いた。

そして、やがて私は三方が切れ落ちた小さな尾根の上に辿り着いた。

尾根の周囲からは間近に沢の音が聞こえる。

特に東側の斜面の下からは、滝のような大きな音が聞こえた。

地形図を見ると、現在地はすぐに分かった。

もはやこれより先に崖沿いの道を見いだすことは出来なかった。

実際には余り詳細に探すことをしなかったが、もはやまともな道をこの先に期待は出来まい。

古道へ進路を修正すべく、トリ氏もいるだろう日原川の川原への下降を開始した。

下る前に、尾根の東側の縁に張り出した岩場へ行って、その下を覗き込んでみた。

そこには、水量以上に大きな渓声をあげる

[10] 道路レポート 都道204号日原鍾乳洞線 旧道 , , http://yamaiga.com/road/nippara/main.html

後にも先にも、山行が史上最悪の路面崩壊といえば、松の木峠の旧道を置いて他にない。

そう信じてきた私だが、レポート公開以来、読者から「もっと凄い場所がある!」

そんな挑戦状のようなメールが、年に数回以上も届けられるようになった。

中でも、複数の人から繰り返し紹介された場所がある。

東京都奥多摩町の日原川流域に、おそらく松の木峠を越える絶望的な崩落地点が、存在するのだという。

促されるようにして、WEB上で見ることが出来た幾つかの現地レポートを見たが…

皆 撤退していた。

だが。

私は、この崩壊地をモニタ越しに何度か見るうち、

「突破できるのではないか」 「言うほど難しいのだろうか?」

そんな疑問を感じるようになっていた。

確かにその崩壊地の幅は、松の木の比ではないように見えた。

だが… 松の木の時のように、チャリ同伴を強制される訳ではないのだ。

極端な話し、山頂まで高巻することだって、谷底まで迂回することだって出来るのではないか。

年に数回、誰かしからは届く、“日原からの挑戦状”。

遠く秋田にいた私は、それを読むたび、もうもどかしさでどうかなってしまいそうだった。

もし東京で暮らすことがあったら、じっくりと挑戦してみたい。あの松の木の時と同じように… 独りで、思う存分…。

そう願ってきた。

2007年1月5日、私は上京を果たす。

その日より僅か11日目の朝。

挑戦するために 私は独り 家を出た。

問題の大崩壊地は、東京都の西端部を占める奥多摩町の中北部の一角、日原(にっぱら)という場所にある。

自宅からは約50km。電車を乗り継いでいけば簡単に行けそうな近場だ。

旧道を地図に探したが、最新版ではもう描かれていなかった。

手許の古い地図でも見てみると、日原トンネルを迂回するような谷沿いのグネグネ道と一本の短い隧道が、確かに描かれている。

情報によると、その旧道の入口付近に崩壊があり、隧道の内部や裏側へは行くことが出来ないというのだった。

日原上流には関東有数の規模を誇る鍾乳洞があり、渓流釣りや登山に適する場所も豊富で、日原全体が都民の一大レクリエーション場となっている。

反面、一帯の地下には石灰石が膨大に埋蔵されており、昔からの石灰石鉱山地帯でもある。奥多摩町氷川に本拠を置く奥多摩工業は、専用鉄道を日原谷の奥地まで延ばし、今なお盛んに

[20] 道路レポート 旧東京府道242号 日原氷川線 (日原5期道) , , http://yamaiga.com/road/nippara5/main3.html

2007/1/23 15:51

今回紹介する区間は、以前公開した「第二次 日原古道探索計画」の最終回直後に探索した。

これは当初から計画していたわけではなく、この日序盤の日原川右岸探索中に偶然発見し、これをとぼう岩からの帰り道として利用したのだった。

そしてその結果として、この道が日原集落まで都道とは別ルートで繋がっていることを確認。

晴れて昭和の築造でありながら謎に満ちた5期道ルートが、ほぼ完全に解明されたのであった。

現在地は、樽沢が日原川に滝となって落ちる対岸(左岸)。

樽沢を渡る橋があって然るべき地形だが、現存しない。しかし、前後に鮮明な道の痕跡がある。

この付近で、とぼう岩をへつって大正4年に開通した4期道と、昭和6年に開通した5期道とが接続していた。

厳密にどこが接点であったかは分からないが、ともかく5期道の開通によって初めて氷川〜日原間に荷車、自転車、バイクなどが通れるようになったとされる。

上の写真と同地点から、日原川上流を撮影。

写真中央の斜面に、コンクリート製でラーメン構造の橋台が写っている。

当時の日原川では盛んに「鉄砲出し」(川を使って木材を運搬すること)を行っていたために、水面には橋脚を下ろすことが出来なかったのだろう。

ここに、「惣岳吊橋」という名の巨大な吊り橋が架かっていたという。(目測だが、20〜30mの長さ)

同様の橋台は、右岸側にも残っている。

これが、5期道として記録に残るもっとも下流側のものである。

近づいてみると、このようにかなり大きな構造物である。

そして、この辺りは旧都道の数多い崩壊地の直下となっており、膨大な瓦礫が山腹を埋めている。

登ろうとすると音をたてて足元から崩れる状況で、転落云々というよりも単純にアリジゴク的な徒労を感じる。

なかなか登らせて貰えない。

ともかく、汗を掻いて橋台の上に立つ。

登り着いた左岸橋台付近より、とぼう岩方向を振り返って撮影。

禁漁区であるゆえ、また実は奥多摩工業の立入禁止エリアであるため、ほとんど立ち入る者のない谷底。

そこに失われた府道、「日原氷川線」が存在していたという確かな痕跡である。

昭和27年に都道が開通したことで廃道化したと思われるが、航空写真の記録によればその後も橋は存在し、50年代までは架かったままだったようである。

通常吊り橋が自然に落橋

[21] 日原トンネル旧道を歩く, , http://kasetsu.sukimakaze.com/hobby/nippara1.htm

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“鍾乳洞と巨樹の神秘の里・おくたま にっぱら”

日原の観光案内のサイトに出ているスローガンである。

東京都西多摩郡奥多摩町にある集落のひとつ「日原(にっぱら)」は、只でさえ山深い奥多摩町の更に奥地に位置している

人口こそ500人に満たない集落だが、この日原集落のもつ役割は大きい。

第一に、奥多摩の主要な観光地としての役割を持っている。集落の中心から凡そ2kmほど谷の上流へ進んだ所にある「日原鍾乳洞」は、

昔は信仰地として、いまはレジャースポットとして多くの人を集めている。

そして第二に、この附近の山々に多量に含まれている石灰岩の存在だ。

時は戦後、コンクリートの需要は増える一方であった。

そんな時、日原で石灰が採れることが判明。その後あっという間に、日原は一大採取地と化した。

山は削られ、かつて村人たちが崇め畏れていた「とぼう岩」という大岩も、セメントの山となって消えた。

今もなお、日原の山は削られ続け、街ではビルが建設されている。

ここで、日原の交通の沿革を説明したいと思う。

日原の歴史は古く、室町時代頃に「原島家」によって拓かれたという。(余談:現在も日原集落を始めとする奥多摩町には「原島」姓が多い)

だが、原島家が日原にやってきたルートは現在の日原川を遡るルートではなく、北方の秩父より標高1500mを超える山々

(現在長沢背稜と呼ばれる尾根)を越えて、日原へ至るものであった。

では何故多摩川の支流にありながら、多摩川からでなく秩父方面から開拓の手が伸びたのか?

これは私の推測だが、おそらくその理由は、多摩川と日原集落を結ぶ日原川の急峻さにあると思う。

日原川は雲取山を源に発し、奥多摩町の氷川集落で多摩川と合流するまで、ほぼ全ての区間でV字谷を作っている。

なかでも日原付近はとりわけ急峻であり、恐らく何万年もかけて作られたであろうU字谷(両側が断崖)まで存在する。

そのU字谷(この両岸に聳える岩を、人々は「とぼう岩」と呼んだ)を、当時の人々は越える事が出来なかったのであろう。

ともかく、室町時代に日原集落は拓かれた。

やはり山を越え秩父へと向かうルートは遠すぎたのだろう、直ぐに下流の氷川へと向かう道が造られた。

ただやはり「とぼう岩」は超えられな

[24] 日原林道, , http://island.geocities.jp/rindou_tansaku/tokyo-top/to-056/to-056-2.htm

■ま、この舗装区間もショートであったのでいいですけどね。それにしてもこんな短い舗装を虫食いで施す理由はなんだろう? 坂道対策でもあるまいし、いらんですよ、日原線にこんなものは!

■というわけで、虫食いの2連続で短い舗装区間を過ぎて、その後も日原川の谷間の崖伝いにダートは続きます。そして僅かにガタガタとしてきたダートを進むと、その先で工事を知らせる立て看板が出現。まさか、それって舗装工事じゃないだろうな。

■予告看板から100m先の工事区間開始地点です。設置されていた立て看板には「林道整備工事」と記されており、工期は平成24年9月上旬、時間帯は8:00〜18:00までとのことでした。工事の発注元は東京都水道局水源管理事務所。林道の補修なら良いですが、「整備」って、まさか舗装するってことじゃないだろうな。水源林の保護と同時に林道のあるべき姿も保護して欲しいなぁ。

[25] 【奥多摩の絶景!】日原街道で日原鍾乳洞へ(前編) : マッキータウンぶろぐ 〜東京近郊自転車コースガイド〜, , http://blog.livedoor.jp/mackey_town/archives/51989388.html

今回のライドは奥多摩の日原街道で日原鍾乳洞まで行く。 この企画は以前やったんだけど、日原街道は景観が素晴らしく 自分が過去に走ったコースでも指折りのオススメコースなのだ。 だが当時はケータイの写メによるレポなので不完全な内容だ。 今回はその魅力を存分に伝えるために再訪する事にした。 参考までに以前書いたレポ、奥多摩、日原鍾乳洞へ行く(前編) 今回のコース。 奥多摩駅を起点に日原街道(204号)で日原鍾乳洞まで。 距離は約11キロだが全般的に上り基調なコース。 スタート地点の標高が341mでゴールが638m 11キロの距離で約300m上る事になる。平均勾配は2.7%だ。 スタート地点の奥多摩駅。 サクッと書いてるけど、ここまで60キロ近く走ってるんだぞ! 遠いよ。奥多摩('A`|||) 駅から青梅街道に行き、日原街道入口のT字路を右折。 いつも写真を撮ろうと身構えると、そのタイミングで車が通過するのはナゼだろう? のっけから上り基調な日原街道。 街道とは言っても、ご覧のような細い道だ。 巨大な奥多摩工業が見える。 駅のすぐ隣にある奥多摩工業は今回のキーポイントの一つなので なんとなくでいいんで片隅に覚えておいてほしい。 なおも登る。 スタートからしばらくはヒルクライムモードだ。 ただ、ずっと登りが続くわけではないのでご安心を。 以前の水根線廃線遺構めぐりで紹介した線路跡が見える。 その時は高架の下からしか見えなかったが、今回は上から見ることが出来た。 ただ遠すぎて線路が残っているのかいないのか判断できない。 ※【参考画像】 以前紹介したのはこの構図。 何はともあれ、高架の上を見ることができて満足だ。 「日原鍾乳洞まで9キロ」の看板がある。 いつのまにか幹線道路らしい2車線になった。 最初のピークまで上ったので、いったん下る。 序盤は上ったり下ったりを繰り返すイメージ。 この辺りは岩肌が切り立っている。 しかも、かなり特殊な形をしており「岩肌フェチ」なとりさんは萌える。 スタートから約3.4キロ地点に大増鍾乳洞・・・ があるつもりだったんだけど、何と閉鎖されてるじゃないか! 奥のほうにもブルーシート。 帰宅後に調べて分かったんだけど2011年の台風による被害で 大増鍾乳洞は立ち入り禁止になり休業中らしい。 ここは非常に珍しい真っ白な純度の高い鍾乳石を見れることで有名だっ

[27] 道路レポート 奥多摩古道 (氷川〜除ヶ野), , http://yamaiga.com/road/yokeno/main.html

東京都の奥座敷、奥多摩町の中心が氷川(ひかわ)である。

多摩川と日原(にっぱら)川の合流地点に開けたさほど広大でもない緩斜面に町役場、小学校、JR青梅線の終着駅である奥多摩駅、国道411号などの都市機能が集中的に立地している。

そして氷川から日原川に沿って1kmほど北上した山腹に、除ヶ野(よげの)集落がある。

取り立てて何がある場所でもないが、古くから人の住う土地であったことは、この意味ありげな地名にも現れている所だ。

現在、除ヶ野から氷川へは、日原川に架かる北氷川橋渡って行くのが普通であるが、このルートは安寺沢林道が除ヶ野まで開通した昭和50年代から使われるようになったという。これは除ヶ野集落で聞いた話である。

そして古い地形図を見ると、除ヶ野から氷川まで順当に日原川左岸の山腹を緩やかに下って行く道が描かれている。

その表記は「破線」であり、小径の域を出ないものであったと察せられる。

そして再び現在の地形図に戻ると、相も変わらず「破線」が描かれているのである(赤く着色した)。

これが今回採り上げる「奥多摩古道」である。

この名前も特に定まったものではないが、奥多摩地域にある古道の一つという事で、このように呼ぶ事にした。

なお、「今も昔もこの道は破線で描かれている」としたが、より縮尺の大きな地図を見ると、道は断絶している。

次の地図(「プロアトラスSV7」縮尺5000分1)を見ていただきたい。

「奥多摩古道」は、氷川小学校の北側の一角で、途切れている。

そしてその周辺を見ると、様々な形と大きさの建物が密集している。

それは例えば「栃久保」<辺りに見える住宅地とは明らかに異なる様相を示しており、大いに不自然である。

いったいこの場所には、何があるのか?

知っている人は知っている。

人口5600人の山間の町が誇る、お土産物にはならぬ“特産品”が、ここで生み出されている。

かつて国鉄青梅線の御岳以西の区間を作ったのも、この場所を占める者である。

さらに奥多摩駅の貨物取扱高は、その“特産品”が鉄道で輸送されていた当時において、青梅線全体の8割を占めるほどに膨大であった。

それは、何者か?

↓答え↓

[28] 道路レポート 第三次 日原古道探索 江戸道, , http://yamaiga.com/road/nippara3/main2.html

2007/2/21 11:48

前回のレポを公開した後、僅かな時間の間に、多くの読者様よりこんなご意見を頂戴した。

「 行けなさそうに見えるけど…

でも、行ったんでしょ? 」

…ちょっと、悲しかった。 というのは置いておくとしても。

このような反応をご多数頂いたのはひとえに、私が今まで下手な煽り文句を立てた上でも、結局は攻略したと言うことが、ままあったからだと思う。

読者様の期待度が自然高まっているというのは、ある意味光栄なことなのかも知れない。

そう、前向きに考えることにした。

だが、思い出して欲しい。

「山行が」にも、実は幾つもの未到達、未攻略、失敗レポは存在している。

そして、今度もまた、失敗…。

少なくとも、当初計画の通り「この草付き斜面をよじ登ってやろう」などと言うのは、無理だった。

見通しが甘すぎた。

そして今回、実は、この下からのアプローチ以外には特に二次計画を用意してはいなかった。

ここが登れないとなったことにより、正直、江戸道踏破への道筋は早くも絶たれたように思われた。

かっこわるいので、トリ氏にはそうは言わなかったけれど…。

……とりあえず、江戸道のことは忘れて…

前々から気になっていた、“ I 字峡”に接近してみようか。

ここからならば、穏やかな河原が、その狭窄部の入り口まで続いている。

或いは、そのまま峡谷の内部にも入れそうだ。

江戸道は無理としても、せめて、前回のとぼう岩上の4期道から我々の視界を楽しませてくれた、あれやそれやこれぐらいは、間近に見たいものである。

そう、これからここの中へ進むのだ。

もう、江戸道のレポから遠ざかるけどね…。

少し下流へ進むと、河原に散在する巨大な岩に紛れた廃レールを発見。

周りの岩が石灰岩で白っぽいので、レールはよく目立つ。

もう、今更この谷底でレールを見ても驚くことはない。

この谷が削る崖の方々には無数に、レールの敷かれた坑道が存在しているのだから。

そのうちの一ヶ所は前回、この目で確認している。

峡谷へと近づいていくと、その狭き門の左側上方にこの隧道を見上げる事になる。

前回は対岸下方に見下ろすように見えたその坑口は、今度は、かなり高い位置にポツンと見える。

そして、「江戸道に辿り着けないならばせめて」とか内心思っていた私を嘲笑うかのように、この穴も辿り着きようがない

[35] 道路レポート 都道204号日原鍾乳洞線旧道 兎峰橋, , http://yamaiga.com/road/nippara6/main3.html

無残な残骸を晒している兎峰(とぼう)橋。

私がその名を知ることが出来たのは、ある方の助言により、「月刊土木技術」の昭和25年9月号を目にすることが出来たからだ。

そこには「東京都兎峰橋工事報告」という一節があり、その書き出しは次の通り。

本橋は、東京西多摩郡氷川町日原地内多摩川支流、日原川に沿う景勝の地戸望岩の断涯に架かるもので(中略)、倉沢橋と同一路線にして林道開発事業の一環として施工せるものである。

現在「旧都道」と呼ばれている道は、昭和18年に着工した林道で、戦時中の中止をはさんで同25年、この兎峰橋の完成を以て全通した。

当時は対岸の道が都道(戦前は東京府道)に指定されており、路線指定変更の年度は不明だが、おそらく全通後まもなくと思われる。

なぜなら、倉沢橋および兎峰橋の施工をおこない、この「工事報告」を残したのが東京都建設局道路課だからだ。

しかしともかく、当初は林道という名目で建設されていたのは事実である。

それでは今回はこの「工事報告」をベースにして、兎峰橋の在りし日の姿を振り返ってみようと思う。

残念ながら架設後の写真は見あたらなかったが、工場制作時に仮組立をした時の写真があった。

それが右の写真である。

やはり橋の形式は「上路トラスドアーチ」で、このうち手前側の半分ほどが残骸を晒している。

奥の半分はどうなってしまったのか…、おそらく地中にバラバラになって眠っているのだろうが、はっきりしたことは分からない。

←これも同じく仮組立中の写真で、人物が写っているので大きさの比較が出来るだろう。

現地でひしゃげた残骸を見ても、かなり大きな橋だとは思ったが、それでも全体の半分以下しか見ていなかったことになる。

今回この資料によって竣功年が昭和25年であったことも明らかとなったが、戦後間もない鉄不足の時期でありながら、敢えて永久橋である鉄橋を選んだところに、日原開発への強い意欲と期待が感じられるのである。

もっとも、当時想定されていたのはあくまでも林業開発のみであり、昭和20年に採掘が開始されていた氷川鉱山の鉱石運搬や、日原地区での観光客増などは全く考慮していなかった。

本橋としては日原地区の林産物搬出用のトラックの交通以外将来に於いても交通量の増加なきものと思われ、今後此の地区の発展は殆ど考えられない処である

確かに当時としては、氷川鉱山の鉱

[37] 奥多摩駅 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%A4%9A%E6%91%A9%E9%A7%85

奥多摩駅(おくたまえき)は、東京都西多摩郡奥多摩町氷川にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)青梅線の駅である。

青梅線の終着駅で、東京都内でもっとも西に所在する。標高は東京タワー(海抜高351m)よりも8メートル低い343mで、東京都内にあるJRの駅の中でもっとも高い。

歴史[編集]

1944年(昭和19年)7月1日 - 運輸通信省(→運輸省→日本国有鉄道)青梅線 御嶽 - 当駅間開通と同時に氷川駅(ひかわえき)として開業。一般駅。

1952年(昭和27年)12月16日 - 東京都水道局小河内線(専用鉄道)が開通。小河内貯水池の建設資材運搬用の専用鉄道。

1957年(昭和32年)5月10日 - 東京都水道局小河内線、ダム建設竣工が間近となり、運行休止。

路線は休止後も撤去されていない。所有者は1960年代頃に西武鉄道、その後1970年代以降に奥多摩工業に移っている。

1971年(昭和46年)2月1日 - 奥多摩駅に改称。

1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により東日本旅客鉄道・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅となる。

1997年(平成9年) - 「関東の駅百選」に選定。選定理由は「自然豊かな奥多摩に似合っているロッジ風の山小屋駅」。

1998年(平成10年)8月13日[1] - 貨物列車の最終運行日。

奥多摩工業の石灰石積込設備へ専用線が続き、石灰石の輸送を行っていた。最終期の行先は、浜川崎駅にあるセメント工場であった。

1999年(平成11年)3月25日 - JR貨物の駅(貨物営業)が廃止。

2002年(平成14年)2月8日 - ICカードSuica供用開始。

2006年(平成18年)4月21日 - 奥多摩ステーションギャラリーがオープン。電車発車時の合図が発車ベルから、童謡『どんぐりころころ』の発車メロディに変更される。

駅構造[編集]

島式ホーム1面2線を有する地上駅。ホームは1番線と2番線がある。2番線の有効長は6両編成が入線可能であるが、電車とホームの隙間が大きく開く箇所があるため、平日は朝の1本のみ、土休日は「ホリデー快速おくたま」号(6両編成)と普通電車の数本、臨時列車のみが使用している。かつては2番線の奥に貨物ヤードがあり、隣接する奥多摩工業の工場から川崎方面に向かって石灰石を発送していた。また、過去には東京都水道局小河内線(現・奥多摩工

[38] 旧日原トンネル@東京都西多摩郡奥多摩町|あれ!それ!これ!, , http://ameblo.jp/bashi-heppoko/entry-11749041831.html

とても都内とは思えない奥多摩町に、東京都道204号 日原鍾乳洞線という都道があります。そこには日原トンネルという長さ1107メートルのトンネルがあります。そして旧道と旧々道があり、そこに旧日原トンネルもあります。 まずは東(氷川)側の坑門前から、こちら側はほとんど関係ないので、ストリートビューから転載です。 坑門前で二手に道は分かれますが、左に分かれる方が旧道になります。しかしすぐに守衛所があり通り抜けることができません。ここは、奥多摩工業氷川石灰石鉱山なので、当然立ち入り禁止です。ってか入って発破にでも遭えば・・・解りますね。 では現道のトンネルを通って西(日原)側へ。その前にトンネル動画を(進行方向逆ですが)。 http://youtu.be/oLb9gEq82d8

っで日原側に到着。見えているのは登竜橋。 橋の上からの写真・・・ブレていて見難いですが旧道の跡が。 望遠で見てみると・・・道路標識? 西側の坑門のすぐ前に旧道に入る場所があります。 アスファルト敷きですが、道幅が1.5車線ほどです。此処を大型観光バスが通っていたのですね。 トンネル内カーブ注意の喚起の標識・・・んっ? 何か向こう側が大変なことになってますが・・・ とりあえず先に進むと坑門が。 少し近づいてみると・・・当たり前ですが厳重に封鎖されています。 封鎖ネットには注意の看板。 ちょっと字が薄いですが、どうやら発破に関する看板。はいっ!石灰石と一緒に粉々になりたくありません。 これより先(トンネル)は鉱山施設ですから立入禁止とのこと。逆に言えば、ここまでは東京都の土地ということか? 坑門前はすれ違いの為に広くなってますね。 金網越しに中を。思いつきでここに来たので、懐中電灯を持っていませんでした。とりあえずは風が通っているので貫通してますね。 坑門横には旧々道が続いています。っが、この先はさっきの写真の大崩落地帯! しかも日原川まで崩落しています。発破・大崩落・不法侵入等を冒してまで進む場所ではないでしょう。 私はここにて撤退します。ってか雪は降っている、すんげ~寒いしで、さっさと車に戻りたかったっす。 ちなみにこのあたりの崖の高さは50メートルぐらいかな。落ちたら死ぬな。 どうしても、自分の足でトンネルの先を知りたいって人は自己責任で! 私は絶対にお勧めしませんし、当ブログ及び私

[39] 日原街道脇崖下女性死体損壊・遺棄事件 :警視庁, , http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/jiken/sokuhou/s150311.htm

西多摩郡奥多摩町の日原川沿いにおいて

右手首・左手首・左足首〜3月11日

右前腕部 〜3月12日

がバラバラの状態で発見されるという事件が発生しました。

日原橋

日原橋

樽沢

樽沢

惣岳橋

惣岳橋

履歴

[50] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054529690908

メモ