日原トンネル

日原トンネル

[1] 東京都道204号日原鍾乳洞線日原トンネル

Webページ

[2] 日原トンネル, , http://www.youtube.com/watch?v=oLb9gEq82d8

日原鍾乳洞に行くには必ず通るトンネル

[3] 2012 11 14 日原街道 日原トンネルから日原鍾乳洞, , http://www.youtube.com/watch?v=xl-CG5Fdf8Y
[4] 道路レポート 都道204号日原鍾乳洞線 旧道 , , http://yamaiga.com/road/nippara/main2.html

11:43

日原トンネルはまさに日原地区の生命線。日原と外界を繋ぐ戸口のようである。

トンネルを出るとそこは東日原。

日原集落まではもう500m。

だが、日原トンネルの旧道へはここで方向転換。

旧道の入口は、日原トンネルを出た、まさにこの場所にある。

写真は、日原トンネルを出るとすぐに渡る登竜橋から日原側を写しているが、橋の向こうの左側に、崖に向かって出っ張っているガードレールが見える。

そこが、新旧道の分岐点であった。また道路を挟んで反対側、向かって右には旧々道が分岐している。

待避所として使うには邪魔な位置にカーブミラーが立つ登竜橋袂の余地。

今来た方向を振り返る。

ここからは、旧道が山肌に残した創痕を鮮明に見ることが出来る。

険しい岩場。

この奧に、あの松の木峠旧道をも凌ぐという大崩壊地が潜むのか…。

※画像にカーソルを合わせると旧道を表示します。

ここで、日原トンネルの旧道について重要な情報がある。

旧道といっても、実は2世代分存在しているのだ。旧々道と旧道だ。

このうち、旧道には現道に較べれば短いものの隧道があった。それは古い地図にも描かれている。

そして、旧道は旧々道を概ね踏襲しているが、トンネルや橋の部分に違いがある。

現道の日原トンネルは昭和54年の竣功であったから、それ以前に使われていただろう旧道。

その日原側の入口となる橋は、現道の開通後早々に落とされたらしい。

橋の直下には氷川鉱山の坑道の一つが口を開けており、谷底にはトロッコが放置されているのが見えた。そして、レールも。

だが、いま目指すべきは谷底ではない。この旧道の行く手だ。

日原トンネルを迂回する旧道は、全長2km。反対側は現役の氷川鉱山の敷地や採石場となっており、どこまで辿れるのかは「不明」である。

「不明」と言ったのは、その端まで辿ったというレポートがないためだ。

大崩落地があるために…。

写真右側には、山肌に続く旧道の痕跡がくっきりと見えているが、

あそこまででさえ 行けない らしい。

ここから見る限り、道はしっかりしているし、それほどの障害はありそうもないのだが…。

一方、登竜橋の脇に残る旧々道敷き。そして、背後の古い砕石場跡。

あの高い岩場は自然の露頭ではない。ダイナマイトで爆砕された採石場の跡地なのだ。

旧々道はその麓をカーブして進み、日

[10] 日原トンネル旧道を歩く, , http://kasetsu.sukimakaze.com/hobby/nippara2.htm

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前回は、旧都道開通以前の道(部分)を紹介した。

今回からは、前回の訪問から1年後の2009年3月に、お馴染みスイッピ氏と共に訪れたときのことをレポートしていく。

スイッピ氏はこの探索の1週間後にはブログにてレポートを公開されていたのに対し、私ときたら公開まで4ヶ月以上開いてしまった。

いよいよ旧都道のレポート…と行きたいところだが、もう一つだけ読者様に見ていただきたいものがある。

今回は、この赤い円の範囲内をレポートしたいと思う。

ここは(現)日原トンネルの西側坑口附近である。

左の橋は「登竜橋」といい、現道はそのまま長さ凡そ1100mの日原トンネルの中へと続いている。

さて、写真の右側奥に青い道路標識が見て取れるだろう。

その道路標識が旧道のものであるのは、云うまでもない。

トンネルと旧道の分岐というものは、トンネルの坑口のごく近くにあるのが一般的なのだが(峠道などは除く)、

この日原トンネル新旧道分岐地点は、この写真を撮っている所なのである

とはいっても錆びた道路標識の方向には道は無く、数十メートルの虚空がただ続いている。

そしてその数十メートルの隔たりを経て、さらに奥へと道が続いている。

実は、嘗てはこの隔たりに橋(旧・登竜橋)が架かっていたのである。

この路肩の不自然な出っ張りは、嘗ての旧登竜橋の橋台だったのだ。

恐らく現日原トンネルを掘るに当たり、旧登竜橋の向きではルート設定に差支えがあったことから、

真っ直ぐ山に向かって新橋を作り、旧道へと向かう旧橋は落とされたのであろう。

橋が消えてしまったから、旧道へのアプローチは出来ないのだろうか?

そんなことは無く、ここにはこの旧登竜橋が出来る「さらに前の時代の道」が存在するのだ。

その道はこの写真の地点から左に分かれ、素直に山をトラバースし、トンネルの直前で現道と交差して

そこから旧道へと向かっているのである。この旧旧道のお陰で我々は旧道に進むことが出来るのだ。

さて、「路肩の不自然な出っ張り」を良く見ると、これまた古い手すりが存在する。

はてさてこの階段、一体何処に続いているのだろう…。

明らかに低い手すりと急傾斜の階段に、足を踏み外せば軽症では済まないなと思いつつ、我々は階段を降り始めた。

[15] 日原街道 : メカAG, , http://mechag.asks.jp/368219.html

子供の頃、学校の遠足か何かで日原鍾乳洞に行った。よく覚えていないが夏休みにクラブの有志で行ったこともあったような。合計3回ぐらい行っている気がする。 小さいころの記憶ではバスがカーブをすごい角度で曲がって走っていったのが印象的だった。窓の外はすぐに谷底で、遠心力なのかカーブの傾斜なのか、とにかく曲がるたびにみんなでキャーキャー騒いでいた。 ところが最後に行った時は、それほどでもなかった。まあその頃はかなり成長していたから、ちょっとぐらいのことでは動じなくなっていたのかな、とずっと思っていたが、ふと地図を見ていると日原街道には新道と旧道がある。新道の日原トンネルの開通は昭和54年(1979年)らしい。 * * * ひょっとして新道ができたためにカーブが減り、怖さが減ったのだろうか。最後に行った時期がいつなのかよく覚えていないが、日原トンネル開通の前後の微妙な時期のような気がする。 そもそも現在の日原トンネルが作られたのは、山の斜面で大崩落が起こり旧道が埋まってしまったためらしい。昭和47年(1972年)のことらしい。でもじゃあ昭和47年から昭和54年までの7年間はどうしてたのだろう?崩落した場所は現在もそのままになっている。 少なくとも昭和47年から昭和54年の間のどこかで俺はバスにのって日原鍾乳洞に行ったはず。新道の開通が昭和54年なら旧道を通って行ったはずなのだが…。旧道の大崩落が昭和47年というのが違うのだろうか?それとも昭和47年に大崩落が起きた後も一度旧道は復旧し、現在埋まっているのはさらにその後にまた崩落が起きて現在の姿になっているのだろうか。わからん…。 Webを検索しても大崩落現場の探検レポートとかは色々ヒットするのだが、日原トンネル開通前後の経緯が見つからないのだよね…。 * * * 検索してて見つけたすごく面白いサイト。 道路レポート 都道204号日原鍾乳洞線 旧道 http://yamaiga.com/road/nippara/main.html 道路レポート 都道204号日原鍾乳洞線旧道 兎峰橋 http://yamaiga.com/road/nippara6/main.html いや~見てると時間がたつのを忘れる。特にこれなどは東京都の道とは思えん。 道路レポート 日原古道探索計画 ht

[16] 【奥多摩の絶景!】日原街道で日原鍾乳洞へ(後編) : マッキータウンぶろぐ 〜東京近郊自転車コースガイド〜, , http://blog.livedoor.jp/mackey_town/archives/51989818.html

前回の続き 日原街道で日原鍾乳洞を目指しているとりさんとブルバちゃん。 景観の素晴らしく、見所の多い日原街道もいよいよ後半戦。 倉沢橋を渡ると道が分岐するので、案内看板に従い左折する。 ちなみに右折すると林道倉沢線だ。 記憶が定かではないが、かつてこの道はゲートで封鎖されていたような気がする。 せっかくなんで、ちょっとだけ寄り道していこう。 最初のカーブを曲がると勾配が増し完全に林道モード。 この先がどうなっているか気になるところだが 今回の目的からは逸れてしまうので元の道に戻ることにしよう。 倉沢橋で左折してしばし行くと「倉沢のヒノキ」の入口がある。 (早い方で)徒歩15分ほど登山道を行くと 東京都の特別天然記念物の倉沢のヒノキがある。 樹齢は600年とも1000年とも言われている。 いつかは見に行ってみたいものだ。 日原街道をさらに進むと採石場が目前に迫ってきた。 毎日トロッコで大量に輸送しても、こんだけあればなくならないハズだ(笑) 幹線道路とは思えない細い道を緩やかに上っていく。 そういえば、さっきから右側がずっと崖なんだよね。 冷静に考えるとよくこんな場所に道路を作ったもんだよ。 7キロ地点に日原トンネルがある。 ちなみにここを左折すると、採石場の入口なわけだが 無論、関係者以外は立ち入り禁止となっている。 日原トンネルは1107mと非常に長いトンネルだ。 しかも内部は、結構な上り勾配続きになっている。 スピードを出して一気に駆け抜けるのが難しいので歩道を行くのが安全だと思う。 帰りは下りなので試しに車道側を行ってみたんだけど ペダルを踏まなくても、たちまち40km/h近くになるほどの勾配だった。 しかも、路面が荒れ気味でバンプが激しく非常に怖い思いをした。 安全のためには、帰りも歩道をブレーキで制御しながら行くのが正解かと。 進んでも進んでも出口が見えてこない。 前述の通り、上り坂によりスピードも出ないので、なおの事長く感じる。 元々、交通量が少ないエリアなので静か過ぎて恐怖すら感じる。 基本的に、トンネルとか苦手なんだよなぁ('A`|||) ようやく出口が見えた。 体感的には1キロの長さよりもはるかに長い気がした。 トンネルを出てすぐの所に脇道がある。 (自称)ポタの達人のとりさんは再び寄り道をしていく。 未舗装のダート区間を抜けると舗装路が現れる。

[19] 道路レポート 第三次 日原古道探索 江戸道, , http://yamaiga.com/road/nippara3/main1.html

2007/2/21 10:15 【現在地】

今回も日和は快晴。

前回と同じ日原集落内の無料駐車場を出発した私とトリ氏は、途中多少の寄り道をしながらも都道に沿って歩き、午前10時過ぎには日原トンネルの入り口付近に着いた。

ここから、日原探索の最初の舞台となった旧都道を歩き、その採石場に削り取られた突端まで進む。

左の写真は、日原トンネル前の新旧同分岐地点100m手前から、旧道が沈む大崩崖を望む。

ちなみに、前回は右の谷底対岸を苦労して歩いた。

また、右の写真はほぼ同じ地点から大崩崖上部を望遠で撮影したもので、その斜面の途轍もない規模が分かるだろう。

ここへも来るのも約一ヶ月ぶり。

最初の遭遇時には、まさかこんなに何度も足を運ぶことになるだなんて、全く思ってなかった。

そして、この旧日原隧道は施錠されており通れないので、例によってこの坑口前から右に分かれる旧旧道へ進入。

この辺りは最初の探索と同じコースである。

違いと言えば、今回はトリ氏を伴っている事くらいだが、まあ大崩崖にはルートを見付けてあるし、彼女なら大丈夫だろう。

スタスタスタスタ。

斜面が大好きなトリ氏を先頭にして、大崩崖を横断中。

彼女は放っておいても踏跡を見付けてくれたので、私もそれに着いていくだけ。

下を見ると相変わらず恐いのだが、何度も渡っているうちに慣れてきたのも事実。

ただ、楽勝かと言えばそうでもないし、いつ上から石が落ちてくるかは分からないので、速やかに通り過ぎるが吉。

え?

あんまりにも最初のレポの時と違うんじゃないかって?

……最初はこの踏跡が見付けられなかったもので…。

それに、今回の盛り上がり処はまだこんな所ではないわけでして…。

私称 「伝説の100メートル」。

確かにここは凄いところだ。

前回のとぼう岩の上の道も凄かったが、この道はまた別の凄さがある。

明らかにそれが都道だったと分かる、自動車道だったと分かる、それが廃道になっているというカタルシスは、この「伝説の100メートル」に勝る場所はないであろう。

ここは、日原の廃道の中でも一番か二番に好きな場所だ。

今回は気持ちに余裕があったので、トリ氏と一緒にかなりたくさん写真を撮ったりしたのだが、

レポは江戸道へ急ごう。

前回はここまでレポするのに6話も使ってしまいごめんなさい(笑)。

でも、今回は

[20] 道路レポート 第二次 日原古道探索計画 , , http://yamaiga.com/road/nippara2/main2.html

2007/1/23 11:24 【現在地】

日原古道から「とぼう岩」へ挑戦する試みの、重要な道程である旧日原橋。

江戸時代に書かれた『新編武蔵風土記稿 巻之百十五』日原村の項では、本橋を指して「長さ八間幅三尺、日原村へゆく橋なり、板にて作れり」とある。

当時の橋は、渡した丸太の上に板を敷いただけの板橋だったのだろう。長さ約15m幅90cmほど。

既に街道としての役目を終えた今日でも橋が原型を止めていたのは思わぬ収穫であった。が、これを渡って先へ行くとなれば話は別だ。

最近この橋を渡ったという話を私は聞いたことがなかったので、なおさら渡れるのかという疑念を払拭できなかった。

橋の下の川の流れは徒渉出来ないほどではない。

いままで、幾つもの廃橋を渡ってきたが、こいつはちょっと得体が知れない。

その理由は明らかに、この工事用足場のような鉄板にある。

これではまるで、伝説上の怪物、フランケンシュタイン…。

死肉のような朽ち木の橋に金属を組み合わせ、一応はそれらしい形になっているのだが……。

もしこの足場がなければ「渡れない」と即決しただろう朽ちっぷりなのだ…。

ここはトリ氏も明らかに躊躇している…。

結局、万が一のことがあっても死ぬほどの高さではないということに力を得て、フランケンブリッジに挑戦することになった。

もちろん渡るのは一人ずつだ。

足場の板は肩幅ほどしかなく、手摺りとなるべきワイヤーもぎりぎりまで細い。

今のこの橋を渡らしめる物はワイヤーから直接につり下げられた金属足場であって、本来の木製の渡り板はただの負荷でしかない。

ご覧の通りその一部はワイヤーから外れ、後はもう落下の時を待つだけになっている。

そして、その為に橋全体のバランスが横へずれており、足場が左に5度くらい傾斜している。

かるく霜が降りたような冷たい鉄板は、如何にも滑りそうで恐ろしさを倍増させた。

橋の上からは、幅広になった日原川を見渡せる。

この辺りはかつて、山で伐った木材を川に流して輸送する「管流し」を行うために「鉄砲出し」をした場所だという。

鉄砲出しとは、川に一時的な堰を(多くは木材で)作り、堰を壊したときに予め河原に置いた材木を激流で押し流す事。

東北ではこの管流し(鉄砲出し)を林鉄が代替するようになったが、ここ日原では車道が建設されるまで行われてきた

[21] 道路レポート 旧東京府道242号 日原氷川線 (日原5期道) , , http://yamaiga.com/road/nippara5/main2.html

2007/2/21 9:32

都道のすぐ下に隠されていた、途切れ途切れの日原5期道。

日原側から侵入し150mほど進んだ地点で、思いがけぬ障害物に遭遇。

わずか1.8mという路幅を塞ぐだけでは飽きたらず、足りない分の土地は空中に無理矢理求めて建てられた3棟の家屋。

いずれも著しく荒廃していたが、我々はこの廃墟群を、文字通り“突破”せねばならなかった。

そして辿り着いた、一原桟道下。

が、スズメバチのものらしい蜂の巣がたわわに実っており、ここでも足は止められない。

そのまま、一原へ向けての後半戦へ突入した。

プレハブ廃墟を後に、都道下の荒廃した5期道を東へ進む。

石灰質の大岩盤から荒削りに削りだしたような5期道は、すぐ上に都道を作ったときに無造作に崩土を落としたものか、至る所で埋没し斜面と化していた。

日原の崖というのは、独特だ。

通常、これだけの傾斜で、しかもこの“裸”ぶりならば(手掛かりになるような植物が少ない)、まず横断は出来ない。

だが、日原の斜面は余りに風化が進んでいるせいか、急斜面でも乾いた土のようなクッション層が存在する。

これがあるお陰で、足がズボズボと埋まるような感じになり、普段なら恐ろしくて横断できないような場所でも意外に渡れてしまう。

自分が山歩きの超人にでもなったのではないかと、そう錯覚するほどである。

ほとんど道の痕跡らしいものはないので、単純に斜面を水平に横断することを心がけた。

そして小さな尾根を巻くと、視界が一気に開けた。

相変わらず、そこに5期道の続きは見えない。

見えないのだが、なぜかまたしても家が、ポツンと一棟…。

伝説の高山都市マチュピチュの日本版があったら、こんな景色だろうか。

いくら平坦な土地が少ないからといって、なぜ敢えてこの崖に家を建てる必要があったのか。

どう見ても、見間違えではない。

そこには確かに、青いプレハブ屋根の家が一軒建っている。

都道の真下、おそらく5期道のあっただろう延長線上に。

見れば見るほど、凄い家である。

残念ながら既に廃屋のようだが、さほど崩れている様子もない。

堅牢そうなコンクリートの大きな土台の上に乗せられているせいだろうか。

しかし、家人はどうやってこの家と外界を行き来したのだろうか。

強引に斜面を歩いてこの5期道か、或いは上の都道に出ていたのか

[22] 道路整備 日原鍾乳洞線, , http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/nishiken/kouji1-ka/sekkei/nippara.htm

奥多摩の代表的な観光スポットである日原鍾乳洞へ通じる観光道路であるとともに、沿道住民の生活を守る唯一の道路でもあります。

瀬波橋から日原鍾乳洞までの区間は、小型車の交互通行ができないほど幅員が狭く、見通しの悪いカーブが続くため、週末や行楽シーズンには、対向車との交通が滞ることが多々生じています。

急峻な斜面に張り付くような道路であることから、道路を拡幅するためには大規模な土木工事を行わなければならず、全線(日原トンネルを除く約8キロメートル)にわたって拡幅整備を行うには膨大な費用と長い年月が必要になります。

そこで、奥多摩町からのご要望、現地の地形条件等を踏まえて、安全な交通を確保する上で効果的な箇所を選定し、待避所の整備を行っています。

一時期事業が中断することもありましたが、これまでに13箇所の待避所を設置し、今後更に2箇所の設置を予定しています。

[23] 旧日原トンネル@東京都西多摩郡奥多摩町|あれ!それ!これ!, , http://ameblo.jp/bashi-heppoko/entry-11749041831.html

とても都内とは思えない奥多摩町に、東京都道204号 日原鍾乳洞線という都道があります。そこには日原トンネルという長さ1107メートルのトンネルがあります。そして旧道と旧々道があり、そこに旧日原トンネルもあります。 まずは東(氷川)側の坑門前から、こちら側はほとんど関係ないので、ストリートビューから転載です。 坑門前で二手に道は分かれますが、左に分かれる方が旧道になります。しかしすぐに守衛所があり通り抜けることができません。ここは、奥多摩工業氷川石灰石鉱山なので、当然立ち入り禁止です。ってか入って発破にでも遭えば・・・解りますね。 では現道のトンネルを通って西(日原)側へ。その前にトンネル動画を(進行方向逆ですが)。 http://youtu.be/oLb9gEq82d8

っで日原側に到着。見えているのは登竜橋。 橋の上からの写真・・・ブレていて見難いですが旧道の跡が。 望遠で見てみると・・・道路標識? 西側の坑門のすぐ前に旧道に入る場所があります。 アスファルト敷きですが、道幅が1.5車線ほどです。此処を大型観光バスが通っていたのですね。 トンネル内カーブ注意の喚起の標識・・・んっ? 何か向こう側が大変なことになってますが・・・ とりあえず先に進むと坑門が。 少し近づいてみると・・・当たり前ですが厳重に封鎖されています。 封鎖ネットには注意の看板。 ちょっと字が薄いですが、どうやら発破に関する看板。はいっ!石灰石と一緒に粉々になりたくありません。 これより先(トンネル)は鉱山施設ですから立入禁止とのこと。逆に言えば、ここまでは東京都の土地ということか? 坑門前はすれ違いの為に広くなってますね。 金網越しに中を。思いつきでここに来たので、懐中電灯を持っていませんでした。とりあえずは風が通っているので貫通してますね。 坑門横には旧々道が続いています。っが、この先はさっきの写真の大崩落地帯! しかも日原川まで崩落しています。発破・大崩落・不法侵入等を冒してまで進む場所ではないでしょう。 私はここにて撤退します。ってか雪は降っている、すんげ~寒いしで、さっさと車に戻りたかったっす。 ちなみにこのあたりの崖の高さは50メートルぐらいかな。落ちたら死ぬな。 どうしても、自分の足でトンネルの先を知りたいって人は自己責任で! 私は絶対にお勧めしませんし、当ブログ及び私

[24] 廃道探索 奥多摩日原旧道大崩壊(歩鉄の達人), , http://www.hotetu.net/zuidouhaidou/090214nituparadaihoukai.html

東日原行きのバスは運転手と車掌が乗っている。非効率だが、見通しのきかない場所のチェックや落石をどかす為に乗車しているようだ。実際に帰りのバスで落石があり、車掌がどかしていた。

[25] 日原街道脇崖下女性死体損壊・遺棄事件 :警視庁, , http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/jiken/sokuhou/s150311.htm

西多摩郡奥多摩町の日原川沿いにおいて

右手首・左手首・左足首〜3月11日

右前腕部 〜3月12日

がバラバラの状態で発見されるという事件が発生しました。

[26] 道路レポート 都道204号日原鍾乳洞線旧道 兎峰橋, , http://yamaiga.com/road/nippara6/main2.html

前回明らかにした事実というのは、右の図における旧道の「A」〜「B」の区間が、上の写真のような風景であるということだ。

その一部は一応、地形的に残存はしているが、「A」地点寄りのおおよそ150mは完全に消滅(上図の破線部分)している。

かつて路盤があったはずの位置が、確実に空中になっている以上、道の消滅を疑う余地はない。

ということで今回のテーマは…、

【完全消失区間の痕跡を求めて!】

…とはいいつつも、本当に現地に何一つ痕跡が無いならば、行っても仕方がないかも知れない。

実は前回も少し触れたとおり、この位置にあった道の“残骸”が現存している可能性を感じていた。

次の地図を見て貰いたい。

これは、「山行が」で取り上げる古地形図としてはだいぶ新しい、昭和55年修正版の5万分の1地形図「秩父」より、とぼう岩付近である。

そこには開通したばかりの現道(「日原隧道」の表記アリ)が描かれているが、同時に旧道もまだ描かれている。

そして旧道とその前後の道を追っていくと、3本の橋が描かれている。

西にある登竜橋は、今では橋台しか残っていない。

一方で東の倉沢橋は、昭和34年に建設された全長58m、高さ61mのワーレントラス橋で、現地にある案内板によると東京都が管理する都道橋のなかでは最も高いという。これは今も現役だ。

そして旧道の中間付近にも橋がある。

それはちょうど現在地点のすぐ東側で、まさに道が消失している領域内である。

重要なのはここからだ。

はい、現地の景色に戻ってきました。

前回も眺めた末端です。

矢印の所に、何か見えませんか?

赤茶けた鉄骨の塊のような物が。

相当に大きな。

履歴

[30] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054529641085

メモ