日原

日原

[1] 日原

Webページ

[2] , , http://www.nippara.com/nippara/osirase/osirase2.html

鍾乳洞駐車場について (通行止め位置図)

日原鍾乳洞は営業しています。

お問い合わせ0428-83-8491まで

現在鍾乳洞入口先の都道が落石により全面通行止め(歩行者含む)となっています。(解除未定)その影響により、その先にある駐車場が現在使用できませんので、駐車場の数が限られています。混雑時(シーズンの土日、ゴールデンウィーク、8月の旧盆休み)には、駐車待ち(1時間〜3時間以上)等で、大渋滞となっています。皆様には大変ご不便ご迷惑をおかけすることがありますが、ご承知おき頂きたくお願い申し上げます。また臨時駐車場等は鍾乳洞まで2キロのところにありますが、そこも数が限られています。また2キロ歩いていただくことになります。

また、鍾乳洞の上部にある広河原(河原にて遊べる場所)についても通行止めのためいけません、またこの先の登山道へも行くことができません。

皆様に、ご不便ご迷惑をおかけしますことお詫び申し上げます。

夏休み期間と4月~10月の土日祝日は、鍾乳洞駐車場が満車となり大渋滞となっています。駐車待ちに時間がかなりかかっています(1時間〜3時間以上)。平日や、午前中の10時ぐらいまでが比較的すいています。

平成24年12月27日(木)現在

※日原鍾乳洞入口先より0.4km通行止め(解除未定)

日原鍾乳洞営業中

○東京都の情報

一般都道204号(日原鍾乳洞線)(日原街道) 通行止め

○西東京バス 平常運行(通行止めの影響はありません)

平成24年7月3日(火) 12:00現在

※本日正午より通行止めが解除になり、一般車の通行ができることになりました。よって、明日4日より各施設の営業を再開いたします。

○都道が通行止めのため日原の観光施設は休業しております。

○日原鍾乳洞 4日より営業再開

○日原渓流釣場 4日より営業再開

○日原鍾乳洞売店 4日より営業再開

○日原森林館 未定

○やすら樹の宿ねねんぼう 4日より営業再開(ランチのみ)

[3] 道路レポート 第二次 日原古道探索計画 , , http://yamaiga.com/road/nippara2/main.html

あの日、私は勝者ではなかったのか?

「都内最狂廃道」などと喧伝されてきた都道204号日原鍾乳洞線の旧道を危なげなく踏破した私は、有頂天だった。

旧道の終点で「あの道」を見るまでは。

私は急遽計画を変更し、「あの道」へ行くため対岸の作業道に入った。

決定的に時間が足りなかった。

それでも私は荒れ果てた作業道をチャリで疾駆し、巨大な吊り橋の残骸が残る廃鉱山へ行った。

そのまま、「あの道」目指し、危険きわまりない斜面にも進み出た。

全てが命がけだった。

しかし、孤軍奮闘もそこまでだった… (写真右)

結局私は日原古道の核心部。「あの道」へ辿り着くことは出来ず、迫り来る夕暮れに追い立てられるように撤退した。

再訪ではなく、再攻略を誓って。

…以上が私と日原のファーストコンタクトの要約である。レポートはこちら。

撤退の翌日、私は近くの図書館へ行き日原や奥多摩町に関する郷土資料を読みあさった。

その成果は前回のレポートで先取りして紹介した部分も多いが、以下に『日原風土記』という本から一節紹介する。今回目指すトボウ岩という地名の由来についてだ。なお、『日原風土記』は昭和43年に日原の開祖の血筋である原島氏が中心になって編纂された郷土誌で、前回紹介した奥多摩町史にある「日原みち」の記載もこの本が元となっている。以後、本レポートでは単に『風土記』と略す。

とぼう 奥多摩工業日原鉱山の基地になっているところで現在は「とぼう」または「とぼう岩」といわれているが以前は「とんぼうぐち」といっていた。「とんぼう」とは住家の出入口を指す方言で、この「とぼう」は日原部落の出入口ということなのである。

字地書 (作者注:明治期の字名を記した書) には「とんぼう口」とあり、一書には「蜻蛉宇トンボウ山」とあった。(中略)

日原村地誌草稿(地誌)には北岸の岩を「蜻蛉地トンボジ山」とし南岸の岩を「一の通り巌山」とし「これをもとぼう口といえり」と記している。

上記を受けて本レポートでは“とぼう岩”の表記を平仮名の「とぼう岩」で統一する。

また、前回レポート内での推測通り、とぼう岩は日原川の両岸にあったことが確かめられる。

私が目指す南岸のとぼう岩は特に「一の通り巌山」と言ったらしいが由来などは不明である。読みは「いちのとおりいわやま」であろうか?

次に、今回計画(予定)を地図上で簡単に紹

[15] 日原トンネル旧道を歩く, , http://kasetsu.sukimakaze.com/hobby/nippara1.htm

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“鍾乳洞と巨樹の神秘の里・おくたま にっぱら”

日原の観光案内のサイトに出ているスローガンである。

東京都西多摩郡奥多摩町にある集落のひとつ「日原(にっぱら)」は、只でさえ山深い奥多摩町の更に奥地に位置している

人口こそ500人に満たない集落だが、この日原集落のもつ役割は大きい。

第一に、奥多摩の主要な観光地としての役割を持っている。集落の中心から凡そ2kmほど谷の上流へ進んだ所にある「日原鍾乳洞」は、

昔は信仰地として、いまはレジャースポットとして多くの人を集めている。

そして第二に、この附近の山々に多量に含まれている石灰岩の存在だ。

時は戦後、コンクリートの需要は増える一方であった。

そんな時、日原で石灰が採れることが判明。その後あっという間に、日原は一大採取地と化した。

山は削られ、かつて村人たちが崇め畏れていた「とぼう岩」という大岩も、セメントの山となって消えた。

今もなお、日原の山は削られ続け、街ではビルが建設されている。

ここで、日原の交通の沿革を説明したいと思う。

日原の歴史は古く、室町時代頃に「原島家」によって拓かれたという。(余談:現在も日原集落を始めとする奥多摩町には「原島」姓が多い)

だが、原島家が日原にやってきたルートは現在の日原川を遡るルートではなく、北方の秩父より標高1500mを超える山々

(現在長沢背稜と呼ばれる尾根)を越えて、日原へ至るものであった。

では何故多摩川の支流にありながら、多摩川からでなく秩父方面から開拓の手が伸びたのか?

これは私の推測だが、おそらくその理由は、多摩川と日原集落を結ぶ日原川の急峻さにあると思う。

日原川は雲取山を源に発し、奥多摩町の氷川集落で多摩川と合流するまで、ほぼ全ての区間でV字谷を作っている。

なかでも日原付近はとりわけ急峻であり、恐らく何万年もかけて作られたであろうU字谷(両側が断崖)まで存在する。

そのU字谷(この両岸に聳える岩を、人々は「とぼう岩」と呼んだ)を、当時の人々は越える事が出来なかったのであろう。

ともかく、室町時代に日原集落は拓かれた。

やはり山を越え秩父へと向かうルートは遠すぎたのだろう、直ぐに下流の氷川へと向かう道が造られた。

ただやはり「とぼう岩」は超えられな

[20] 奥多摩工業の無人トロッコの見える場所 : 銅の匙、記憶の旅, , http://aizak3.exblog.jp/17114286/

日原鉱床と天祖山鉱床の位置 奥多摩工業と石灰採掘の歴史は、『多摩誌』の該当箇所をそのまま「more」に引用した。 京浜工事事務所の編纂した『多摩誌』はweb上で検索でき、全文が読むことが出来る。 3.2.2 奥多摩の石灰工業 建設省京浜工事事務所『多摩誌』 奥多摩町には古くからある製材工場(9工場,86人)のほかに,近年は電機部品等の工場も多くなってきたが(約20工場,350人),やはり最大の事業所は日原で石灰石を採掘する奥多摩工業であり,その関連企業である. 奥多摩工業は従業員数約300人で,日原に3個所の鉱山があり,いずれも氷川駅に運ばれて選鉱し,セメント工場や製鉄所へ出荷されているが,青梅市上成木にも梅ヶ平鉱山があり,瑞穂町富士山に化工場がある.また,奥多摩町倉沢に奥多摩化工があって,生石灰の生産を行っている. 奥多摩工業は,1927年に浅野セメントが買収していた日原の山林133町2反6畝を継ぎ,10カ年以内に当時の鉄道の終点御岳から氷川まで鉄道を建設し,石灰石の採掘を行おうとしたもので,日本鋼管と鶴見造船が300万円を出資して,奥多摩電気鉄道株式会社として設立されたものである. 鉄道は1941年に着工されて1944年に竣工したが,当時の地方鉄道法によって国有化され,会社は現社名となった. 氷川から戸望鉱床まで5kmの索道が建設され,実際に営業を開始したのは第二次世界大戦後の1946年であった.1947年の年産額は6.8万tであったが,1952年には39.8万t,1957年には126.1万tに達し,1961年には200万tを超えた. 採掘は朝顔坑の露天掘りで,底部からトンネルの運鉱路を通って岩松に集められ,ここで砕石される.砕石はさらに底部より鉱車に積まれトンネルの曳索鉄道を通って氷川に運ばれ,ここで選鉱される.カーバイド用やセメント用の鉱石はそのまま貨車で出荷されるが,高炉用や硝子用の4mm以下の細粉は水洗して砕石し,選別される.また,転炉用の生石灰を造るために,1961年,奥多摩化工が建設された(参52). 石灰石は1950年制定の新鉱業法によって新たに適用鉱物となったため,奥多摩工業は,1963年にかけて倉沢・天祖山・小川谷・已の戸・樽沢・御前山・川乗山など2,618haに鉱業権を設定した. そして戸望や油面を中心とした日原鉱床の貧鉱化に伴い,1

[21] 奥多摩工業 曳鉄氷川線 曳鉄三ツ又線 三ツ又電車線 日原電車線① 1978.1.14, , http://tsunechan.web.fc2.com/19780114okutama.html

昭和52年夏、日原鉱業所で見たTLのヤード。

これがずっと気になっていて…

なにぶん鉱山施設ゆえに気軽には立ち入れないし、

まさかフェンスを越えて不法侵入する訳にもゆかないし…

なので正攻法で、氷川工場の時と同様に見学許可の申請をしました。

経緯はまったく記憶がありませんが、無事に許可が下りたのでしょう、

実際に施設へ立ち入っているのですから(笑)

奥多摩工業氷川工場が開設された当時、

石灰原石は氷川鉱山の日原鉱業所周辺で採掘されていました。

その後、日原周辺の鉱床が掘り尽くされると、

更に山奥の三ツ又鉱業所での採掘が始められました。

訪問当時は三ツ又より先にある天祖採掘場にて採掘がおこなわれ、

天祖~三ツ又間はベルトコンベアで、

三ツ又~日原間は曳鉄三ツ又線、

そして日原~氷川間を曳鉄氷川線にて運搬していました。

要するに天祖で採掘された石灰石は、氷川工場までの間に

三ツ又、日原で中継されていたということです。

なんだか凄~く手間がかかっているようにも思えるのですが…

日原鉱業所周辺には採掘線の軌道が多く存在しました。

その一部が『日原電車線』と呼ばれるものです。

TL牽引のグランビー鉱車で石灰石を運搬し、

日原鉱業所で曳鉄氷川線に積み換えて氷川工場へ送っていたのです。

その役目は随分前に終えていたようで、

近年では鉱山施設や坑道の点検のために軌道を維持していたようです。

だから、ごく稀に動くこともあるとか…

残念ながら動く姿を見ることは叶いませんでしたが…

曳鉄三ツ又線の鉱車は、氷川線のものよりやや大型でした。

システムそのものは大差が無いのですが、

三ツ又線の施設は山の中腹にあり、面積を広く取れないせいか

ややこじんまりとした構内だったという印象があります。

曳鉄三ツ又線の複線に並行し、もう一本の軌道がありました。

この軌道は三ツ又電車線と称し、

TL牽引によって日原~三ツ又の資材輸送を担っています。

曳鉄竣工前は、このTLがグランビー鉱車を牽引していたそうです。

日原鉱業所では電車線と三ツ又線の施設を見学できましたが、

当時の取材力が稚拙で、きちんとした記録が出来ていません。

写真の点数も少なく、今思うと

せっかくの機会なのに勿体ないなぁ…

という後悔の念が絶えません。

[24] 道路レポート 第二次 日原古道探索計画 , , http://yamaiga.com/road/nippara2/main1.html

2007/1/23 11:04 【現在地】

集落の東の外れからいよいよ山歩きが始まる。

詳細なルートは行ってみないと分からないが、ここからとぼう岩までの推定距離は2kmほど。距離的には全然たいしたことはない。

しかも、中間地点の樽沢までは現行の地形図にも点線ながら道が描かれており、果たしてここは恐れるほどの道なのか。

木戸を潜り、いまいちど出発の地、日原を振り返る。

忘れ物はないか。飲み物は十分か。地形図は持ったか。

セルフチェックをして、いざ入山。

まずは日原川の谷底まで降りる。それから対岸へ移ってとぼう岩を目指すのが古道である。

集落を出た道は、早速に荒々しい岩場を目の当たりにする。

崖を切り開いて作られた道が、小刻みなカーブを描きながら下っていく。

写真には石垣と転落防止のロープが写っている。

石垣の方は如何にも村人の手積みといった風情の不揃いなもので、車はこの道を通らなかった証といえる。

しかし、それでも石垣のあるお陰で道幅は1m〜2mを確保している。

果たしていつの時代に作られたものなのだろう。

ロープの方は、見慣れたトラロープが1.5m間隔で打たれた金属の細い支柱によって掛けられている。

路肩から50cm以上も内側に設置されており、かなり路肩は危険なのかも知れない。

比較的近年に設置されただろうロープの存在は、我々を勇気づけた。

谷底までまだ50m以上の高低差がある。しかも道の外側は面白いほど切り立っており、トリ氏が覗き込んでいる左写真の路肩から一歩を踏み出せば、右写真の谷底で塵芥の仲間入りだ。

都道とこの古道は、日原川の河岸の険しい崖に階層構造を成しており、古道の上方に都道が通っている。

とはいえ見上げて見えるほど近くはない。だが、谷底に散乱する大量のゴミは、おそらく古道ではなく都道から降り注いだものだと思う。

しかーし 厳しい道だ。

いや、歩く分には何てことはないのだが…

これが本当に前回辿った小菅から吊り橋までの作業道の続きなのか?

明らかに道の規格が違うような気がする。

前回の作業道部分は、奥多摩町史や日原風土記に書かれている幅1.8mの荷車道だと言えるが、果たしてこの急坂かつ所々1mの幅もない様な道が、その続きと言えるのか…。

歴代の地形図に描かれたルートとしては、今歩いているこの道と、現行の都道しかないのだ

[30] 日原観光案内, , http://www.nippara.com/

奥多摩町日原(おくたままち にっぱら)

東京に残された自然の博物館ともいえる日原

渓谷や山肌を一面に染め上げる新緑や紅葉のパノラマは、他の追随を許さない。日原鍾乳洞で数十万年の神秘と出会うもよし、魚影濃い渓谷に糸を垂れるもよし、巨樹を巡るもよし、四季の自然堪能するもまた楽し、澄わたる空気をいっぱいに吸い込んで日原をお楽しみください。

[31] 東京都道204号日原鍾乳洞線 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E9%81%93204%E5%8F%B7%E6%97%A5%E5%8E%9F%E9%8D%BE%E4%B9%B3%E6%B4%9E%E7%B7%9A

概要[編集]

総延長:10.8km

起点:西多摩郡奥多摩町氷川 日原街道入口交差点(国道411号接続)

終点:西多摩郡奥多摩町日原 日原鍾乳洞前

google マップ

経路・接続道路・周辺の地形・施設[編集]

東京都西多摩郡奥多摩町

日原街道入口交差点(国道411号)

羽黒三田神社

寺地集落

日野明神社

大増鍾乳洞

平石橋(日原川)

立体交差(奥多摩工業曳鉄線)

川乗橋(川苔谷)

倉沢橋(倉沢谷)

奥多摩工業採掘場

日原トンネル

日原集落

日原森林館

日原ふるさと美術館

橋梁(名称不明)(小川谷)

日原渓流釣場

日原渓谷

一石山神社

日原鍾乳洞

備考[編集]

日原鍾乳洞を訪れる観光客が通る重要な道路であるほか、路線バスが通り、道幅が狭いため注意が必要である。

東京都道の中で都内で最も北に位置する道路である(最も南に位置する都道は小笠原諸島母島にある都道241号沖港北港線)。

関連項目[編集]

東京都の都道一覧

西東京バス氷川車庫#日原方面 - この道路を通行する路線バス。

座標: 北緯35度49分50秒 東経139度4分35.8秒 / 北緯35.83056度 東経139.076611度

[32] 道路レポート 旧東京府道242号 日原氷川線 (日原5期道) , , http://yamaiga.com/road/nippara5/main3.html

2007/1/23 15:51

今回紹介する区間は、以前公開した「第二次 日原古道探索計画」の最終回直後に探索した。

これは当初から計画していたわけではなく、この日序盤の日原川右岸探索中に偶然発見し、これをとぼう岩からの帰り道として利用したのだった。

そしてその結果として、この道が日原集落まで都道とは別ルートで繋がっていることを確認。

晴れて昭和の築造でありながら謎に満ちた5期道ルートが、ほぼ完全に解明されたのであった。

現在地は、樽沢が日原川に滝となって落ちる対岸(左岸)。

樽沢を渡る橋があって然るべき地形だが、現存しない。しかし、前後に鮮明な道の痕跡がある。

この付近で、とぼう岩をへつって大正4年に開通した4期道と、昭和6年に開通した5期道とが接続していた。

厳密にどこが接点であったかは分からないが、ともかく5期道の開通によって初めて氷川〜日原間に荷車、自転車、バイクなどが通れるようになったとされる。

上の写真と同地点から、日原川上流を撮影。

写真中央の斜面に、コンクリート製でラーメン構造の橋台が写っている。

当時の日原川では盛んに「鉄砲出し」(川を使って木材を運搬すること)を行っていたために、水面には橋脚を下ろすことが出来なかったのだろう。

ここに、「惣岳吊橋」という名の巨大な吊り橋が架かっていたという。(目測だが、20〜30mの長さ)

同様の橋台は、右岸側にも残っている。

これが、5期道として記録に残るもっとも下流側のものである。

近づいてみると、このようにかなり大きな構造物である。

そして、この辺りは旧都道の数多い崩壊地の直下となっており、膨大な瓦礫が山腹を埋めている。

登ろうとすると音をたてて足元から崩れる状況で、転落云々というよりも単純にアリジゴク的な徒労を感じる。

なかなか登らせて貰えない。

ともかく、汗を掻いて橋台の上に立つ。

登り着いた左岸橋台付近より、とぼう岩方向を振り返って撮影。

禁漁区であるゆえ、また実は奥多摩工業の立入禁止エリアであるため、ほとんど立ち入る者のない谷底。

そこに失われた府道、「日原氷川線」が存在していたという確かな痕跡である。

昭和27年に都道が開通したことで廃道化したと思われるが、航空写真の記録によればその後も橋は存在し、50年代までは架かったままだったようである。

通常吊り橋が自然に落橋

[34] , , http://www.geocities.jp/glock1320031/sub11-5.html

ケーブルの先を目で追うと、なんとすぐ先の茂みの中に三頭山口駅が・・・。道路わきに石段がありその先は獣道になっているが、すぐに駅跡にたどり着く。

ロープウェイというと低い所から高い所に上っていくものだと思っていたが、ここはなんと標高差0.65m。多摩湖を横断するだけであったために、対岸に渡る橋が出来上がると乗客が途絶え、休止に追い込まれる。

[35] 廃線レポート 奥多摩鉱業氷川鉱山 専用索道跡, , http://yamaiga.com/rail/nippara/main.html

私を魅惑して止まない日原の壮絶な山道風景。(過去のレポ1,2)

しかし、その景色を彩るものは天然の山河ばかりではなかった。

むしろ、彼の地で最大の存在感を有するもの…それは現役石灰石鉱山による、未曾有の地形改変によるものだった。

この地での石灰石採掘は歴史は意外に短い。

少なくとも明治、大正、そして昭和の頭まで、日原地区に埋蔵される6億トン以上といわれる石灰石は眠り続けてきた。

だが、日本の近代化と共にコンクリートの需要が爆発的に増え、全山石灰石と言っても過言ではない日原の山々が初めて認知されるに至る。

昭和12年、「奥多摩電気鉄道会社」発足。

同19年、同様の目的で鉄道を開設していた「青梅電気鉄道会社線」の終点御岳から、氷川(現:奥多摩駅)まで延伸が完了。そして開業と同時に国有化となって(→国鉄青梅線)、社名も現社名「奥多摩工業」に改称される。しかし結局、同社は戦前戦中において石灰石の採掘を始められなかった。

本業である石灰石採掘を氷川鉱山によって開始したのは、戦後復興の黎明期である同21年。

極大化した石灰石の需要に応えるべく、同28年には国内最大の曳索鉄道となる氷川線を開通。生産量を大幅に拡大。

そして現在に至るまで、地底及び地上に複数の鉱区を拡大しつつ、氷川鉱山は石灰石の採掘を続けている。

さて、昭和21年開山から同28年の曳鉄開通までの間の輸送はどうなっていたのだろうか。

実は、この僅かな期間だけ利用された索道が存在した。

終点と起点は曳鉄線と同じだが、輸送の手段は異なっていた。当然経路も違っていた。

索道(=索鉄、鉄索)ではゴンドラと呼ばれる籠に鉱石を乗せ、これを架空のワイヤーにぶら下げて輸送する。いわばロープウェーである。

これまで山行がでは索道を探索の主目的に据えたことはなかった。

索道は法律上は鉄道の仲間とされているから、廃止された索道は則ち廃線なのだが、個人的にどうもあまりそそられない。索道は空中に張ったワイヤーが主役の輸送であるから、廃止後地上に残るものとしては支柱や積み下ろし場もしくはワイヤーの弛みを取る緊張所くらいなものである。それに、索道はそれほど地上の微地形に干渉せず進むものだから、その経路を地上から辿るというのも、極めて骨が折れる作業である。はっきり言って、実りの多い探索とはなりにくい。

大沢地区から日原側

[36] 日原街道 : メカAG, , http://mechag.asks.jp/368219.html

子供の頃、学校の遠足か何かで日原鍾乳洞に行った。よく覚えていないが夏休みにクラブの有志で行ったこともあったような。合計3回ぐらい行っている気がする。 小さいころの記憶ではバスがカーブをすごい角度で曲がって走っていったのが印象的だった。窓の外はすぐに谷底で、遠心力なのかカーブの傾斜なのか、とにかく曲がるたびにみんなでキャーキャー騒いでいた。 ところが最後に行った時は、それほどでもなかった。まあその頃はかなり成長していたから、ちょっとぐらいのことでは動じなくなっていたのかな、とずっと思っていたが、ふと地図を見ていると日原街道には新道と旧道がある。新道の日原トンネルの開通は昭和54年(1979年)らしい。 * * * ひょっとして新道ができたためにカーブが減り、怖さが減ったのだろうか。最後に行った時期がいつなのかよく覚えていないが、日原トンネル開通の前後の微妙な時期のような気がする。 そもそも現在の日原トンネルが作られたのは、山の斜面で大崩落が起こり旧道が埋まってしまったためらしい。昭和47年(1972年)のことらしい。でもじゃあ昭和47年から昭和54年までの7年間はどうしてたのだろう?崩落した場所は現在もそのままになっている。 少なくとも昭和47年から昭和54年の間のどこかで俺はバスにのって日原鍾乳洞に行ったはず。新道の開通が昭和54年なら旧道を通って行ったはずなのだが…。旧道の大崩落が昭和47年というのが違うのだろうか?それとも昭和47年に大崩落が起きた後も一度旧道は復旧し、現在埋まっているのはさらにその後にまた崩落が起きて現在の姿になっているのだろうか。わからん…。 Webを検索しても大崩落現場の探検レポートとかは色々ヒットするのだが、日原トンネル開通前後の経緯が見つからないのだよね…。 * * * 検索してて見つけたすごく面白いサイト。 道路レポート 都道204号日原鍾乳洞線 旧道 http://yamaiga.com/road/nippara/main.html 道路レポート 都道204号日原鍾乳洞線旧道 兎峰橋 http://yamaiga.com/road/nippara6/main.html いや~見てると時間がたつのを忘れる。特にこれなどは東京都の道とは思えん。 道路レポート 日原古道探索計画 ht

[37] 【奥多摩の絶景!】日原街道で日原鍾乳洞へ(後編) : マッキータウンぶろぐ 〜東京近郊自転車コースガイド〜, , http://blog.livedoor.jp/mackey_town/archives/51989818.html

前回の続き 日原街道で日原鍾乳洞を目指しているとりさんとブルバちゃん。 景観の素晴らしく、見所の多い日原街道もいよいよ後半戦。 倉沢橋を渡ると道が分岐するので、案内看板に従い左折する。 ちなみに右折すると林道倉沢線だ。 記憶が定かではないが、かつてこの道はゲートで封鎖されていたような気がする。 せっかくなんで、ちょっとだけ寄り道していこう。 最初のカーブを曲がると勾配が増し完全に林道モード。 この先がどうなっているか気になるところだが 今回の目的からは逸れてしまうので元の道に戻ることにしよう。 倉沢橋で左折してしばし行くと「倉沢のヒノキ」の入口がある。 (早い方で)徒歩15分ほど登山道を行くと 東京都の特別天然記念物の倉沢のヒノキがある。 樹齢は600年とも1000年とも言われている。 いつかは見に行ってみたいものだ。 日原街道をさらに進むと採石場が目前に迫ってきた。 毎日トロッコで大量に輸送しても、こんだけあればなくならないハズだ(笑) 幹線道路とは思えない細い道を緩やかに上っていく。 そういえば、さっきから右側がずっと崖なんだよね。 冷静に考えるとよくこんな場所に道路を作ったもんだよ。 7キロ地点に日原トンネルがある。 ちなみにここを左折すると、採石場の入口なわけだが 無論、関係者以外は立ち入り禁止となっている。 日原トンネルは1107mと非常に長いトンネルだ。 しかも内部は、結構な上り勾配続きになっている。 スピードを出して一気に駆け抜けるのが難しいので歩道を行くのが安全だと思う。 帰りは下りなので試しに車道側を行ってみたんだけど ペダルを踏まなくても、たちまち40km/h近くになるほどの勾配だった。 しかも、路面が荒れ気味でバンプが激しく非常に怖い思いをした。 安全のためには、帰りも歩道をブレーキで制御しながら行くのが正解かと。 進んでも進んでも出口が見えてこない。 前述の通り、上り坂によりスピードも出ないので、なおの事長く感じる。 元々、交通量が少ないエリアなので静か過ぎて恐怖すら感じる。 基本的に、トンネルとか苦手なんだよなぁ('A`|||) ようやく出口が見えた。 体感的には1キロの長さよりもはるかに長い気がした。 トンネルを出てすぐの所に脇道がある。 (自称)ポタの達人のとりさんは再び寄り道をしていく。 未舗装のダート区間を抜けると舗装路が現れる。

[41] 道路レポート 都道204号日原鍾乳洞線旧道 兎峰橋, , http://yamaiga.com/road/nippara6/main3.html

無残な残骸を晒している兎峰(とぼう)橋。

私がその名を知ることが出来たのは、ある方の助言により、「月刊土木技術」の昭和25年9月号を目にすることが出来たからだ。

そこには「東京都兎峰橋工事報告」という一節があり、その書き出しは次の通り。

本橋は、東京西多摩郡氷川町日原地内多摩川支流、日原川に沿う景勝の地戸望岩の断涯に架かるもので(中略)、倉沢橋と同一路線にして林道開発事業の一環として施工せるものである。

現在「旧都道」と呼ばれている道は、昭和18年に着工した林道で、戦時中の中止をはさんで同25年、この兎峰橋の完成を以て全通した。

当時は対岸の道が都道(戦前は東京府道)に指定されており、路線指定変更の年度は不明だが、おそらく全通後まもなくと思われる。

なぜなら、倉沢橋および兎峰橋の施工をおこない、この「工事報告」を残したのが東京都建設局道路課だからだ。

しかしともかく、当初は林道という名目で建設されていたのは事実である。

それでは今回はこの「工事報告」をベースにして、兎峰橋の在りし日の姿を振り返ってみようと思う。

残念ながら架設後の写真は見あたらなかったが、工場制作時に仮組立をした時の写真があった。

それが右の写真である。

やはり橋の形式は「上路トラスドアーチ」で、このうち手前側の半分ほどが残骸を晒している。

奥の半分はどうなってしまったのか…、おそらく地中にバラバラになって眠っているのだろうが、はっきりしたことは分からない。

←これも同じく仮組立中の写真で、人物が写っているので大きさの比較が出来るだろう。

現地でひしゃげた残骸を見ても、かなり大きな橋だとは思ったが、それでも全体の半分以下しか見ていなかったことになる。

今回この資料によって竣功年が昭和25年であったことも明らかとなったが、戦後間もない鉄不足の時期でありながら、敢えて永久橋である鉄橋を選んだところに、日原開発への強い意欲と期待が感じられるのである。

もっとも、当時想定されていたのはあくまでも林業開発のみであり、昭和20年に採掘が開始されていた氷川鉱山の鉱石運搬や、日原地区での観光客増などは全く考慮していなかった。

本橋としては日原地区の林産物搬出用のトラックの交通以外将来に於いても交通量の増加なきものと思われ、今後此の地区の発展は殆ど考えられない処である

確かに当時としては、氷川鉱山の鉱

[43] 日原林道, , http://island.geocities.jp/rindou_tansaku/tokyo-top/to-056/to-056.htm

↓日原線では荒れ、ガレもなく、奥へ進むほど山深い山岳ダートの趣が増して

きます。登山者の四輪との遭遇を気にしなければそれなりに楽しめるでしょう。

……こんな感じ……

■奥多摩町の日原川の渓谷に沿って山深く分け入る半ダートのピストン林道で、都道204号線の終点が林道区間の起点となっている。川沿いに付かず離れずで遡っていくコースであるため、急な勾配は見られずに全体的に穏やかさが漂って走りやすい。雰囲気的には明るく、次第に山深く荒々しい山岳ダートの趣が濃くなり、同時に地形的な険しさも増すが、かといって荒れが見られるわけでもないので安心して楽しめる1本だろう。支線林道としては孫惣谷線と大ダワ線が存在するが、残念ながら共に普通に探索できない状態となっている。なお、当林道沿いには登山道入口があるため、ハイカーや登山者の車がしばし通行するので、すれ違いにだけは注意したい。

■JR奥多摩駅前から都204号線を日原川沿いに遡ると、都道区間の終点となった左右に別れる突き当たりにぶつかりますが、そのT字路の右手が「日原鍾乳洞」で、左折側が日原線の入口になっています。路面は一般道となんら変わりない舗装状態ですが、ここには目立つ林道標やら鍾乳洞の案内板が設置されているのですぐにそれと分かるでしょう。

<a href="rink/to-056-1.htm" target"_blank"="">→案内板を眺める!

<a href="rink/to-056-1.htm" target"_blank"="">

[44] 奥多摩工業を巡る鉄道たち, , http://hkuma.com/rail/okutetsu.html

奥多摩の山中より採掘した石灰石を近代日本の工業・産業界に供給して来た奥多摩工業ですが、その前身が実は奥多摩電気鉄道という鉄道会社であったという事実は以前より何度か触れてきました。

それは同社の Webサイトにある沿革のページにも記載されていますが、そもそもこの企業は青梅電鉄の御嶽駅と氷川(現奥多摩)駅を結ぶ区間の鉄道路線を敷設した上で、さらにその奥地の日原にある鉱山から石灰石を採掘し、東京湾岸部の京浜工業地帯へと運ぶ目的で設立されたものなのです。

ところが、この線区の開業と同時に奥多摩電鉄は青梅電鉄もろとも国鉄へ買収されてしまった為、残念ながら私鉄線として日の目を見る事はなかったわけです。

その後、社名を奥多摩工業へと変更して本来のミッションである採掘事業に精を出しますが、氷川駅に集められた鉱石は青梅線上を行く石灰石貨物列車で運ばれ、長らく沿線の風物詩となっていました。

しかしそれも 1998年に廃止されてしまい、以後表向きには鉄道と縁の切れた存在となって現在に至っています。

でも忘れてはいけません、奥多摩工業は休止線であるものの現在も鉄道路線を保有しています。

そう、東京都が小河内ダム建設のために敷設し、一時期は西武鉄道の手に渡った事もある水根貨物線ですね。

また、それ以外に現役の鉄道も運行させている事に気づく人も多いのではないでしょうか。

奥多摩駅に隣接する奥多摩工業氷川工場と日原の氷川鉱山を結ぶ曳索鉄道がそれです。

大部分がトンネル内ですが、日原街道の何箇所かで沢を渡るその姿を目にする事が出来ます。

もう一つ、一般の人の目に触れる機会はまずありませんが、氷川鉱山の中には鉱石運搬用の鉱内軌道もあった筈で、実は奥多摩電鉄以外でも鉄道と深い関係を持つ会社と言えるかと思います。

という事で、一部は過去のレポートも含め、以下に奥多摩工業を巡る鉄道たちについてまとめてみたいと思います。

[48] 道路レポート 第三次 日原古道探索 江戸道, , http://yamaiga.com/road/nippara3/main1.html

2007/2/21 10:15 【現在地】

今回も日和は快晴。

前回と同じ日原集落内の無料駐車場を出発した私とトリ氏は、途中多少の寄り道をしながらも都道に沿って歩き、午前10時過ぎには日原トンネルの入り口付近に着いた。

ここから、日原探索の最初の舞台となった旧都道を歩き、その採石場に削り取られた突端まで進む。

左の写真は、日原トンネル前の新旧同分岐地点100m手前から、旧道が沈む大崩崖を望む。

ちなみに、前回は右の谷底対岸を苦労して歩いた。

また、右の写真はほぼ同じ地点から大崩崖上部を望遠で撮影したもので、その斜面の途轍もない規模が分かるだろう。

ここへも来るのも約一ヶ月ぶり。

最初の遭遇時には、まさかこんなに何度も足を運ぶことになるだなんて、全く思ってなかった。

そして、この旧日原隧道は施錠されており通れないので、例によってこの坑口前から右に分かれる旧旧道へ進入。

この辺りは最初の探索と同じコースである。

違いと言えば、今回はトリ氏を伴っている事くらいだが、まあ大崩崖にはルートを見付けてあるし、彼女なら大丈夫だろう。

スタスタスタスタ。

斜面が大好きなトリ氏を先頭にして、大崩崖を横断中。

彼女は放っておいても踏跡を見付けてくれたので、私もそれに着いていくだけ。

下を見ると相変わらず恐いのだが、何度も渡っているうちに慣れてきたのも事実。

ただ、楽勝かと言えばそうでもないし、いつ上から石が落ちてくるかは分からないので、速やかに通り過ぎるが吉。

え?

あんまりにも最初のレポの時と違うんじゃないかって?

……最初はこの踏跡が見付けられなかったもので…。

それに、今回の盛り上がり処はまだこんな所ではないわけでして…。

私称 「伝説の100メートル」。

確かにここは凄いところだ。

前回のとぼう岩の上の道も凄かったが、この道はまた別の凄さがある。

明らかにそれが都道だったと分かる、自動車道だったと分かる、それが廃道になっているというカタルシスは、この「伝説の100メートル」に勝る場所はないであろう。

ここは、日原の廃道の中でも一番か二番に好きな場所だ。

今回は気持ちに余裕があったので、トリ氏と一緒にかなりたくさん写真を撮ったりしたのだが、

レポは江戸道へ急ごう。

前回はここまでレポするのに6話も使ってしまいごめんなさい(笑)。

でも、今回は

[53] 道路整備 日原鍾乳洞線, , http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/nishiken/kouji1-ka/sekkei/nippara.htm

奥多摩の代表的な観光スポットである日原鍾乳洞へ通じる観光道路であるとともに、沿道住民の生活を守る唯一の道路でもあります。

瀬波橋から日原鍾乳洞までの区間は、小型車の交互通行ができないほど幅員が狭く、見通しの悪いカーブが続くため、週末や行楽シーズンには、対向車との交通が滞ることが多々生じています。

急峻な斜面に張り付くような道路であることから、道路を拡幅するためには大規模な土木工事を行わなければならず、全線(日原トンネルを除く約8キロメートル)にわたって拡幅整備を行うには膨大な費用と長い年月が必要になります。

そこで、奥多摩町からのご要望、現地の地形条件等を踏まえて、安全な交通を確保する上で効果的な箇所を選定し、待避所の整備を行っています。

一時期事業が中断することもありましたが、これまでに13箇所の待避所を設置し、今後更に2箇所の設置を予定しています。

[54] 日原トンネル - YouTube, , http://www.youtube.com/watch?v=oLb9gEq82d8&feature=youtu.be

heppoko1970 さんの動画に高評価を付けるには Google アカウント(YouTube、Google+、Gmail、Orkut、Picasa、または Chrome のアカウント)でログインする必要があります。

[55] 奥多摩駅 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%A4%9A%E6%91%A9%E9%A7%85

奥多摩駅(おくたまえき)は、東京都西多摩郡奥多摩町氷川にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)青梅線の駅である。

青梅線の終着駅で、東京都内でもっとも西に所在する。標高は東京タワー(海抜高351m)よりも8メートル低い343mで、東京都内にあるJRの駅の中でもっとも高い。

歴史[編集]

1944年(昭和19年)7月1日 - 運輸通信省(→運輸省→日本国有鉄道)青梅線 御嶽 - 当駅間開通と同時に氷川駅(ひかわえき)として開業。一般駅。

1952年(昭和27年)12月16日 - 東京都水道局小河内線(専用鉄道)が開通。小河内貯水池の建設資材運搬用の専用鉄道。

1957年(昭和32年)5月10日 - 東京都水道局小河内線、ダム建設竣工が間近となり、運行休止。

路線は休止後も撤去されていない。所有者は1960年代頃に西武鉄道、その後1970年代以降に奥多摩工業に移っている。

1971年(昭和46年)2月1日 - 奥多摩駅に改称。

1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により東日本旅客鉄道・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅となる。

1997年(平成9年) - 「関東の駅百選」に選定。選定理由は「自然豊かな奥多摩に似合っているロッジ風の山小屋駅」。

1998年(平成10年)8月13日[1] - 貨物列車の最終運行日。

奥多摩工業の石灰石積込設備へ専用線が続き、石灰石の輸送を行っていた。最終期の行先は、浜川崎駅にあるセメント工場であった。

1999年(平成11年)3月25日 - JR貨物の駅(貨物営業)が廃止。

2002年(平成14年)2月8日 - ICカードSuica供用開始。

2006年(平成18年)4月21日 - 奥多摩ステーションギャラリーがオープン。電車発車時の合図が発車ベルから、童謡『どんぐりころころ』の発車メロディに変更される。

駅構造[編集]

島式ホーム1面2線を有する地上駅。ホームは1番線と2番線がある。2番線の有効長は6両編成が入線可能であるが、電車とホームの隙間が大きく開く箇所があるため、平日は朝の1本のみ、土休日は「ホリデー快速おくたま」号(6両編成)と普通電車の数本、臨時列車のみが使用している。かつては2番線の奥に貨物ヤードがあり、隣接する奥多摩工業の工場から川崎方面に向かって石灰石を発送していた。また、過去には東京都水道局小河内線(現・奥多摩工

[56] 旧日原トンネル@東京都西多摩郡奥多摩町|あれ!それ!これ!, , http://ameblo.jp/bashi-heppoko/entry-11749041831.html

とても都内とは思えない奥多摩町に、東京都道204号 日原鍾乳洞線という都道があります。そこには日原トンネルという長さ1107メートルのトンネルがあります。そして旧道と旧々道があり、そこに旧日原トンネルもあります。 まずは東(氷川)側の坑門前から、こちら側はほとんど関係ないので、ストリートビューから転載です。 坑門前で二手に道は分かれますが、左に分かれる方が旧道になります。しかしすぐに守衛所があり通り抜けることができません。ここは、奥多摩工業氷川石灰石鉱山なので、当然立ち入り禁止です。ってか入って発破にでも遭えば・・・解りますね。 では現道のトンネルを通って西(日原)側へ。その前にトンネル動画を(進行方向逆ですが)。 http://youtu.be/oLb9gEq82d8

っで日原側に到着。見えているのは登竜橋。 橋の上からの写真・・・ブレていて見難いですが旧道の跡が。 望遠で見てみると・・・道路標識? 西側の坑門のすぐ前に旧道に入る場所があります。 アスファルト敷きですが、道幅が1.5車線ほどです。此処を大型観光バスが通っていたのですね。 トンネル内カーブ注意の喚起の標識・・・んっ? 何か向こう側が大変なことになってますが・・・ とりあえず先に進むと坑門が。 少し近づいてみると・・・当たり前ですが厳重に封鎖されています。 封鎖ネットには注意の看板。 ちょっと字が薄いですが、どうやら発破に関する看板。はいっ!石灰石と一緒に粉々になりたくありません。 これより先(トンネル)は鉱山施設ですから立入禁止とのこと。逆に言えば、ここまでは東京都の土地ということか? 坑門前はすれ違いの為に広くなってますね。 金網越しに中を。思いつきでここに来たので、懐中電灯を持っていませんでした。とりあえずは風が通っているので貫通してますね。 坑門横には旧々道が続いています。っが、この先はさっきの写真の大崩落地帯! しかも日原川まで崩落しています。発破・大崩落・不法侵入等を冒してまで進む場所ではないでしょう。 私はここにて撤退します。ってか雪は降っている、すんげ~寒いしで、さっさと車に戻りたかったっす。 ちなみにこのあたりの崖の高さは50メートルぐらいかな。落ちたら死ぬな。 どうしても、自分の足でトンネルの先を知りたいって人は自己責任で! 私は絶対にお勧めしませんし、当ブログ及び私

[57] 道路レポート 奥多摩古道 (氷川〜除ヶ野), , http://yamaiga.com/road/yokeno/main.html

東京都の奥座敷、奥多摩町の中心が氷川(ひかわ)である。

多摩川と日原(にっぱら)川の合流地点に開けたさほど広大でもない緩斜面に町役場、小学校、JR青梅線の終着駅である奥多摩駅、国道411号などの都市機能が集中的に立地している。

そして氷川から日原川に沿って1kmほど北上した山腹に、除ヶ野(よげの)集落がある。

取り立てて何がある場所でもないが、古くから人の住う土地であったことは、この意味ありげな地名にも現れている所だ。

現在、除ヶ野から氷川へは、日原川に架かる北氷川橋渡って行くのが普通であるが、このルートは安寺沢林道が除ヶ野まで開通した昭和50年代から使われるようになったという。これは除ヶ野集落で聞いた話である。

そして古い地形図を見ると、除ヶ野から氷川まで順当に日原川左岸の山腹を緩やかに下って行く道が描かれている。

その表記は「破線」であり、小径の域を出ないものであったと察せられる。

そして再び現在の地形図に戻ると、相も変わらず「破線」が描かれているのである(赤く着色した)。

これが今回採り上げる「奥多摩古道」である。

この名前も特に定まったものではないが、奥多摩地域にある古道の一つという事で、このように呼ぶ事にした。

なお、「今も昔もこの道は破線で描かれている」としたが、より縮尺の大きな地図を見ると、道は断絶している。

次の地図(「プロアトラスSV7」縮尺5000分1)を見ていただきたい。

「奥多摩古道」は、氷川小学校の北側の一角で、途切れている。

そしてその周辺を見ると、様々な形と大きさの建物が密集している。

それは例えば「栃久保」<辺りに見える住宅地とは明らかに異なる様相を示しており、大いに不自然である。

いったいこの場所には、何があるのか?

知っている人は知っている。

人口5600人の山間の町が誇る、お土産物にはならぬ“特産品”が、ここで生み出されている。

かつて国鉄青梅線の御岳以西の区間を作ったのも、この場所を占める者である。

さらに奥多摩駅の貨物取扱高は、その“特産品”が鉄道で輸送されていた当時において、青梅線全体の8割を占めるほどに膨大であった。

それは、何者か?

↓答え↓

[59] 奥多摩工業氷川曳索鉄道 無人のトロッコが石灰石を運搬, , http://www.youtube.com/watch?v=twsqE8Ov5n4

日原の石灰石鉱山から石灰石を運搬し、氷川工場で加工して出荷しています。 運搬は無人の曳索鉄道で行っています。 線路のほとんどはトンネルとなっていますが、一部はトンネル外となっていて、この撮影箇所はそのうちのひとつです。

[60] 奥多摩工業 運搬軌道 曳索鉄道 電車線 奥多摩のナロー, , http://tsunechan.web.fc2.com/okutama.html

所有事業所=奥多摩工業

(運行区間)

曳鉄氷川線 氷川工場~日原鉱業所

曳鉄三ツ又線 日原鉱業所~三ツ又鉱業所

日原電車線 1号線 日原鉱業所~11坑・12坑

日原電車線 2号線 日原鉱業所~21坑・22坑

三ツ又電車線 日原鉱業所~三ツ又鉱業所

軌間=762mm

《本文を含め、記載のデータは昭和52年~53年のものです》

青梅線のED16を撮影していた頃、地理を把握するため五万図を利用していました。

五万図『氷川』には小河内ダム建設専用線と、もうひとつ怪しげな路線が…

その名は『奥多摩工業 曵鉄線』。

奥多摩駅に隣接する工場から山を貫いて、ほぼ直線に延びていました。

これは一体ナニ???

そんな疑問は次第に膨らんでゆき、ナロー軌道に目覚めたことも相まって、

何としても実態を知りたくて仕方ない状態となってしまいました。

しかし、その頃の詳細をあまり覚えていない…(?_?)

確か最初は電話で問い合わせたような気がします。

それがナロー軌道であることを知り、

『是非この目で見たい!』

と思い、奥多摩工業宛に見学要請の手紙を出しました。

その時点で解っていたのは762mmゲージであること、

運搬車両をケーブルカーのようにワイヤーロープで動かしているらしい…

ということだけでした。

軌道は殆どがトンネルだし、機関車牽引でないのでテンション↓↓

なので、とりあえず工場で見てみよう…という目論みだったのですが…

当時は奥多摩工業に関する情報は皆無で、

とにかく自分で見聞するしか知る術がありませんでした。

その行動がナロー軌道の醍醐味でもある

『発見する楽しみ』

につながってゆき、ナロー病がさらに悪化したのです(笑)

【訪問日】

昭和52年 4月12日

昭和52年 7月16日

昭和53年 1月14日/1

昭和53年 1月14日/2

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[61] 廃線隧道【BLOG版】 奥多摩工業曳鉄線, , http://haisentn.blog41.fc2.com/blog-entry-166.html

奥多摩工業の石灰輸送専用線、「氷川鉱山曳索鉄道氷川線」を見てきました。曳索鉄道とはケーブルを利用して無人の貨車(トロッコ)を運行する鉄道で、氷川鉱山~氷川工場間の約4.8㎞が昭和28年に開通しています。

地図を見ると写真の右上辺りが曳索鉄道の起点になっているようですが、氷川工場の敷地内のため目視でも確認できませんでした。曳索鉄道は工場内からそのまま最初のトンネル(1号トンネル)に入っているので、地形図の点線道でトンネルの出口側に迂回することにしました。 【地図】

[62] 日原林道, , http://island.geocities.jp/rindou_tansaku/tokyo-top/to-056/to-056-2.htm

■ま、この舗装区間もショートであったのでいいですけどね。それにしてもこんな短い舗装を虫食いで施す理由はなんだろう? 坂道対策でもあるまいし、いらんですよ、日原線にこんなものは!

■というわけで、虫食いの2連続で短い舗装区間を過ぎて、その後も日原川の谷間の崖伝いにダートは続きます。そして僅かにガタガタとしてきたダートを進むと、その先で工事を知らせる立て看板が出現。まさか、それって舗装工事じゃないだろうな。

■予告看板から100m先の工事区間開始地点です。設置されていた立て看板には「林道整備工事」と記されており、工期は平成24年9月上旬、時間帯は8:00〜18:00までとのことでした。工事の発注元は東京都水道局水源管理事務所。林道の補修なら良いですが、「整備」って、まさか舗装するってことじゃないだろうな。水源林の保護と同時に林道のあるべき姿も保護して欲しいなぁ。

[64] 2012 11 14 日原街道 日原トンネルから日原鍾乳洞, , http://www.youtube.com/watch?v=xl-CG5Fdf8Y
[65] 日原鍾乳洞 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%8E%9F%E9%8D%BE%E4%B9%B3%E6%B4%9E

日原鍾乳洞(にっぱらしょうにゅうどう)は、東京都西多摩郡奥多摩町日原にある鍾乳洞。規模としては関東随一で、かつては山岳信仰で栄えた。東京都指定天然記念物。現在は観光地となっている。

入場料[編集]

大人(高校生含む) 700円

中学生 500円

小学生 400円

団体割引(25名様以上)

営業期間[編集]

1/4~12/29(年末年始休業12/30~1/3)

営業時間[編集]

4/1~11/30 午前8時から午後5時

12/1~3/31 午前8時30分から午後4時30分

交通[編集]

JR青梅線奥多摩駅から路線バスでおよそ30分、「日原鍾乳洞」下車。ただし、休日はバスが手前の東日原(ひがしにっぱら)止まりとなるので、東日原バス停から徒歩約20分。

当地までの道路である都道204号線は、狭隘道路である為、落石等に充分注意が必要である。また、休日は駐車場が満車

2014年5月現在、洞入口より先ががけ崩れにより通行止。そのため洞入口よりも先にある大型駐車場が使用できない。現在使用可能な洞入口至近の駐車場は30台程度。2km下流の臨時駐車場が代替で用意されている。

所在地[編集]

東京都西多摩郡奥多摩町日原1052

周辺[編集]

入口付近には一石山神社がある。日原集落には奥多摩町営の森林館があり、この地域の樹木の資料館になっている。

また、近くには日原ふるさと美術館や倉沢のヒノキがある。

関連項目[編集]

鍾乳石

秩父多摩甲斐国立公園

外部リンク[編集]

奥多摩町ホームページ

日原地区観光案内

西東京バス公式HP

[66] 茨城県笠間市 県道1号・静かすぎる旧道(前編) - 埼玉発 おとなの小探険 - Yahoo!ブログ, , http://blogs.yahoo.co.jp/takaratta1152/33960781.html

栃木県道・茨城県道1号宇都宮笠間線のヘキサである。

古くから水戸北街道(水戸街道と言われる事の方が多いようだ)として人々の往来が盛んな道となっている。

そんな県道1号線の県境近くである。

17kmのキロポストが見えるが、栃木県内の県道区間は17.109km(wikipediaより)なので、ここから109mで県境という事になる。

[67] 鳩ノ巣渓谷, , http://www.yuhoyuyu.sakura.ne.jp/course/cn128/index.html

鳩ノ巣渓谷は多摩川の中流域にあって、小さな山を越えていくと、深くてダイナミックな渓谷が続いています。

古里駅から奥多摩駅までの渓谷沿いを、大多摩ウォーキングトレイルと数馬峡遊歩道をつないで歩いていきます。

[68] 上野原市 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E9%87%8E%E5%8E%9F%E5%B8%82

20歳前後で男女とも人口が突出して多くなっているが、これは市内にある帝京科学大学の学生が多く居住するためである。

歴史 [ 編集 ]

2005年 ( 平成 17年) 2月13日 - 北都留郡 上野原町 ・ 南都留郡 秋山村 が合併して発足 [1] 。

隣接している自治体・行政区 [ 編集 ]

山梨県

都留市

大月市

南都留郡 : 道志村

北都留郡 : 小菅村

東京都

西多摩郡 : 奥多摩町 、 檜原村

神奈川県

相模原市 ( 緑区 )

行政 [ 編集 ]

市長:江口英雄(2009年3月20日 就任)

歴代市長

奈良明彦(2005年3月20日-2009年3月19日 1期)

市議会:議員定数18人

経済 [ 編集 ]

産業

農業

養蚕

絹織

特産品

まんじゅう

酒まんじゅう、王の入まんじゅう

ゆず

船守最中

木の実煎餅

教育 [ 編集 ]

大学 [ 編集 ]

帝京科学大学

高等学校 [ 編集 ]

山梨県立上野原高等学校

私立 日本大学明誠高等学校

小中学校 [ 編集 ]

上野原市立

上野原中学校

上野原西中学校

秋山中学校

島田小学校

上野原小学校

上野原西小学校

西原小学校

秋山小学校

交通 [ 編集 ]

鉄道

東日本旅客鉄道

中央本線 : - 上野原駅 - 四方津駅 -

中心となる駅:上野原駅

路線バス

富士急山梨バス

上野原営業所

高速バス

中央高速バス

中央道上野原

中央道野田尻

道路 [ 編集 ]

高速道路

中央自動車道

上野原インターチェンジ

一般国道

国道20号

五街道

甲州街道

名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 [ 編集 ]

祭事 [ 編集 ]

無生野の大念仏 ( 旧暦1月16日 前後と 新暦8月16日 ) 秋山地区 (無生野)、国の 重要無形民俗文化財

牛倉神社祭典(毎年 9月4日 - 9月6日 まで)

棡原獅子舞(毎年10月1週目の土日)【小伏、日原、猪丸、大垣外】

西原ふるさと祭り(毎年10月2週目の土日)

羽置の里びりゅう館

「長寿村」棡原 [ 編集 ]

現在の 棡原(ゆずりはら)地区 にあたる旧棡原村は「長寿村」として知られた。棡原は戦後の一時期まで山間部の 雑穀 や 菜食 中心の自給的な食生活で、 肉食 は少なかった。 1938年 ( 昭和 13年)に 古守豊甫 (こもりとよすけ)は代用 教員 ・後に 医師 として棡原村に通い、村人に長寿

[69] 太鼓曲輪尾根~八王子城跡: 日々楽しんで, , http://mi-ikeda.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-c6e0.html

� �� �� �� �� �� �� � � 富士見台・556m

2010年1月9日(土)晴れ

高尾山の北、城山川に沿うように東西に延びる太鼓曲輪尾根と八王子城山の周回コースをゆっくり歩いてきました。 太鼓曲輪尾根は、一般ルートではありませんが、道はしっかり付いており尾根上を辿れば明瞭な登山道に合わさり富士見台へと導かれる。

JR尾駅北口ー宮の前バス停9:10-太鼓曲輪尾根取りつき9:18-登山道合流11:15-富士見台12:00/13:00-八王子神社14:10-八王子城址14:35-宮の前バス停15:00ーJR高尾駅

草むら・取りつきの竹藪

宮の前バス停で下車、少し戻り八百屋さんを右に曲がる。少し歩き左に川を見ながら進む川から離れると右前方に小高くなった草むらの中に竹藪に向かって道が付いている。

右前方に取りつき口

竹藪に入り先を左に登ると中宿橋にでる。

中宿橋・中央高速道路

橋を渡り正面の尾根に取りつくが、右にフェンス沿いに少し歩くと尾根に取りつく登山道が付いている。

笹の中にはっきり登山道があり、やがて笹の高さは2m以上になる。右に民家が見え隠れし笹がなくなると自然林の中を歩くようになる。

最初の堀切

一番最初の堀切、下を見るとやや高度感があるが、木につかまりながら下りる。右側を巻くように道が付いている。

正面を下降している所

その後も堀切をいくつも越える。下りは右や左に巻いているので下りやすいが、登り返しが結構きつい所がある。

最後の堀切

一番高度があったように思う。左に巻くように下りる。最後の登り返しが一番きつかった。 堀切と思える所は5か所だが、それらしき所もあり下ったり登ったりとなかなか歩きごたえがあった。

登りきると左からの明瞭な登山道と合流する。 ここからは一般道で左に城山や景信山を眺め富士見台に向かう。

富士見台から富士山

富士見台は、西側が切り開かれまさに富士山の展望台。テーブルでゆっくり談笑しながら昼食を楽しみ城山に向かった。

古井戸 八王子神社

展望台 があり八王子市街、新宿方面が眺めが良い。 休憩後、神社の前の階段を下り八王子城跡入口に向けて下山した。 途中の梅園では、紅梅がわずかにほころび始めていました。

八王子城跡 右に今朝歩いた尾根が見えて来ました。木々の間から弱い光が差し込ん

[70] 道路レポート 神津島の砂糠山にある廃道, , http://yamaiga.com/road/sanukayama/main1.html

2013/4/1 10:39 【現在地】

「この島は、大丈夫なのか?!」

こんなの多分、余計なお世話なんだろうけど…

島が現在進行形で壊れていってないか?

ある日突然に沈没したりしないだろうな?!

これは多幸湾に上陸した誰しもが否応なく目にするはずの、神津島流“おもてなし”の風景だ。

(正面に見える大きな建物が東海汽船の窓口&待合所)

まさか、同じ東京都内で “日原旧道” より規模の大きな崩壊地を目にするとは思わなかったが…。

しかもただの崩壊地というわけではなく、 これが私の進路上にあることは一目瞭然 でありまして。

アハハ…ハハ…ハ……。

昨日の新島に続いて、神津島の都道とも初対面!

この島に1本だけ認定されている都道長浜多幸線の終点付近から、この島での自転車旅を始める。

…のだが、本格的にこの都道を使うのは、当分はお預けだ。

首尾よく砂糠山の最寄り港である多幸湾(三浦港)に上陸した私は、早速そちらへ向かうことにする。

どこまで自転車で行けるか分からないが、行けるところまで行くのは、いつもと一緒。

交差点に設置されていた観光客向けの周辺案内図を見る。

だが、「誰もそんなところ行かないよね?」とでも言うように、砂糠山方面は完全にフレームの外だった。この程度で動じる私ではない!

それより目を惹いたのは、上にあるキャッチコピーが 完全に中2 メッチャ格好いい ことである。

「神々の集いし島 神津島 Kouzushima The Island of Gods」

神々が集ってる島で、まもなく“おいた”をしようとしている私は、どうなっちゃうのかなー。

そんな他愛のないことを考えながら海岸沿いの狭い道を東へと進んでいくと、100mも行かないうちに、行く手には 確実な荒廃 を約束された風景しか見えない状況になってきた。

今はまだ美しい海水浴場を望む朗らかな海辺の道だけど、進路には絶望しかない。

こんな崖を見ながら海水浴出来るのは、日本でもここだけじゃなかろうか?(笑)

つうか、マジでこの先の山の上に、地図に描かれていたような、大きな建物はあるのか?

そもそも、道が通じている気配が無いわけだが。

どうやって資材を運搬したのかとか、根本的に謎だらけだぞ…。

あ〜、これはもう道… 終わってますねぇ。

まだ都道から200mも来ていないが、予想外とは言

とぼう岩

とぼう岩

日原鍾乳洞

日原鍾乳洞

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