愛宕山

愛宕山

[1] 愛宕山 (あたごやま) , 向山 (むかいやま)

38.2458333333333 140.875833333333

Webページ

[2] 愛宕山 (仙台市) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E5%AE%95%E5%B1%B1_%28%E4%BB%99%E5%8F%B0%E5%B8%82%29

愛宕山(あたごやま)は、宮城県仙台市太白区向山にある山である。山の名は山上にある愛宕神社に由来する。かつては向山(むかいやま)とも呼ばれた。標高78m。

[3] 愛宕山横穴墓群 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E5%AE%95%E5%B1%B1%E6%A8%AA%E7%A9%B4%E5%A2%93%E7%BE%A4

愛宕山横穴墓群(あたごやまよこあなぼぐん)は、日本の宮城県仙台市太白区にある古墳時代の多数の横穴墓で、愛宕山の中腹に作られた。今も横穴として口を開いているものもあるが、土中から発掘されたもの、調査されないまま破壊されたものもあり、総数は不明である。そのうちの一つは、赤い顔料で玄室を彩った装飾墓であった。

遺跡の概要 [編集]

愛宕山は、仙台平野の西の丘陵から平野に突き出る低い山で、広瀬川沿いにある。東西に長い山の北斜面と南斜面東側に、多数の横穴墓があり、これを愛宕山横穴墓群という。大窪谷地をはさんで南側の大年寺山にも横穴があり、それは大年寺山横穴墓群という。大年寺山には他にも二ツ沢横穴墓群、茂ヶ崎横穴墓群があり、広瀬河畔の宗禅寺横穴墓群もあわせて向山横穴墓群と総称している。横穴が作られたのは7世紀後半から8世紀初めとみられる。その頃陸奥国の国府が置かれた郡山遺跡は約2キロメートル南東にあり、この国府や周辺の集落に住んだ人々が作ったのではないかと考えられている。

1938年(昭和13年)には、大年寺山の北側と愛宕山の南北にあわせて34個が見つかっており、加えて2、3年のうちに破壊されたものも10以上あったと伝えられる。付図で愛宕山の北に3、東に3、東南に20、他の種類の穴または破壊された穴が9みてとれる。この調査で報告された横穴の位置は今ではわからなくなっているが、宅地造成や道路開削によって破壊され、数や位置が不明のまま失われた横穴が多いことはわかる。[1]

1973年(昭和48年)以降に調査がなされたのは南斜面の穴で、今までに28基が確認されている。別に、南東斜面そばに、赤い壁画がある横穴が1つだけ見つかっている。北側の発掘調査はなされていない。

穴は斜面の中腹に作られ、幅1メートル程の羨道から入り、やや狭く作られた玄門を通って玄室に至る。玄門がない横穴もある。羨道の長さは不明である。玄室は方形か台形で、隅が丸くなったものもあり、ほとんどの横穴は一辺が1から3メートルの範囲におさまる。一つだけ、床面の半分に石を敷いた穴が見つかっている。

概して遺存状態が悪いので、副葬品の全貌はわからないが、これまでに鉄の刀、鉄の鏃、須恵器、土師器、ガラス玉が見つかっている。

愛宕山装飾横穴古墳 [編集]

開口している横穴に近いところに、土中に埋もれて装飾横穴古墳がある。羨道は長さ2

[4] 千葉−鋸山, , http://www.jac.or.jp/oyako/f10/c2050.html

鋸山(標高330m)は鋸の歯のような険しい稜線で、昔から東京湾に入る船の目印とされていました。かつて室町時代から昭和57(1982)年まで、房州石(金谷石)と呼ばれる石材を切り出した石切場跡が残っています。

駅からも近く、徒歩のほかロープウェーや登山自動車道(有料)も整備されており、年齢や体力を問わず誰でも楽しめる山です。また温暖な房総半島に位置しているため1年を通して登ることができ、東京湾をはさんで対岸の三浦半島をはじめ、富士山や晴れた日には大島を見ることができます。

登山コースはかつて切り出した石を運んだ「車力道(しゃりきどう)コース」、東京湾を見下ろしながら登る「観月台コース」がありますが、今回は「観月台コース」を紹介します。行程の前半は金谷駅から鋸山を越えて隣の保田駅まで行く「関東ふれあいの道」になっています。途中、日本寺北口管理所から日本寺境内に入り、日本一の大仏など数々の仏像やすばらしい展望を楽しみます。

また鋸山山頂へは日本寺手前の分岐から分かれ、石切場跡を経由して行きます。参考までにこのコースタイムも掲載します。

[5] 古地図で辿る大久保利通、最期のルート「紀尾井坂の変」 | 東京坂道ゆるラン, , http://sakamichi.tokyo/?p=6805

明治初期の地図を眺めていて、ふと、目に入った「 大久保邸 」。

明治維新立役者の一人、内務卿・大久保利通邸は、潮見坂、三年坂を登りきった辺り、三年町裏霞が関にありました。

古地図:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より大久保邸。

三年町の名は 三年坂 に由来し、この坂で転んだものは三年以内に死すと云う怖い坂щ(゚Д゚щ)。

大久保利通は転んだことがあったのでしょうか?

財務省と文化科学省の間の坂、三年坂

潮見坂

明治十一年(1878年)、邸宅から赤坂仮御所に向かう途中、清水谷の紀尾井坂下付近でテロに遭い、命を落とします。

世に云う「 紀尾井坂の変 」。「紀尾井坂事件」「大久保利通暗殺事件」とも云います。

皇居の火事が起きなかったら。

事件が起きる5年前、明治六年(1873年)5月5日、皇居が焼失し、明治十一年頃、明治天皇は赤坂仮御所にお移りになられていました。火事が起きる前なら大久保利通は、桜田門から皇居に入ったはずです。

古地図:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より大久保邸と桜田門の位置関係(クリックで拡大)。

邸宅( A )から桜田門( B )ならば、テロは起こらなかったかもしれません。

なぜなら、このルートは、明治の元勲、華族の屋敷街(西郷邸などのビックネームがあります)、下士官要請施設である陸軍教導団( C 、現・警視庁)参謀本部( D 、現・憲政記念館)があり、物騒な維新後にあっても、最も安全な道の一つでした。二度と 桜田門外の変 は起きそうにありません。

古写真:馬車が入って行く桜田門

火事が無かったら、大久保利通は襲われることは無かったのではないか?そう思わせる国家施設の配置です。

しかし火事は起き、防備の薄い道を行くことになります。

最期の出仕ルート

赤坂仮御所は今の迎賓館、赤坂御用地のあるところ。馬車でもほんの10分くらいの距離です。赤坂仮御所東門( H )までのルートは以下の通りです。

大久保利通最期のルート邸宅( A )から赤坂仮御所東門( H )(クリックで拡大)。

大久保利通邸の今の場所は?

古地図と現在地図を見比べ、大久保利通邸跡を目指します。大久保利通邸があった場所は、今の内閣府辺りらしい。

古地図:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より大久保邸。

現在図

[6] 隧道レポート 仙台市愛宕山の謎の穴 最終回, , http://yamaiga.com/tunnel/atago/main5.html

75分に及ぶ地底探索によって、我々3人は大都市の地下を1km以上移動していた。

地上に出ると雨が降っており、泥と土臭さが身に沁みた身体をゆっくりとではあるが洗い流そうとしてくれた。

周囲は公園で、テニスに興じる学生達の活気ある掛け声が我々の元にも届いてきた。

しかし、我々は半ば途方に暮れていたのであった。

もと来た穴に戻るのはゴメンだ。

しかし、置き去りにしてきた車へ戻るには、隧道を行くよりも遙かに長い4km近い道のりに耐えねばならない。

雨もさることながら、この泥まみれの身体で仙台駅付近の繁華街を通ることには躊躇いを禁じ得ない。

単純にめんどくさいというのもあるが…。

そんな一行のピンチを救ってくれたのは、仙台在住のオブローダー、はくちょう氏だった。(→氏のサイト『はくちょうnoお部屋』)

彼は、元々この日の探索に途中から合流する予定ではあったのだが、地下にいた我々と連絡を取るのに苦労していた。(洞内で細田氏が通話していた相手も、実は彼だった。)

だが、地上へ戻った我々の求めに応じ、彼は愛車を駆って我々を運んでくれたのである。

しかし…この時の我々3人は、“ただの人”ではなかった。

この汚れぶりである。

それを、幾らビニール袋を座席に敷いたとはいえ… 乗せてくれてありがとうございました!!

そんなわけで、はくちょう氏を加えて4人となった一行は、出発地点に戻った。

先ほど行き残してしまった“壁の向こう”を探索するべく、再び坑口へ向かう。

時刻は午前10時を少しまわっていた。

そして、戻ってきた。

この“樫の木おじさん”へ。

心霊系サイトなどでも、この場所は何かと曰くありげに紹介されたりしているが…気持ちがよく分かる。

なんというか、まあ、お地蔵さんもたくさん集まっているし、一種異様な雰囲気はある。

そして、この穴。

髑髏の眼窩のように見えはじめるともう、それ以外に見ることは不可能だ。

しかし、我々はあくまで冷静でいなければならない。

このような穴は、ざっと見た感じでも周囲に10くらいはありそうだった。

これらの穴の存在も、心霊スポットのように捉える人々にとっては、先ほどまでの水路隧道と同一視または混同されることがあるのだろうが、実は無関係である。

これらの小穴は横穴墓と呼ばれる、古代の墓穴遺跡なのである。

近くにあった案内板

[11] 愛宕山の横穴墓群と水力発電所跡 : ペンギンの足跡Ⅱ, , http://ciao66.exblog.jp/17322529

ちょっと曇り空の散歩です・・・いつもと違うところへ。 広瀬川を渡って来ました。さてここは何処でしょう? 広瀬河畔の「愛宕山横穴墓群」という遺跡です。

[12] 一条戻橋その2 - 京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内 - Yahoo!ブログ, , http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1700/25788399.html

前回の続きです・・

屋代本『平家物語』(剣巻)から、渡辺綱と鬼の対決シーンです・・

まず、原文を掲載します。

「その頃摂津守頼光の内に、綱・公時・貞道・末武とて四天王を仕はれけり。中にも綱は四天王の随一なり。武蔵国の美田といふ所にて生れたりければ、美田源次とぞ申しける。

一条大宮なる所に、頼光聊か用事ありければ、綱を使者に遣はさる。夜陰に及びければ鬚切を帯かせ、馬に乗せてぞ遣はしける。彼処に行きて尋ね、問答して帰りけるに、一条堀川の戻橋を渡りける時、東の爪に齢二十余りと見えたる女の、膚は雪の如くにて、誠に姿幽なりけるが、紅梅の打着に守懸け、佩帯(はいたい)の袖に経持ちて、人も具せず、只独り南へ向いてぞ行きける。綱は橋の西の爪を過ぎけるを、はたはたと叩きつつ、「やや、何地へおはする人ぞ。我らは五条わたりに侍り、頻りに夜深けて怖し。送りて給ひなんや」と馴々しげに申しければ、綱は急ぎ馬より飛び下り、「御馬に召され侯へ」と言ひければ、「悦しくこそ」と言ふ間に、綱は近く寄つて女房をかき抱きて馬に打乗らせて堀川の東の爪を南の方へ行きけるに、正親町へ今一二段が程打ちも出でぬ所にて、この女房後へ見向きて申しけるは、「誠には五条わたりにはさしたる用も侯はず。我が住所(すみか)は都の外にて侯ふなり。それ迄送りて給ひなんや」と申しければ、「承り侯ひぬ。何く迄も御座所へ送り進らせ侯ふべし」と言ふを聞きて、やがて厳しかりし姿を変へて、怖しげなる鬼になりて、「いざ、我が行く処は愛宕山ぞ」と言ふままに、綱がもとどりを掴みて提げて、乾の方へぞ飛び行きける。

綱は少しも騒がず件の鬚切をさつと抜き、空様に鬼が手をふつと切る。綱は北野の社の廻廊の星の上にどうと落つ。鬼は手を切られながら愛宕へぞ飛び行く。さて綱は廻廊より跳り下りて、もとどりに付きたる鬼が手を取りて見れば、雪の貌に引替へて、黒き事限りなし。白毛隙なく生ひ繁り銀の針を立てたるが如くなり。これを持ちて参りたりければ、頼光大きに驚き給ひ、不思議の事なりと思ひ給ひ、「晴明を召せ」とて、播磨守安倍晴明を召して、「如何あるべき」と問ひければ、「綱は七日の暇を賜りて慎むべし。鬼が手をば能く能く封じ置き給ふべし。祈祷には仁王経を講読せらるべし」と申しければ、そのままにぞ行なはれける。

既に六日と申しけるたそがれ時に、綱が宿所の門を敲く。「何くよ

[13] 3276koti, , http://www.ton-press.jp/article/327/3276koti.html

こちら仙台まる秘情報局Report1:向山地下に眠るナゾのトンネル

327号6面・大学

ある晴れた日の昼下がり。その日も局員は、いつものように惰眠を貪っていた。そんな平和を、一本の電話が打ち壊した。局員のタカハシがのっそりと起き上がり、不快な面持ちで受話器をとった。電話は、局員のスズキからのものである。

「あ、もしもし、タカハシさんですか?え、ボスは寝てるって?相変わらずですねぇ。あ、そうそう、噂によるとですね、向山の地下にトンネルらしき長い穴があるらしいんですよ。そんな話聞いたこともないし、向山住人の僕としてはぜひ調査してみたいのですが…」とのことである。電話を受けたタカハシは、深い眠りの中にある局長のナカムラ、通称ボスを叩き起こし、スズキからの電話の内容を伝える。

局内では無類の低血圧を誇るナカムラは、少々苛立ちながら、しかしまんざら興味が無いでもないように、タカハシの話に耳を傾ける。「なるほどな…。いつもは使えないスズキだが、今回の話は面白そうだな」そう言うと、ナカムラは早速調査部隊を結成し、調査に乗り出した。

そうそう、我々について説明するのをすっかり忘れていた。我々「こちら仙台マル秘情報局」は、仙台の穴場スポットを、実際にその地に赴いて調査し、読者の皆さんに周知することを使命とする組織で、新聞部編集長の下に今年六月をもってめでたく結成された。

…と、我々の説明はこのくらいにして、話の本筋に戻ろう。

調査部隊のメンバーは、ナカムラ、タカハシ、スズキの三人である。というか、これで局員はすべてであるというのは絶対に秘密だ。この三人のうち、ナカムラとスズキは広瀬川沿いで聞き取り調査を行い、タカハシは資料室で調べることにした。

ナカムラとスズキが聞き取り調査を始めて二時間ほど経ち、スズキが「もう帰りたい」と漏らし始めた頃、突然ナカムラの携帯が鳴った。

「ボ、ボ、ボ、ボス。つ、ついにそのト、ト、トンネルのものと思われる情報をにゅ、にゅ、入手しました。」興奮のあまり、電話口のタカハシは極度にドモっている。

タカハシの話によるとこうだ。そのトンネルはとても古く、使用目的は不明であるが、追廻から愛宕神社周辺にまで伸びる巨大なものである。追廻側の入り口は封鎖されているが、愛宕神社側の入り口は今でも開いている可能性がある、ということであった。

すぐさまナカムラとスズキは愛宕神

[14] 新島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%B3%B6

気候は年間を通じてやや温暖。常夏と言うことは無いが、東京よりは暖かく、降雪することはめったに無い。また、外洋に面しているため風が強い日が多く、特に冬は「西ん風」と呼ばれる強い西風が毎日のように吹く。

東京からわずか160km南に位置するものの、空気は非常に清浄で、星空や海の美しさは、首都圏とは比べ物にならない。

歴史・文化[編集]

縄文時代から人が暮らしていた可能性があるとされており、出土品も存在する。また、現在でも島特有の方言や題目が残っていたり、冠婚葬祭時には、都心部ではすでに消滅しているような伝統的な儀式を今でも行うなど、旧来の文化が島民の生活に色濃く残っている。

江戸時代から1871年まで、政治犯を中心とした流人が多く流されてきており、島で再度重い罪を犯した者は、絞首刑とされた。総勢で1333人が流されたが、島人は彼らに暖かく接したという伝記が残されている。今でも島内の墓地の中には一段低い場所に流人墓地が存在するが、新島特有の白砂が敷き詰められていて、サイコロ型や酒樽型の墓石などもあり、村人が日々花をたむけるため温かい雰囲気がある。

また流人の刑場であった向畑刑場跡へと続く道には柳が生えており、刑が執行される直前、罪人が現世を懐かしんで振り返った場所であったことから「見返り柳」と呼び、今でも供養の花や酒が供えられている。

長い歴史を裏付けるように、島には今でも数多くの物語・民話が残っている。「山ん婆」や「よべーむん(呼ぶ者、の意)」、海坊主、魔物(まむん)、人魚など妖怪の類の話なども多くあるが、中でも海難法師の話は漫画『地獄先生ぬ〜べ〜』などにも引用されるなど、非常に有名である。海難法師は伊豆諸島の島ごとに少しストーリーが異なっており、リンク先の話とは異なるが、ここでは新島の例の概要を紹介する。

かつて伊豆諸島を視察して回っていた悪代官がいた。こんな人間が各島を回っては迷惑がかかり気の毒だ、と考えた伊豆大島は泉津の若者たちが、船の栓を抜いて沈没させ、悪代官ともども溺死した。この亡霊が村を徘徊し、見た者には不幸が訪れると言う。溺死した代官の亡霊を見た物は発狂するととも失明するとも言われており、実際にそうなった人がいる、と言ういくつもの逸話が村にある。

今でもその話を信じる習慣は残っていて、1月24日は「かんなんぼーし」と呼び、漁業を控え、夜は外出せず静かに過ご

[15] 【まったり駅探訪】陸羽東線・堺田駅に行ってきました♪|歩王(あるきんぐ)のLet’sらGo!, , http://ameblo.jp/aru-king/entry-10548721826.html

皆さま、おはようございます!

昨日は中古車の引取りで秋田市まで行ってきました。

時間と心の余裕さえあれば、

いろいろと巡ってみたい場所もあったのですが、

同伴者がいたことと天候も悪かったこともあり、

寄り道は一箇所に留めることにしました。

そして寄り道した場所が、こちらの駅なのです!

JR陸羽東線・堺田(さかいだ)駅です!

この駅には30年ほど前、

「いい旅チャレンジ20,000km」キャンペーン時代に、

当時中学生だった頃に降り立ったことがありました。

その時に撮影した写真がこちらです。

この写真をブログに掲載したところ、

県境マニアのオーソリティである石井さん

からコメントを頂く事ができ、

以来、再訪したいスポットだったのでした。

それでは早速、堺田駅のホームに降り立ちたいと思います。

こちらの深い階段を降りると、堺田駅のホームに出ます。

いつの間にやら簡素な駅舎へと変わってしまった堺田駅でした。

自分が訪れた30年前には、

大きくて立派な木造駅舎があったのですが、

今ではちっちゃな駅舎に建て替えられたみたいです。

駅舎の「資産票」を見ると建立年は昭和58年。

…ということは、

自分が訪れた直後に立て替えられちゃった訳なのですよ。

もう少し当時の写真を撮っておくべきでした。

大正6年に開業した堺田駅、

列車の行き違いがあったために駅員が配置されていたのですが、

昭和58年の陸羽東線CTC化によって駅員が不要となって無人駅化、

駅舎も簡易駅舎に変わってしまったそうで。

その行き違い設備も、現在は撤去されてしまいました。

使われなくなった対向ホームに立つ県境駅を示す駅名標。

石井さんにも教えていただきましたが、

当時立っていた木製のものは既に姿を消してしまったようです。

あれはあれで味があったのにな…。

しばらくすると、仙台始発のみのさんがやってきました。

なんというタイミング!

当然ながら停車することなく、

みのさんはゆっくりと通過してゆきました。

それにしても本日のみのさんは、そこそこの乗車率でしたよ。

宮城の温泉巡りはこの列車に限ります。

駅の観察も程ほどに終えたら、もうひとつのお楽しみです。

堺田駅の目の前には、珍しい分水嶺(ぶんすいれい)があるのです!

分水嶺をわかりやすく説明しますと…

海域の境界線なのですよ。

上の写真の中央から流れ出た流水は、

[16] 石神井川・豊島園脇の2支流をたどる : 暗渠徘徊の日々, , http://ankyoneko.exblog.jp/14295231/

今回は、石神井川の支流をさらに見ていきます。 タイトルでも「支流」って書いちゃいましたが、川跡の痕跡はほとんどありません。 しかし、谷地形が見所と言えるでしょう。 訪問日:2010/1/24 まずはいつものように国土地理院の「数値地図 5mメッシュ(標高)」CD-ROMからの画像でを見てみましょう。 もう支流名が書ききれなくなってきました。 前回の墓地のある支流の西隣に、短い谷が2本確認できます。

拡大図です。 2本とも、最下流部分は豊島園の敷地内です。 私、豊島園に入場して確認するほど腹は座っていませんので、外から確認できる場所を探してみます。

[17] 京都市 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82

京都市 (きょうとし)は、 京都府 南部に位置する 市 で、同府の 府庁所在地 である。

政令指定都市 に指定されており、11の区を置いている。市域は、 山城国 の 葛野郡 ・ 愛宕郡 ・ 紀伊郡 の全域、山城国の 宇治郡 ・ 乙訓郡 と 丹波国 桑田郡 の一部、さらには山城国の 久世郡 ・ 綴喜郡 にもくい込んでいる [1] 。

日本 全国の 市 の中で 推計人口 では第7位( 参照 )、 昼間人口 では 神戸市 を抜き第6位である。京都府最大の都市であり、府の人口の56.3%を占める(2015年5月1日)。都道府県全体の人口の過半数を占める都市は、 東京23区 を一つの都市として考えない場合は京都市のみである。

都市雇用圏 の基準では、京都市を中心として京都府南部・ 滋賀県 南西部に広がる 京都都市圏 ( 京滋 )が形成されている。また、1.5% 都市圏 の基準では、 京阪神大都市圏 の一角を担う。

794年 ( 延暦 13年)に日本の 首都 となった 平安京 を基礎とする都市で、 明治天皇 が 東京 に 行幸 するまでの約1080年に渡って 天皇家 および 公家 が集住したため「 千年の都 」との雅称で呼ばれる( 首都 に関する議論は「 日本の首都 」を参照)。 平安時代 、 室町時代 の 室町幕府 期には日本の政治の唯一の中心であり、 鎌倉時代 、室町時代の中の 戦国時代 、 安土桃山時代 、 江戸時代 の 幕末 期などにおいても、日本の政治の中心のひとつとして大きな役割を果たした。

平安時代から江戸時代前期までは日本最大の都市であり、その市街地は「京中」、 鎌倉時代 以降は「 洛中 」と呼ばれ、都市としては「京」「京の都」「 京都 」と呼ばれた。江戸時代には 三都 、 明治 期には 三市 、 大正 期以降は 六大都市 ( 五大都市 )の各々の一角を占め、戦後には 政令指定都市 になった。このような中で都市生活者向けの商工業が発達し、特に国内 流通 が活発化した江戸時代には、全国に製品を出荷する 工業都市 となる一方、数々の技術者を各地の 藩 の要請に従って派遣した。その伝統は現在も 伝統工芸 として残るのみならず、 京セラ や 島津製作所 など先端技術を持つ企業を初め、 任天堂 や ワコール など業界トップクラスの本社が集まるなど、現代産業を支えている地域

[18] 美術展, , http://www.geocities.jp/hiroshi_motokawa/bijyutsu/bijyututen33.htm

パンフレット(部分)

はじめに

この特別展のパンフレットはどこかの美術館を訪れたとき手に入れていた。6月末になり会期が残されていないことに気がつき慌てて出かけた。 以前ウオーキングの催しで渋谷区、港区を歩いたことがあり、大使館の多い港区のことが紹介され少なからず興味を持っていた。

会場は三田図書館の4階にある港区立港郷土資料館である。

この資料館が開国150周年の記念事業を平成15年から所在を調査した資料を四つのジャンルに分け時期を追って展示している。

�T通商条約使節の江戸滞在

�U江戸の公使館の姿

�V公使館の警備

�W外国人襲撃事件

�Uの江戸の公使館は、アメリカ公使館、イギリス公使館、フランス公使館、オランダの公館、スイス・プロイセンの宿寺、など国別の様子をうかがい知ることが出来る。派手さはないが、幕末の外国公使館にスポットをあてた素晴らしい展示であったと思う。

オープニングとして展示されていたハリスが用いたサーベルと懐中時計、アーネスト・サトウの用いた木製トランクを目のあたりにすると、150年前に用いられていた物品が単なる入れ物ではなく幕末明治の変革の時期を見てきた生き証人のようにときを語ってくれているように思えた。

ここでは展示されている史料の一部を紹介する。 史料は各種の書簡、日本人が描いた絵、外国人が描いた絵、撮影した写真などである。

�T  通商条約使節の江戸滞在

日米修好通商条約は安政5年6月19日、結ばれ外交使節を江戸に置くことがになった。つづいてオランダ、ロシア、イギリス、フランスと条約を結んだ。このためこれらの国々の使節は次々と江戸に入った。

この頃は公使館が開設される前、修好条約が調印される前の段階である。

「真福寺に滞在するフランス使節が洗濯をしている図」 は『青窓紀聞』という尾張藩の陪臣が記した幕末の世相見聞録の一部で、愛宕山下のフランス人の宿舎・真福寺(現港区愛宕一丁目)で板塀の隙間から見て描いたものだ。

「イギリス使節が滞在した西応寺」 (現港区芝二丁目)は『エルギン卿遣日使節録』で随員ベッドウェルが画いたもの。絵の中では境内で二人の武士、僧侶ひとり、男二人が描かれているが建物と男二人は中国風に感じられる。エルギンらは中国、日本への使節だったらしく、彼らにとって区別が難しかったのだろうか。

「全権委任状を交

[19] MENU | doukutu1234567の2010年06月21日の1番目の記事 - 楽天ブログ(Blog), , http://plaza.rakuten.co.jp/doukutu1234567/diary/201006210000/

マルチ勧誘の罠(画像クリックで拡大します)

屋外でお風呂に入る方法

ようこそおいでくださいました。ネット小説「洞窟ホームレス株式会社 VS FXマルチ商法詐欺会社」です。

小説なので普通のブログとは逆順になっています。

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ホームレスと風俗嬢とジゴロとヒッキーとメイドと拾い屋とネガティブおっちゃん

ヌマさん「これはフィクションなの?」

林太郎さん「フィクションですよ」

リョウさん「え、ぼくらも存在しないとか」

林太郎さん「基本的にはCGですね」

アツシ「え、で、誰が書いていることになるんですか?」

コハル「っていうか、原稿持ちよりでしたよね」

林太郎さん「そうねー」

リンちゃん「あたしは、これ映画化されるといいなぁ」

ヌマさん「あの、向山の早鐘がなんか私にとってはなんかスタートって感じでしたけどね」

林太郎さん「でも、あのときは、もう精製がすすんでますからね」

ヌマさん「そうか」

コハル「映画化って、仙台だと伊坂幸太郎さんみたいに?」

リンちゃん「いいねぇ」

林太郎さん「------(作品名入る)----------」

リョウさん「作者さんと知り合いなんでしょ」

林太郎さん「まあ、---(秘密)---」

みんな「へぇ~」

リョウさん「伊坂さんとは?」

林太郎さん「いちど、プラザであってます。あ、でも、けっこう町でお見かけしますよ。プラザで、この洞窟ご存知ですか?って聞いたことあります」

みんな「へぇ~」

タカカシさん「この本のテーマってあるんですか?」

林太郎さん「そうですね、ぼくらの世代でいきづまっているひとに向けては書いてます。意識しているというか」

リョウさん「なるほど」

林太郎さん「メッセージは、悪いものから遠ざかれということと、みんながつながって希望をもっていれば活路はあるということですかね」

リョウさん「ああ、言ってましたね、解散のときに」

林太郎さん「解散はしてないって。ホームレス中学生じゃないんだから」

コハル「ホームレス中学生はご覧になってます」

林太郎さん「映画ですね」

コハル「ああいうふうに、めぐまれない環境でもがんばればっていうことですか?」

タカハシさん「あの、

[21] 青葉電気工業発電所跡探訪: Sakazuki's Note 2, , http://sakazuki.way-nifty.com/sakazukis_note/2012/02/post-ec1c.html

1月3日のこと。昼過ぎに仕事を終えて仙台愛宕神社へお参り。その後せっかくだからと某所へ足を運ぶ。広瀬川河畔の崖に並ぶ横穴墓をいくつか眺めつつ、本命の探訪先へと足を踏み入れる。

青葉電気工業発電所(仙台愛宕下水力発電所)跡。大正9年(1920年)に建設されたもので出力470Wにて翌年開業、広瀬川大橋下流から愛宕にかけての川の蛇行範囲右岸の山(霊屋下地域)をショートカットするように隧道が掘られ、そこを流す水流により発電を行った施設の名残りである。昭和4年(1929年)頃には操業を停止していたとみられている。ここに隣接していた愛宕プールは発電所から導水していたとされ、昭和18年(1943年)まで存在した。

最近はこの水力発電所跡について知る人も少なくなり、防空壕の跡だとか高射砲台だったんだとか、亜炭鉱山だったなどの噂?が普通に聞こえてくる。そんな水力発電所跡地、隧道の吐水側である愛宕付近を今回は探訪。

で、跡地を訪れた第一印象としては、噂もまんざら出鱈目に出ている訳じゃないんだなぁという印象。つまり、高射砲台だったと言われればそういう気にもなるし、防空壕だったと言われれば鉄扉もあり立派で要人なんかが利用したのだろうかとさえ思えてきたりもする。

自然の崖から出っ張るように築かれたコンクリートの壁に残る梯子。

割と高所に開いている直角に接したアーチ開口部。その周辺にはコンクリートの構造物が自然の崖と一体を成すように作り上げられている。

片方が朽ち落ちた鉄扉。広瀬川の流れの位置関係としては、右が上流側で左が下流側。川は撮影している背後を流れている。ここで水力発電所用の隧道が終わっていることになる。

ということで…鉄扉から内部へ入る。

鉄扉から真っ直ぐに見た内部。コンクリートで整えられた内壁が面を構成しているが、左の壁からは突き出た鉄骨が存在したり、右上には朽ちた鉄筋入りのコンクリ柱の名残があったりと、随分と時間を経てきている雰囲気が強い。

チラリと左側を見る。高所に開いていた直角隣接アーチ開口部は左上に位置。天面は不思議な曲線のつながりで構成されている。床面は一段高くなっているようだ。

一歩踏み込んで右側をチラリ見。得体の知れない四角いタンクらしきものが置かれている。そのタンクには“WHO DARES WINS”とステンシルでのスプレー文字が記されている。「挑む者のみ勝利する」

[22] 仙台愛宕下水力発電所跡(仙台愛宕下水力発電所導水トンネル) - 宮城・仙台 -義蜂ナマズの画像ブログ- - Yahoo!ブログ, , http://blogs.yahoo.co.jp/gibachinamazu/8167554.html

2012年1月3日撮影

宮城県仙台市太白区越路

EOS 50D + SIGMA 10-20mm F3.5 EX DC HSM

そこには、山肌から迫り出すコンクリ壁と、ポッカリ開いた穴と、朽ち果てた鉄扉があった。仙台愛宕下水力発電所跡。または仙台愛宕下水力発電所導水トンネルと呼ばれる場所だ。

仙台電気工業株式会社が大正9年(1920年)に建設されたもので出力470Wにて翌年開業、広瀬川大橋下流から愛宕にかけての川の蛇行範囲右岸の山(霊屋下地域)をショートカットするように隧道が掘られ、そこを流す水流により発電を行った施設の名残りである。昭和4年(1929年)頃には操業を停止していたとみられている。ここに隣接していた愛宕プールは発電所から導水していたとされ、昭和18年(1943年)まで存在した。

これまでUPしてきた数々の画像は、発電所へ水を流していた隧道の末端内部であり、その全景が上画像ということになる。内部にあったダブルアーチは水門であり、アーチの左右の壁にはスリットが設けられていたりする。頭上に開いたアーチ状の開口部は隧道内部を流れてきた浮遊ゴミ等の除去を行う作業口だったと思われる。水門付近の地下空間は存在意図が定かではないものの、発電所時代の何かの名残りだと思われるが、昔は近くに愛宕プールがあり、そこへ水を供給していたという話なので、そのための小規模な水路が地下化していた可能性もある。内部奥のコンクリブロック壁は水路を塞ぐように作られているため明らかに発電所閉所後に転用された時代に設けられたものであるが、何に使われたのかは分からない。また鉄扉は隧道内の水が溢れてしまう位置にあるため、発電所時代は水路との間に隔壁が存在したか、転用後に作られたものだと思われる。

[23] , , http://www.geocities.jp/pf60g180/TK25.html

ある日、“金山隧道”を検索していたら、福島県の相双建設事務所の書いた興味深い論文に遭遇した。

論文の「はじめに」ということで、以下の内容が綴られていた。

「役割を終えた鉄道の跡を訪ねる旅が、近年ひそやかな人気になっている。調べてみると、本県にも「常磐線旧線」「好間炭鉱専用鉄道」「川俣線」「日中線」「日本硫黄沼尻鉄道」などの廃線跡がある。文献を読むと、相双管内にある「常磐線旧線」の「隧道群」は、明治時代のトンネル技術が原形に近い形で、表情の異なるトンネル群として残されており、その中でも「金山トンネル(1646

m)」は、1000 �b級のものが明治20 年代の終わりから30 年代の初めにかけて一般化しつつあった中でも、特に長いものであったことが知られている。

経済産業省では、我が国の産業の近代化に大きく貢献した遺産を、地域活性化にも役立つものとして、平成19年4月に近代化産業遺産として認定を行っており、本県関係では「赤煉瓦製造関連遺産(喜多方市)」「常磐炭坑関連遺産(いわき市)」が認定されている。このうち、いわき市では、これらの遺産を観光資源として活用し、地域づくりに活かそうとする試みが始まっている。そこで、当研究においては、「常磐線旧線隧道群」が近代化産業遺産に匹敵するものではないかと考え、その土木技術的価値を検証し、今後、当地域の歴史を後世に伝える貴重な地域資源として活用できないかを検証することとした。」

要するに、その辺にゴロゴロしている遺構(常磐線廃隧道)を観光資源に生かせないかということを、お役人が真剣に考えたのだ。 現地調査もやっていて面白い。 でも藪も切り開いた後だから、本当の苦労は判らなかったことだろう。

話が進展するかしないか、今後を見守ることとする。

論文は福島県建設協会のホームページに掲載されていたものと思われるが、現在はリンクが切れているようだ。

[25] 道路レポート 東京都道211号若郷新島港線, , http://yamaiga.com/road/tpr211/main5.html

2013/3/31 13:18 【現在地】

いよいよ待望の、新島における廃道探索を開始するわけだが、その前にフォームチェンジを行なった。

探索の邪魔になる60リットルの巨大リュックを「都道開設の碑」付近にデポし、その中に“マトリョーシカ”よろしく潜めていた普段の探索用リュックを取り出して、背負い直したのだ。

これが、このレポートの冒頭より匂わせてきた秘策の“Wリュック作戦”である!

置き去りになるのは主に野営道具などで、食料や貴重品は常に持ち歩くようにしているが、念のためデカリュックは植え込みの中に隠しておいた。(笑)

これで本当に準備完了だ!!

かの「塩那道路」を封鎖しているものよりも厳重な、

有刺鉄線2.5m高の金属製フェンスによる全面バリケード。

開閉部分が存在するが、しっかり施錠されている。

また、脇や下の隙間もしっかり固められていた。

私が何をしているかは敢えて書かないので、画像から判断して貰うとして…

バリケードの先の道路の様子が、明らかに普通じゃない!!

バリケードの前にいるだけでは見る事が出来なかった、カーブの先の部分には、

さらに道を塞ぐように高い砂利の山が築かれているのが見えたが、真の問題はその奥だ。

私には道が無いように見えるんだが。

やっべ…!

しくじったかも……。

バリケードを越えた開放感から、すぐに自転車を足元の路面に降ろしてしまったが、これは先の状況を十分確認し、自転車で走れる状態かをチェックしてからにすべきだった。

…が、もう後の祭。

なんか島に来てから、行動が前のめり気味だな…(苦笑)。

厳重なバリケードに続く、封鎖の第2弾、

“巨大砂利山”が出現!

ここはギリギリ、タイル貼りの歩道部分に、自転車と一緒に進める余地が残っていてくれたが…。

砂利山を躱して進むと、間髪入れず封鎖の第3弾が出現!

今度は“巨大土嚢山”が、行く手を遮る!!

これはなんだ! 道路封鎖の見本市か!

これまた本当に辛うじて歩道部分に余地があり、自転車と一緒に先へ進むことが出来たのだけれど……

なんというかもう先行きに戦戦兢兢。先細り感が半端ない!

そ し て

即座に封鎖の第4弾…

“巨大コンクリートブロック山” で、

道路が完全に打ち切り!

俺の探索はまだおわらねぇえええええ!!!!

などと明らかに虚勢を張りつつ、自転車を担いでCBによじ登る。

[27] 落合川を辿る(6)立野川をさかのぼる : 東京の水 2009 fragments, , http://tokyoriver.exblog.jp/15509789/

落合川シリーズひとまずの最後は、支流「立野川」。3回目でとりあげた南沢湧水群のすぐ近く、向山緑地の崖下の湧水から発し、新落合橋で落合川に合流する全長2.4kmほどの小川だ。小さな河川だが、合流地点の人工的な姿から自然のままの源流まで、ひとつの川の姿の変遷がコンパクトに観察できる好例となっているように思える。合流地点から上流に向かって遡って行ってみよう。 下の地図でオレンジ色で囲んだところが立野川。地図右上から中央下まで辿るかたちとなる。(地図はgoogle mapのキャプチャから。画面のはめ込みができないので、実際のプロット図は こちらのリンク先 を)。

落合川との合流地点付近は、コンクリートの護岸に挟まれ、川底にもコンクリートで何やら構造物が敷かれていて、人工的な都市河川の姿をしている。水質も落合川に較べやや劣っているようだ。(合流地点の写真は 前回記事 を)。

[28] 西大泉町 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%A4%A7%E6%B3%89%E7%94%BA

西大泉町 (にしおおいずみまち)は、 東京都 練馬区 の 町名 。 住居表示 未実施。現行では1179番地のみ存在する。 郵便番号 は178-0066。 面積 は0.002km²、世帯数6世帯、 人口 13人(平成23年現在)。2015年初頭から南側の農地が造成・宅地化され、6件の戸建て建物が建築中である。 [1]

地理 [ 編集 ]

東京都 練馬区 の西部に位置する地域。面積・人口共に練馬区で最も小さく、東西南北が 埼玉県 新座市 片山三丁目に囲まれた 飛地 である。練馬区は西大泉町を埼玉県へ編入する方向で調整し、 1974年 ( 昭和 49年)に新座市当局との間では合意がなされているが、住民全員の合意は得られていないため編入は未実施である。

歴史 [ 編集 ]

詳細は 西大泉 を参照。

なお、飛地が生じた経緯については練馬区も新座市も把握しておらず [2] [3] 、 1974年 に住宅が建つまでその存在すら把握していなかった [4] [5] 。

備考 [ 編集 ]

当地域においては以下の公共サービスの取扱いが 埼玉県 扱いである。

上下水道(新座市)

電気 (東京電力埼玉支店志木支社)

電話 ※ 市外局番 が埼玉県と同じ048である。

脚注 [ 編集 ]

^ 「特集:東京35区の境界線を歩く」、『東京人』第353号、(株)都市出版、 74-75頁。

^ 練馬区の担当者によれば、江戸時代の新田開発と明治以降の市町村合併が原因ではないかと推測されている。 - 西東京エリア情報 わが町のハテナ 飛び地のナゾ(web.archive.orgのキャッシュ) [ リンク切れ ]

^ 新井素子 著『ネリマ 大好き』(徳間書店、1992年、183頁)本文中では練馬区役所の話として、練馬区内の農家が「出作り」していた農地だった、と伝聞している。

^ 明治以来の市町村合併は記録が残っておらず、不動産業者が埼玉県新座市を東京都練馬区と勘違いし、そのまま通ってしまったか。 - 日本一へんな地図帳 白夜書房

^ 詳しくは 練馬区 寄せられた声と回答の要旨 にて。

[29] 山と兎: 市街地で楽しむ山歩き・野猿の尾根道からたどる多摩丘陵の公園。 - 山登りのきろく, , http://yamatousagi.blogspot.jp/2014/03/shigaiti-yaennoonemichi.html

少し考えるところがあって、東京都西部の公園を二つ、歩いてきました。

公園とは言っても、街中にある遊園地みたいなやつではなくて、規模の大きな傾斜のあるような公園です。

かつては多摩丘陵の山林だったものの、今では宅地開発が進んで住宅があちこちにあるような場所。

それでも最低限の緑地は残そうということで保全されているような、そんな公園を訪ねたのです。

スタートは京王線の長沼駅から。

殺風景な駅舎を出ると、南側住宅地の向こうには小規模ながらも森が広がっています。

いったいどんな場所なのだろう?と思っていたのですが、けっこう期待ができそうです。

[30] 港区 (東京都) - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%AF%E5%8C%BA_%28%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%29

概要 [ 編集 ]

企業が本社を最も多く構える区の一つであり、いわば日本のビジネスの中心である。 東京23区 の中央からやや南東寄りに位置している。特に、 虎ノ門 ・ 新橋 ・ 芝 をはじめとしたオフィス街では、経済活動が非常に活発である。 青山 ・ 赤坂 などの商業エリアや、 六本木 などの歓楽街、 麻布 ・ 白金台 などの住宅街、 汐留 ・ 台場 などの大規模開発地区があり、さまざまな表情をもっている。 東宮御所 ・ 迎賓館 (赤坂離宮)をはじめとして 芝公園 ・ 白金台 の 自然教育園 など緑地帯が豊富な自然環境である。駐日大使館や外資系企業も数多く立地しており、外国人居住者も人口の約1割を占める。 江戸時代は広大な武家屋敷と町人町が存在する街で、 文京区 と同様の混在した街であった。

人口 [ 編集 ]

[31] 東京駅(総武線側改札内の現地写真) - 総武・東京トンネル(13) - Reports for the future ~未来へのレポート~, , http://mirai-report.com/blog-entry-23.html

※クリックすると目次ページを表示します。 ■丸の内トンネル:0km344m66~0km000m00(L=344m66 ※横須賀線側へさらに387m00続く) ▼参考 工事誌(総武線)121・190~197・222~225・356・357・379・823~829ページ 工事誌(横須賀線)東京駅断面図 ●概説 → 前々回の記事 を参照。 ●現地写真(地上) ●現地写真(地下・改札外) → 前回の記事 を参照。 ●現地写真(地下・改札内) 丸の内地下中央口を入ったところ 丸の内地下中央口を入ると両側に地下4階へ通じるエスカレータが設置されている。利用者が多いためこのエスカレータは4基で1セット、それが4セットの 合計16基 が設置されており、時間帯によって上り・下りを適宜変更している。また、正面には地上ホームへの連絡階段・エスカレータ、地下街「グランスタ」へ続く通路がある。地上ホームへのエスカレータは当初上り・下りが1基ずつであったが、バリアフリー化の流れを受けて現在は階段の一部を潰して上りを1基増設している。 地下4階改札内コンコース 地下4階でエスカレータが終わり、ホームへはもう1階階段を下りる構成はほかの駅と同様である。東京駅の場合、地下4階からホームへ通じる階段には開業当初から全てエスカレータ(ただし1箇所を除き上りのみ)が設置されている。ここも利用者が多いため、端から端まで構築幅目一杯の広さを確保している。 エレベータ 3・4番線ホームからは地下4階まで1基、1・2番線ホームからは地下1階の改札階まで2基それぞれエレベータが通じている。これは開業当初は存在しなかったもので、1991(平成3)年の「 成田エクスプレス 」運行開始の際に大型のスーツケースなどを持った利用者を考慮して設置されたようだ。3・4番せんがわが地下4階までとなっているのは成田への出発側で利用者が集中しないことと、地下1階改札階のスペースの問題があったためである。 地下5階ホーム 地下5階のホームは2面4線となっている。4線全てが総武快速線・横須賀線両方向に進出可能で、特急の追い越しや当駅折り返しの列車が多数設置されているほか、この構造を生かしてダイヤ混乱時には両線の直通運転を中止して正常ダイヤへの回復を早めている。 また、「成田エクスプレス」は当駅で大船・横浜方面から来た編成と池袋・新宿・渋谷

[33] 廃線レポート 朝熊登山鉄道 鋼索線, , http://yamaiga.com/rail/asama/main.html

今回はちょっとばかりスリリングな廃線跡を紹介しよう。

皆さまは、 日本一 、

いや、

東洋一

とさえといわれた、そんなケーブルカーをご存知であろうか。

大正14(1925)年から昭和19(1944)年までの19年を生きた登山鉄道である。

その名は 朝熊登山鉄道 といい、全長4.2kmの「平坦線」と、全長1.1kmの「鋼索線」からなっていた。

今回紹介するのはこのうちの鋼索線で、これが所謂ケーブルカーである。

そしてこの鋼索線は、廃止されるまで “ある日本記録”を保持 していた。

右図は、この短命に終わった朝熊登山鉄道の姿を描いた数少ない5万分の1地形図である、昭和24(1949)年応急修正版「鳥羽」だ。

平坦線、鋼索線とも昭和19(1944)年には既に休止されていたので、良く見るとこの地形図には、「朝熊登山線」「鋼索鉄道」などの路線名や、「ひらいわ」「あさまたけ」などの駅名、さらに駅の記号上に「×印」が付されている。

本来の地形図の図式にはない表現だが、戦後間もない応急修正版ということで無理やりに修正されている。

朝熊登山鉄道の鋼索線は、その短命さや(実質的な)廃止時期の古さもさることながら、鋼索線の途中に隧道が1本描かれていることが私の興味をそそった。

そこで、「 鉄道廃線跡を歩くVII 」で最低限の知識を得て、あとは行き当たりばったりの現地探索を行ったのが今回のレポートである。

(個人的にケーブルカーの廃線跡が好きで、日光、箱根、赤城、榛名、あとは愛宕山など色々と探索しているが、「山行が」でレポートするのははじめてかも?)

以下は、本路線の経歴と朝熊山についての簡単な解説である。

朝熊ヶ岳(あさまがたけ) (朝熊山、朝熊岳ともいう) は、伊勢市の東部にある標高555mの山で、南北に延びる山嶺は古来から伊勢・志摩両国の境であった。

山頂近くにある金剛證寺(こんごうしょうじ)は、伊勢神宮の鬼門(北東)を守るの奥の院とされ、近世に成立した伊勢音頭に「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」と歌われるほどに多くの参詣者があった。

明治期の廃仏毀釈により一時期衰退するが、伊勢・鳥羽に連なる風光明媚の山岳地としても早くから有望視され、観光開発が進められた。

その初期の開発の中核を担ったのが、朝熊登山鉄道である。

朝熊登山鉄道は、大正8(191

[34] 高幡不動尊, , http://www.kaiun.jp/takahata01.html

真言宗智山派別格本山、高幡山明王院金剛寺は古来関東三不動の一つに挙げられ高幡不動尊として親しまれている。その草創は古文書によれば、大宝年間(701)以前とも或いは奈良時代行基菩薩の開基とも伝えられるが、今を去る1,100年前、平安時代初期に慈覚大師円仁が、清和天皇の削がん勅願によって当地を東関鎮護の霊場と定め、山中に不動堂を建立し、不動明王を御安置したのに始まる。のち建武二年(1335)八月四日夜の台風によってやんちゅうの堂宇(どうう)が倒壊したので。時の住僧儀海上人が康永元年(1342)麓に移し建てたのが現在の不動堂で関東稀に見る古文化財である。続いて建てられた仁王門ともども重要文化財に指定されている。足利時代の高幡不動尊は「汗かき不動」と呼ばれて鎌倉公方を始めとする戦国武将の尊崇をあつめ、江戸時代には関東十一檀林に数えられ、火防の不動尊として広く庶民の信仰をあつめた。

当時門末三十六ヶ寺を従え、関東地方屈指の大寺院であったが安永八年の業火により大日堂をはじめ大師堂、山門、客殿、僧坊等を一挙に消失した。その後、歴代住持の営々たる努力により徐女医復興に向かったが殊に昭和五十年代以降五重塔・大日堂・鐘楼・宝輪閣・大回廊・奧殿等の工事が相継ぎ往時を凌ぐほどの寺観を呈するようになった。日本一と称えられた重要文化財の丈六不動三尊は現在(財)美術院(京都国立博物館内)で修復作業中で、平成一四年春にご帰山の予定である。

[35] 本当に怖い階段 - デイリーポータルZ:@nifty, , http://portal.nifty.com/kiji/160227195827_1.htm

階段ってなんだあれ。

人間が上下移動をするために作ったものだろうが、不便すぎるだろう。タイヤやソリじゃ使えないし、なにより踏み外したら大変だ。危ない。

なにより、5000年前の遺跡にもあるぐらいなのに、そこから現代までまったく進化してないのだ、階段は。踏み外したら怪我とかするのに。全部エレベーターにするべきだろう。

そこでまず「階段は不便で危ない」という注意喚起のために、危険な階段の写真を募集したい。

[36] 人気の名水 銅駝会館 - アートプラス京めぐり, , http://blog.goo.ne.jp/korede193/e/20f47295aa46353f5306ad576e675c10

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[37] 姫街道 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%AB%E8%A1%97%E9%81%93

江戸時代後期になり、幕藩体制が衰えて お蔭参り などの機会に女性が比較的監視の緩い脇道を通り抜ける機会が増えた頃から、本坂道は 姫街道 と呼ばれるようになった。呼称の由来は、東海道の本道である新居(今切)の、関所での取り調べ、舟での渡海、もしくは「今切」の語の縁起が悪いことを嫌って利用した女性が多かった、古くからある道という意味の「ひね」街道が転訛した、本道を男、脇道を女と見なした、など諸説ある。

明治維新政府によって全国の関所と、東海道の宿駅伝馬所が廃止されると、姫街道は街道としての使命を終え、その後は地域の生活路として利用されるようになった。明治以降に新たに敷設された新姫街道は、引佐峠を南に迂回して浜名湖岸を通り、本坂峠越えは廃されて 本坂トンネル を通過するようになった。旧姫街道は廃道となったり、新旧姫街道が重なる区間では幅員の拡張工事が行なわれ、気賀から三方原追分にかけて道の両側にあった松並木の片側が取り払われた。

歴史 [ 編集 ]

古代 [ 編集 ]

静岡県西部から愛知県東部にかけて、本坂峠を越えて浜名湖の北側、三ケ日を通る経路は、先史時代から存在しており、周辺には縄文・弥生時代の史跡も数多い。 上代 には、 天竜川 の下流は 磐田の海 と呼ばれる湖で、東側に 大乃浦 という湖もあったため、この道は 東海道 の本道として利用され、 二見の道 と呼ばれていた。磐田海や大乃浦の水が引いた後、東海道が浜名湖南岸を通るようになり往来が盛んになると、二見の道はさびれていき、裏街道としての役割を担うようになった。この頃の 宿駅 には、「板築(ほんづき)駅」(現在の浜松市三ヶ日町本坂ないし日比沢周辺)や、「猪鼻(いのはな)駅」( 猪鼻湖 の瀬戸または 新居 )があった。

中世 [ 編集 ]

中世には、地震などで浜名湖の南岸が通行不能となったときに利用されていたことが知られている。

近世 [ 編集 ]

近世になって、16世紀初めに浜名湖南岸に 今切口 ができ、渡船が必要となったことが 本坂越 の往来が再び盛んになる契機となった。戦国時代には 徳川家康 の 堀川城 攻めや、遠州に攻め込んだ 武田信玄 の軍勢と徳川軍との 三方ヶ原の戦い などの際に軍勢が街道を行き交い、交通の要衝として関所が設けられた。天正年間には 本多作左衛門 によって新宿が設けられ、街道として整備された

[38] オランダ最高峰の三国境でオランダをまたぐ - デイリーポータルZ, , http://portal.nifty.com/kiji/180307202247_1.htm

国境に関する物騒なニュースが多い。

しかし、国境があるから物騒なわけではなく、社会やひとが、国境を物騒にしているだけであり、国境そのものはただの目印でしかない。

ふしぎな形の国境は、その土地でひとびとがどうやって生きてきたかの証である。

そんな国境を見たくなったので、ヨーロッパに国境を見に行った。

青葉電気工業発電所

青葉電気工業発電所

愛宕山横穴墓群

愛宕山横穴墓群

履歴

[40] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933276157

メモ