川根本町

川根本町

[1] 川根本町 (かわねほんちょう)

35.046873157395 138.081579208374

Webページ

[2] 川根本町 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E6%A0%B9%E6%9C%AC%E7%94%BA

川根本町(かわねほんちょう)は静岡県中部に位置する町。2005年9月20日に榛原郡の中川根町と本川根町が合併し成立した。町域は静岡市と浜松市の2つの政令指定都市に挟まれるように位置している。

[3] 川根本町「無想吊橋」通行止のお知らせ | お知らせ | 川根本町, , http://www.town.kawanehon.shizuoka.jp/news/newsview.asp?cd=10&id=2310

千頭山国有林内の逆河内に架かっています「無想吊橋」は、林業用として架設され、その後不動岳等の登山用等として利用されてきましたが、永年の風雨等によって吊り橋の傷みが著しく、人が安全に渡るには危険な状態です。 このため安全の確保から吊り橋を渡ることを禁止し通行止めとします。 ◆問い合わせ先 静岡森林管理署千頭森林事務所 電話:0547-59-3151 静岡県榛原郡川根本町千頭980-2

[4] 静岡県 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C

静岡県の分類 [ 編集 ]

名目上の行政区分で、 東日本 、 中部地方 、 東海地方 、 広域関東圏 などに区分されている。また、 名古屋圏 や 関東地方 からも独立した地域として、「静岡(県)地方」とされるケースも存在する。しかし、 糸魚川静岡構造線 を挟んで東側と西側に広い面積を占めているため、行政やその他諸々の区分では、これらとは違う区分に属することもある。

全域を一括する場合 [ 編集 ]

東日本 、 西日本

静岡県は、歴史的・文化的経緯や人口・面積の比率・経済等を勘案して、東日本に分類されることが多い。しかし、 日本の経済 の重心が 首都圏 に偏っていることから、特に経済分野で相対的に弱い西日本を補完するために、まれに西日本に分類されることもある。NTTの東西分割の際、静岡県がどちらに編入されるか問題になったこともあり、本来東日本であるNTT東海のエリアだったが東西で利用者数や資産規模のバランスを均一化するために、NTT西日本のエリアに編入された。

西日本 の例: NTT 分割、 Jリーグオールスターサッカー 。

中部地方 ( 東海地方 )、 広域関東圏

静岡県(知事)は、 中部圏知事会議 と 関東地方知事会 の両方に所属している。中央省庁や民間企業の管轄も、中部地方(東海地方)とする機関と関東地方とする機関が混在している。この場合、中央省庁の出先機関の所在地が、中部(東海)はほぼ全て 名古屋 に置かれ、関東は 東京 や さいたま に置かれている場合が多い。

中部地方(東海地方) の例: 衆議院 比例区 (東海ブロック)、 法務省 名古屋入国管理局 、 財務省 東海財務局 、 名古屋国税局 、名古屋 国税不服審判所 、 名古屋税関 、 国土交通省 中部 地方整備局 、 中部運輸局 、 国土形成計画 (中部圏)、 総務省 東海総合通信局 、中部 管区行政評価局 、 人事院 中部事務局、 厚生労働省 東海北陸厚生局 、名古屋 検疫所 、 中央労働委員会 中部地方事務所、 公正取引委員会 中部事務所、 国土地理院 中部地方測量部、東海市長会、 都市機構 (中部)、 国立病院機構 (東海北陸)、 NHK (東海・北陸)、 日本郵便 東海支社、 ゆうちょ銀行 東海エリア、 JAF (中部・東海エリア)、 NTTドコモ (東海支社)、 インターハイ (東海大会)、 選

[5] 無想吊橋 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%83%B3%E5%90%8A%E6%A9%8B

この項目では、静岡県の橋について説明しています。

大分県九重町の橋については「九重"夢"大吊橋」をご覧ください。

広島県八田原ダムの橋については「夢吊橋」をご覧ください。

無想吊橋(むそうつりばし)とは、静岡県寸又峡上流の大井川水系寸又川の支川逆河内川(さかさごうちがわ)に掛けられていた林業作業用の吊り橋。無想の橋、新・無双吊橋、新逆河内吊橋、無想の吊り橋、夢想吊橋とも呼ばれるが川根本町の公式な表記は無想吊橋である。

住宅建築ブームにより植林が盛んだった、1970年代に整備された日向林道(南赤石林道支線)の一部として不動岳斜面への通行に利用されたが、林業の衰退に伴い全線が廃道状態となっている。長さ144m、高さ83m。日本一怖い吊橋[1][2]として知られていた。

概要[編集]

古くから木材産地だった大井川上流の赤石山脈渓谷地帯では、深い谷を越えるため吊り橋敷設が行われてきた。近代に入り鋼索が使用されるようになると100mを越える長い橋が登場するが、無想吊橋はその中でも長さと川底からの高さが群を抜いていた。

構造は、2条の主索と、10 - 20cm間隔の敷線20本程度、約50cm間隔の横桁(そろばん板)、幅30cm程度の踏み板2列から成っている。板はクリ材が用いられ、番線で留めてある。今の橋は二代目で、ほぼ同じ場所に旧橋の主索が少し残っているという。

無想吊橋に限らず、周囲には同様の構造で敷設された吊り橋が多く、例えば寸又峡温泉周辺では夢の吊橋(長さ90m高さ8m)、猿並橋(さんなみばし:長さ96m高さ11m)、下流の塩郷駅そばの久野脇橋(くのわきばし:長さ210m高さ10m、愛称:恋金橋)などは整備され、観光スポットとなっている。

現在の状態[編集]

破損が激しく、本来の作業用途での利用は不可能となっている。日向林道自体が至る所で崩落し落石が発生するなど荒れ果てているうえに、熊の生息地域であり、わずかな釣り人や登山者以外に利用者もない状況が続いており、無想吊橋も崩壊途上にある。安全上の理由により2010年6月29日に通行止めとなった。[3][4][5]

脚注[編集]

^ 永野敏夫、永野正子 『南アルプス 大いなる山 静かなる山 知られざるルート120選』 黒船出版、2000年3月。NCID BB10143435。

^ ザ・ベストハウス123(2006年11月8日)

[6] 奥大井湖上駅 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%A4%A7%E4%BA%95%E6%B9%96%E4%B8%8A%E9%A7%85

概要 [ 編集 ]

海抜は490m [2] 。 長島ダム のダム湖である 接岨湖 に突き出た半島状の陸地の突端に位置する。この場所はダム建設以前に谷が大きく蛇行していた部分の尾根にあたり、駅および鉄橋の湖底(つまりかつての谷底)からの高さは70mもある。

前後を2本の巨大な鉄橋「レインボーブリッジ」(東京港の「 レインボーブリッジ 」より先の開通である。そちらとの区別のため「奥大井レインボーブリッジ」とも)に挟まれ、また周辺に民家等はなく、さながら陸の孤島の様相を呈している。このため「 秘境駅 」に数えられることもある。

この駅は井川線の一部が長島ダムの建設によってダム湖に沈むことから 1990年 に新線に移設された際、新駅として開業したものである。駅構内および鉄橋上からは、ダム建設による切り替え前の旧線の橋が散見できる。

駅構造 [ 編集 ]

単式1面1線のホームを持つ。ホームの一部は橋梁上にもせりだしており、駅名通り「湖上」となっている。

駅の出入口は接岨峡温泉側の鉄橋に併設されている歩道で、これを渡ると階段・山道を経由して 静岡県道388号接岨峡線 に出ることができる。県道には当駅の駐車場も用意されており、駐車場と駅との間は片道で20分ほどの時間を要する。利用者はほぼ全員が観光客であり、当駅や展望の良い丘や橋を通ること自体が人気のウォーキングコースとなっている。大井川鉄道では当駅から接岨峡温泉駅までのハイキングコースを案内している [2] 。

当駅のホーム上には、Happy Bellという「幸せを呼ぶ鐘」がある。この鐘の脇には恋人が愛を誓って錠前をかける場所が用意されており、大井川鉄道ではこの錠前・鍵を販売していた。(2013年1月現在販売は終了している) [2] 。

駅周辺 [ 編集 ]

天狗石山

レイクコテージ奥大井

駅から少し登ったところにある展望施設で、駅周辺唯一の建物。2階建てで1階は休憩所とトイレ、2階は展望台という構造。冬季は閉鎖される [2] 。

歴史 [ 編集 ]

1990年 ( 平成 2年) 10月2日 - 開業。

2001年 (平成13年) - 中部の駅百選 に選定される。

隣の駅 [ 編集 ]

大井川鐵道

井川線

ひらんだ駅 - 奥大井湖上駅 - 接岨峡温泉駅

その他の特徴 [ 編集 ]

1990年 10月2日 に アプト式 を採用した

[7] 道路レポート 川根街道旧道(三ツ野古道), , http://yamaiga.com/road/mituno/main.html

危険な探索でした。

危険と言ったら、日本の急峻を沢山集めた“南ア”エリアの十八番である。

千頭林鉄 のふるさと、川根本町に再登場を願おう。

【周辺図(マピオン)】

左図は川根本町の千頭地区周辺を描いた最新の地理院地図画像だ。

今回探索した道は、この地図をぼんやり眺めているときに、気になり出した。そして簡単な机上調査の末に、探索を決行した。

そんな緩い動機というか、きっかけから、非常に危険な探索に追い込まれた(苦笑)。

さて、この地図の中で、皆さまはどこが気になりますか?

私が着目したのは、 大井川 に沿って並走(一部重複)する 国道362号 と 県道77号 の位置関係であった。

千頭から金谷までの大井川の中流には、国道と県道が川を挟んで両側に並走しているのだが、これは 国道が右岸(西岸)、県道が左岸(東岸) という位置関係を、まるで暗黙の了解でもあるかのように保っていて、国道が左岸へ“お邪魔”するのは、おおよそ42kmの中にたった2箇所、4kmくらいしかない(平成28年現在)。

大井川の激しい蛇行を思えば、もう少し橋を架けて川を串刺しにするショートカットが多くても良さそうだが、そうした改良は、まだまだ発展途上である。

そしてこの地図の千頭付近が、そんなレアな2箇所のうちの1箇所だ。

南から千頭を目指して右岸を北上してきた国道は、「崎平」で大井川を渡り左岸へ移動。以後「田代」「小長井」を経て、静岡方面へ向かっている。

だが、地図を良く見ると、「崎平」で川を渡らず、そのまま右岸の「富沢」「三ツ野」を経由して「千頭」へ至る道も描かれている。

この状況を見て真っ先に思ったのは、「富沢」や「三ツ野」を経由する道が、国道の旧道なのではないのかということだった。

以前、 千頭林鉄 の探索を行ったので、この辺りの机上調査資料は、既に入手していた。

そして、“右岸旧道説”を確かめるべくそれらに目を通すと、早速発見した。

動かぬ証拠。

左図は、『本川根町史 通史編3 近現代』 (以後『町史』とする。なお、この書名は誤記ではない。 本 川根町が平成17(2005)年に中川根町と合併し、現在の川根 本 町になっている) より転載した、「 本川根地域概略図〜明治初期〜 」である。

この図には明治初期の(おそらく近世から引き継いだ)交通網が描かれており、中央を大きく蛇

[9] 大井川 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BA%95%E5%B7%9D

静岡県

静岡市葵区、榛原郡川根本町、島田市、藤枝市、焼津市、榛原郡吉田町

大井川開発史[編集]

大井川は南アルプスの険しい山岳地帯を流下する。流域の平均年降水量は3,000mmと多雨地域に当たるため、古くから水量の豊富な河川であった。加えてフォッサマグナの崩落地帯が上流にあるため土砂流出量も多く、広大な河原を形成してきた。

特に中流部は大蛇行地帯であり、『鵜山の七曲り』と呼ばれる蛇行地帯も形成されている。また、大井川は国境としても利用され、古くは駿河国と遠江国の境界線とされていた。

近世・近代の治水[編集]

1590年(天正18年)、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃五ヶ国を領有していた徳川家康は小田原征伐の後、北条氏の旧領であった関東への移封を豊臣秀吉より命令された。この後、駿河には中村一氏が17万石の駿府城主として、遠江には堀尾吉晴が浜松12万石、山内一豊が掛川6万石として領有するなど秀吉恩顧の大名が封じられた。これは家康を仮想敵とした秀吉による東海道封じ込め政策の一環であった。

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いにおいて東海道筋の大名は秀吉の思惑に反し揃って東軍・徳川方に付いたため、戦後、一豊が土佐へ加増転封したのを始め、堀尾・中村等の諸大名は西日本へ転封となった。その後東海道筋は天領・親藩・譜代大名で固められ江戸の防衛に当てられた。この際、大井川に関しても、江戸の防衛に加え家康の隠居城であった駿府城の外堀の役目を果たすため、架橋はおろか船による渡し舟も厳禁とされた[1]。このため大名・庶民を問わず、大井川を渡河する際には馬や人足を利用して輿や肩車で渡河した川越(かわごし)が行われた。このため、大井川は東海道屈指の難所とされ、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と詠われた。もちろん、これは難所・大井川を渡る苦労を表現した言葉である。

[2]。

1696年(元禄9年)幕府は川の両側に川会所を設け、渡渉制度の管理のために2名から4名の川庄屋を置いた。川会所は島田と金谷に設置され、それぞれ大井川を渡河する拠点の宿場町となり賑わった。川会所は江戸の道中奉行の直轄として、毎日川の深さを計測して江戸に飛脚で報告したほか、川越賃銭や渡河の順番の割り振りの運営にあたった。とりわけ洪水の際には川留めが行われた。水深四尺五寸(1.5m)、人足の肩を超えると全面的に渡河禁止と

[10] 梅雨の晴れ間の大井川流域林道ツーリング 後編 (WR250F) : Nakaの泥轍日記, , http://naka1md30.exblog.jp/22462355/

日曜日の林道ツーリングの後半戦です。 中川根でWRにはガソリン、人間には水を補給してから、再びお山へ! 麓から林道南赤石線を登っていきますが、行けども行けども舗装路ばかりで一向にダートが出てきません・・・ 何と、林道南赤石線のダートは、川根本町と浜松市との境界である大札山登山道から杉川林道の分岐までのわずか1.7kmほどしか残っていませんでした。がっくし。

[12] 道路レポート 静岡県道388号接岨峡線旧道 東藤川地区, , http://yamaiga.com/road/itisiro/main.html

【周辺地図(マピオン)】

今回採り上げるのはタイトルの通り、静岡県道388号接岨峡(せっそきょう)線の旧道にあたる道である。

右図に赤く示したラインが、それである。

地図上では、この旧道にこれといった不自然さは見あたらないと思うが、冒頭で「県道の旧道」と言い切らず、「旧道にあたる」という遠巻きな表現をしたのには訳がある。

もう一度地図を見て貰いたい。

この場所は、川根本町の中心地である千頭地区から5km半ほど北に入った奥泉地区で、寸又峡へ向かう県道77号川根寸又峡線と、接岨峡へ向かう県道388号接岨峡線が二岐に分かれている。

寸又峡へ向かう道と、接岨峡へ向かう道が、混在している場所。

この2系統の道が、それぞれのペースで新道を建設してきた結果、「旧道にあたる道」は、少しだけ複雑な変遷を遂げているのだ。

その過程で、名前も何度も変わってきた。

本編に入る前に、一帯のルートの変遷を地図上で見てみよう。

鍵になるのは、大きな文字で示した“3本の橋”たち。

渡谷(とや)橋、川根路(かわねじ)橋、泉大橋である。

※右のように枠が赤い画像は、カーソルオンで表示が変わります。もし変わらない方は、こちらから【表示】して下さい。

昭和27年と42年の地形図を比較してみる。

なお、右下の円部は奥泉地区の拡大図である。

上の2枚の地形図から分ることは、昭和27年当時、接岨峡へ通じる道と寸又峡へ通じる道は、奥泉集落内で分岐して“いなかった”ということだ。そして、この当時はまだ、自動車が通れる道が奥泉まで到達していなかったことも読み取れる。

対して昭和42年版になると、渡谷橋を通って大井川の左岸伝いに接岨峡を目指す車道が開通している。

だがこの道は県道接岨峡線ではなく、森林開発公団が建設した「大井川林道」という林道だった。

『森林開発公団十年史』によると、大井川林道は昭和35年から40年の間に建設され、全長は14.4km。 その一部として渡谷橋が完成したのは昭和36年だった。

一方の奥泉集落を通って寸又峡へ通じる道も車道に変わっているが、こちらもほぼ同じ時期に東京営林局が建設した林道である(『本川根町誌』による)。

おおよそ15年の間に相次いで林道が開通し、一帯の交通事情は一変したことが理解される。

(本編とは関係しないが、大井川鉄道も中部電力の専用線から旅客も扱

[13] 橋梁レポート 無想吊橋 , , http://yamaiga.com/bridge/musou/main5.html

2010/5/6 16:28

自らのミスで失ってしまった渡橋動画への執念から、前回探索の15日後にあたる2010年5月6日に、私は再び無想吊橋へ赴いた。

今回は自転車を持参しており、林道歩行の時間を短縮する作戦に出たが、色々あって到着したのは前回よりも遙かに遅い午後4時半。

帰り道のことも考えたら、もはや悠長に構えている場合ではない。

この写真は、日向林道上の無想吊橋入口である。

わずか2週間だが、淡い新緑はすでに深緑へ姿を変えつつあった。

(比較写真)←路上の石の数が明らかに違うが、ほぼ同じ位置のはず…

恐ろしい。

今回は動画撮影が目的の入山なので、写真はあまり撮影していない。

最初に撮影した動画はこれ。

橋へ下っていく歩道の途中で撮影した、アンカーの観察だ。

【動画1】

まもなく橋頭へ辿り着いた。

いまからちょうど1年前の姿であり、当時はまだなんら封鎖されるような事はなかったのだが、今年(2011年)に入ってから川根本町の手によって、この橋門を塞ぐような柵と「老朽化のため通行止め」という看板が設置されたとのことである(読者情報による)。

事実ならば残念だが、既に橋を設置した千頭営林署が改組のため消滅し、林業作業道としての管理も停止して久しい現状では、いつかそうなる運命だったと言えるだろう。

この場所で2本目の動画を撮影した。

橋頭部に固定したカメラで、環境音を収録したものだ。

非常に僅かではあるが、橋全体が風で動いている様子も見られるはずだ。

(揺動については、次以降の動画の方が分かり易いが)

【動画2】

というわけで(?)さっそく、橋上の人となる。

さすがに前回探索から2週間しか経っていないのと、

帰宅翌日に動画紛失に気づいてから、ずっと恋い焦がれていた事もあり、

自信を持って渡って行けた。

慣れというものの恐ろしさだが、(封鎖されていなくても)今行ってもこうは行かないだろう。

【動画3】

3本目の動画は、大体このあたりの位置で撮影。

前回よりも少しだけ風が強く吹いており、しかもその強弱は時間と共に変化していた。

残り20m地点にある、最恐怖地点。

しかし今回、この部分の渡橋は遠慮した。

当初は対岸の探索も考えていたのだが、色々あって、時間が足りなくなってしまった。

さすがにこんな山中で夕暮れを迎えのは嫌だし、風も強くなってきて

[14] 田舎吊り橋 Vol.18 静岡逆河内「新逆河内吊橋(無想吊橋)」【ぶんかびと】, , http://bunkabito.jp/magazine/article_tsuribashi/vol_0018/index.html

危険な廃林道をひたすら進む

前回の「天地吊橋」から千頭ダムに戻り、再び山ビルだらけの過酷な山道を登って日向林道に戻る。 ここからまたもや長い廃林道歩きとなる。 日向林道は一度延々と下って川のすぐ傍まで近付き、再び延々と登って行く。 相変わらず荒れ果てた林道には、「源平崩れ」と名前まで付けられた大きく崩れた斜面や、谷になった箇所から流れ落ちた小さい滝が、林道全体を南アルプスの天然水浸しにしていたり、あるいは落石によって転がり出た巨大な岩が大きく道に横たわるなど、危険が山のようにある。 恐ろしいことに、ツキノワグマの物だと思われる、大きい動物の糞も落ちていた。

そのような難所続きの林道を登って視界が開けると、そこには南アルプスの山々が広がり、素晴らしい景色が続いていく。 林業が盛んだった1970年代の頃に使われていたと思われる小屋が林道の少し下に見えたが、その人工的な建物を含めても、人間の気配は全く感じない。

そういった原風景を横目に蛇行する日向林道を進むと、目の前に信じられない光景が飛び込んできた。 深い谷のとんでもない高さに細い吊り橋が掛けられているのである。 これが今回紹介する「新逆河内吊橋」である。

無想と呼ばれる吊り橋

昭和51年に撮影された航空写真 国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)【ccb-76-18_c5b_2】より

日本でこれほどの吊り橋は他に残っていない。 数々の難所を越え、ようやくたどり着いた伝説の吊り橋。 私たちの目に映ったその衝撃は、はかりしれないものであった。 高さ約80メートル、長さ140メートルの景観はまさに圧巻。 遠くから見える光景は、もはや現実味すらなかった。 そして、素直に「感動」してしまっていた。

実はこの場所には嘗て「無想吊橋」という吊り橋があり、更にそれを渡った先にある小さな流れ込みである白沢を渡す短めの吊り橋が架かっていて、どれもとんでもない高さでありながら、針金と薄い板で作られた不安定な吊り橋であった。 無想吊橋とその先の白沢を渡す吊り橋は、1970年代後半には既に崩壊して渡れなくなってしまい、その3本の吊り橋の中で最も長く、高い位置に架けられたこの「新逆河内吊橋」だけが残ったのだ。 しかし、その名前のインパクトからか、残された「新逆河内吊橋」が今では「無想吊橋」や「新・無想吊橋」と呼ばれている。 川根本町や静

[15] 静岡県道223号(清水港土肥線)の認定 - Yahoo!ブログ 道徒然話 - Yahoo!ブログ, , http://blogs.yahoo.co.jp/kasuga_3z/8661134.html

駿河湾航路を「県道223号」に 富士山の眺望魅力(2012/10/28 08:11)

県が認定手続き 世界遺産へ弾み

県は、清水港(静岡市清水区)と伊豆市土肥を結ぶ駿河湾横断ルート(延長約30キロ)を「県道」として認定する手続きに入った。現在、駿河湾フェリーが定期船を運航している航路に当たる。海上から富士山の景観を楽しみながら伊豆に向かう路線で、正式な路線名は県道223号清水港土肥線。

路線認定は伊豆半島6市6町首長会議が要望していた。県は富士山世界文化遺産登録を見据え、観光振興や地域活性化などにつながると判断し、路線認定を決めた。来年7月の富士山世界文化遺産登録実現に向け、富士山の語呂合わせで「海の県道223(ふじさん)号」としてPRする。

県道路保全課によると、 海上区間を県道指定しているのは全国で5路線 、海上国道は24路線がある。海上県道は渡し船が航行するなどして架橋を見込んでいる場所が大半で、観光・交流の目的に特化した海上区間の県道認定は全国初という。

県道223号は過去、千頭停車場寸又峡線(川根本町)だったが、1994年の県道の統廃合で、空き番号になっていた。認定手続きは、政令市として県道223号の起点となる静岡市の関連議案の議決を経て、県議会2月定例会に諮る。

履歴

[17] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054529444258

メモ