岩泉町

岩泉町

[1] 岩泉町

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[2] 大正6年発行地図と災害年表マップから岩泉町の過去の水害を読み解く。 | TOKAIMON地域大学, , http://tokaimon.net/blog/2016/09/21/post2038/

地域づくり

2016.09.21

オオミ ショウヘイ

大正6年発行地図と災害年表マップから岩泉町の過去の水害を読み解く。

台風10号により多大な被害を受けた岩泉町。その中で聞こえてきたのは、記録に残る中では、ここまでの水害は初めてのことだ、ということ。数々の証言もそれを裏付けているわけですが、では記録に残っていないほど以前はどうなのでしょう。

昔は堤防も現代のように立派なものはつくれないですし、危ない土地にはそもそも建物を建てないとか、危ない土地だとわかるように名前をつけるだとか、今とは異なる形の減災を実施していました。今回被害を受けた土地はもともとどのよな場所であったのか調べてみました。

スタンフォード大学による明治〜昭和初期の日本地図公開

古い地図を探していたらヒットしたのがこれ。なんと日本全国どこでも無料で見ることができます。

stanford.maps.arcgis.comの日本地図

乙茂エリア

さっそく岩泉町も調べてみましょう。まずはグループホーム楽ん楽んや岩泉乳業、道の駅いわいずみがある乙茂エリア。

[3] 岩泉線 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%B3%89%E7%B7%9A

岩泉線(いわいずみせん)は、かつて岩手県宮古市の茂市駅と同県下閉伊郡岩泉町にある岩泉駅を結んでいた東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(地方交通線)である。

茂市駅で山田線から分岐していた、第二次世界大戦中に耐火煉瓦の原料となる耐火粘土の輸送のために建設された路線で、日本国有鉄道(国鉄)時代に特定地方交通線第2次廃止対象線区に選ばれていた[1]が、並行する道路が整備されていなかったため、代替道路未整備を理由に名松線[注釈 1]とともに廃止対象から除外された[2]。2010年7月31日に発生した土砂崩れによる脱線事故のため、以来全線で運休になっていたが、2012年3月30日にJR東日本は鉄道での復旧を断念し、バスによって輸送を継続したいという方針を発表し[3]、2013年11月8日に廃止届が提出され[4]、2014年4月1日に廃止された[5][6]。

歴史[編集]

全通までの経緯[編集]

岩泉線の歴史は、1922年に公布された改正鉄道敷設法の別表第8項に掲げる予定線として「岩手県小鳥谷ヨリ葛巻ヲ経テ袰野[注釈 2]付近ニ至ル鉄道及落合付近ヨリ分岐シテ茂市ニ至ル鉄道」と規定されたものに端を発する[8]。この予定線は、袰野で三陸海岸沿いに走る別の予定線「岩手県久慈ヨリ小本ヲ経テ宮古ニ至ル鉄道」(別表第6項)[注釈 3]に接続するものであった[8]。

この予定線は直ちに建設に着手される見込みはなかった[8]が、第二次世界大戦に入ると、小本川上流で耐火煉瓦の原料となる耐火粘土が採掘されることから、これを輸送する路線として山田線茂市駅から浅内駅に至る鉄道路線が着工されることになった[7][注釈 4]。

この路線は小本線と称し、まず1942年6月25日に茂市駅から岩手和井内駅までの区間が開業した[8]。次いで岩手和井内駅から押角駅までの区間も1944年7月20日に開業した[2]が、この時点では岩手和井内駅以遠の区間は貨物輸送のみであった[2]。その先も浅内駅までの延長工事が進められていた[2]が、第二次世界大戦中には開通せず、耐火粘土は索道によって押角駅まで運ばれていた[2]。また、木材輸送も行われていた[8]。

終戦後も工事は継続され、押角トンネルが貫通した出口に宇津野駅を設け[2]、1947年11月25日に押角駅から宇津野駅までの区間も開業[8]、これと同時に岩手和井内駅か

[4] ◆東北鉄道鉱業線(岩手県), , http://www.cafe-dragoon.net/trip/rosen/tohokukougyoutetsudo_line/index.html

(概要)

明治期から大正期にかけて、日本の工業化は急速に進み、燃料としての石炭の需要は急速に伸びていった。そこで東北鉄道鉱業(株)は自社が所有する岩手県下閉伊郡小川村大字門(現在の岩泉町)にあった小川炭鉱から産出する石炭を運搬することを目的に、さらに沿線の豊富な森林資源の運搬、また鉄道空白地帯であったこの地で旅客営業を行うことも視野に入れた鉄道建設計画を立ち上げました。

折しも1922(大正11)年の改正鉄道敷設法別表に「小鳥谷より葛巻を経て袰野付近に至る鉄道及び落合付近より分岐して茂市に至る鉄道」が予定線として示されてから鉄道敷設の気運が高まり、1922(大正11)年5月30日には小鳥谷〜小本間の鉄道建設が認可(鉄道免許交付)され、1926(大正15)年11月4日には現在のIGRいわて銀河鉄道線小鳥谷駅にて盛大な起工式が行われ、その様子は写真として残されています。

計画の第一期として小鳥谷〜小川村(現在の葛巻町)間の約53kmの工事が建設費660万円を見込んで着工されました。1929(昭和4)年当時には小鳥谷〜葛巻間の約24kmの40%程が完了していたものの、一会社で工事が困難な山岳地帯の鉄道敷設工事は容易ではなく、関東大震災や世界恐慌の影響を受け、資金難に陥り工事は中止。その後、別会社が引き継いだが、鉄鋼界の不景気で計画は終わった。最終的には1941(昭和16)年7月23日に小鳥谷〜門間の鉄道免許が取消された。背景には現在の岩泉線(当時は小本線)が着工して石炭の輸送路が確保されたことが影響していると思われます。

路線は計画では小川炭鉱近くの門(かど)から馬淵川に沿って北西に進み、葛巻町を経て一戸町小鳥谷地区にて東北本線に接続する136kmの路線、また門から東へ進み太平洋側の小本を経由し、そこで南進して茂師港(もしこう)に到達する約40kmの路線、合計約200km弱の本線に加え、さらには落合で分岐して茂市に至る、現在の岩泉線にほぼ一致する支線が約30kmという、当時の東北地方では最大の私鉄計画でした。

この路線は長らく忘れ去られていましたが、近年「鉄道廃線跡を歩く(10) 」によってその存在が知られるようになりました。

また地元一戸町で2011年5月1日〜15日にかけて「幻の鉄道計画90周年展〜東北鉄道鉱業線〜」が開催され、展示会では、鉄道敷設免許申請

[5] 道路レポート, , http://yamaiga.com/road/r340_osikado/main2.html

いよいよ、国道340号線に合流。

並走する超ローカル線のJR岩泉線の存続の鍵を握るとされる、国道である。

ちなみに、その関係とは、国道が改良される⇒鉄道は不要になる、というもので、鉄道存続派と国道改良推進派の双方がいる岩泉町にとっては、一朝一夕には進まない難しい問題である。

しかし、今のところは、岩泉線は現役である。

つまり、国道は未改良と考えられるわけだが、その“酷”道ぶりは、果たして如何なるものなのか!

レポートをご覧頂きたい。

<地図を表示する>

浅内

国道340号線に入るとすぐに1.5車線の道が始まる。

そのまま、沢沿いを1kmも行かぬうち、浅内の集落に達する。

ここは、昭和32年から昭和47年まで、永く国鉄小本線の終着駅だった場所。

狭い谷間に、意外なほど民家が密集しており、一帯の集落の中では栄えた印象を受ける。

しかし、すぐにそれも終わり、再び沿道の風景は、元の山中に戻る。

そして、一本のトンネルが目の前に現れた。

これは川代トンネルで、ここから暫しの区間は立派な2車線である。

一見して、新道だ。

[8] 袰野の「吊り橋」は素敵。, , http://furusato.fmii.co.jp/iwaizumi/%E8%A2%B0%E9%87%8E%E3%81%AE%E3%80%8C%E5%90%8A%E3%82%8A%E6%A9%8B%E3%80%8D%E3%81%AF%E7%B4%A0%E6%95%B5%E3%80%82/

こんにちは。みっちゃんばあばです。

5/12日の中継は、小本袰野地区の小本川にかかる 生活道 の吊り橋からでした。

橋の長さおよそ100メートル、橋の幅は2メートルほどです。国道側の「日向」から「宮本」を見ています。

太いワイヤーが・・ きしむ! 揺れる! 上下にも、横にも。

だいたいにして、みっちゃんばぁばは、高いところも、揺れるところも苦手なのです。

橋板の間から川がみえると、さらに「怖い!」

橋の真ん中で見る上流部。とうとうと流れる川には、魚影あり!

こちらは、下流部。どちらも絵になりますねえ。

中継に最中にウグイスの鳴き声が…!「ホーホケキョ」「ホー!ホケッキョ!」

橋を渡って「宮本 」には農地が広がります。地区の人は一輪車で、農業用資材を運びます。

(田植えの済んだところもありました。)

吊り橋のお話しをしてくれたのは、10年間、袰野公民館長を務めた昆野睦雄さん。

子どものころ、通学路だったこの橋を、自転車で渡った思い出や、管理の苦労話などを話していただきました。

吊り橋を支えるワイヤーが伸びないように、除雪も欠かせないとのことでした。

昆野さん、ご協力ありがとうございました。

[9] 奥羽本線旧線・きみまち阪公園付近の隧道群・その6(最終回): 世界のサトアツブログ, , http://satoatsu.moe-nifty.com/blog/2012/09/post-e41d.html

第二小繋隧道を抜け、今回の探索の最終目的地を目指した。

隧道出口の左側には崩れた建物があった。その近くには耕作放棄された水田跡(畑跡?)があったので、それに関係する小屋だろうか?

それらを左手に見ながら先に進むと、目的物が見えてきた。

ここが今回の探索の最終目的地である七座信号所跡である。

信号所のホームなのでかなり簡素な作りになっている。

青森方面に向かって右側のホーム。

ちなみにホーム側面には『1965-9』と書かれたプレートが貼られていた。

こっちが逆に左側のホームである。

こちら側のホーム付近にはこの信号場に関連する建物の土台部分のようなものがあったが、どのようなものなのかはよくわからなかった。

この信号場の先には第一小繋隧道があるようだが、ちょっとこの先には進めそうにもないようなので諦めた。

と書くと聞こえはいいのだが、なんてことはない事前の調査が適当だったため、第一小繋隧道を失念していただけだった・・・orz

次回の宿題だなこりゃ。

振り返ってもう一度七座信号所跡を見てみる。

この信号場から国道へアプローチする道路があるため、アクセスは非常に容易だ。

また国道の戻る途中に湧水が湧いていた。水が冷たくて気持ちが良かった。

道の駅に戻る途中国道から第二小繋隧道の坑門が見えた。

この季節ならすぐに発見できる。

道の駅のすぐ近くの旧奥羽本線の路盤跡をずっと目で追いかけていたら、路盤下にレンガ造りの暗渠隧道が見えた。

そして道の駅ふたついに戻って今回の探索は終了。

若干心残りの部分もあったが(第一小繋隧道の未探索とか)、とりあえずはこんなもんでしょう。

この日は他の場所の探索もあったし、急いでそちらに向かったのであった。

[10] 奥羽本線旧線・きみまち阪公園付近の隧道群・その5: 世界のサトアツブログ, , http://satoatsu.moe-nifty.com/blog/2012/09/post-8d09.html

第四小繋隧道の探索を終え、見つけることができない第三小繋隧道は放置プレーし、次の第二小繋隧道を目指すため、再度道の駅二ツ井に戻ってきた。

道の駅を左手に見送りさらに先に進んで行くと、どこかの工場(こうば)か若しくは資材置き場のような場所が見えてくる。

この奥に目的の第二小繋隧道がある。

幸いゴールデンウィーク中は当然休みのようなので、ササッと脇道を通らせてもらった。

水場や水を流す堀のようなものがあり、長靴を持ってきていないのが本当につらかった。

そしてそれらを潜り抜けた先には・・・、

あった!!第二小繋隧道だ!!

足場がヘドロのような場所もあったため、慎重に近づいた。

そしてとうとう第二小繋隧道の目の前に立った。

第四小繋隧道以上に立派な坑門であった。全体が立派、というかレンガ造りだな。

隧道右上部には『No.2』と書かれていた。一発でこの隧道が第二小繋隧道だと分かっていいね(笑)

また坑門の下半分は両方とも崩れており、中の赤レンガがはっきり見て取れる。

それじゃ中に入ってみる。

この隧道は第四小繋隧道とは違い、出口付近が軽くカーブしているが、明かりは見えるため長さはそれほどでもなさそうだ。

またこの隧道はつい最近までキノコ栽培か何かのの場所として利用されていたようで、それらに使用されていたモノ(送風機なども残骸もあった)が地面にたくさん散らばっていた。

ガラスだけは踏まないように気を付けながら先に進んだ。

途中退避抗を撮影。

ちなみに右上の看板には『水位注意』と書かれていた。

反対側の出口が近づいてきたのだが、こちらは入口側よりもさらにひどい状況であった。

機材やら木材やらが足元一杯に散乱しており、出るのに大変苦労した。

・・・・・・まぁ勝手にここに来ているのはこっちのほうなのだが。

そして第二小繋隧道の反対側の坑門。

こちらは入口側とは違ってシンプルな坑門だが、予想以上にきれいであった。

坑門脇には『1955-9 工藤組』と刻まれていた。

また碍子の残骸がぶらーんとぶら下がっていた。

第二小繋隧道の側面も非常に丁寧に作られていた。

というかこれだけ出っ張ってしまうと列車が通るのに邪魔になるんじゃないかと心配してしまった。もちろんそんなことは無いのだろうが。

路盤跡はさらに向こうに続いていた。

次回は隧道は無いけど、最終回。

結構変わったものがあったよ。

[11] 奥羽本線旧線・きみまち阪公園付近の隧道群・その4: 世界のサトアツブログ, , http://satoatsu.moe-nifty.com/blog/2012/09/post-582f.html

ようやっとこさ隧道に会うことができた。

ちなみにこの隧道は第四小繋隧道という名前のようだ。

早速坑門をチェックしてみる。

キレイな馬蹄型の坑門であり、崩落箇所なども全然見当たらない。

よーしそれじゃ中に入るかと思ったら・・・、

ゲゲッ!汚くて入れない・・・

Σ(¯ロ¯lll)

今日は長靴を忘れてきたのでムリして突入することができないんだよね・・・。

しかも何かシダ植物のようなものも生え始めているし。

まぁ入れないなら入口から可能な限り調べてみるか。

というかこの隧道入口から少し入った場所でちょっとだけ狭くなっているな。

向こうはレンガ造りのようだから、後から入口だけ広くしたのだろうか?

もしそうだとしても意味が良くわからないのだが・・・・。

さてこちら側からはこれ以上調べることができなさそうだし、明らかに一直線の隧道で閉塞はしていなさそうなので、もう一度公園側に戻って隧道入口を探してみるか。

戻る途中もう一度米代川ときみまち坂公園の桜が見えた。

そして再度公園に戻ってきた。

先ほどの隧道の高さから考えて、実は思った以上に低い場所に線路があるようだから、写真に見える「桜まつり」の看板を左に進んだところ・・・・。

あっさり見つかりました・・・orz

さっきまでの捜索は一体何だったんだ・・・・・・・。

il||li _|¯|○ il||li

ま、気を取り直して調べてみるか。

ちなみに入口の坑門脇にはご丁寧に『奥羽本線旧トンネル(昭和46年まで使用)』とか書かれている。

どうせなら隧道の名前(第四小繋隧道)も書いてくれれば完璧だったんだけどなぁ。

内部に入ってみる。

まず長さだがそれなりに長そうだが、200メートルは無いだろう。

また入口左側の側面には『50』と『1956-11』と刻まれていた。

1956-11というのは完成(もしくは改修・拡張等の作業)が終了した年月日だと思われるが、『50』というのはどういう意味があるのだろうか?

まさかこの隧道の制限速度ではないと思うのだが・・・。

しかし右側の側面を見てみると『1968-3』と刻まれていたのだ?

左右で全く違う年月日が刻まれている・・・。どう解釈してよいモノやら・・・。

また隧道中央部付近で崩壊があったようだ。

向こう側からは全然わからなかったなこれ。

まぁ通ることができない隧道の調査はこれくらいにして、次の隧道を調べ

[12] 奥羽本線旧峯ノ山隧道その2: 世界のサトアツブログ, , http://satoatsu.moe-nifty.com/blog/2011/06/2-d8ef.html

さてさて、旧峯ノ山隧道の北側坑門を探しにやってきた。

国道を走っていくと、パーキングエリアがあった。ここを起点に探してみようと思った。

車を止めて降りてみたら、なぜかサントリーオールドの空き瓶が2本も落ちていた。誰か車中泊でもしたのだろうか。

パーキングエリアから下を見たら、いかにも怪しい道があった。もうこれは直感で旧線跡だなと思った。

そんでそこへ降りようと思ったのだが、適当な道がなかったので崖をおりた。

で降りた。現線は川を鉄橋で渡向こう岸のほうへ続いているようだ。そこから歩いていくと、いよいよ怪しげな雰囲気になってきたぞ(笑)

そしてとうとう、旧峯ノ山隧道北側坑門に到着した。入口付近は軽くだが水没していた。

坑門はよくある昔風の?レンガ造りでちょっぴり感動した。先に見た刺巻旧隧道はシンプルな坑門だったからだろうか?

・・・いや、南側坑門へ近づけなかったからだろう。

坑門左側下部にこの坑門の特徴があった。かなり変わった形をしているのだが、どういう目的でこのように作られたかはよくわからない。

拡大したところ。ほんとによくわからない。でもこのデザインはちょっと気に入ってたりして。

それぢゃいよいよ内部に侵入する。入口付近が水没しているのでコースを選びながら慎重に進んでいった。

内部はバラストが敷かれているわけではなく、土やらヘドロっぽいのがあった。

内部に入ってから入口を見てみた。水没しているが、一部に木材が散乱しているところがあり、その上を歩いて渡った。

また入口脇にも木材が積まれていた。ひょっとしたら木材の貯蔵場所として使われていた時期があったのかもしれない。

隧道は軽くカーブしているが、長くはないのですぐ出口の明かりが見える。

出口付近に近づいてきたのだが、さっき南側からみたとおりこちらも水没していそうな気配がしてきた。

そして出口付近に到着してビックリした。

まるで台風が通過した後のような雰囲気があった。そしてヘドロも大量にありそうな気配がする・・・・・・orz

風雪除けのためのスノーシェードは片っ端から吹き飛んでおり、廃隧道っぽい雰囲気をいい感じにアレンジしている。

南側坑門はスノーシェードのせいでうまく全景を撮影することができないのだが、何とかとることができた。

北側坑門と同じようなデザインだ。ただ北側にあった気に入った小窓のようなもの?を見つけること

[13] 奥羽本線旧峯ノ山隧道その1: 世界のサトアツブログ, , http://satoatsu.moe-nifty.com/blog/2011/05/1-7fd1.html

5月GW連休の隧道探索の前半(田沢湖線旧刺巻隧道群)の探索を終え、続けて奥羽本線の新線切り替えに伴う廃隧道群の探索へと向かった。

途中角館を通ったのだが、桜まつりの最中だったらしく渋滞が始まっていた。

もちろん世界のサトアツは桜などより隧道が好きなので、無視してさっさと進んでいった。

今回紹介する隧道は峯ノ山隧道というのだが、この隧道は探索の直前まで全然存在を知らなかった。

刺巻隧道群の探索だけでは物足りないと思っていたのでネットでネタを探していたら見つかった、ということである。

目標の隧道は奥羽本線の羽後境駅と峰吉川駅の間にある。

この場所は来たことはないがある程度知っている。

何故かというと、むかし流行った電車でGOの秋田新幹線を運転したときに何度も通ったのだ(笑)。

なんだか意味不明な親近感の持ち方だが、それはそれ。これはこれ。

それぢゃ向かうか!

地図を見てみるとこの辺りが怪しそうだった。国道13号の脇にいかにも線路の保線用道路への入口っぽい場所があったのだ。

入ってすぐに写真のような施設があった。何の目的なのかはよくわからなかったが、よく見てみると雪が積もりすぎたら降ろしてくれみたいなことが書いてあり、いかにも豪雪地帯らしい説明文だなと感じた。

わけの分からない施設からかなり急な下り坂を降りたところ。道が結構湿っていたので靴がすべって大変だった。

で長年の勘からここら辺は新線と旧線の分岐っぽい場所だとピーンと来た。

そして後ろを振り返ったら・・・。

あった!!峯ノ山隧道だ!!!

そこからゴッツリして隧道へ向かおうと思ったら・・・。

入口付近水没してるやん!!

無理すればイケなさそうなこともないが、ほかの隧道探索もあることから南側坑門のアプローチを諦めることとした。(最後の隧道探索なら濡れるの覚悟で突っ込むこともあり得るかと思った。というか長靴持って来いよ俺・・・orz)

ここで立ち尽くしても仕方がないので、気を取り直して、それじゃあよし反対側(北側)から調べに行くこととした。

行こうとしたら秋田新幹線こまちがまたまたやってきた。

次回は北側坑門からアプローチ!

[14] 道路レポート, , http://yamaiga.com/road/r340_osikado/main.html

本州最大の面積を有する町「岩泉町」。

県都盛岡市に隣接し、太平洋にもその端を置くというその広大さは、チャリという人力の乗り物で走ることで最もよく実感される。

その上、その町土の大半が北上山地の1000m級の山地と、その隙間に穿たれた深い峡谷によって構成されており、移動の困難は言うまでも無い。

一般国道340号線は陸前高田市と八戸市を結ぶ長大な南北路であり、全線が北上山地と共にあるという、嫌になるくらいの山路である。

そのなかでも特に深い歴史を有するのが、今回紹介する「押角峠」である。

読みは『おしかど』。

これまでネット上でこの名が露出したのは、私の知る限り…、峠にあるという隧道にまつわる心霊話くらいだろうか。

まあ、マイナーな峠道だ。

押角峠の道は、それだけでも十分に“ネタ”になる、魅力的なものであった。

しかし嬉しいことに、ここ岩泉町とその周辺には、他にも私を刺激するスポットが多数ある。

レポートでは、一本の道にこだわらず、寄り道を交えつつそれらをも紹介していきたい。

あなたのお気に召すスポットもあるとよいが…、

それでは、これより始まるやや長い、数回に分けてのレポートにお付き合い願いたい。

<地図を表示する>

JR岩泉駅 構内

レポートの始まりは夜。

しかも、無人の終着駅。

ここは、JR岩泉線の終着駅、岩泉。

JRが現在所有する鉄道の中でも、最も営業係数の悪い、つまり赤字路線の筆頭に上げられる路線の一つだ。

それでもなお廃止を免れているのは、一説に、沿線の他の交通が余りにも遅れている為に、鉄道の公共性を重視してのことという…。

しかし、その実情は夜が明けてから、見ていこう。

今はただ、眠い。

盛岡市から、国道106号線を宮古まで、さらには国道45号線を岩泉町の太平洋沿岸にある小本まで北上。

内陸へと20kmほど歩みを進め、やっとたどり着いた、この日の目的地である。

延べ15時間の間に、170km位は走った。へとへとだ、マジで…・・。

明朝の一番列車は、午前8時4分初、宮古行き。

余りにも遅いが、現在では一日にこの駅を訪れる列車は僅か3本。致し方ないだろう。

むしろ私にとっては、人の往来から離れてゆっくりと眠れるので好都合だ。

もっとも、今の私に許された旅の時間は残り少なく、明日は遅くとも9時までには、約50k

[15] 岩泉線の廃止決まる、JR東が届出 - 鉄道コム, , http://www.tetsudo.com/news/922/

JR東日本は、土砂崩落により運休している岩泉線の廃止を決定し、8日に国土交通大臣に廃止届を提出した。

岩泉線は、山田線の茂市駅から分岐し、龍泉洞の玄関口となる岩泉駅に至る38.4キロの路線。1942年に開業し、1972年に全線が開通した。いわゆる盲腸線で、自動車の普及や沿線人口の減少から廃止が検討されたこともあるが、バス転換が困難といった理由で廃止されず、1日3往復(茂市~岩泉間)が運行されていた。

2010年7月、押角~岩手大川間で土砂崩落が発生し、列車が乗り上げて脱線。以降、全線でバスによる代行輸送が行われている。同社は復旧に伴う費用が多額になることに加え、復旧に要する期間の長さ、利用者の減少を考慮し、復旧の断念を表明。今月7日に地元自治体との間で、同線の廃止について合意が成立した。

今後、同社は押角トンネル(約3キロ)を岩手県に、茂市~岩手和井内間(約10キロ)を宮古市に、浅内~岩泉間(約7.4キロ)を岩泉町に、それぞれ無償で譲渡する。県は国道の難所区間の迂回路としてトンネル区間を道路に転用。道路改良に関する工事費の一部を同社が負担する。また、廃止後の代替バス運行に伴う赤字分を、同社が全額負担する。

2013年11月8日(金)19時17分更新

投票・みんなの意見

岩泉線の廃止、受ける影響が大きいと思うのは?

岩泉線の廃止が決まりました。その影響を最も大きく受けると思うのはどれか、1つ選んでください。

投票結果(計5項目/462票)

各項目の下部には、最新の支持コメントを表示しています。 各項目のは未投票の項目、は投票済みの項目であることを示します。

自分自身

[16] バイクで旧岩泉線を訪問してみる・その4(岩手大川駅からと岩泉駅まで) - きたへふ(Cチーム)のブログ, , http://blog.goo.ne.jp/cars-kitahefu/e/b89eb7fa72711ac77d4995b3d5035142

【記事作成日:2014/5/3、現地訪問日:2014/4/26】

このエントリでは、

バイクで旧岩泉線を訪問してみる・その1(横浜→茂市駅まで)

バイクで旧岩泉線を訪問してみる・その2(茂市駅→岩手和井内駅まで)

バイクで旧岩泉線を訪問してみる・その3(押角峠と押角駅)

の続きとして、今回の岩泉線沿線見学ツアーの最後となる

岩手大川駅の手前から終点岩泉までをバイクで訪問したときの

状況を記載します。

旧岩泉線 茂市駅から岩泉駅まで (クリックでgoogle mapの元データへ)

A…茂市駅

B…岩手刈屋駅

C…中里駅

D…岩手和井内駅

E…押角駅

:

かつてこの間に宇津野駅あり(廃駅)

:

F…岩手大川駅

G…浅内駅

H…二升石駅

I…岩泉駅

1. 雄鹿戸トンネル先から岩手大川駅まで

雄鹿戸トンネルから岩手大川駅までの地図(抜粋)

60岩泉町へ突入

雄鹿戸トンネルを抜けると岩泉町に入ります。

61押角峠の下り

岩泉町側の道は、それ程険しくはありませんでした。

62岩泉線の高架橋

高いところを岩泉線が走っています。

列車から見る眺めはきっと良かったんだと思います。

岩泉線に乗れなかったことが、本当に残念です。

63高架橋にも柵

なお、こうしたところにもしっかり柵が張られて

立入近似状態になっていました。

64県道171号線との分岐点

T字路型の交差点に到達します。

岩泉駅方面は右側ですが、岩手大川駅は左にあるので

一旦左方面へ寄り道します。

65落石注意

なお、ここから岩泉側は「この先5km付近まで落石に

特に注意して通行してください」との警告がありました。

66大川駅分岐

県道171号線から駅の方の道に入ります。

67あじのある大川駅と小中学校の案内板

イイ感じです。

68大川駅&トイレ

いかにも田舎の駅舎といった感じです。

69大川駅・右側

何といっていいのか分かりませんが、なんとなく

学校の花壇の先に駅があるような感覚でした。

70大川駅・茂市側

大川駅のホームから見た線路の風景は、

すでに廃線が進んでいるなぁ〜といった感じでした。

71大川駅・岩泉側

岩泉側も同様です。

72なくなっている駅名標

この駅も看板がなくなって枠だけになっています。

続け

[17] , , http://www.geocities.jp/pf60g180/TK07B.html

広報釜石に掲載されたこの場所は何処なのか。

山々の感じからすると、かなり下の方と思われる。一部複線となっている箇所であることから、それなりに路盤幅も広くなっているようで、それだけが頼りであった。

[18] 隧道探険隊, , http://yamaiga.com/tunnel/kuzumaki/main.html

大正の終わり頃、岩手県の馬淵川(まべちがわ)流域に、北上山地を縦断する遠大な鉄道計画があった。

それは、現在の岩泉町門(かど)地区にあった小川鉱山の経営者達が企図したもので、東北鉄道鉱業線と言った。

計画によればその経路は、小川鉱山から北西の国境峠を越え、その先は葛巻町内を馬淵川に沿って北西に進路を取り続け、最後は一戸町の小鳥谷(こずや)で東北本線に接続するもの。

また、小川鉱山は終点ではなく、さらに岩泉町内を東進し太平洋岸の小本(おもと)にあった茂師港までも計画されていたし、さらには現在のJR岩泉線の経路を通って茂市(もいち)へと進む支線まで予定されていたと言うから、一鉱山が計画した路線としては甚だ大がかりなものであった。

土地勘のない方には地名だけ羅列されてもちんぷんかんぷんだと思うので大ざっぱに言えば、今述べた路線を全て建設すれば、総延長は120kmを超える。

さらに、この長大な鉄道計画は絵空事で終わらず、大正15年11月4日には小鳥谷駅にて盛大な起工式が催されている。

第一期工事として小鳥谷〜門の50キロあまりが着工され、昭和4年には、最も工事が進捗していた小鳥谷〜葛巻の24km中、約10kmほどの路盤工事が終わっていたという。

しかし、現在この鉄道は存在しないし、開業したという記録もない。

昭和4年からまもなく資金繰りに行き詰まりはじめ、その後の増資計画も不調に終わり、工事は凍結。

さらに、鉱石搬出の手段として茂市までの索道が完工すると同時に、正式に鉄道計画は破棄されたのだった。

県土横断鉄道の夢は破れ、沿線となるはずだった各地に、微かな痕跡だけが残された。

(以上、「いちのへの駅」 ならびに、「全国鉄道廃線跡を歩く�]」(JTBキャンブックス刊)参照)

いくつか、開通した隧道もあったらしい!

前出の「鉄道廃線跡を歩く�]」によれば、小鳥谷〜葛巻〜門の間には、いくつかの隧道が実際に掘られていたらしい。

その現状を把握するべく、私が初めてこの地を訪れたのは、2005年4月のある日のことであった。

そして、第一次探索として葛巻から馬淵川沿いの未成線跡を捜索しながら、小鳥谷まで走り抜けた。

しかし、工事凍結から76年を経過した遺構は極めて不鮮明な箇所が多く、そもそも、全線が実際に建設されていたわけでもないために、県道をチャリで走り

[19] 滝沢市 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E6%B2%A2%E5%B8%82

歴史[編集]

1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、南岩手郡滝沢村・鵜飼村・大沢村・篠木村・大釜村の区域をもって滝沢村が発足。

1897年(明治30年)4月1日 - 所属郡が岩手郡に変更。

1965年(昭和40年)10月25日 - 村章・村歌・滝沢音頭を制定[1][2][3][4]。

1989年(平成元年)4月1日 - 村制100周年。

1990年(平成2年)8月17日 - 村民憲章を制定[5]。

2014年(平成26年)1月1日 - 滝沢村が市制施行して滝沢市となる。

単独市制移行に向けての経緯[編集]

2013年12月1日の時点で岩手県内13市15町5村のうち7番目に人口が多く、市に昇格可能なだけの人口には早くから到達していたものの、長らく「村」にとどまっていた。これは、峠を挟んで巣子地区(旧・滝沢村周辺)と鵜飼地区(旧・鵜飼村周辺)に世帯・商業地が分散してしまっているため、村内にはっきりとした市街地の集積がないことや、村民の多くは隣接する盛岡市に通勤・通学し、普段の買い物に関しても盛岡にほぼ依存しており、盛岡市のベッドタウンとしての位置づけが強いことなど、人口以外の「市となる条件(地方自治法 第八条第一項)」を満たしていないためであった。

さらに、市となる条件を満たしていないという直接的な理由のほかにも、「村」という言葉に人が抱く「のどかで豊かな美しい場所」というイメージのブランド性を維持するためという、戦略上の理由もあった[6]。

中核市指定を目指していた盛岡市との合併案も持ち上がり、盛岡市では合併協議会も設立されたが、滝沢村民による強い反対により実現しなかった。なお盛岡市は2006年(平成18年)、岩手郡玉山村を編入合併して人口30万人を達成し、2008年(平成20年)4月に中核市に指定されている。

滝沢村単独で市制施行することについては、1997年(平成9年)に当時の村長だった柳村純一が意欲を示したものの、その時は結局実現に至らなかった。しかし、全国の人口5万人以上の町村は大半が単独市制に移行している[7]ことや、2009年(平成21年)度の村民アンケートで盛岡市との合併に反対する意見が63.5%と、2007年(平成19年)度調査より2.2ポイント上昇していることなどを背景に、2011年(平成23年)から市制移行に向けた動きが再び始ま

[20] 国道340号 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%81%93340%E5%8F%B7

国道340号(こくどう340ごう)は、岩手県陸前高田市から北上山地を縦貫して青森県八戸市に至る一般国道。上り街道。新小本街道、九戸街道とも呼ばれる。

概要[編集]

距離 : 253.4km

起点 : 岩手県陸前高田市(気仙町 = 国道45号交点、国道343号起点)

終点 : 青森県八戸市(塩町交差点 = 国道45号・青森県道1号八戸階上線交点)

八戸市内・新荒町交差点(青森県道251号妙売市線交点)と塩町交差点の間は八戸港方面への一方通行となっている。

指定区間:なし

歴史[編集]

陸前高田・住田間[編集]

1954年(昭和29年)1月20日 - 県道遠野高田線の一部が、世田米高田線(岩手県気仙郡世田米町(現・住田町) - 岩手県気仙郡高田町(現・陸前高田市))として主要地方道の指定を受ける[1]。

1954年(昭和29年)8月16日 - 県道世田米高田線として認定される[2]。

1964年(昭和39年)12月28日 - 主要地方道としての路線名が陸前高田住田線に変更され、起点と終点が入れ替わる[3]。

住田・遠野間[編集]

1959年(昭和34年)3月31日 - 県道遠野住田線[4]として認定される[5]。

1971年(昭和46年)6月26日 - 県道遠野住田線が、遠野住田線(岩手県遠野市 - 岩手県気仙郡住田町)として主要地方道の指定を受ける[6]。

遠野・宮古(川井)間[編集]

1954年(昭和29年)1月20日 - 県道川井遠野線の一部が、遠野川井線(岩手県上閉伊郡遠野町(現・遠野市) - 岩手県下閉伊郡川井村(現・宮古市))として主要地方道の指定を受ける[1]。

1954年(昭和29年)8月16日 - 県道遠野川井線として認定される[2]。

宮古(茂市)・岩泉間[編集]

1959年(昭和34年)3月31日 - 県道岩泉茂市線として認定される[5]。

1971年(昭和46年)6月26日 - 県道岩泉茂市線が、岩泉茂市線(岩手県下閉伊郡岩泉町 - 岩手県下閉伊郡新里村(現・宮古市))として主要地方道の指定を受ける[6]。

岩泉・葛巻間[編集]

1954年(昭和29年)1月20日 - 県道小本小鳥谷停車場線の一部が、宮古葛巻線(岩手県宮古市 - 岩手県岩手郡葛巻町)として主要地方道の指定を受ける[1]。

1954年(昭和29年)8月16日 - 県道宮古葛巻線とし

履歴

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メモ