富士川

富士川

[1] 富士川 (ふじがわ)

35.1865213991195 138.606777191162

Webページ

[2] 富士川 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B7%9D

富士川(ふじかわ)は、長野県・山梨県及び静岡県を流れる河川。一級水系富士川の本流であり日本三大急流の一つに数えられている。 甲斐と駿河を結ぶ水運としての要路であり、古くから人々の暮らしに密着してきた。

[3] 静岡県 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C

静岡県の分類 [ 編集 ]

名目上の行政区分で、 東日本 、 中部地方 、 東海地方 、 広域関東圏 などに区分されている。また、 名古屋圏 や 関東地方 からも独立した地域として、「静岡(県)地方」とされるケースも存在する。しかし、 糸魚川静岡構造線 を挟んで東側と西側に広い面積を占めているため、行政やその他諸々の区分では、これらとは違う区分に属することもある。

全域を一括する場合 [ 編集 ]

東日本 、 西日本

静岡県は、歴史的・文化的経緯や人口・面積の比率・経済等を勘案して、東日本に分類されることが多い。しかし、 日本の経済 の重心が 首都圏 に偏っていることから、特に経済分野で相対的に弱い西日本を補完するために、まれに西日本に分類されることもある。NTTの東西分割の際、静岡県がどちらに編入されるか問題になったこともあり、本来東日本であるNTT東海のエリアだったが東西で利用者数や資産規模のバランスを均一化するために、NTT西日本のエリアに編入された。

西日本 の例: NTT 分割、 Jリーグオールスターサッカー 。

中部地方 ( 東海地方 )、 広域関東圏

静岡県(知事)は、 中部圏知事会議 と 関東地方知事会 の両方に所属している。中央省庁や民間企業の管轄も、中部地方(東海地方)とする機関と関東地方とする機関が混在している。この場合、中央省庁の出先機関の所在地が、中部(東海)はほぼ全て 名古屋 に置かれ、関東は 東京 や さいたま に置かれている場合が多い。

中部地方(東海地方) の例: 衆議院 比例区 (東海ブロック)、 法務省 名古屋入国管理局 、 財務省 東海財務局 、 名古屋国税局 、名古屋 国税不服審判所 、 名古屋税関 、 国土交通省 中部 地方整備局 、 中部運輸局 、 国土形成計画 (中部圏)、 総務省 東海総合通信局 、中部 管区行政評価局 、 人事院 中部事務局、 厚生労働省 東海北陸厚生局 、名古屋 検疫所 、 中央労働委員会 中部地方事務所、 公正取引委員会 中部事務所、 国土地理院 中部地方測量部、東海市長会、 都市機構 (中部)、 国立病院機構 (東海北陸)、 NHK (東海・北陸)、 日本郵便 東海支社、 ゆうちょ銀行 東海エリア、 JAF (中部・東海エリア)、 NTTドコモ (東海支社)、 インターハイ (東海大会)、 選

[4] 身延線 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BA%AB%E5%BB%B6%E7%B7%9A

2008年から、富士宮市の富士宮駅の西側700mの区間で高架化工事が行われた。この区間は路線と静岡県道414号(旧国道139号)が並走しており、県道や市道などの道路が踏切を越えるとすぐに県道414号との交差点に差し掛かり、踏切と交差点の信号機によって慢性的な渋滞が発生しており、これを解消するためである。高架化にはプレキャストアーチ構造高架橋という工法が採用され、日本で初めての施工となる[4]。高架は2012年に完成した[5]。

線形は25‰[1]の勾配と半径200mの急曲線が連続し、中間の山岳区間では特急でも表定速度が50km/h 程度に落ちる。このため、列車交換待ちや長時間停車することがあり、88.4kmの全線でも、所要時間は2時間半から3時間半程度かかる。これは、6.5km短い木次線と比較すると、ほぼ同じか少し長い。また、旧富士身延鉄道として建設された当時、狭小トンネルのままで電化されており、以来拡張工事などが行われていないことから、入線できる車両には車高制限がある(詳細は後述)。このためJR東海のすべての車両設計では、当路線よりも車両限界の小さな予讃線を運転する285系をのぞき、最狭隘となる身延線の車両限界を勘案することになっている。

末端の善光寺駅西側から甲府駅にかけては中央本線と並行して走る。そのため、JRの前身である日本国有鉄道(国鉄)の時代は、ほかの区間が静岡鉄道管理局管内であったのに対し、同区間は東京西鉄道管理局の管内であった。国鉄分割民営化に際してはJR東海とJR東日本の会社境界が金手・甲府駅間にある甲府駅第一場内信号機付近に設定された。

山梨県内では富士川の右岸を国道52号が併走する。将来的には並行する形で中部横断自動車道が建設されることになっており、2006年12月までに山梨県内の双葉ジャンクション - 増穂インターチェンジ間が開通している。増穂インター以南の区間では測量も完了し、鰍沢口駅付近から南部町内までの区間は身延線と近接する形で建設される予定である。

運行形態[編集]

優等列車[編集]

特急「ふじかわ」が甲府駅 - 富士駅 - 静岡駅間で7往復運転している。富士駅 - 富士宮駅間・身延駅 - 市川大門駅間・市川大門駅 - 甲府駅間等の30km以内の区間では、自由席特急料金が310円と格安に設定されており、主要駅については、特急「ふじかわ

[5] 道路レポート 山梨県道10富士川身延線 城山旧道, , http://yamaiga.com/road/ypr10_ide/main.html

【位置図(マピオン)】

山梨県道10号の富士川身延線を紹介するのは、今回のレポートが最初だと思う。

身延町と同じ山梨県南巨摩郡内に富士川町というのがあるが、なんとも紛らわしい事にこの県道が身延町と結んでいるのは、お隣の静岡県に平成20年まで存在した富士川町(現:富士市)の方である。したがって静岡県道としても同番号・同名の路線が存在している。そして主要地方道に指定されている。

両県分を合せた本県道の全長は35km以上あるが、その経路は「富士川沿い」というひと言で片付けられるくらい単純で、特に山梨県内では富士川の左岸が定位置のようになっている(一部右岸を通っている)。

富士川沿いの幹線道路というと国道52号が有名だが、山梨県内での両者の関係は、さながら富士川という鏡面の表裏である。

そして県道10号で最初に採り上げたいと思ったのが、この旧道である。

現行地形図では破線で描かれている(右図で赤く着色した部分)約800mの道は、図中にある「城山トンネル」の旧道ではないかと予想した。

それほど長い区間でもなければ、大きな橋やトンネルが期待されるような場所でもないが、JR身延線と絡み合うように描かれている事や、発電所の敷地を通行しているように見えるなど、何となく気になる要素があった。

いわば、ただの道ではない予感があった。

県道10号の認定は(少なくとも山梨県内において)昭和33年と古いのだが、お馴染み「道路トンネル大鑑」巻末の隧道リストに城山トンネルの名前は無い。

現地や古地形図などで確認したところ、城山トンネルの開通は昭和51年と意外に最近の事だったようなのだ。

そして今回は、探索前にこれらの古地形図を見た。

この昭和27年と明治29年の2枚の地形図に共通しているのは、「車道」と見なされる道路の線が、前掲した現行地形図の「徒歩道(破線)」と同じ位置に描かれていることだ。

これにより、確かに「旧道」であった事が分かる。

対して2枚の地形図の違いといえば、昭和の版には鉄道と発電所という二つの巨大施設が、道路と絡まり合うように狭隘な土地を割拠している事である。

これらの施設について調べると、鉄道が開通したのは大正7年であり、当初は私鉄の富士身延鉄道として開業、昭和16年に国鉄身延線となった。

発電所のほうは、昭和16年に日本軽金属(株)が富士川第一発電所とし

[6] 佐野オトリ店の鮎便り: 十島堰魚道を上る天然鮎の写真, , http://sanoayu.blogzine.jp/blog/2013/05/530_de56.html
[7] 人生爆発寸前: 13/05/25 富士川サイクリング, , http://dappyon.de-blog.jp/top/130525-fujikawa-cycling.html

唐突ですが,車を買い換えました.

見ての通り,自転車を乗せられるようになって

これから遠出するのに重宝しそうです.

[8] 道路レポート 山梨県道10富士川身延線 城山旧道, , http://yamaiga.com/road/ypr10_ide/main2.html

2012/12/10 15:35 【現在地】

刮目すべきJRと町道の超絶近接区間は長く続かず、踏切から約80m、そのうちの最も接近している終盤40mほどを終えると、接近の度合いはそのままながら、両者の間に高低差が付き始める。

そして、その高低差が人の背丈の倍くらいまで膨らんだところで、正面の小高い岩山によってまるで篩(ふるい)でもかけられたかのように、進路がまちまちとなる。

そんな篩われた2本の道の姿が、私にはこう見えてしまった。

↓↓↓

もっとも、

左の道の冷遇は、それが「旧道になってしまったから」というのではなかった。

どちらの方が最初にあったのかといえば、道の方なのだ。

別に鉄道は道路の進路を奪ったわけではなく、大正7年(鉄道開通年)当時の両者の力関係を如実に現わしているに過ぎなかった。

そのことだけが救いのように思われる、道路にとっては厳しい風景であった。

線路に切り残された小山を辿る町道は、これまで同様の強烈な狭さのまま、西日を満面に浴びて光り輝く富士川の岸壁を進む。

廃道ではないものの、ほとんど車が通っている様子は無かった。

一連の旧道区間は約800mであり、現在地はそのほぼ中間地点に当っている。

…残りは、一体どんな道であるのか。

県道10号をこれまで一度も通った事が無い私には予期し得なかったから、余り残りのない時間内に無事走破出来るという事を、根拠もなく期待するより無かった。

この町道に入って初めて開けた富士川の広大な川原には、その広がりに負けない巨大さを持った構造物が横たわっていた。

それは巨大な水門であり堰であり、幅400mもある富士川の流路は、“富士川一発”(第一発電所)への取水を専らとする堰に集められ、良いように搾取されてから、残滓を下流へ解放しているに過ぎなかった。

堰以外の川幅はコンクリートの水叩きに覆われていて、氾濫のない平時は無闇に乾いているのみであった。

これは「十島堰」というらしい、暴力の風景であった。

しかし自然の真の強さと恐ろしさを信じる私は、“この程度”の人類の反撃を、殊更に批判する気も湧かなかった。

12:10 【現在地】

ぬおぉっ!

行き止まりか?!

車を転回しうるだけの広場を合図に、道は線香花火のようにぶつ切れた。

入口から500m弱を進んでいるから、残りは300m程度であろうが、地形図にはこれまで同様

[9] 水力発電所ギャラリー 日本軽金属富士川第一発電所 - 水力ドットコム, , http://www.suiryoku.com/gallery/yamanasi/fujigaw1/fujigaw1.html

日本軽金属 富士川第一発電所

所在地:山梨県南巨摩郡南部町井出

交通:JR身延線 十島駅より約1.5km

発電所諸元

歴史

所有:日本軽金属[運開]−日本軽金属[現在]

昭和16(1941)年5月:運用開始

水力発電方式

種別:一般水力

発電形式(落差を得る方法):水路式

発電方式(水の利用方法):流込み式

出力

認可最大出力:42000kW

常時出力:20700kW

水量

最大使用水量:66.00立方メートル毎秒

落差

有効落差:69.88m

設備

水車:立軸フランシス水車×3台 総出力51000kW

発電機:立軸三相交流同期発電機×3台

導水路:総延長16890.5m、主要導水路 幅5.93m×高5.93m、延長16335.4m

上部水槽:縦113.67m×横29.30m×高10.60m

水圧鉄管:内径3500〜2500mm、板厚9〜19mm、延長112.06m、3条

入口弁:バタフライバルブ

放水路:幅5.00m×高5.00m、総延長112.4m

標高

取水位標高:175.10m

放水位標高: 91.50m

面積

流域面積:3040.6平方キロメートル

河川

取水:富士川

放水:富士川第二発電所、富士川

[10] 芝川駅 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%9D%E5%B7%9D%E9%A7%85

芝川駅 (しばかわえき)は、 静岡県 富士宮市 羽鮒(はぶな)にある、 東海旅客鉄道 (JR東海) 身延線 の 駅 である。

富士方面からへの折り返し列車も少数ながら設定されている。 普通列車 のみが停車するが、稀に臨時で 特急列車 も停車する。

歴史 [ 編集 ]

当駅は、かつては 急行 「 富士川 」の停車駅であったが、 1995年 (平成7年)、「富士川」が 特急 に格上げされると通過駅(客扱いがない)とされ、 普通列車 のみの停車駅となった。

1915年 ( 大正 4年) 3月1日 - 富士身延鉄道線が 大宮町駅 から開通、その 終着駅 として開業。旅客・貨物の取扱を開始。

1918年 (大正7年) 8月10日 - 富士身延鉄道線が 十島駅 までが開通。

1938年 ( 昭和 13年) 10月1日 - 富士身延鉄道を国が借り上げ。

1941年 (昭和16年) 5月1日 - 国有化、 国鉄 身延線の駅となる。

1972年 (昭和47年) 9月20日 - 貨物の取扱を廃止。

1987年 (昭和62年) 4月1日 - 国鉄分割民営化 により、JR東海が継承。

1995年 ( 平成 7年) 10月1日 - 急行「富士川」の特急への格上げに伴い普通列車のみの停車駅となる。

1998年 (平成10年) - 無人化。

駅構造 [ 編集 ]

島式ホーム 1面2線と 側線 3本を有する 地上駅 になっている。線路はほぼ北西から南東に走り、 駅舎 は線路の北東側に設けられている。のりばは駅舎側が1番線、向かい側が2番線で、それぞれ富士方面、甲府方面の列車が発着する。

朝と夜に1本ずつ、 富士駅 - 当駅間の列車が存在する。 甲府 方面は、 鰍沢口駅 までは1日15往復程度である。

側線はいずれも駅の稲子方で 本線 から分岐したのち、沼久保方で再び本線に合流する形となっており、うち1本が駅舎と1番線の間に、2本が2番線の南側に敷かれている。

ホームの稲子方の端は緩やかな坂となっており、これを下ったところから駅舎へ、1番線と先述の側線1本を越えて構内踏切(遮断機・警報機つき)がのびている。駅舎は大きな木造建築で、瓦葺の屋根が特徴的。内部には待合所があるが、当駅は 富士宮駅 管理の 無人駅 となっており、窓口などは壁でふさがれてしまっている。

その他駅の構内沼久保方、島踏切の脇には木

[11] 大井川 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BA%95%E5%B7%9D

静岡県

静岡市葵区、榛原郡川根本町、島田市、藤枝市、焼津市、榛原郡吉田町

大井川開発史[編集]

大井川は南アルプスの険しい山岳地帯を流下する。流域の平均年降水量は3,000mmと多雨地域に当たるため、古くから水量の豊富な河川であった。加えてフォッサマグナの崩落地帯が上流にあるため土砂流出量も多く、広大な河原を形成してきた。

特に中流部は大蛇行地帯であり、『鵜山の七曲り』と呼ばれる蛇行地帯も形成されている。また、大井川は国境としても利用され、古くは駿河国と遠江国の境界線とされていた。

近世・近代の治水[編集]

1590年(天正18年)、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃五ヶ国を領有していた徳川家康は小田原征伐の後、北条氏の旧領であった関東への移封を豊臣秀吉より命令された。この後、駿河には中村一氏が17万石の駿府城主として、遠江には堀尾吉晴が浜松12万石、山内一豊が掛川6万石として領有するなど秀吉恩顧の大名が封じられた。これは家康を仮想敵とした秀吉による東海道封じ込め政策の一環であった。

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いにおいて東海道筋の大名は秀吉の思惑に反し揃って東軍・徳川方に付いたため、戦後、一豊が土佐へ加増転封したのを始め、堀尾・中村等の諸大名は西日本へ転封となった。その後東海道筋は天領・親藩・譜代大名で固められ江戸の防衛に当てられた。この際、大井川に関しても、江戸の防衛に加え家康の隠居城であった駿府城の外堀の役目を果たすため、架橋はおろか船による渡し舟も厳禁とされた[1]。このため大名・庶民を問わず、大井川を渡河する際には馬や人足を利用して輿や肩車で渡河した川越(かわごし)が行われた。このため、大井川は東海道屈指の難所とされ、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と詠われた。もちろん、これは難所・大井川を渡る苦労を表現した言葉である。

[2]。

1696年(元禄9年)幕府は川の両側に川会所を設け、渡渉制度の管理のために2名から4名の川庄屋を置いた。川会所は島田と金谷に設置され、それぞれ大井川を渡河する拠点の宿場町となり賑わった。川会所は江戸の道中奉行の直轄として、毎日川の深さを計測して江戸に飛脚で報告したほか、川越賃銭や渡河の順番の割り振りの運営にあたった。とりわけ洪水の際には川留めが行われた。水深四尺五寸(1.5m)、人足の肩を超えると全面的に渡河禁止と

[12] 橋梁レポート 国道20号旧道 旧国界橋, , http://yamaiga.com/bridge/kokkai/main.html

【周辺図(マピオン)】

国道20号、通称「甲州街道」を走行したことがある人は多いと思うが、山梨県と長野県の県境がどのようになっていたか覚えているだろうか?

余り印象に残っていない人が多いのではないかと想像する。

かく言う私も、ここにある県境をはっきり意識したのは、最初ではなく何度目かの通行時であった。

本邦を代表する山岳県である山梨と長野の県境でありながら、そこは意外にも穏やかな河谷地形であり、県境も峠でなく河川、すなわち橋であった。

峠のように通行に時間を要さないので、印象に残り辛かったのである。

だがその橋の名は、涙ぐましいほどの精一杯さで自らの特別な立地をアピールしていた。

国界橋 (こっかいはし)という。

それは山梨と長野の県界に遡り、甲斐と信濃の国界を示す命名であろうと想像される。

日本中にいくつもの「国界橋」があるが、甲斐と信濃の国界橋はもちろんここにしか無い。

そして地図を見ると、現在ある国界橋のすぐ上流に、典型的な旧橋と思われる橋が描かれている。

今回のテーマは、旧国界橋。

“命がけ”ではない旧橋の探訪も、たまにはよいだろう。

2010/10/2 11:14 【現在地】

山梨県側から国界橋へアプローチする。

現橋(新国界橋)の手前400mの位置に、大きな「国界」の文字が躍っていた。

夜はネオンに輝くであろうこのラブホテルの看板が、山梨県側で最初に出会う「国界」である。(平成25年現在は休業中との情報あり)

国界というのは既に述べた通り地名ではなく、この土地の性格を示した通称である。

ここの地名はこの探索当時(そして現在も)山梨県北杜市上教来石(きょうらいし)山口であって、少し遡れば北杜市の部分が白州町となり、更に明治まで戻れば鳳来村、近世においては上教来石村といった。

そして上教来石村の枝郷であったここ山口には、甲州道中(江戸五街道の一つで江戸と下諏訪を結ぶ重要な街道)の口留番所(国境警備の為の関所の一種)が置かれていたという。

この辺りの国道20号の流れは常に安定していて、いわゆる快走路である。

この後で長野県内に入ってしばらく行くと、それなりに山がちな地形となって屈曲も増えるのだが、この時点では県を問わずに釜無川の広い河谷をゆったり駆け抜けるので、風景的な違いも無いに等しく、県境の存在を希薄なものにしている。

この写真

[13] 地方病 (日本住血吸虫症) - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E6%96%B9%E7%97%85_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BD%8F%E8%A1%80%E5%90%B8%E8%99%AB%E7%97%87)

本項で解説する 地方病 (ちほうびょう)とは、 山梨県 における 日本住血吸虫症 (にほんじゅうけつきゅうちゅうしょう) [2] の 呼称 であり、長い間その原因が明らかにならず住民を苦しめた 感染症 である。ここではその克服・撲滅に至る歴史について説明する。

日本住血吸虫症とは 住血吸虫科 に分類される 寄生虫 である 日本住血吸虫 (にほんじゅうけつきゅうちゅう)の寄生によって発症する 寄生虫病 であり、 ヒト を含む 哺乳類 全般の 血管 内部に寄生感染する 人獣共通感染症 でもある [3] 。日本住血吸虫は ミヤイリガイ (宮入貝、別名カタヤマガイ)という淡水産巻貝を 中間宿主 とし、河水に入った哺乳類の 皮膚 より吸虫の幼虫( セルカリア )が寄生、寄生された宿主は 皮膚炎 を初発症状として高熱や消化器症状といった急性症状を呈した後に、成虫へと成長した吸虫が 肝門脈 内部に巣食い慢性化、成虫は宿主の血管内部で 生殖 産卵 を行い、多数寄生して重症化すると 肝硬変 による 黄疸 や 腹水 を発症し、最終的に死に至る。病原体である日本住血吸虫については 日本住血吸虫 を、住血吸虫症全般の 病理 については 住血吸虫症 を参照のこと。

病名および原虫に 日本 の国名が冠されているのは、疾患の原因となる 病原体 (日本住血吸虫)の 生体 が、世界で最初に日本国内(現:山梨県 甲府市 )で発見されたことによるものであって、日本固有の疾患というわけではない。日本住血吸虫症は 中国 、 フィリピン 、 インドネシア [4] の3カ国を中心に年間数千人から数万人規模の新規感染患者が発生しており、 世界保健機関 (WHO) [5] [6] などによって2015年現在もさまざまな対策が行われている [7] [8] [9] 。日本国内では、 1978年 (昭和53年)に山梨県内で発生した新感染者の確認を最後に、それ以降の新たな感染者は発生しておらず、 1996年 (平成8年)の山梨県における終息宣言をもって日本国内での日本住血吸虫症は撲滅されている [10] 。日本は 住血吸虫症 を撲滅、制圧した世界唯一の国である [11] [† 1] 。

日本国内での日本住血吸虫症流行地は 水系 毎に大きく分けて次の6地域であった [12] 。

山梨県 甲府盆地 底部一帯 。

利根川 下流域

[14] 2007年8月13日 富士川(十島-富士川町), , http://www.geocities.jp/ncd_kayak/r/20070813/

東海道本線で富士まで行き、そこで身延線に乗り換え、十島(とおしま)駅で降りる。十島の瀬の上流からから東名のすぐ近くの四ヶ郷堰まで20kmを5時間で下る。

この日の富士川(南部)

[15] 富士川第一発電所を行く62系 - 徒然鉄 - Yahoo!ブログ, , http://blogs.yahoo.co.jp/usuiraruba/29849620.html

「身延線旧形国電」書庫の記事一覧

富士の裾野を

2014/2/6(木) 午後 7:18

ある日の富士区にて55441×68093

2014/2/2(日) 午前 9:28

81年8月31日身延線クハ68093

2013/8/31(土) 午前 1:28

79年甲斐岩間クモハ60800

2013/8/22(木) 午後 10:08

80年クモハユニ44800下部カーブ

2013/6/22(土) 午後 9:49

81年下部クモハユニ44803

2013/6/3(月) 午後 10:07

新緑の頃

2013/5/14(火) 午後 9:17

富士川に沿って

2013/4/24(水) 午後 9:28

80年身延線急行富士川

2013/4/20(土) 午後 4:48

Hearts Cry

2013/3/17(日) 午後 9:19

もっと見る

[16] 水の高さ - 僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか, , http://blog.goo.ne.jp/den6blog/e/e8577fcffc4d318fceb997ea7a97b881

2014年3月27日(木)

水の高さ

00 サイフォン構造などを持たない流れでは、水は必ず高い方から低い方へと流れる。遠く隔たった場所へと水を引こうと思ったら、長い斜面を維持したまま水路を引かなければならないわけで、それはたいへんな土木技術だと思う。高低差をちびちび倹約して引き延ばし引き延ばししながら使わなくてはならないからだ。

01 多摩川から取水して武蔵野台地を東に流れ、四谷大木戸の水番所で江戸市中に配水された玉川上水の長さは43キロもある。どれくらいの高さを持つ場所から取水しているのだろうと羽村取水堰まで見に行ったことがあるが、電車で行ってもげんなりするほど遠いことにまず驚いた。

静岡県清水区大内の観音沢川。農地へ水を引く取水口のために、堰を設けて水位調節をしている。

02 静岡市清水区にある日本軽金属蒲原製造所が今月31日をもってアルミ電解事業を終えるという。大量の電力を使うアルミ製錬だが、ここ蒲原製造所は富士川の水を使った自前の発電施設を有することで、電気代の高騰にもかかわらず1940年の操業開始以来、世界有数の工場であり続けたという。

03 東海道線に乗ると富士川駅と新蒲原駅の間に、山の上から下りてくる太いパイプがあり、幼い頃から気になっていたそれが日本軽金属蒲原工場自慢の発電施設である。日本軽金属富士川第二発電所といい、運転開始は昭和18年で、富士川上流の富士川第一発電所で放水した水などをパイプでここまで引いているという。第一発電所は柿元ダムにより安定した発電用水量を確保しているからだ。

04 この富士川第一発電所の放水地点と、富士川第二発電所が水を落とすポイントの高度差がどうなっているか知りたい。玉川上水は武蔵野台地の尾根筋を選ぶことで高さを節約しながら引かれているというが、富士川第一発電所は身延線十島駅と井出駅の間にあり、富士川第二発電所まで直線距離で16キロ以上ある。間に越さねばならない富士川の流れもあるわけで、ふたつの発電所を結ぶ地中の水路はどうなっているのだろうと、Googleの航空写真を眺めながら首を傾けている。

[17] 轍のあった道, , http://tenere.blog.shinobi.jp/%E6%B0%B4%E7%AE%A1%E6%A9%8B/%E6%9D%B1%E9%A7%BF%E6%B2%B3%E6%B9%BE%E5%B7%A5%E6%A5%AD%E7%94%A8%E6%B0%B4%E9%81%93%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B7%9D%E6%B0%B4%E7%AE%A1%E6%A9%8B

富士川の河口から3番目にかかる橋。最下流は国道1号の新富士川橋、次が東海道新幹線富士川橋梁。そしてこの東駿河湾工業用水道富士川水管橋となる。wikipediaのTemplate:富士川の橋では無視されている。

1スパン102m、10径間、橋長1040m。

口径2200mmの水管2本をアーチが支えている。アーチ橋は遠目には優美な形と認識されることが多いので(大正時代に既にそう言われている)、この橋の迫力は真下で鉄塊を見なければ感じられないだろう。

左岸側。堤防と水管の間は1mちょっとか。立ってはくぐれない。

近くで見ると、途端にこの水管の「重さ」を感じる。背後の民家ほどの大きさがある、橋台を兼ねた取り込み口(なんと言うのだろう?)のこのコンクリート塊すら軽く見える。

この橋に流れる水は、釜口サイホン橋で触れた日本軽金属富士川第二発電所の余水を工業用水に転用しているものだ。海岸にある水力発電後の余水をそのまま海に流すのではなく、(おそらく加圧して)他の用途に転用するとは、その規模の大きさに驚く。

工業用地下水のくみ上げが「安全揚水量」の限界に達したことから、1966年に東駿河湾工業用水道建設着手、1970年3月水管橋竣工、1971年12月一部供用開始。水管橋は給水は当時1日68万トン、現在79万トン。計画では131万トン。橋梁の製造者は日本鋼管(現JFEエンジニアリング)だ。

富士市のサイトに当時の市報がPDFで掲載されている。建設中の写真もある。

[18] 水力発電所ギャラリー 日本軽金属富士川第二発電所 - 水力ドットコム, , http://www.suiryoku.com/gallery/shizuoka/fujigaw2/fujigaw2.html

日本軽金属 富士川第二発電所

所在地:静岡県静岡市清水区蒲原

交通:JR東海道本線 新蒲原駅より約0.5km

特記事項

海(駿河湾)へ直接放流している水力発電所です。

発電所諸元

歴史

所有:日本軽金属[運開]−日本軽金属[現在]

昭和18(1943)年4月:運用開始

水力発電方式

種別:一般水力

発電形式(落差を得る方法):水路式

発電方式(水の利用方法):流込み式

出力

認可最大出力:49500kW

水量

最大使用水量:75.00立方メートル毎秒

落差

有効落差:77.75m

河川

取水:富士川第一発電所、富士川

放水:駿河湾

[19] 東海道 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93

律令時代 [ 編集 ]

概説 [ 編集 ]

律令時代 の東海道は、東海道の諸国の 国府 を駅路で結ぶもので、各道に派遣された官人が諸国を巡察する為に整備された路を指す。律令時代に設けられた七道の一つで、中路である [2] 。律令時代の東海道の道幅は、中世や江戸時代の道より広く、より直線的に建設された。

その一方で、当時は大河川に橋を架ける技術は発達しておらず、 揖斐川 ・ 長良川 ・ 木曽川 ・ 大井川 ・ 安倍川 ・ 富士川 ・ 多摩川 ・ 利根川 (当時)といった渡河が困難な大河の下流域を通過するため、むしろ東山道の山道の方が安全と考えられていた時期もあり、東海道が活発になるのは、渡河の仕組が整備された 10世紀 以降のことと考えられている [3] 。

中世に大半が改廃されたため、当時の正確な道筋については議論されているが、おおむね以下のような経路を通っていた考えられている。

畿内から近国まで [ 編集 ]

首都 が 飛鳥 に置かれた時期には、 大和国 の 宇陀 が、東海道方面への入口だったと考えられているが、その後、 平城京 に遷都されると、平城京から 平城山 を北上し、木津から木津川の谷間を東へ入って 伊賀国 に入り、 鈴鹿山脈 と 布引山地 の鞍部を 加太越え で越えて 伊勢国 へ、 木曽三川 を下流域で渡って 尾張国 津島 へ、 名古屋市 を通り、 三河国 と続いていったと考えられている。およそ、現在の 国道163号線 ・ 国道25号線 ・ 国道1号 に沿ったルートであった。

ただし、木曽三川の下流部は古来より水害が激しく、実際には船による移動に頼っていたと考えられ、あるいは 飛鳥 や 平城京 から 鈴鹿峠 を経由してそのまま伊勢国の港から 伊勢湾 を横断する海路が用いられる事も多かったとみられている。だが、その一方でこうした船には馬を同伴させることが出来ず、東国から馬に乗ってきた旅行者は三河国か尾張国で馬を他者に預けて伊勢国に向かう船に乗る必要が生じたが、帰途時に馬の返還を巡るトラブルなどもあった(『日本書紀』大化2年3月甲申条)。このため、徒歩や馬で旅を続けようとする人の中には、本来は認められていなかった尾張国府から北上して美濃国にある東山道の 不破関 に出る経路も用いられていた。伊勢湾を横断する海路と東山道に出る脇道の存在は、江戸時代の 七里の渡

[20] 加藤のひとり旅: 山梨県南部町 富士川水系富士川 十島堰, , http://k-kato.blog.ocn.ne.jp/kato_tabe/2012/09/post_c4e2.html

山梨県南部町 富士川水系富士川 十島堰 ( toushima ) 富士川は山梨県と長野県の県境に位置する 鋸岳 ( 2,606m ) に源を発し、上流部では北斗市 まで 長野、山梨両県の県境をなす。 山梨で南流に転じる 笛吹川と合流するまでは釜無川と呼ばれる、 山梨県では 「ふじかわ」 と呼ばれるが 静岡県に入ると 「ふじがわ」 と 濁って呼ばれる 総延長 128km 流域面積,3,900k㎡の大河である。 十島堰はカーナビ画面の車両停止位置にある 堰の上流側は碓砂で埋まってしまった この写真は 2012 /08 下流左岸から写した十島堰の全景です 参考資料 堰位置図 ホームページ 加藤のひとり旅に戻る

[21] アルミのことなら日軽金|日本軽金属株式会社, , http://www.nikkeikin.co.jp/company/seizou/kanbara-map.html

蒲原製造所は、日本軽金属の各事業部門の複合組織です。 この組織には、

各工場に電力を供給する水力発電所

純度99.99%のアルミニウムを生産する蒲原鋳造工場(偏析部門)

あらゆるアルミニウム製品素材の供給基地である蒲原鋳造工場(鋳造部門)

各種押出製品を生産する日軽蒲原(株)押出工場

コンデンサー用電極箔を化成加工する蒲原電極箔工場

平行流方式のカーエアコンコンデンサーを生産する蒲原熱交製品工場

苛性ソーダをはじめ各種化学製品を生産する蒲原ケミカル工場

・・・および新規事業・開発製品等の生産をおこなう工場があります。また、この地区には、日軽グループの技術開発を担うグループ技術センターを始め、日軽グループの関係会社が活動しています。 テクノロジーカンパニーをめざす日本軽金属グループの、アルミニウム地金から各種加工製品にいたる、複合事業を担う蒲原製造所は、長期にわたって蓄積された技術力を最大に発揮し、自家用水力発電設備を擁するアルミニウムの総合工場として、お客様のさまざまなニーズにお応えしていきます。

敷地面積

459,000m2

操業

1940(昭和15)年10月

水力発電設備

蒲原製造所の工場群を動かす電力の大部分は、自家用水力発電所から供給され、一部不足分は買電に依っています。 自家用水力発電設備は富士川の中・下流域にわたって、雨畑ダム・柿元ダムの高堰堤、槫坪・波木井川・塩之沢・十島の低堰堤、導水路および6ヵ所の発電所からなっており、合計で142,500KWの出力があります。 全発電所が蒲原製造所内の制御室で、一括監視制御されています。

生産品目

電力

設備・能力

富士川第一発電所

[22] 日本軽金属の送電線2, , http://transmltkbr.sakura.ne.jp/hhsoudennnikke02.html
[23] 土木学会図書館|土木建築工事画報|第16巻6号, , http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/16_06.html

PDF形式のファイルをご覧いただくには、Adobe社Acrobatが必要です。

Adobe社のホームページから無料ダウンロードしてご利用になれます。

[24] エレクトリカル・パレード(29) 水力発電所はどうでしょう, , http://island.geocities.jp/mayob_e_parade/ep29.html

主に、中部地方の水力発電所について、あれこれ紹介したいと思います。

長野県天龍村にある、中部電力平岡発電所です。最大使用水力毎秒

265トン、有効落差45.65m、最大出力101,000kWで昭和27年に運転を

開始しました。天竜川流域の中部電力の水力発電所では、最大出力を

誇ります。水車発電機は4台です。

発電所建屋の上にあるコンクリートの物体は、鉄管のサージタンクと

思われます。

平岡発電所はダム水路式で、発電所の数キロ上流にある平岡ダムから

水路で発電所まで来ています。ダムから発電所までの本来の天竜川は、

写真のように水がない川となっています。

静岡市清水区にある日本軽金属富士川第二発電所です。最大使用水力毎秒

77.8トン、有効落差77.753m、最大出力47,000kWです。左の写真が

水圧鉄管、右が発電所建屋です。金属(主にアルミ)の精錬には大量の

電力を必要としますが、その電気を自前で発電している模様です。富士川

の水を使用し、上流にも同社の水力発電所があります。

静岡県小山町にある東京電力須川発電所です。落差と水量はわかりませんが、

最大出力6,000kWで2台の水車発電機があります。

静岡県小山町にある東京電力菅沼発電所です。落差と水量はわかりませんが、

最大出力6,200kWで2台の水車発電機があります。発電所建屋は見えません

でしたが、左の写真のような水圧鉄管が見えました。右の写真は配電線

の引き出し用の遮断器などが入っているミニクラッドという設備です。

ここ、菅沼発電所は水力発電所ですが、地域の配電線へ供給する

配電用変電所の役割(いわゆる局配)もあります。

山梨県都留市にある東京電力鹿留発電所です。最大使用水力毎秒

15.707トン、有効落差141.71m、最大出力18,400kWです。3台の水車

発電機があります。

山梨県都留市にある東京電力谷村発電所です。最大使用水力毎秒

15.3トン、有効落差114.54m、最大出力14,700kWです。3台の水車

発電機があります。

山梨県甲州市にある東京電力柏尾発電所です。最大使用水力毎秒

1.5トン、有効落差187.6m、最大出力2,200kWです。1台の水車

発電機があります。

山梨県甲州市にある山梨県企業局袖ノ木発電所です。最大使用水力毎秒

8.5トン、有効落差264.6m、最大出力17,

[25] , , http://www2.gol.com/users/osake-nsn-ins/ooigawa/ooi1.htm

かなり昔から漠然と”大井川の最初の一滴”を探してみたいと思っていた。というのは地図を見ると天竜川や富士川と違って、河口から最上流部まで大井川と名付けられ、3000mの間の岳から真っ直ぐに南アルプスを駆け下っている事に興味を覚えていたからだ。この夏、ようやくその機会が巡ってきた。

7/27

畑薙から二軒小屋までは送迎バス、このバスは二軒小屋ロッジに食事付きで宿泊しないと利用できない。畑薙から10時間かけて歩く気にはなれず、不本意ながら一泊目は13000円の豪勢な宿泊となった。ロッジそのものは深い山間で芝生に囲まれた小綺麗なログハウス風でなかなか快適だった。

[26] 法政大学 軽登山サークルSPRINGのブログ : 新倉(田代入口)- 伝付峠 ( 転付峠 )ルート 保利沢小屋まで下見 2013年11月2~3日, , http://blog.livedoor.jp/spring_climbing/archives/6928074.html

高尾山から槍ヶ岳まで登るインカレ軽登山サークルのブログです♪

2014年度新規メンバー募集についてはこちら→→【http://blog.livedoor.jp/spring_climbing/archives/7220709.html】

【メンバー】 粂田 菊間 南アルプス南部であってもそろそろ雪が積もり始めてる11月最初の3連休 転付経由で二軒小屋へ入り、蝙蝠岳への登山を計画しました しかし、日曜の夜から月曜の午前にかけて荒れるようなので計画を変更 次回のため とりあえず転付峠までのルートを確認しにいくことに 田代入口(新倉)から伝付峠までのルートは2011年の台風で通行不能になっていましたが 今年、一部ルートが変更されて通行が可能になったことを知り、ひそかに行く機会をうかがっていました もともとここは伊奈街道の名残り、、、 明治時代に数年間のみ存在した幻の街道です 伊奈街道は伊那と富士川とをつなぐために明治はじめにつくられた道です ルートは新倉から伝付峠を越えて大井川西俣を遡り 三伏峠を越えて大鹿村大河原へとつながっていたといいいます しかし南アルプスの中央部を横断していて保守管理が困難なため、 数年で通れなくなってしまったという幻の道です このうち二軒小屋から大井川西俣を通って三伏峠までの間は街道の名残りさえのこっていない しかし新倉から伝付峠を越えて二軒小屋までの道は渓谷沿いの風光明媚な道 …があった(過去形~2011夏までの話) 2011年の台風でついに崖沿いの桟橋は崩壊し、斜面は崩落 登山道も流される(というより土砂でうまってしまっている)場所が多い 現在は前述のように一部ルートが変更され、 広河原から内河内川本流沿いには行かず、発電所の脇を通って支流を登っていきます そこから八丁峠を越え、内河内川を渡渉し、従来の登山道に復帰します ネット上のブログや記録も少ないので参考までに 写真多めで登山道の状態などを紹介していきます! 2日(土)朝、車を借りて出発 3連休の渋滞で遅れる、 早川町にはいり37号線を走っていると交通規制 日中は45分通行止め15分通行可のループ といった具合で30分待たされる 最終駐車地点のヘリポート なかなか広いスペース 新倉のヘリポートに到着した時には約2時間遅れ いけるところまでいきたいが 伝付までは時間的に厳しいのでその手前で

[27] , , http://www7a.biglobe.ne.jp/~kyukaidou-tougemichi/dentuku-touge.html

伝付峠

2008.08.23〜.24

10年ほど前に自転車での山旅を再開した頃、伝付の峠径に頭上にオーバーハングした岩の魅力的な写真を見て、いつかきっとこんな所へ行けるようになりたいと想い描いてきた峠径。ハードな峠では雁坂峠や上越国境の清水峠など、あこがれて出かけた峠径の一つです。中でも北アルプスの玄関口である上高地へ向かうにはどうしても越えなければならなかった徳本峠のように、沢沿いを延々と歩か無ければならないのと同じように、伝付峠の径は南アルプスの山々を巡るにはどうしても越えなければならない通過点で、同じような性格を持つ峠径に、やっとその機会がやってきたと想っている。

しかし、井川から遡上するような林道が開発されて久しく、すっかり歩く人の姿が少なくなった事も事実で、そんな峠径へ出かけたいとの想いは募るばかりで、今回は身勝手にも集中ランに進言してしまい、考えてみれば峠一つ越えるのに時間は掛かり過ぎ、費用も桁違いに掛かるのでプライベートにすべきだったと計画を立てて実感する辺りが性格なのか。

いつかきっとこんな所を、と・・・・

朝早い下部温泉駅

甲府駅から身延線の始発に乗る為に、若い頃なら駅でごろ寝して夜明けを待つくらい何も厭わなかったが、もうこの歳になるとしっかりと睡眠をとって、寧ろ翌日のハードな山路に向かうべきで、少しでも早い時間帯に登山口に着けるよう下部温泉に泊まることとする。宿は簡素なビジネスタイプ。源泉を引いてはいるが、素泊まりで、勝手に朝食を済ませて小雨のぱらつく怪しげな空の下、5時半過ぎに出発する。

早川町では既に紅葉が始まったのか?

新調したGPSを今回初めて使ってみる。事前にトラックログをパソコンからアップロードしてきたので、支度中にスイッチをONにすれば僅か1分ほどで画面の地図に現在地が標示され、早い!トリップコンピューターの既存データを削除すれば、今回の記録が取れるようにリセットされて準備完了。富士川を渡り国道52号線を越えて早川に沿うように遡上し新倉の田代分岐までは凡そ1時間と50分。

幸いに登り勾配は緩く、久しぶりのペダルも快調に回ってくれる。分岐には田代バス停があり、新しいトンネルと旧道が交錯して紛らわしいが、兎に角ここは西へ入る。ここには糸魚川静岡構造線の露岩が見られて、その標示もある。駐車スペースの先には地蔵の祀られる新倉湧水

[28] 昔の人は、なぜ不便な山村に暮らしていたのか? |ブログ|NHKエコチャンネル, , http://www.nhk.or.jp/ecochan-blog/400/215852.html

山岳・水中カメラマン日記

自然をこよなく愛するNHKカメラマンの取材記です。執筆メンバーは、NHKが誇る山岳班・潜水班の面々です。

NHK甲府放送局、山岳カメラマンの米山悟です。

車で山奥の景勝地や登山口に向かうとき、なんでこんな山奥に人が住んでいるのだろう、と思う事はありませんか?買い物に不便、通学に不便、大雪や台風で孤立、と良い事が全然無い。現代都市部の暮らししか知らない大多数の人から見れば、そんな風に思えるはずです。実際若い人は出て行ってしまい、住んでいるのはだいたい昭和も戦前生まれまでのお年寄りばかりです。

山梨県早川町茂倉(もぐら)の集落

中学の頃から山登りを続けてきた私が、山梨県に住んで3年たち、いま一番惹かれているのは、山越えして山間集落へ下りるという山歩きです。車を使わず、駅やバスの終点から山まで足で歩き、山越えをして山向こうの集落へ下り、さらに町まで歩きます。マイカーが普及する前までは当たり前だった登り方ですが、今は流行りません。それにバス路線も昔より減りました。山登り自体は流行っていますが、少ない休日を目一杯山に当てるため、車でギリギリまで進める人が多いと思います。でも山麓を歩けば、人々の暮らしぶりや、古くから残る石碑、古民家、石垣などの佇まいを味わい、地図を見ながらその集落の地形的な必然性を考えたり、住人と声を交わして長話をする事もあります。

南アルプスの甲府盆地よりの一列は、2000メートルに満たない低い山脈で、巨摩(こま)山地と呼ばれています。

この三月、その山を富士川から早川の谷へ山越えしました。山から下りて訪れた行き止まりの集落、茂倉(もぐら)は、谷底から数百メートル上の中腹、わずかに傾斜が緩まったところにある、数十軒だけの15世紀から続く集落です。この辺りの集落では、狭い平地に所狭しと家が建っています。一階より二階のほうがせり出した造りの家が多く、路地が入り組み、坂が多く、とても素敵な所です。

昔ネパール・ヒマラヤの山奥を旅したとき、こんな集落を辿って歩きました。茂倉は、南米のマチュピチュに例えられることもあるところです。

三叉路で話し込んでいたお婆さん3人に山越えして来た事を伝えると、「道どうだった」「荒れてなかったか」と皆、その道にとても詳しい。廃道寸前で、崖崩れで不明瞭な所もある道なので、今はここを通る人はほとんどいません

[29] 広重, , http://www42.tok2.com/home/toyotane/hirosige.html

歌川(安藤)広重の六十余州名所図会(え)

奥 州とも呼ばれた陸奥の国は六十余州の最北東端に位置し、山形・秋田以外の東北地方全域にあたる。

陸奥 松島風景 富山眺望之略図

最 上川は出羽三山(月山、湯殿山、羽黒山)を囲繞し、山形盆地を流れ、大石田上流の基点・隼などの恐ろしい難所をこえ、

庄内・最上境の連山板敷山の北を流れて酒田の海に入る。

出羽 最上川 月山遠望

常 陸(ひたち)国は関東平野の東北隅に位置して、西は下野(しもつけ)、南は利根川が流れる下総(しもうさ)、

北は奥州へつらなる磐城(いわき)の諸国があり、東は太平洋に面している。

常陸 鹿嶋大神宮

下 野(しもつけ、ほぼ現在の栃木県全域)の「裏見滝」は日光市の荒沢川にあり、滝の裏側から流れ落ちる飛瀑を眺めることが出来る滝で、

「華厳滝」「霧降滝」とともに日光三名瀑のひとつに数えられます。

下野 日光山 裏見ノ瀧

こ のあたりは昔、毛野(けぬ)とよばれる国であったのが分割して上毛野と下毛野となり、その後国名から「毛」が抜け(!)、上野、下野となったのだけれど、

音には「こうずけ」「しもつけ」と「け」が残っているのです。

榛名山(はるなさん)は山岳信仰の対象とされた山で、山頂にはカルデラ湖と榛名富士がある。妙義山、赤城山とあわせて上毛三山と呼ばれる。

上野 榛名山 雪中

千 葉県鴨川市にある内浦湾は別名「鯛の浦」とも呼ばれ、世界有数の鯛の群生地として国の「天然記念物」に指定されています。

貞応元年(1222)2月16日が日蓮聖人が安房の小湊(あわのこみなと)に生まれました。小湊には日蓮聖人生誕にゆかりの誕生寺があります。

安房 小湊 内浦

上 総(かずさ)の国は現在の千葉県の房総半島の北部にあたる。

伝承に拠れば「矢さしか浦」というのは矢指浦で、古名は玉の浦というが源頼朝の命令で1里ごとに矢を指したので矢指浦の名が付き、

またその矢が99本に達したことから「九十九里浜」と呼ばれるようになった。

浜の中央、どちらから数えても49本目となる場所(山武市蓮沼)には箭挿(やさし)神社が今も残る。

上総 矢さしか浦 通名九十九里

下 総(しもうさ)国は、南に上総ご境を接し、平野が広く開け、その他国との分界が難しく、武蔵・上野・常陸の諸国と分れたのは、

大体河の流れによったも

[30] 白丸調整池ダム | おぼえがき, , http://now2000net.blogspot.jp/2012/06/blog-post_3.html

小河内ダムへ向かう途中に、白丸調整池ダムがあります。発電専用のダムで、魚道が整備されているのが見所なダムです。

[31] 浜松駅 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%9C%E6%9D%BE%E9%A7%85

概要 [ 編集 ]

静岡県の西部の 政令指定都市 である浜松市の中心駅であり、 東海道新幹線 と在来線の 東海道本線 が乗り入れている。近隣にある 遠州鉄道 の 新浜松駅 と合わせて、県西部(遠州地域)の拠点駅としても機能している。

新幹線は、 東京 - 岡山 間(一部、東京 - 名古屋・新大阪間)の「 ひかり 」が毎時1本と、各駅停車の「 こだま 」が毎時2本停車する。また朝・夜に当駅発着の「こだま」が1.5往復(上り2本、下り1本)設定されている( 2014年 3月15日現在)。「 のぞみ 」は停車しない。一部の「ひかり」は上下とも当駅で「のぞみ」の通過待ちをする。

在来線は、日中は静岡方面が毎時4本(掛川行1本 [1] ,静岡以東行3本)、 豊橋 方面が毎時3本運転されている。また通勤客向けに当駅と 静岡 ・ 沼津 間を結ぶ ホームライナー が設定されている。特急列車は、寝台特急の「 サンライズ瀬戸 」「 サンライズ出雲 」の下り列車が停車するのみである。

歴史 [ 編集 ]

年表 [ 編集 ]

1888年 ( 明治 21年) 9月1日 - 鉄道院(のちの 鉄道省 → 日本国有鉄道 〈国鉄〉)による浜松 - 大府間の官設鉄道線開通により、その終端駅として開業。

1889年 (明治22年) 4月16日 - 官設鉄道が静岡まで延伸し、新橋までの既存線と直結。途中駅となる。

1895年 (明治28年) 4月1日 - 線路名称制定。東海道線( 1909年 に東海道本線に改称)の所属となる。

1926年 ( 大正 15年) 12月12日 - 駅舎を洋風の近代的建物に改築(2代目)。

1945年 ( 昭和 20年) 6月10日 - 空襲により2代目駅舎焼失。

1948年 (昭和23年) 10月15日 - 木造2階建の3代目駅舎完成。

1964年 (昭和39年) 10月1日 - 東海道新幹線が開業。乗換駅となる。

1971年 (昭和46年) 4月26日 - 貨物取扱業務の一部を新設の 西浜松駅 に移管。

1976年 (昭和51年) 10月1日 - 貨物の取扱を全廃。

1979年 (昭和54年)10月15日 - 東海道本線の高架化完成。これにより駅は東海道線から離れて設置された新幹線ホームと一体化し、利便性が向上。

1980年 (昭和55年)10月1日 - 新幹線「 ひかり

[32] チューク(トラック)旅行編!, , http://www.s-nix.com/ken/travel/micronesia/truk/index.html

九日目(10/20)

トラックの初日は晴天!(^^)

マーシャルとの時差のせいか6時には目が覚めてしまった。

現地のサービスには昨日のうちに連絡していたので今日のダイビングは午後から二本潜る事になっている。

周りに対した所も無いので朝ご飯はホテルの横のレストランで食べる事にした。

ここのお肉が結構、美味い!(^^) ちょっと嬉しかった。

10時になって空港に荷物を取りに行ったら無事に着いていたので一安心!

ホテルに戻ってダイビングの迎えが来たので車で移動。

一番栄えてるって所の前を通ったけど、やっぱり田舎だなぁと思った。

今回使うダイビングサービスはブルーラグーンというところ。

同名のホテルと併設していてこのホテルはめっちゃリゾートしてる!

こっちに泊まりたかったと思ったけど高そうだし、一人でリゾートもね。

ちなみにトラックとは戦時中に日本軍がつけた名で今はチュークと呼ぶようにしてるそうです。

一本目は清澄丸(沈船)に潜った。

さすがに本場の沈船ポイントは船にも迫力が有り熱海の沈船が詐欺に思えるぐらい凄い!

でも、透明度は15mぐらいで薄暗く浮遊物が多い。

暗くている魚も地味だしマーシャルの後だと淋しい気分。(-o-)

二本目は神国丸(沈船)!

ここにはビックリ!(*o*)/

沈船も凄いけど、魚の量が半端じゃない!

沈船が色んな小魚の群れの住処になっていてそれを狙って大きな魚の群れが周りをうようよ泳いでいる。

ギンガメの群れもいるし、ツバメウオもいる!

魚屋さんが喜びそうな地味な魚が多いけど、圧倒されるぐらいの魚の量にご機嫌でした!(^o^)V

十日目(10/21)

トラックでの二日目はやや曇り気味。 今日は朝からダイビングです。

一本目は富士川丸(沈船)。

やっぱり本場の沈船ポイントは迫力があるのだ!(^^)

でっかい機銃が付いていて部屋の中にはドラム缶がいっぱい。

休憩を小さい島でとったのだけれども、日本人3人が泊まって居たのにビックリ。

そう言えば、雑誌でヤシの木15本の島に泊まってダイビング!って募集してた!

で二本目がリオデジャネイロ(沈船)。

この大船は横倒しになっていて大きなスクリューも見れるのだ。

荷物置場には酒瓶が山の様に積んであった。

う〜ん、沈船ダイビングも4本目、そろそろ飽きてきた

富士川第一発電所

富士川第一発電所

十島堰

十島堰

富士川第二発電所

富士川第二発電所

履歴

[38] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054528544644

メモ