天保山

天保山

[1] 天保山公園天保山 (てんぽうざん)

34.6580656666667 135.432676916667

Webページ

[2] 天保山 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%BF%9D%E5%B1%B1

天保山(てんぽうざん)は大阪市港区の天保山公園にある山。

[3] 大阪珍登山紀行-蘇鉄山と天保山 - 昭和考古学とブログエッセイの旅へ, , http://parupuntenobu.hatenablog.jp/entry/sotetsuyama-mount-tenpo

大阪は平野が南北に伸びる、比較的平らな土地ですが、一方で 兵庫県 以外の県境がすべて山でもあります。 大阪で有名な山の一つに、 金剛山 があります。大阪の小学校では耐寒登山で真冬の 金剛山 に登るのが儀式になっているのですが、最近はミリオタや二次元好きの間で、戦艦『金剛』の命名山になったところとして有名になったそうな。 標高1000mちょっととは言え、 金剛山 も立派な山ですが (地元の人はサンダルで登るらしいけど) 、大阪にある山はこれだけではありません。他 都道 府県にあれば、たぶんネタにもならない、大阪にあるから輝ける名山ならぬ 「珍山」 もあったりします。 大阪人なら、タイトルで「ああ・・・」とすべてを察するでしょう。

1.蘇鉄山

大阪の 堺市 に、 「大浜公園」 という比較的大きい公園があります。 元々ここは江戸時代のお台場から始まり、明治以降は水族館や海水浴場、 スーパー銭湯 のご先祖様と言える「潮湯」という温泉娯楽施設がありました。 娯楽が少なかった戦前においては、浦安の ネズミーランド に匹敵した自称「東洋一」の総合レジャーランド、かつリゾート地。夏になると関西中から観光客が殺到していました。 しかし残念ながら、 松尾芭蕉 の「つわものどもが夢のあと」が身にしみるほど、現在はその片鱗すら見当たりません。 大浜公園については、別記事で詳しく書こうと思います。なので、今回は軽くスルー。

こんなところにも、実は山があります。

蘇鉄(ソテツ)が植えられていることから、長年 「蘇鉄山」 と呼ばれている山です。

ここが山の入口です。

険しい山道を登り、

よっしゃ、頂上まで登ったで~!

さて、麓から頂上までに要した時間はというと!

「分」ではありません、 「秒」 です。 それもそのはず、蘇鉄山の標高は 6.97m 。センチに直すと 697cm 。

え!?それは山なんか!?うちのマンションの方が『高い』やんか!PVが集まらんからってついにタイトル詐欺か!? まあまあ、落ち着いて話を聞きましょう。

頂上(とおぼしき所)には、このような印があります。これを 三角点 といいます。 三角点とは、測量の時の基準となるポイントのことで、一等~四等に分かれています。 蘇鉄山の三角点は 「一等三角点」 ですが、これは測量の際にもっとも重要な土台となるもので、意図的に破壊すると2年以

[4] 周辺施設−天保山公園 海岸通ギャラリー・CASO(カソ) | 大阪港の現代美術ギャラリー, , http://www.cwo.zaq.ne.jp/caso/html/syuhen4.htm

築港地区の北岸で、天保山ハーバービレッジの東隣にある公園です。大阪港駅からもCASOからも歩いて10分ほどです。

大阪に住んでいる人でも、名前は聞いたことがあっても、実際に行ったことのある人は少ないのではないでしょうか。CASOやサントリーミュージアムへ行くときは、天保山公園に足を伸ばしてみてはいかがでしょうか。

天保山公園にある、天保山山頂の三角点(標高4.5m)。

ちゃんと山として認められており日本一低い。

但し八郎潟干拓地の底にも日本一低い(海面下)と称する山があるので注意が必要。

天保山という地名は、この公園にある「天保山」という山(標高4.5m)から取られています。

天保山の横を流れる安治川は江戸時代、諸国の船が大坂へ出入りするために掘削された人工の川です。しかしたびたび上流からの土砂で川底が浅くなり船舶交通に支障をきたしました。

天保2年(1831年)、安治川河口を浚渫した際に川底の土砂を河口近くに積み上げてできたのが天保山です。

天保山は大坂に入港する船舶の目印となりました。山には松などが植えられ店が建ち並び、江戸末期には多くの浮世絵に描かれるほどの有名な舟遊び・花見の名所でした。

開国後は掘り崩されて砲台となってしまいましたが、明治末期、天保山周辺の築港埋立地が新しい市街地となり、大阪市内からの市電が走るようになると、再び遊園地や海釣り、大型船見物などの行楽地へと復活。戦前は大阪でも有数のモダンスポットであったのです。但し天保山自体は、掘り崩しや地盤沈下もあって高さ二、三十mから現在の高さになってしまいました。

今は桜や松のきれいな公園として整備されており、隠れた花見の名所。21世紀には、天保山はかならず高感度スポットとしてよみがえることでしょう(願望)。

[5] 大阪市市政 1.天保山(てんぽうざん)渡船場, , http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000011249.html

現在運航中の渡船場TOP PAGE 天保山(港区築港三丁目)と此花区桜島三丁目を結ぶ(岸壁間400メートル)位置に天保山渡船場がある。明治38 年に開設されたこの渡しは、大阪港の繁栄を企図した大阪市が港湾振興策の一環として始めたもので、昭和15年までは市の港湾部が所管していた。当初は天保山、桜島、築港大桟橋の間を三角運航していたが、大阪港の繁栄につれて利用者が増え、築港桟橋を基点に木津川、尻無川方面にも運航区域を広げ、大正11年に天保山桟橋が完成して内航客船が発着するようになってからは、天保山~桜島間を終夜運航した時代もあったが、昭和元年には現在のルートになった。昭和初期には桜島付近の重工業化が進んで通勤用としても利用された。昭和12年12月1日午後9時ごろ、渡船が突風にあおられて転覆、軍需工場帰りの乗客53人の犠牲者を出す事故があった。昭和15年に経営は土木部(現建設局)に移され、現在にいたっている。昭和42年には1日平均1700人の利用者があったが、平成20年度現在1日平均約900人が利用している。

天保山について 江戸時代、安治川の開削によって上流の流砂が堆積し諸国廻船の航行に支障が生ずるようになったので、幕府により、天保2年から2年の歳月と延べ10万1200余人を動員して「御救大浚」と呼ばれる大工事が行われた。このときの捨土を盛り上げたものが出船、入船の目標となった。そこでこれを幕府は「目標(めじるし)山」と命名、やがて人々は、天保山と呼ぶようになった。「摂津名所図会大成」(寛政5年(1793)~万延元年(1860))に『安治川口の下海辺にあり廻船目印山と号す 天保二年御仁恵によって成就の地なればとて世俗天保山と号す 山の高さ凡十間許周廻百間余嶋の周廻千間余石垣の高さ五間余 橋十二箇所茶店貨食屋(りょうりや)等あまたありて春秋とも賑わし 又高燈炉を建てて夜走(よばしり)の舟の目あてとす その結構厳なり』とある。 近年、地元市民の熱意により国土地理院に「山」として認定され「日本一低い山」として話題になった。

[6] 京都・大阪スポットガイド−天保山公園, , http://www.kyoto-osaka.com/guide/spot/0005_tempozanpark.html

明治天皇観艦之所碑のすぐとなりに天保山山頂の標識を発見。この日もここに訪れる観光客がいました。

入口から見える場所にこの絵が掛けられており、昔の天保山の様子が描かれています。

戦後の1958(昭和33)年、天保山を含むエリアに天保山公園が開園、園内には江戸期と同じようにマツやサクラが植えられ、大阪市内の花見の名所のひとつとなりました。山頂そのものは公園の中に埋もれる形になっていて、1994(平成6)年には国土地理院の地形図から削除されました。しかし、「天保山山岳会」をはじめとする地元住民の要望・運動の結果、1997(平成9)年に地形図に再掲載、「山」としての復活を遂げ、それから徐々に「日本一低い山」として脚光を浴びるようになって現在にいたっています。

この山は、江戸時代の天保2年(1831年)、安治川(あじがわ)の運河の工事のとき、川底をさらってでた土砂を積んでできた人工の山です。この土砂の山には桜が植えられ、見晴らしがよいので、だんだん憩いの場所として、人気がでてきました。明治時代には、海水の温泉などがつくられ、大阪の有名なリゾート地だったようです。当初は、水の都・大阪に出入りする船の目印の役割を果たしたことから「目印山」と命名されましたが、のちに、山が築かれた時代名をとって「天保山」と呼ばれるようになりました。しかし、幕末期にロシア軍艦到来を機にした砲台の築造のために山が削られ、また昭和に入ってこのあたりで地盤沈下が引き起こって、山の高さはどんどん低くなっていきました。現在、海抜(かいばつ)4.5m。

交通:大阪市営地下鉄中央線「大阪港」駅から徒歩5分。JRゆめ咲線「ユニバーサルシティ」駅下車、ユニバーサルシティポートからシャトル船で約10分。市バス88系・60系「天保山」下車すぐ。

[7] 大阪市の公営渡船 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%B8%82%E3%81%AE%E5%85%AC%E5%96%B6%E6%B8%A1%E8%88%B9

大阪市南西部は河川や運河などの水路が縦横に走っており、また河川舟運が盛んで架橋が困難だったため、古くから市による公営渡船が多数運航されてきた。各河川・港湾への架橋進展に伴いその多くが廃止されたが、現在でも8航路が、主に大阪市建設局西部方面管理事務所により運航されている(木津川渡のみ市港湾局)。

繁華街や観光地では見られない、普段着の大阪に触れることができるスポットとして、静かな人気を呼んでいる。最近では渡船乗り場への案内看板(船体側面の絵と乗り場を書いた看板)や乗り場の表示看板(船体の正面と水鳥の飛んでいる絵の看板)も作られている。

概要[編集]

歩行者及び自転車専用で、無償。航路により若干、船の大小がある。船体は以前大型船は、白と水色のツートン、小型船は白とオレンジのツートンだったが、白と水色に集約されてきている。

運航時間は航路にもよるが、概ね午前6時台から午後9時台まで。

建設局は渡船と関連し、安治川の下に河底トンネルも運営している。これについては章を改め後述する。

8航路の内7航路が大正区に関係する。

道路・歩道併設の架橋がなされれば基本的に廃止となるのだが、河川舟運の関係で架橋が水面上かなりの高さとなり、歩行者・自転車にとって橋では日常利用に堪えない、として残された航路もある。また、航路は必ずしも減る一方ではない。千歳渡のように、橋が架かっていた地域が大正内港の拡張に伴い分断され、1964年(昭和39年)になって新設された例もある(富山新港の富山県営渡船のケースと似ている。富山地方鉄道射水線も参照)。

歴史[編集]

明治24年(1891年) - 大阪府が「渡船営業規則」を定める

明治40年(1907年) - 安治川、尻無川及び淀川筋の29渡船場が市営事業に

大正9年(1920年) - 旧道路法の施行により無料に

昭和7年(1932年) - 請負制を改め、ほとんどが市の直営方式に

昭和10年(1935年)頃 - 渡船場31箇所、保有船舶数69隻(機械船32隻、手漕ぎ船37隻)

昭和11年(1936年) - 源八渡し(北区天満橋筋(現・天満橋)-北区(現・都島区区域)中野町)廃止(源八橋の開通による)

昭和20年(1945年)頃 - 戦災により多くを失う

昭和23年(1948年) - 渡船場15箇所で再開

昭和45年(1970年) - 平田の渡し(東淀川区豊里

[8] 大阪に来たら巨大ループ橋を巡ろう :: デイリーポータルZ, , https://dailyportalz.jp/kiji/osaka-kyodai_loop-meguri

1983年徳島県生まれ。大阪在住。エアコン配管観察家、特殊コレクタ。日常的すぎて誰も気にしないようなコトについて考えたり、誰も目を向けないようなモノを集めたりします。

前の記事: 決めろ必殺技! コマンド入力できるキーボードを作った

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大阪に来たら港湾部を巡るべき

大阪に住んでいると、「大阪の観光名所ってどこ?」とよく聞かれる。大阪城、通天閣、道頓堀、USJ……そういうガイドブックに載ってる定番スポットもいいのだけど、水都・大阪の神髄は港湾部にあると言っていい。

ひとつ、巨大なアーチ型水門!

ふたつ、無料で乗れる大阪市営の渡船!

みっつ、とぐろを巻く巨大なループ橋!

大阪の港湾部では、大型船舶が通行できるよう水門は独特なアーチ型をしており、架かっている橋も軒並み巨大だ。そしてそのデカすぎる橋のせいで歩いて川を渡るのが困難なこともあり、いまでも地元民の足として、市営で渡船が運航されている。

当サイトでは、すでに アーチ型水門 や 渡船 を巡っているので、詳しくはそちらを見ていただくとして……今回は「巨大なループ橋」にスポットを当ててみたい。

旅のお供、電動レンタサイクル

とはいえ、先に挙げた名所はパラパラと点在しているため、一気に巡るのは体力的にも時間的にも厳しいという課題があった。ループ橋もいつか巡りたいなあと思って目星は付けていたものの、車がないとなかなか行きづらい場所にあって、いままで二の足を踏んでいた。

それが最近、この悩みを解決してくれる頼もしき相棒があらわれたのだ。と言ってもそんなに大層なものではなくて、「電動アシスト自転車のレンタサイクル」である。

いまさらではあるけれど、電動自転車は便利だ。しかも単にレンタルできるだけでなく、各所で乗り捨て可能というサービスが開始されたことで、行動の幅が一気に広がった

最近たまたま HUB chari というレンタサイクルの存在を知った。大阪市内に45ポート(2018年10月現在)あり、どこでも自由に乗り降り可能だという。これを見た私は、まさに水を得た魚である。ループ橋を巡る機運が高まっていると感じた。

徒歩で巡ると、移動距離に制限がかかって、どうしても「点」での観光になりがちだ。でも電動自転車があると、もう少し広がりを持った「面」での観光ができるようになる。特に大阪の

[9] 橋の散歩径 安治川, , http://www.pintruss.com/bridge/tosen/ajigawa.html

安治川

天保山渡

…安治川の河口、天保山と、対岸の桜島を結ぶ。近くには高速道路しか橋は無く、

付近の労働者の貴重な足となっている。大きな船も結構通るので、その波をかきわけ

ぐらぐら揺れながら渡る様は、けなげに思う。もし、渡船に興味をもたれたらオススメの

場所。なお、桜島駅には海遊館へのアクセスとして書かれている。

6:15-19:50 昼間30分毎 ラッシュ時15-20分毎 (日祝は6:30より運行)

梅桜(18トン)

'86天保山丸

'97 梅桜

待合室

三丁目渡(廃止)

…大阪環状線と国道43号の間にあった渡し。たしか廃止に。43号線がすぐそばに

あるものの、はるか上を通っているので(すんごい長い階段有り)なくなったのは痛い。

'86

'97の現状。跡形はかすかに残る。

安治川隧道(河底トンネル)

…これは渡船ではありませんが、一部では非常に有名な地下トンネルです。

昔は車もエレベーターで降りて、通れたのですがさすがに今では人と自転車だけ。

昔ながらのエレベーターで地下深く下がり、河を渡るのは昭和初期に戻ったよう。

西九条駅から南に300メートルぐらい。

トンネルの北側入り口。左側が車のエレベーター。今は封鎖されている。

トンネルの南側。右が車のエレベーター跡。左が現在も使用中の歩行者エレベーター。

富島渡(廃止)

…卸売市場の所にあった渡し。跡形無し。

[10] 梅田新道 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E7%94%B0%E6%96%B0%E9%81%93

国道1号と国道2号などの結節点であり、1952年12月からは国道の起点終点を示す道路元標が設置されている(以前は高麗橋東詰、次いで大阪市役所前に設置されていた)。ここより南、難波までは御堂筋の南行き一方通行路である。東隣の交差点はウメシンヒガシ(梅新東)で、渋滞の先頭になることが多い交差点である。南隣の交差点はウメシンミナミ(梅新南)である。

交差点の地下では、JR東西線と大阪市営地下鉄御堂筋線が交差し、大阪市営地下鉄谷町線がこの交差点を曲がっている。

梅田新道交差点を終点とする国道[編集]

国道1号(始点: 東京都中央区日本橋)

国道25号(始点: 三重県四日市市)

国道176号(始点: 京都府宮津市)

梅田新道交差点を起点とする国道[編集]

国道2号(終点: 福岡県北九州市門司区)

国道26号(終点: 和歌山県和歌山市)

国道163号(終点: 三重県津市)

国道165号(終点: 三重県津市)

梅田新道交差点からの距離[編集]

国道1号 名古屋・京都・枚方方面

名古屋 185km

四日市 149km

京都 44km

枚方 22km

守口 9km

国道2号 岡山・姫路・神戸方面

岡山 155km

姫路 88km

明石 53km

神戸 32km

尼崎 12km

国道25号 四日市・伊賀・八尾方面

四日市 141km(名阪国道経由)

伊賀 84km(名阪国道経由)

八尾 15km

国道26号 和歌山・岸和田・堺方面

和歌山 72km

岸和田 32km

堺 15km

国道163号 津・木津川・門真方面

津 117km

木津川 35km

門真 10km

国道165号 名張・橿原・大和高田方面

名張 80km

橿原 41km

大和高田 37km

国道176号 福知山・宝塚・豊中方面

福知山 109km

宝塚 23km

豊中 11km

関連項目[編集]

近畿地方の道路一覧

道路元標

北新地

外部リンク[編集]

『昔の大阪』写真ライブラリー > 御堂筋と地下鉄

大阪梅田・淀屋橋の変化(ステーション・駅前の歴史いろいろ)

履歴

[16] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933225925

メモ