大阪市立大学

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[1] 大阪市立大学

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[2] 大阪市立大学と杉本町駅 前編ー大阪市大とは【昭和考古学】 - 昭和考古学とブログエッセイの旅へ, , http://parupuntenobu.hatenablog.jp/entry/osaka-city-university-history

阪和線 に 杉本町 という駅があります。

これといって強烈な特徴もない駅ですが、この駅には副駅名というサブの駅名が付けられています。

その名前は、 大阪市立大学 前 。

もう知ってるし~という地元大阪人にとっては、何をいまさらという当たり前の事実ですが、 杉本町駅 は 大阪市立大学 の最寄り駅として知られています。

電車と校舎のツーショットが撮れるほど、目の前にあると言えばあるのです。

前編と後編に分かれる「市大と 杉本町駅 シリーズ」の今回の主役は、この 大阪市立大学 となります。

「市大」は今は 北九州市立大学 や 広島市立大学 などがありますが、私にとっての市大はここなので、クセでどうしても 「市大(いちだい)」 と入力してしまうのです。訂正するのが面倒くさいので、以下 大阪市立大学 は「市大」とします。

大阪市立大学 の歴史

商業の都大阪には、江戸時代から町人のための学校が数多く開かれていました。有名どころは 福沢諭吉 などが在籍していた『 適塾 』ですが、裕福な商人が金を出し合って授業料は無料という塾も多数ありました。

そこで学ぶものは観念論的なものではなく、基本的な道徳を除けば実務的な商売のことがほとんど。これが 大阪市 大を生み出した種とも言えなくもありません。

時代は明治になり、財界人の手によって 明治13年 (1880)に私立の大阪商業講習所が誕生します。これが市大の直接のご先祖様です。

明治32年 (1899)、日本初の「市立」高等教育学校として「大 阪高 等商業学校」と発展させ、商業の高等教育機関としての土台が出来上がります。

そして 昭和3年 (1928)に 大阪商科大学 が誕生します。

大阪商科大学は 東 京商 科(現 一橋大学 ) 、 神戸商科(現 神戸大学 経済学部) と共に「三商大」と呼ばれ、今でも「 旧帝国大学 」のように 「 旧三商大 」 と呼ばれ、スポーツの交流も行われています。

戦前は学歴はもちろん、出身大学での給料格差がふつうに存在していました。これを差別という人もいますが、差別でも何でもなくこれが当時の常識だったのです。

財閥系だと、旧商科大学卒の初任給は東大・京大経済学部卒と同格か、5円ほど下な程度。同じ大学でも早稲田・慶応卒は20円近くも格下、表現は悪いがほぼ虫けら扱い。これは他の 旧帝大 の初任給より高く、給料から見

[3] 大阪市立大学と杉本町駅 後編ー駅から伸びていた謎の線路とキャンプ・サカイ - 昭和考古学とブログエッセイの旅へ, , http://parupuntenobu.hatenablog.jp/entry/osaka-city-university-and-sugimotocho-staton

前編は、ざっくりと 大阪市立大学 の歴史と現在の姿を書きました。

parupuntenobu.hatenablog.jp

今回の後編は、最寄り駅の JR阪和線 杉本町駅 を絡めた謎解きの本題に入ります。

で、こう書くと「また 阪和線 か!」という声がPCの奥から聞こえてきそうですが、 恐るべし 阪和線 、実はまだネタがあるのです。こうなればこのブログは 阪和線 と心中でもしようかしらん。

杉本町駅 から伸びる謎の線路

まずは、ある航空写真を見てみましょう。

昭和23年(1948)、まだ 大阪市立大学 (以下「市大」)が大阪商科大学だった頃の航空写真です。 70年前の写真なので、大学の周囲にほとんど何もない以外は、大学の輪郭を含めて今と変わっていません。

しかし、どこかしらおかしいところもあります。

杉本町駅 の横に、線路が見えているのがわかるでしょうか。 ある人はこう思うでしょう。 「これって、阪和貨物線じゃないの?」 つい最近まで、 杉本町駅 からは 「阪和貨物線」 という貨物専用の路線が分岐していました。

私が小さい頃は、ここから貨物列車が毎日走っていました。昭和50年代後半だったと思いますが、 大和川 を隔てた浅香という駅に何故か1日1本の貨物列車の通過時間が書いていて、駅近くにあった祖母の家に行った時は、その貨物列車を見に行っていました。うろ覚えですが、午後4時前後だった記憶があります。

今はその阪和貨物線も廃止され、レールも剥がされて写真のような長細い荒れ地と化していますが、これではないかと。 確かに路線的には似ています。しかし、阪和貨物線が出来たのは昭和27年。これはその5年前の航空写真です。 これの最大の謎は、線路を辿っていくと大学の構内に伸びていること。これは一体何なのか。

本日の謎は、この一本の線路から始まります。

市大が市大ではなかった時代

前編で大阪商大~市大の歴史をサラッと書きましたが、ある年代がすっぽり抜けています。それが、昭和20年代。昭和20年代の 大阪市 大の10年間は、 玉音放送 の通り「耐え難きを耐え、忍びがたきを忍」ぶ苦難の時代でした。

杉本町の大阪商科大学は戦争中、キャンパスの一部を海軍に接収されてしまいます。最初は一部施設だけだったものの、そのまま 終戦 を迎えます。

「接収」というと権力で無理矢理分捕ったというにおいがしま

[4] あべのハルカス - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%B9%E3%81%AE%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%82%B9

近鉄百貨店 あべのハルカス近鉄本店[編集]

詳細は「大阪2011年問題#近鉄百貨店阿倍野本店(阿部野橋ターミナルビル)(阿倍野・天王寺)」を参照

地下2階から地上14階には、核店舗として「あべのハルカス近鉄本店」が既存の本館と合わせて売り場面積10万m²と単独の百貨店としては日本最大の規模に増床して入居しており、近鉄百貨店はこの増床に約230億円を投資している[21]。2012年11月、近鉄百貨店はあべのハルカスの全面開業に先行して、低層部の百貨店タワー館部分を2013年夏に開業させると同時に、店舗名を「近鉄百貨店阿倍野本店」から「あべのハルカス近鉄本店」に改めると発表した[22]。

そして、2013年5月には「あべのハルカス近鉄本店タワー館」の先行開業日が同年6月13日と発表され[23]、タワー館の概要資料が公開された[24]。6月13日のタワー館開業後は、旧新館を順次改装しウイング館としてリニューアルが進めれられており、10月10日には第2期分としてウイング館の4階から8階までがオープン[25]、2014年2月22日にはウイング館の地下2階の一部と地上2階から4階までが専門店街「ソラハ」としてオープンした。これにより、ウイング館の残りを含めて「あべのハルカス近鉄本店」が全面グランドオープンした[26][27][28]。

オフィスエリア[編集]

オフィスエリアは1フロア2,400m²と大阪地区有数の広さを誇る。照明設備にLEDや内部吹き抜け空間を利用し、自然採光や自動調光システムを利用するなど最先端設備を多数導入しており、省エネルギー性を実現するように工夫されている[14]。なおオフィスのメイン照明、廊下およびロビー照明に設置されるLED照明には、同オフィスに入居予定であるシャープ製の製品が採用された[29][30]。オフィスワーカーのサポート機能には金融機関やカフェなどの利便施設のほか、保育園「近鉄ほいくえんハルカス」が設けられる予定である[31][32]。「近鉄ほいくえんハルカス」は近畿日本鉄道が初めて運営する保育園である[33]。同オフィスで働くオフィスワーカーの子供だけではなく、近鉄あべのハルカス本店やホテル、美術館に来場した客の子供の一時預かりサービスも実施される[14]。

テナントには家電大手のシャープが営業拠点を入居する方針が決まっている。大阪市内に

[5] 大阪珍登山紀行-蘇鉄山と天保山 - 昭和考古学とブログエッセイの旅へ, , http://parupuntenobu.hatenablog.jp/entry/sotetsuyama-mount-tenpo

大阪は平野が南北に伸びる、比較的平らな土地ですが、一方で 兵庫県 以外の県境がすべて山でもあります。 大阪で有名な山の一つに、 金剛山 があります。大阪の小学校では耐寒登山で真冬の 金剛山 に登るのが儀式になっているのですが、最近はミリオタや二次元好きの間で、戦艦『金剛』の命名山になったところとして有名になったそうな。 標高1000mちょっととは言え、 金剛山 も立派な山ですが (地元の人はサンダルで登るらしいけど) 、大阪にある山はこれだけではありません。他 都道 府県にあれば、たぶんネタにもならない、大阪にあるから輝ける名山ならぬ 「珍山」 もあったりします。 大阪人なら、タイトルで「ああ・・・」とすべてを察するでしょう。

1.蘇鉄山

大阪の 堺市 に、 「大浜公園」 という比較的大きい公園があります。 元々ここは江戸時代のお台場から始まり、明治以降は水族館や海水浴場、 スーパー銭湯 のご先祖様と言える「潮湯」という温泉娯楽施設がありました。 娯楽が少なかった戦前においては、浦安の ネズミーランド に匹敵した自称「東洋一」の総合レジャーランド、かつリゾート地。夏になると関西中から観光客が殺到していました。 しかし残念ながら、 松尾芭蕉 の「つわものどもが夢のあと」が身にしみるほど、現在はその片鱗すら見当たりません。 大浜公園については、別記事で詳しく書こうと思います。なので、今回は軽くスルー。

こんなところにも、実は山があります。

蘇鉄(ソテツ)が植えられていることから、長年 「蘇鉄山」 と呼ばれている山です。

ここが山の入口です。

険しい山道を登り、

よっしゃ、頂上まで登ったで~!

さて、麓から頂上までに要した時間はというと!

「分」ではありません、 「秒」 です。 それもそのはず、蘇鉄山の標高は 6.97m 。センチに直すと 697cm 。

え!?それは山なんか!?うちのマンションの方が『高い』やんか!PVが集まらんからってついにタイトル詐欺か!? まあまあ、落ち着いて話を聞きましょう。

頂上(とおぼしき所)には、このような印があります。これを 三角点 といいます。 三角点とは、測量の時の基準となるポイントのことで、一等~四等に分かれています。 蘇鉄山の三角点は 「一等三角点」 ですが、これは測量の際にもっとも重要な土台となるもので、意図的に破壊すると2年以

履歴

[6] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24795567372770236

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