大井川

大井川

[1] 大井川 (おおいがわ)

34.8266704294434 138.151187896729

Webページ

[2] 大井川 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BA%95%E5%B7%9D

大井川(おおいがわ)は、静岡県を流れる河川。一級水系大井川の本流。

[3] 道路レポート 川根街道旧道(三ツ野古道), , http://yamaiga.com/road/mituno/main.html

危険な探索でした。

危険と言ったら、日本の急峻を沢山集めた“南ア”エリアの十八番である。

千頭林鉄 のふるさと、川根本町に再登場を願おう。

【周辺図(マピオン)】

左図は川根本町の千頭地区周辺を描いた最新の地理院地図画像だ。

今回探索した道は、この地図をぼんやり眺めているときに、気になり出した。そして簡単な机上調査の末に、探索を決行した。

そんな緩い動機というか、きっかけから、非常に危険な探索に追い込まれた(苦笑)。

さて、この地図の中で、皆さまはどこが気になりますか?

私が着目したのは、 大井川 に沿って並走(一部重複)する 国道362号 と 県道77号 の位置関係であった。

千頭から金谷までの大井川の中流には、国道と県道が川を挟んで両側に並走しているのだが、これは 国道が右岸(西岸)、県道が左岸(東岸) という位置関係を、まるで暗黙の了解でもあるかのように保っていて、国道が左岸へ“お邪魔”するのは、おおよそ42kmの中にたった2箇所、4kmくらいしかない(平成28年現在)。

大井川の激しい蛇行を思えば、もう少し橋を架けて川を串刺しにするショートカットが多くても良さそうだが、そうした改良は、まだまだ発展途上である。

そしてこの地図の千頭付近が、そんなレアな2箇所のうちの1箇所だ。

南から千頭を目指して右岸を北上してきた国道は、「崎平」で大井川を渡り左岸へ移動。以後「田代」「小長井」を経て、静岡方面へ向かっている。

だが、地図を良く見ると、「崎平」で川を渡らず、そのまま右岸の「富沢」「三ツ野」を経由して「千頭」へ至る道も描かれている。

この状況を見て真っ先に思ったのは、「富沢」や「三ツ野」を経由する道が、国道の旧道なのではないのかということだった。

以前、 千頭林鉄 の探索を行ったので、この辺りの机上調査資料は、既に入手していた。

そして、“右岸旧道説”を確かめるべくそれらに目を通すと、早速発見した。

動かぬ証拠。

左図は、『本川根町史 通史編3 近現代』 (以後『町史』とする。なお、この書名は誤記ではない。 本 川根町が平成17(2005)年に中川根町と合併し、現在の川根 本 町になっている) より転載した、「 本川根地域概略図〜明治初期〜 」である。

この図には明治初期の(おそらく近世から引き継いだ)交通網が描かれており、中央を大きく蛇

[9] , , http://www2.gol.com/users/osake-nsn-ins/ooigawa/ooi1.htm

かなり昔から漠然と”大井川の最初の一滴”を探してみたいと思っていた。というのは地図を見ると天竜川や富士川と違って、河口から最上流部まで大井川と名付けられ、3000mの間の岳から真っ直ぐに南アルプスを駆け下っている事に興味を覚えていたからだ。この夏、ようやくその機会が巡ってきた。

7/27

畑薙から二軒小屋までは送迎バス、このバスは二軒小屋ロッジに食事付きで宿泊しないと利用できない。畑薙から10時間かけて歩く気にはなれず、不本意ながら一泊目は13000円の豪勢な宿泊となった。ロッジそのものは深い山間で芝生に囲まれた小綺麗なログハウス風でなかなか快適だった。

[10] ミニレポ第218回 静岡県道77号川根寸又峡線旧道 奥泉地区, , http://yamaiga.com/mini/218/main.html

【周辺図(マピオン)】

今回紹介するのは、静岡県川根本町の奥泉地区にある、 静岡県道77号川根寸又峡線 の短い旧道である。

左図の通り、現在の県道は、奥泉集落の南にある大井川の小さな蛇行を、渡谷橋と川根路橋という2本の橋で串刺しにする形で、ほぼ直線的に通過している。

だが、このような線形があるとき、橋を介さない川沿いの旧道を想定するのは、もはやトンネルの脇に旧道を探すことと同じくらい、オブローダーにとって自然な行為である。

そして事実、ここには旧道が存在した。

実際にこの旧道を探索したのは2015年のことだが、2010年に初めてこの地区での探索を行った当初から、ここに旧道がある事は知っていた。

左図に旧「大井川林道」と表記した道を、「 静岡県道388号接岨峡線旧道 東藤川地区 」の表題でレポートしているが、そこでもこの旧道の存在に触れている。

わずか600mほどの短い旧道なのだが、存在を把握しつつも探索までに時間を要した理由は、そこが短い割には“大変そう”だったということと、基本的には現道から見通せる程度の規模なので、優先順位があまり高くなかったのである。

だが、比較的短時間で探索出来るこうした小さな旧道は、 大きな探索 が終わった後の日が暮れるまでの空き時間を無駄にしないという目的にはちょうど良かったので、今回遂に探索する事になったのだ。いわゆる、スキマ時間の探索である。

探索レポートの前に、この川沿いの短い旧道が現役だった期間について、これまでに入手した情報を総合して考察しよう。

まず旧版地形図を見較べてみると、 昭和42(1967)年版では車道としてこの川沿いの道が描かれている。

現在の県道を構成する渡谷橋と川根路橋のうち、昭和36(1961)年に大井川林道の一部として開通した渡谷橋はこの当時すでに架かっていたが、 川根路橋は昭和48(1973)年に初めて架設されたので、その時に川沿いの道が旧道化したもの と思われる。

なお、この昭和42年版地形図にも描かれているとおり、川根路橋には先代と呼ぶべき奥泉橋なる橋があった。

これは昭和37(1962)年に開通したという記録があるが、現在も片岸に残る 吊橋の主塔跡 や、 昭和45(1970)年撮影空中写真 に写る非常に華奢な姿を見る限り、自動車を通せるような規模では無かったと思う。 (「橋梁史年表

[11] 道路レポート 静岡県道388号接岨峡線旧道 東藤川地区, , http://yamaiga.com/road/itisiro/main2.html

2010/4/19 17:20 【現在地】

渡谷橋を渡ると大井川左岸の大字東藤川に入るが、200mほどで今度は川根路橋(昭和58年竣工)が現れ、県道はそのまま橋を渡って右岸(大字奥泉)に戻る。

この橋の袂に、わずか数軒の家から成る谷畑集落へ下る道が分岐している。

何の標識も見あたらないが、長島ダムや接岨峡および井川(静岡市)方面へ大井川の本流をさかのぼる道は、県道接岨峡線が昭和58年に開通するまで、ここを右折していた。

いまは町道になっているようだが、元は東京営林局の大井川林道であった。

あっという間に家並みは途絶え、川と山に挟まれた1車線の登り道になった。

そこに現れた、吊橋の主塔の跡。

附属して何か小屋のようなものが建っているが、その正体は不明。

しかし橋については、昭和27年の地形図に既に【記載】がある。

この吊橋の次世代が昭和37年の奥泉橋(おそらく最初の車道橋)で、その次が現在ある川根路橋だろう。

なお、奥泉橋は長さ180m幅7mの3連ガーダー橋であったこと以外、詳細不明。(『橋梁史年表』より)

主塔跡付近から眺める大井川の景色。

写真中央奥の山がV字に切れているところが大井川の川谷で、そこから対岸の奥泉集落を孕む形で大きく蛇行して眼下に達している。

少なく見積もっても対岸までの距離は150m以上あり、ここに架かっていた吊橋は、人道用であったにしてもなかなか壮大なものだったろう。

更に進むと、小さなコンクリート橋が現れた。

廃道化こそ免れているが、欄干は一部崩れたまま修理もされず、舗装路のくせに顕著な“ダブルトラック”を見せている。

現在の通行量が、舗装に見合わぬ量でしかないことを教えている。

17:26 【現在地】

入口から350mほど進むと、右後方から別の舗装路が合流してきた。

地形図を見る限りこの道は行き止まりだが、行き止まりには神社と日当たりの良い緩斜面が描かれており、おそらくは茶畑があると思う。

私は直進するが、路面のタイヤ痕は右折側が優勢だ。

直進すると、また橋があった。

橋の右に映っているのはタンクで、沢の水をホースで組み上げて溜めていた。

また、橋の前後の路面が濡れているが、このあたりは山がかなり水気を含んでおり、裸のままの法面から自然に垂れて水たまりを作っていた。

この水たまりを踏んで橋の上にタイヤ痕を残した軽ト

[16] 廃線レポート 千頭森林鉄道 [総扉ページ], , http://yamaiga.com/rail/senzu/main.html

その経営規模は極めて大きく、昭和44年度の予算規模は約11億5千万円と全国350署中の一位を占め、日本における表街道である東海道筋にそのようなマンモス署が存在することは特異なことといえる。

昭和46年版「千頭営林署管内概要」より

昭和44年当時の千頭(せんず)営林署は、全国350の営林署のなかで最大の予算規模を誇っていた。

このことは同署発行の「管内概要」自らが「特異」だとしているが、確かに誰もが知っている青森や秋田、それに木曽などの“林業国”を差し置いて、静岡県の一部を所管する千頭営林署がそのような地位にあった事は意外である。

ということは当然のことながら、千頭営林署を所管する東京営林局の中でも同署が最大の営林署であった。

膨大な予算は、首都の名を冠する東京営林局が半ば宿命的に持たされていた、わが国の林業の模範となりまた先進的でなければならないという性格を反映させたものでもあった。

それに、ちょうどこの昭和44年というのは、東京営林局管内最後の森林鉄道「千頭森林鉄道」が廃止された年であり、当時は代替となる林道が年10km以上という、現在としては考えられないくらいのハイペースで建設されていたのである。

だが、千頭営林署が全国最大の予算で事業を行っていたのはこの年だけではなく、それほど珍しい事ではなかった。

大規模予算の本当の理由は、「千頭の山」で林業を円滑に行うためには、それが必要なコストだったからに他ならなかった。

そしてもちろん、それに見合った収穫が見込まれたからであった。

地形は早壮年期〜満壮年期で浸食作用がはげしく、起伏量が著しく大きい。そのため崩壊の規模が大きく、河川の谷壁部は急斜をなす。傾斜は河川沿い部分は40°以上、中腹の部分は30°〜40°、山頂近くは10°〜30°となる。標高は、300m〜2591mとその差が著しい。

同上 より

左の写真を見ていただければ、どれほど険しい地形から木が伐り出され、そして運ばれていたのかがお分かりいただけるのではないだろうか。

千頭森林鉄道が昭和初期の開通以来、廃止となる昭和44年までのあいだ、ほとんど毎日欠かすことなく運転されていたのは、目も眩むような絶壁にしつらえられた幅762mmの線路であった。

本稿が取り上げるのは、この「日本一の事業規模」を誇っていた千頭営林署のあらゆる事業に欠くことの出来な

[17] 梅雨の晴れ間の大井川流域林道ツーリング 前編 (WR250F) : Nakaの泥轍日記, , http://naka1md30.exblog.jp/22456079/

6月最後の日曜日、静岡県の大井川流域の林道を走ってきました。 東日本ではここのところ、土日の度に雨が降っていて、どうしようかと思案していたところ、静岡県より西側の天気予報が晴れになっていることに気がついたので、急遽、静岡方面へ走りに行ってみることにしました。 朝4時に雨の中を出発。 本降りの首都高から東名道を抜けて、御殿場からは新東名道へ。 最初の休憩に立ち寄った駿河湾沼津サービスエリアに着く頃には、すっかり雨が上がり、低く垂れ込めた雲の下に鉛色の駿河湾と伊豆半島西海岸が見えていました。

新東名道の島田金谷インターチェンジを降りる頃には、完全に雲が消えて真っ青な夏空が広がってきました。 たった250km西へ行っただけなのに、関東の土砂降りが嘘のような快晴です! ちなみに、自分が大井川流域に走りに来るのは、実に10年ぶりになります。 かつて、ランクル70で春埜山林道に走りに来た前回の来訪から長い年月が経過し、果たしてダートの林道がどれぐらい残っているのか?という不安な気持ちが半分、気持ちの良い夏空の下を走れるという楽しみな気持ちが半分でした。

[19] かぶき者の冒険記。:山ガールは何処!??大井川源流〜白峰南嶺周回。, , http://blog.livedoor.jp/monkeyryo/archives/1372082.html

一ヶ月振りの山行。例年5月は山に行く事はあまり無く、今回は何所に行こうか・・・。

この山域は秋に狙っていたのですが前倒し。決め手は山菜。。旬の山菜を摘みながらのノンビリ山行、なんちゃってサバイバル・・・をイメージしていたのですが・・・

そこはそれ、性格上。段々予定を詰め込んで、そして天気のこともあり今回もハードな行程になりました。

今回のコース。

(伝付峠入口〜伝付峠〜奈良田越〜大井川東俣〜池ノ沢小屋〜白峰南嶺稜線〜笹山〜奈良田)

近頃話題の山ガール。。。なんているわけねぇ〜。どころか4日間、一人の登山者にも会わない(鹿は4〜50頭、猿も多数会いましたが)充実の山行でした。

5月19日

(スタート4:50〜登山口5:30〜保利沢小屋7:30(休憩10分)〜伝付峠10:30〜奈良田越作業所跡13:00〜大井川東俣14:00〜幕営15::00)

今回は徹夜明けではないけれど、、睡眠3時間で3時前に家を出る。田代入口から暗闇の中細い道を慎重に運転。伝付峠入口の登山者駐車場を目指す・・・・も。。

堰堤工事のゲートに阻まれる。まだ大分手前、。バックで戻ってヘリポート辺りの開けた場所に駐車。。いきなり躓く。

40分の余計な坂道の林道歩き。

今回のルート、微妙な時期という事もあってアイゼン&ピッケル、そして沢足袋に各種調味料、生米。30キロ近い大荷物。肩に食い込みます。

猿の群れを脅かしながらようやく登山口。

ここまで入ってこれれば駐車スペースは15台くらいはあるかな。

砂防堰堤工事のための道路を歩いて・・

工事現場を高巻いて大きく迂回。。しましたが、まだこの時間、もちろん工事は始まってません、、余計な迂回でした。

迂回路を歩いていたら突然の警報音。

ワイヤーに引っかかると鳴る仕組み。

ちきしょ〜、、。。

そして堰堤を越えて。

沢沿いの登山道へ。

保利沢小屋までの道には70数本の桟道がついてます。

シーズン前だからなのか、、それとも二軒小屋までバスで行く人がほとんどだからなのか、あまり人が歩いている感じがしません。何本か崩れた桟道もあって結構神経使います。

でも、、美爆&美渓。穴場的なリバートレッキングが楽しめます。

こんな多段の滝も。

それほど傾斜もないので順調に保利沢小屋に到着。ここは東電の管理小屋、一般の人は入れません。

[20] ネオニートを目指す(仮): 大井川あたりの林道, , http://tsdf-gargoyle.blogspot.jp/2012/08/blog-post_16.html

今回のルート。

GoogleMapにもちゃんと道があります。

より大きな地図で 大井川林道 を表示

ナビ無しなので、林道の入り口が分からず5kmくらい通り過ぎてますた。

林道入り口。

[21] 川根本町 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E6%A0%B9%E6%9C%AC%E7%94%BA

行政[編集]

歴代町長

杉山嘉英(2005年10月16日〜 2009年10月15日)

佐藤公敏(2009年10月16日〜 2013年10月15日)

鈴木敏夫(2013年10月16日〜、1期目)

庁舎

川根本町役場 本庁舎(郵便番号428-0313 静岡県榛原郡川根本町上長尾627)

川根本町役場 総合支所(郵便番号428-0411 静岡県榛原郡川根本町千頭1183-1)

川根本町教育委員会(郵便番号428-0411 静岡県榛原郡川根本町千頭1183-1)

産業[編集]

農業

全国的に知られる「川根茶」の産地で、天皇杯や全国品評会等で産地賞受賞などを多く受賞している。また農業生産額では、ほとんどを茶(生葉)、荒茶が占めている。

2000年での農家1戸あたりの平均経営耕地面積は0.41haと、県平均の0.69haのおよそ6割に過ぎず、経営規模は小さいといえる。

林業

町の森林面積は、町全体の約94%を占めている。そのうち国有林の比率が高いのが特徴で、県内国有林の28.6%を占めている。

工業

町には少数だが精密機械、電気機械、製茶(仕上茶製造工場)等の企業が立地している。2001年の時点で、事業所は35か所、従業者数は719人、製造品出荷額は89億円弱となっている。

県全体の水準と比較して1事業所当たりの規模が小さいこと、従業員1人当たりの出荷額が低いことが特徴。

建設業

全産業に占める建設業の比率を見ると、事業所数が13.1%、従業者数が18.8%を占め、県全体よりも高い数値を示している。特に従業者数の構成比は、県全体の水準7.6%の2倍以上の数値を示しており、地域の雇用の受け皿として重要な産業であることがうかがえる。

商業

2002年の商業統計をもとに、地域内の小売業を見てみると、店舗数は215店、従業者数702人、年間商品販売額は約68億円となっている。このことから、町内には大規模小売店舗立地法に基づく店舗面積1,000m²以上の大型店舗がなく、小規模店舗が多いことが分かる。

観光

町内には日本で5か所のみという原生自然環境保全地域の大井川源流部、静岡の自然100選に選ばれたブナの原生林などの美しい自然に加え、寸又峡温泉、接岨峡温泉、白沢温泉、千頭温泉の温泉、さらには大井川鐵道のSL通年運転や日本で唯一のアプト式鉄道などの様々な観光資源がある。

主な学校[編集]

[22] 東海道 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93

律令時代 [ 編集 ]

概説 [ 編集 ]

律令時代 の東海道は、東海道の諸国の 国府 を駅路で結ぶもので、各道に派遣された官人が諸国を巡察する為に整備された路を指す。律令時代に設けられた七道の一つで、中路である [2] 。律令時代の東海道の道幅は、中世や江戸時代の道より広く、より直線的に建設された。

その一方で、当時は大河川に橋を架ける技術は発達しておらず、 揖斐川 ・ 長良川 ・ 木曽川 ・ 大井川 ・ 安倍川 ・ 富士川 ・ 多摩川 ・ 利根川 (当時)といった渡河が困難な大河の下流域を通過するため、むしろ東山道の山道の方が安全と考えられていた時期もあり、東海道が活発になるのは、渡河の仕組が整備された 10世紀 以降のことと考えられている [3] 。

中世に大半が改廃されたため、当時の正確な道筋については議論されているが、おおむね以下のような経路を通っていた考えられている。

畿内から近国まで [ 編集 ]

首都 が 飛鳥 に置かれた時期には、 大和国 の 宇陀 が、東海道方面への入口だったと考えられているが、その後、 平城京 に遷都されると、平城京から 平城山 を北上し、木津から木津川の谷間を東へ入って 伊賀国 に入り、 鈴鹿山脈 と 布引山地 の鞍部を 加太越え で越えて 伊勢国 へ、 木曽三川 を下流域で渡って 尾張国 津島 へ、 名古屋市 を通り、 三河国 と続いていったと考えられている。およそ、現在の 国道163号線 ・ 国道25号線 ・ 国道1号 に沿ったルートであった。

ただし、木曽三川の下流部は古来より水害が激しく、実際には船による移動に頼っていたと考えられ、あるいは 飛鳥 や 平城京 から 鈴鹿峠 を経由してそのまま伊勢国の港から 伊勢湾 を横断する海路が用いられる事も多かったとみられている。だが、その一方でこうした船には馬を同伴させることが出来ず、東国から馬に乗ってきた旅行者は三河国か尾張国で馬を他者に預けて伊勢国に向かう船に乗る必要が生じたが、帰途時に馬の返還を巡るトラブルなどもあった(『日本書紀』大化2年3月甲申条)。このため、徒歩や馬で旅を続けようとする人の中には、本来は認められていなかった尾張国府から北上して美濃国にある東山道の 不破関 に出る経路も用いられていた。伊勢湾を横断する海路と東山道に出る脇道の存在は、江戸時代の 七里の渡

[23] 林道東俣線 (その2) - 我流かもしれないMTB整備と林道ツーリング, , http://dts3800.blog117.fc2.com/blog-entry-279.html

その1 ( http://dts3800.blog117.fc2.com/blog-entry-277.html ) からのつづき。 18.68キロ 滝見橋に到着した。橋を渡る直前に荒川岳(3141m)への登山道の入口がある。 橋を渡り左側を見下ろすと広くて大きな淵があるが、渓流釣りポイントとしては開けすぎてるような感じ。 20.24キロ 湧き水がある西斜面の日陰で昼飯を摂ることにした。 通ってきた道を振り返る。紫印は湧き水。水温は11.5℃と冷たく熱くなった体に丁度よかった。 林道東俣線の日陰は快適空間。冷たい風がスーッと流れてくる。 20.95キロ 左側を見下ろすと発電所らしきものがある。 なぜかこの施設は地図には載ってない。 22.45キロ 左側には清水平・見晴台への林道の分岐点がある。 橋の手前にはガッチリしたゲートで閉ざされている。両サイドを見回したが歩行者も容易に入れないようだ。 23.57キロ 依然、林道は大井川沿いにつづく。 左側を見下ろすと、思わず渓流竿を出したくなるポイントであった。 左側を見上げても赤石岳は全く見えないが、 好天と澄み切った空気のおかげでコンパクトカメラでもくっきりとした写真を撮ることができた。 25.55キロ ここまで林道沿いは広葉樹の林であったが針葉樹(カラマツ or シラビソ)の林に入った。      一直線の気持ちいい高速フラットダートであった。 27.25キロ 右に曲がれば伝付峠へ通じる林道へ入る。 東海フォレスト管理のゲートで閉ざされているが両サイドは容易に人が通り抜けれる。 28.29キロ 二軒小屋ロッヂへの分岐点に到着。右に進めば二軒小屋。 分岐点に二軒小屋の案内図があったので記録しておく。 28.67キロ 小さな橋を渡った直後、林道は右に曲がって田代ダムへ登っていく。 左側には大きな滝があった。滝の名前はあるのだろうか? 28.86キロ 舗装された急坂を登って田代ダムに到着。奥に見えるのが田代ダム。 中部電力ではなく東京電力の管轄であった。 29.04キロ 田代ダム湖はきれいなコバルトブルーであった。 この付近のダム湖はコバルトブルー色をしているのは、もちろん水がきれいなせいもあるが、 大井川水系特有の土質によるところが大きいのではないだろうか。 29.26キロ 二軒小屋トンネルに入る。 トンネル内

[25] 赤石ダム - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%9F%B3%E3%83%80%E3%83%A0

最終更新 2014年7月7日 (月) 06:01 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。

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[26] 伝付峠, , http://www.iida-museum.org/user/nature/pics/dentsuku.htm

早川から大井川上流へ至る道はかつていくつものルートがあったが、現在では伝付峠を越えるルートが唯一となった。この道も大井川上流の東俣林道ができ二軒小屋までリムジンバスが通るようになって、登山者の姿は減っている。しかしながら、明治期に「伊奈街道」として整備されたこともあり、その多くが歩きやすく落ち着いた立派な歩道となっている。峠の祠や崖沿いの手をかけた道など歴史を感じることもできるので、静かな散策を好む人には魅力的なルートといえる。ここでは内河内川入口の新倉で日本を東西に分ける大断層、糸魚川−静岡構造線を観察し、強く変形したスレート(粘板岩)や結晶片岩と内河内川の渓谷美を楽しみながら峠までピストンするコースを紹介する。

■新倉の糸静線の露頭 

糸魚川−静岡構造線(糸静線)は日本列島を南北に横断する大断層で、糸魚川から松本、諏訪を通り静岡へとつながっている。西側には日本列島の基盤をなす岩石が分布し、東側にはフォッサマグナの新期の堆積物が広がっている。この付近では早川沿いを南北に走っていて、赤石山地と巨摩山地の境界をなしている。

この糸静線が、内河内川の入口のところにある大きな崖(国天然記念物指定)で観察できる。ここでは高さ30mにわたって断層面が露出しており、西側の瀬戸川層群のスレート(粘板岩)が東側の火山砕屑岩の上へのし上がっている。しかしながら、糸静線の主要な動きは、左横ずれ断層運動とされている。

山が隆起するはるか前(新第三紀中新世)、伊豆諸島が本州中央部に衝突して強く押したために、赤石山地が逆くの字に折れ曲がるとともに左横ずれ断層群によって大地が切り裂かれた。その代表的な断層が糸静線というわけだ。

[27] 廃線レポート 大井川鐵道井川線 接岨湖水没旧線, , http://yamaiga.com/rail/sessoko/main.html

【周辺図(マピオン)】

大井川鐵道井川線のアプトいちしろ〜接岨(せっそ)峡温泉間には、平成2年10月2日に長島ダムの建設に伴って付け替えられた旧線が存在している。

廃止された旧線の総延長は5.6kmあり、区間内には駅もあった。

元々は昭和29(1954)年に中部電力の井川ダム建設に伴う工事用軌道として敷設された路線で、昭和34(1959)年から大井川鉄道(現・大井川鐵道)井川線として旅客営業を行っていたのだが、国の長島ダム事業の進展によって水没補償を受ける形で新線へ移転したものである。 (新線には日本で現役唯一のアプト式鉄道区間がある)

長島ダムが大井川を堰き止めて生み出された人造湖を接岨湖という。

接岨湖に旧線は水没し、新線は湖畔や湖上を駆け抜けている。

中でも新線にある奥大井湖上駅は、その名の通り(おそらく日本で唯一)湖の上にある駅として独特かつ爽快な景観を誇ることから、秘境駅ファンに限らず、多くの観光客が訪れる。

そして、彼らはそこで、ほぼ間違いなく、目にすることになる。

青い湖面のその先に、深い拒絶と危い誘惑を同居させた旧線の姿を!

…そんな状況であるから、読者諸兄による情報(目撃談)は、早い時期から私の元に複数寄せられていた。

昭和42(1967)年と現在の地形図を比較すると、旧線と現在線(新線)の位置関係が大まかに把握できる。

また、探索の事前情報として、JTBパブリッシングの「 新・鉄道廃線跡を歩く3 」を参考にした。

同書掲載の地図には、右の旧地形図よりも若干詳しい旧線のラインが敷かれており、トンネルの位置や数などもより正確なようだった。

(右図の旧線上に書き加えた大加島仮乗降場と犬間駅も、同書の地図から把握)

だが、実際の探索は水没区間外の下流部分(アプトいちしろ駅から長島ダムまで)を中心に行われており、水没区間内の旧線はやはり、奥大井湖上駅付近からの遠望に終始していた。

となればもちろん、 私が目指すのは、水没区間内の路盤に立って、可能な限り踏破することである!

そんなわけで探索計画を立てることにしたのだが、これがなかなか最初から頭を悩ませてくれた。

どこから旧線へ立ち入るかという、初っ端でつまずいたのだ。

事前情報(新・鉄道廃線跡を歩く3)によって、一番容易なアプローチと思われた、「上流側新旧線分岐地点から旧線へ

[30] 帆越山トンネル旧道 – 日記的な何か, , http://morigen.net/blog/?p=2215

はい、 今日 は神社からこんにちは。

早速残念なお知らせですが、本当は景色見に来たんだけど何も見えなかったです。景色なら 前 に見たんだし、 今日は2人で来たことが大事。うん、そうだ。それに雨の日は滑るから(実体験)よしたほうがいいです。

そういうこともあって近くの旧道に来ました。

旧道に入ると右には神社があります。さっきの神社は本殿でこっちは里宮。神にお願い事するだけなら別に本殿まで行かなくてもいいんです。

カーブを曲がると覆道が見えてきました。

1車線幅で途中に急なカーブのある危険な覆道です。越波を防ぐためか海側はには小さな明り取りの窓だけのこしてコンクリートで塗り固めトンネルのように暗いのに灯器の類はありません。

徐行の徐の字間違えてますやん。

覆道の形が途中から変わりちょっと明るくなりました。幅は一部分だけ広がっていて、離合時の退避帯として使えそうです。

覆道を抜けると山側に大きな平場が出来てました。でも道路はいまだ中央線なし。

おっと先にはまた覆道がありました。

2本目の覆道。これも手前と奥とで壁の有無の違いがあります。

奥の方は越波を防ぐためか壁のある覆道ですが、未舗装かと思うほど地面は泥だらけ。川のように水が流れなきゃここまでにはならないでしょう。

覆道を抜けると舗装が無残に剥がれてました。

3本目の覆道。見てください右の巨大な擁壁を。やはりよっぽど越波がひどい地帯なんですね。

3本目の覆道は短くカーブしています。出た先は海側の岩壁が波除けの壁のように働いています。

そしてすぐに4本目の覆道。

この辺りが帆越岬の先端です。

短い5本目の覆道。

すぐさま6本目の覆道。これは始め壁が有りカーブして、後に柱だけになります。

覆道の中はなぜだか舗装が剥がされています。切り口がまっすぐで深さも一定。明らかに人為的です。

6本目の覆道の先は完全に道路が流されきって影も形もありません。

こういう状態が170m程続きます。

7本目の覆道です。舗装が復活してからはアスコンと普通のコンクリートが交互に敷かれています。

8本目、最後の覆道。

コンクリート塊のバリケードを乗り越したら現道の帆越山トンネルの坑口前に到着です。

今歩いたあんな危険な道とは1世代も2世代も違うなしょうしゃな帆越山トンネルです。道路はもちろん2車線、高さも幅も大型車両を優優通す立派なトンネルです。トン

[31] 【探訪】ダム湖に浮かぶ秘境の駅 奥大井湖上駅, , http://www.youtube.com/watch?v=9iG6iQdzZgE

列車からホームに降り立つと心地よい風が湖面から吹き上げてきた。

 3方を湖に囲まれた小さな半島には、民家も道路もない。ただ駅がぽつんとあるだけだ。いつからかこの駅は「秘境駅」と呼ばれるようになった。
 SLで知られる大井川鉄道の終点、千頭(せんず)駅で井川線「南アルプスあぷとライン」に乗り換えて1時間。大井川に建設された長島ダムが湛える接岨湖(せつそこ)をまたぐように架けられた鉄橋の中間に、その駅はある。正式には奥大井湖上駅(静岡県川根本町)という。 

(写真報道局 奈須稔)

[32] 無想吊橋 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%83%B3%E5%90%8A%E6%A9%8B

この項目では、静岡県の橋について説明しています。

大分県九重町の橋については「九重"夢"大吊橋」をご覧ください。

広島県八田原ダムの橋については「夢吊橋」をご覧ください。

無想吊橋(むそうつりばし)とは、静岡県寸又峡上流の大井川水系寸又川の支川逆河内川(さかさごうちがわ)に掛けられていた林業作業用の吊り橋。無想の橋、新・無双吊橋、新逆河内吊橋、無想の吊り橋、夢想吊橋とも呼ばれるが川根本町の公式な表記は無想吊橋である。

住宅建築ブームにより植林が盛んだった、1970年代に整備された日向林道(南赤石林道支線)の一部として不動岳斜面への通行に利用されたが、林業の衰退に伴い全線が廃道状態となっている。長さ144m、高さ83m。日本一怖い吊橋[1][2]として知られていた。

概要[編集]

古くから木材産地だった大井川上流の赤石山脈渓谷地帯では、深い谷を越えるため吊り橋敷設が行われてきた。近代に入り鋼索が使用されるようになると100mを越える長い橋が登場するが、無想吊橋はその中でも長さと川底からの高さが群を抜いていた。

構造は、2条の主索と、10 - 20cm間隔の敷線20本程度、約50cm間隔の横桁(そろばん板)、幅30cm程度の踏み板2列から成っている。板はクリ材が用いられ、番線で留めてある。今の橋は二代目で、ほぼ同じ場所に旧橋の主索が少し残っているという。

無想吊橋に限らず、周囲には同様の構造で敷設された吊り橋が多く、例えば寸又峡温泉周辺では夢の吊橋(長さ90m高さ8m)、猿並橋(さんなみばし:長さ96m高さ11m)、下流の塩郷駅そばの久野脇橋(くのわきばし:長さ210m高さ10m、愛称:恋金橋)などは整備され、観光スポットとなっている。

現在の状態[編集]

破損が激しく、本来の作業用途での利用は不可能となっている。日向林道自体が至る所で崩落し落石が発生するなど荒れ果てているうえに、熊の生息地域であり、わずかな釣り人や登山者以外に利用者もない状況が続いており、無想吊橋も崩壊途上にある。安全上の理由により2010年6月29日に通行止めとなった。[3][4][5]

脚注[編集]

^ 永野敏夫、永野正子 『南アルプス 大いなる山 静かなる山 知られざるルート120選』 黒船出版、2000年3月。NCID BB10143435。

^ ザ・ベストハウス123(2006年11月8日)

[33] 橋梁レポート 無想吊橋 , , http://yamaiga.com/bridge/musou/main2.html

2010/4/21 14:07 【現在地】

着いた。

いったいどれくらいの長さなんだろう。

途方もない大きさを前に、当然のように足が止まる。

そう易々と一歩目を踏み出せそうにないことは、【遠目で見た】ときから予想がついていたが…。

この橋は、フェアであると同時に残酷だ。

ここへ来る前に、その全体像を知ることを半ば強制しているのだから。

こうして橋の前にたどり着いて、いざ渡ってみようと思うとき、【あの景色】が脳裏から離れない。

空中に架け渡された板きれの列は、たおやかな懸垂曲線を描いて、対岸の山腹へと吸い込まれるように達している。

橋は見ての通り、まだ架かっている。

すぐ近くとだいぶ遠くの2箇所で踏み板が部分的になくなっているのが見えるが、それ以外はまずまず整っている …ような感じを受ける。

しかし、まだこの外見を見ただけで、渡って良いかどうかの判断は出来ない。

実際に構造をよく確かめて、体重を十分に支えられる強度があるかどうかと、踏んでよい場所と悪い場所を知った後でなければ、とてもじゃないが落ちて助からない高さへ進み出る気にはなれない。

まずはチェックだ!

自分を守るための、橋のヘルスチェック!

う、薄い!

やばすぎる薄さ…。

マジカヨ…。

横から見ると、本当にペラッペラ。

ガチで “板きれ” じゃねーか。

頼るべき踏板は、その厚みが2cm程度しかないのである。空手の達人ならば、素手で割りそうな厚み。

この踏板を下で支えるように30cm程度の間隔で敷かれた横板も、基本的には同じくらいの厚さでしかない。

また、鉄線1本だけの手摺りなどは、よろけた体を支えるつもりは毛頭なく、よろけないようにバランスを取る程度の役に徹している事が分かる。

橋の上で左右に転倒した場合は、そのまま橋外へ転げ出る可能性がある。

一旦下がり、改めて橋の袂の状況をチェックする。

まず驚いたのは、これほど大規模な橋でありながら、主塔部分にコンクリートや鉄を一切用いていない事だ。

門のように立っている2本の木柱が主塔であり、その上端にケーブル(主索)が張られている。

ケーブルの一方は対岸の主塔に架け渡され、手前側は前回見てきた通り、ここへ来る途中の立ち木や岩盤などに分担されたアンカーに続いている。

単純な吊橋の力学では、この主塔全体は鉛直下方向に吊橋の自重の半分程度の力

[34] 田舎吊り橋 Vol.17 静岡千頭「天地吊橋」【ぶんかびと】, , http://bunkabito.jp/magazine/article_tsuribashi/vol_0017/index.html

猿並橋から遥か先、近づく事すら困難なマイナー吊り橋。

前回紹介した「猿並橋」の先には4本の吊り橋がある。 しかし、ここから先の山は南アルプス深南部。 名前から想像できるように、素人が簡単に入れるような山ではない。 吊り橋へのアクセスは相当に困難で、大げさではなくリアルに命がけである。 猿並橋には「熊出没注意!」の看板があったが、そこから遥か山奥に入って行く訳だから、普通は立ち入る場所ではないのだ。

そんな深い山奥に、嘗ては林業のために造られた吊り橋が何本も存在していた。 しかもその多くがとんでもない高さや長さだったらしく、想像するにとても魅力的な吊り橋だったようだ。 とても残念なことだが、山が深すぎることと、余程ストイックな登山家か渓流釣り師でもない限り人が入らないため、どんどん劣化が進行して崩落し、ワイヤーだけを残して無惨に朽ち果ててしまったようだ。 そんな過酷な環境の中でも、必要なものは修復あるいは架け替えられて残っているのだ。 今回はそんな中の1つ、そんなに目立たないタイプの吊り橋を紹介しよう。

長く危険な道のり。

猿並橋を超えると、突然急勾配の山道を登らされる。 この急勾配は朝日岳を目指す登山道な訳だから当然だ。 少し登ると元々は車道で今は廃道となっている寸又川左岸林道に出る。 ここで朝日岳への登山道とは別れて、延々続くなだらかな上り坂の寸又川左岸林道を北へ歩く。 元々車道なので道幅は広いものの、その道中は落石だらけで驚く程危険。 ガードレールなんかは殆ど落石によって壊れ、崖の下に落ちてしまっている。 更に、場所によっては崖崩れが起きてしまっていて、その崩れた部分を超えて行かなければならないところもあった。

そんな滅多に人が入らない南アルプスの自然の雄大さは半端ではなく、深い山々に囲まれた林道には無数の小さな滝があり、ニホンザルの群れや、ホンシュウジカの他に、天然記念物のニホンカモシカにも出会うことができた。 しかし、もしも出会ったのがツキノワグマだったら・・・・と思うと恐ろしくなる。

延々上り坂の寸又川左岸林道を登って行くと、道が二手に分かれているところに着いた。 ここを左に入ると日向林道で、今度は下り道になる。 日向林道を暫く行くと、遥か下に千頭ダムが見えてきた。ここで長かった林道から別れ、ここからは細い山道を千頭ダムの所まで一気に下ることになる。 こ

[35] ほくえんの風 原田橋が・・・・無くなった(涙), , http://hokuen.blog.shinobi.jp/%E6%94%BF%E6%B2%BB/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E6%A9%8B%E3%81%8C%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E7%84%A1%E3%81%8F%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F%EF%BC%88%E6%B6%99%EF%BC%89

佐久間の町民として、この橋は利用させてもらっている。

ジョギングの時も。

朝、まだ暗い時に走った時もある。

真冬の真っ暗いなか警備員の人は防寒着に身を包みライトを振っていた。

去年の夏は、双子の女の子も警備の仕事をしていた。

真っ暗の中、このコースを走るのは少し薄気悪かったが、警備の人がいるので安心して走ることができた。

何回も渡ったこの原田橋は今日の午後、崩壊した。

それも、新しく建設していた新原田橋とともに崩壊した。

走って渡るたびに、新しい原田橋のできるのを今か今かと待ち遠しく思っていたのに。

残念でならない(泣)[6回]

[36] 荒川 (関東) - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E5%B7%9D_%28%E9%96%A2%E6%9D%B1%29

歴史[編集]

荒川は、江戸時代初期以前は現在の元荒川の川筋を通っていた。つまり関東平野に出たのち東へ下り、武蔵国・下総国境付近(今の越谷市・吉川市周辺)で南流していた利根川と合流、そこから合流と分流を繰り返しながら江戸湾(現在の東京湾)に注ぐ川だった。「荒」という名の通りの暴れ川でしばしば川筋を変え、下流域の開発も遅れていた。本流が今の綾瀬川を流れていた時代もあるが、戦国時代に水路が掘られて東の星川に繋がれ、綾瀬川と分流した[2]。

利根川東遷事業[編集]

1629年(寛永6年)に関東郡代の伊奈忠治らが現在の熊谷市久下で河道を締切り、和田吉野川の河道に付け替えて入間川筋に落ちるようになった。元の河道は、熊谷市で荒川から離れて吉川市で中川と合流する元荒川となっている。同時期の工事で利根川は東に瀬替え(利根川東遷事業)して古利根川流路から江戸川の流路を流れるようになった。付け替え後の荒川(元の入間川)は、下流で現在の隅田川の河道を通っていた。この部分は流速が遅く、台風で大雨が降るとしばしば溢れて江戸の下町を水浸しにした。明治時代の調べでは、大雨の際、熊谷市と川口市で最高水位に達する時刻の差が48 - 60時間あった[3]。洪水が人や家を押し流すことはないが、浸水による家屋と農作物の被害は深刻であった。しかし、荒川の舟運にとってはこの瀬替えによって水量が増えたことにより物資の大量輸送が可能となり、交通路としての重要性を高めた[4]。

荒川放水路[編集]

荒川放水路(あらかわほうすいろ)は、荒川のうち、岩淵水門から、江東区・江戸川区の区境の中川河口まで開削された人工河川を指す。途中、足立区千住地区、および墨田区・葛飾区の区境を経由し、全長22 km、幅約500 mである。1913年(大正2年)から1930年(昭和5年)にかけて、17年がかりの難工事であった。

計画に至る過程[編集]

明治43年(1910年)8月5日ごろから関東地方では長雨が続き、11日に房総半島をかすめ太平洋上へ抜けた台風と、14日に甲府から群馬県西部を通過した台風が重なり、荒川(現隅田川)を含む利根川や多摩川などの主要河川が軒並み氾濫し、死者769人、行方不明78人、家屋全壊2,121戸、家屋流出2,796戸に上る関東大水害が発生した。利根川左岸上五箇・下中森の破堤により群馬県邑楽郡一帯に被害が集中したほ

[37] 広重, , http://www42.tok2.com/home/toyotane/hirosige.html

歌川(安藤)広重の六十余州名所図会(え)

奥 州とも呼ばれた陸奥の国は六十余州の最北東端に位置し、山形・秋田以外の東北地方全域にあたる。

陸奥 松島風景 富山眺望之略図

最 上川は出羽三山(月山、湯殿山、羽黒山)を囲繞し、山形盆地を流れ、大石田上流の基点・隼などの恐ろしい難所をこえ、

庄内・最上境の連山板敷山の北を流れて酒田の海に入る。

出羽 最上川 月山遠望

常 陸(ひたち)国は関東平野の東北隅に位置して、西は下野(しもつけ)、南は利根川が流れる下総(しもうさ)、

北は奥州へつらなる磐城(いわき)の諸国があり、東は太平洋に面している。

常陸 鹿嶋大神宮

下 野(しもつけ、ほぼ現在の栃木県全域)の「裏見滝」は日光市の荒沢川にあり、滝の裏側から流れ落ちる飛瀑を眺めることが出来る滝で、

「華厳滝」「霧降滝」とともに日光三名瀑のひとつに数えられます。

下野 日光山 裏見ノ瀧

こ のあたりは昔、毛野(けぬ)とよばれる国であったのが分割して上毛野と下毛野となり、その後国名から「毛」が抜け(!)、上野、下野となったのだけれど、

音には「こうずけ」「しもつけ」と「け」が残っているのです。

榛名山(はるなさん)は山岳信仰の対象とされた山で、山頂にはカルデラ湖と榛名富士がある。妙義山、赤城山とあわせて上毛三山と呼ばれる。

上野 榛名山 雪中

千 葉県鴨川市にある内浦湾は別名「鯛の浦」とも呼ばれ、世界有数の鯛の群生地として国の「天然記念物」に指定されています。

貞応元年(1222)2月16日が日蓮聖人が安房の小湊(あわのこみなと)に生まれました。小湊には日蓮聖人生誕にゆかりの誕生寺があります。

安房 小湊 内浦

上 総(かずさ)の国は現在の千葉県の房総半島の北部にあたる。

伝承に拠れば「矢さしか浦」というのは矢指浦で、古名は玉の浦というが源頼朝の命令で1里ごとに矢を指したので矢指浦の名が付き、

またその矢が99本に達したことから「九十九里浜」と呼ばれるようになった。

浜の中央、どちらから数えても49本目となる場所(山武市蓮沼)には箭挿(やさし)神社が今も残る。

上総 矢さしか浦 通名九十九里

下 総(しもうさ)国は、南に上総ご境を接し、平野が広く開け、その他国との分界が難しく、武蔵・上野・常陸の諸国と分れたのは、

大体河の流れによったも

[38] 川上幸義の東海道線創業史, , http://ktymtskz.my.coocan.jp/kawakami/tokai.htm

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序 写真集1 写真集2 東海道 山陽 九州 四国 山陰 ��

関西線 北陸 �

信越 上越 東北 奥羽 北海道 HOME

川上幸義の東海道線創業史

( 新日本鉄道史より鉄道と運輸の抜粋)

1 東京−横浜間の鉄道建設まで �@

2 東京−横浜間の鉄道建設まで �A

3 新橋−横浜間の建設

4 品川−横浜間、新橋−横浜間の開業

5 雇外人について――京浜間に在勤した人々

6 施設の改良――複線化、六郷川橋梁の架換え

7 横浜〜国府津・浜松および大船−横須賀の建設

8 明治4〜24年の東海道線東部の運輸

9 神戸−大阪間の建設

10 大阪−京都間の建設

11 京都−大津間の建設

12 雇外人について――京阪神間在勤の人々

13 長浜−武豊、大府―浜松、馬場−深谷の建設

14 明治7〜24年の東海道線西部の運輸

15 明治24〜39年の東海道線の改良、支線の建設

16 東京市街の高架線の建設

17 明治24〜30年の東海道線の運輸

18 明治30〜39年の東海道線の運輸 �@

19 明治30〜39年の東海道線の運輸 �A

20 明治30〜39年の東海道線の運輸 �B

1 東京−横浜間の鉄道建設まで �@�

top

明治2年4月、明治政府が首都を東京へ移した直後のこと、横浜に住む英人アレキサンダーカンファーという者が、東京−横浜間に鉄道を敷設したいと政府に請願した。

首都東京と最寄の開港場横浜を鉄道で連絡しようという計画は、既に徳川幕府の時代に米人アルセポルトマンの出願があり、2年前の塵応3年12月老中小笠原壱岐守の名義で、江戸−横浜間の鉄道の建設・使用に関する免許状が出ていた。

ボルトマンは明治新政府に改めて既得権として承認されるように申入れてきたが、政府は明治2年2月

「鉄道は日本国が建設する」

との方針を示して断わったばかりであった。カンフアーは

「将来は政府の買上に応ずるし、共同経営でもいい」

と再願したが、当局は却下している。これは政府に先見の明かあった。

のちに鉄道局長になった井上勝の意見であると伝えられるが、大きい功績といわねばならない。

東洋の諸

[39] ミニレポ第206回 菊川市の牛渕隧道, , http://yamaiga.com/koneta/koneta_206.html

【周辺図(マピオン)】

静岡県の中西部、掛川市や菊川市などがある大井川と天竜川の両下流部に挟まれた丘陵地は、県内の隧道多産エリアとなっている。例えば関東の房総半島や三浦半島、或いは九州の国東半島など、全国区の名だたる“隧道王国”には及ばないものの、中部エリアでは最大の多産地と言えるだろう。当サイトでも、変わり種の こんな隧道 を以前紹介しているが、もちろん氷山の一画であった。

なぜこの辺に隧道が沢山あるかという問いは重要だが、今回は肩肘張らないミニレポである。とりあえず物を見て頂きたい。

紹介するのは、菊川市にある 牛渕隧道 である。

市役所がある街の中心地から1〜2kmの近場にあり、現在の地図には“如何にも旧トンネル”といった感じで慎ましげに描かれている。

ここはとても気軽に訪れる事が出来る、夕暮れ前の時間埋めにも最適な探索対象だった。

2015/3/9 16:26 《現在地》

さて、雨の日の少しだけ憂鬱な夕方にやって参りました、牛渕隧道が地図に描かれている峠。

峠と言っても相当に気軽なもので、広く切り開かれた切り通しと麓の高低差は20m程度かな。

この道の路線名は知らないが、普通に生活道路として利用されているから、菊川市道なのだと思う。

…お分かりいただけました?

もう、お目当ての物は、見えていますですよ。 にぱー。

う〜〜ん、 お手軽だ!

でも、なかなか年季の入った佇まいが、ここからでも見て取れるぜ。

こいつは、ただの時間潰しや数稼ぎという気持ちで当たるには、勿体ない逸品だろう。

胸に熱いものを感じた私は、濡れた体の不快さも忘れて、案外に深そうな闇へ歩み寄った。

おうふ!

こいつは、ますます侮れねーゾ。

見所は年季の入った坑門だけではなく、

古隧道の箔付けに一役買う重要定番アイテムが、

勢揃いじゃないか!

それ即ち、

お地蔵 と、

記念碑 だ。

こいつは捗る!

しばしばこのように隧道前で見かける地蔵と記念碑は、共に思いを託された石という共通点を持ちつつも、異なる目的で存在している。

前者は、往来の安全を願うという他者に対する「優しさ」によるもので、道路や隧道と同じように敢えて功績を誇らない、無記名の精神によるものだろう。

後者は、隧道という利便を今日に与えてくれた先人に対する「感謝」と、それを子々孫々に伝えてゆきたいという「

履歴

[42] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054529440546

メモ