南日吉海山

南日吉海山

[1] 南日吉海山

Webページ

[2] 幻想諸島航海記/日吉沖ノ場(南日吉海山), , http://homepage3.nifty.com/boumurou/island/08/hiyosiokinoba.html

南硫黄島南東海上・1977年1月

1977(昭和52)年1月9日(日)。

前年2月に突如発覚して日本を震撼させ、ついには田中角栄元首相の逮捕にまで至ったロッキード事件が、依然として政財界を揺さぶり続け、また、新聞の社会面では、新宿の「火曜日の放火魔」や、青酸入りコカコーラによる無差別殺人事件が世を騒がせていた頃のことである。

この日午後2時半頃、海上保安庁水路部に、日本航空オペレーション・センターより、「午前11時5分頃、羽田発グアム行日航941便の清水靖司機長が、南硫黄島南方の太平洋上で、新島の誕生が推定される変色海域を見た」という旨の報告が入ってきた。

日航・清水靖司機長の話 問題の海域は海面が明るい黄緑色で、周りの深いブルーの海とはっきり違ってみえた。最初に陣内健次副操縦士がみつけ、私も含め乗員三人が確認した。晴れてはいたが、薄くもやがかかった天候で、高度も一万メートルあり、細かいことはわからなかった。この海域では海底火山の活動が活発ときいていたので、もしやと思い、日航のオペレーションを通じて海上保安庁に連絡した。 (『朝日新聞』1977年1月10日附朝刊「新島?変色水域を発見」)

この変色水域は直径約10kmに達していたという。清水機長はその位置を「北緯23度54.06分・東経142度18.07分」と報告している。この報告を信じるならば、問題の海域では水面のごく近くで海底火山の活動が起きており、すでに新島を形成している可能性もある、ということになる。だが、海上保安庁水路部では当初、この報告に少々疑問を抱いていた。というのも、該当位置は伊豆諸島・火山(硫黄)列島からマリアナ諸島へと続く火山帯からは外れており、その上、2000m以上の深海であって、もし海底火山が存在していたとしても、その活動が水面に現れることはまずありえないからである。

しかし、翌10日午前3時に海上保安庁羽田航空基地を飛び立った観測機YS-11A・LA701は、午前6時40分に現地に到着し、変色水域が確かに存在していることを認めた。ただし、その位置は北緯23度30.4分、東経141度54.3分で、最初の通報位置からは南西に約60kmもずれていた。火山列島の南端である南硫黄島からさらに南南東に約90km、東京からは約1400kmの地点である。観測の結果、この海底火山は、新島形成まではいかないも

[3] 硫黄島 (東京都) - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A1%AB%E9%BB%84%E5%B3%B6_%28%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%29

硫黄島(いおうとう)は、小笠原諸島の南端近くに所在する、東西8 km、南北4 kmの島である。行政区分上は東京都小笠原村に属し、東京都区部からは、南方におよそ1,200km に位置する。島内の最高峰は、摺鉢山(標高169 m)であり、硫黄島は周囲の島々と合わせて火山列島(硫黄列島)と呼ばれる列島を形成している。

現在は海上自衛隊と航空自衛隊の基地が置かれており、基地関係者以外の民間人の全島への立ち入りが制限されている。このため小笠原諸島に属しているが小笠原国立公園からは除外されている。

硫黄島は太平洋戦争の激戦地(硫黄島の戦い)として知られ、旧島民らの慰霊などのための上陸は例外として許される。

地形[編集]

父島からは300 km、本州、グアム島、南鳥島、沖縄本島から、それぞれ1,200 kmから1,300 km程度のほぼ等距離に位置する。島の大半は標高100 m前後の台地状の比較的なだらかな地形であるが、島の最南端に位置する最高所(標高169 m)の摺鉢山(パイプ山)は、その名の通り「すり鉢」を伏せたような形状をしている。活火山の火山島であり、地熱が高く、島の至る所で温泉(硫黄泉)が湧き出し、噴出する硫黄ガス(二酸化硫黄等)により、硫黄独特の臭いが立ち込めている。数千年前の海底火山の活動で海底に火山砕屑物が堆積し、それが隆起して誕生した島であり、過去数百年間の平均で、世界的にも珍しい年間約25 cmもの速度で、現在も急速な隆起活動が続いている。島西方にある釜岩はかつては一つの独立した島であったが、この急速な隆起活動により現在は硫黄島と地続きとなっている。

火山噴火予知連絡会は宇宙航空研究開発機構との共同により、陸域観測技術衛星「だいち」の合成開口レーダーを用いた硫黄島観測データ(2006年11月11日と12月27日分)を解析した[1]。それによれば、11月11日観測時と比べて島が20 cm隆起[注 1]しており、硫黄島南東部にて数cmの隆起が確認された[1][注 2]。

硫黄島の南北には、それぞれ北硫黄島と南硫黄島があり、この三島で火山列島(硫黄列島)を構成する。三島とも同じ造りの海底火山の島であり、その体積は富士山を遥かに凌ぐ。

島名について[編集]

島名は、島の至るところで見られる成分の硫黄に由来する。

硫黄島の呼称は、戦前は島民と主に陸軍の間では「いおうとう

[4] 新島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%B3%B6

気候は年間を通じてやや温暖。常夏と言うことは無いが、東京よりは暖かく、降雪することはめったに無い。また、外洋に面しているため風が強い日が多く、特に冬は「西ん風」と呼ばれる強い西風が毎日のように吹く。

東京からわずか160km南に位置するものの、空気は非常に清浄で、星空や海の美しさは、首都圏とは比べ物にならない。

歴史・文化[編集]

縄文時代から人が暮らしていた可能性があるとされており、出土品も存在する。また、現在でも島特有の方言や題目が残っていたり、冠婚葬祭時には、都心部ではすでに消滅しているような伝統的な儀式を今でも行うなど、旧来の文化が島民の生活に色濃く残っている。

江戸時代から1871年まで、政治犯を中心とした流人が多く流されてきており、島で再度重い罪を犯した者は、絞首刑とされた。総勢で1333人が流されたが、島人は彼らに暖かく接したという伝記が残されている。今でも島内の墓地の中には一段低い場所に流人墓地が存在するが、新島特有の白砂が敷き詰められていて、サイコロ型や酒樽型の墓石などもあり、村人が日々花をたむけるため温かい雰囲気がある。

また流人の刑場であった向畑刑場跡へと続く道には柳が生えており、刑が執行される直前、罪人が現世を懐かしんで振り返った場所であったことから「見返り柳」と呼び、今でも供養の花や酒が供えられている。

長い歴史を裏付けるように、島には今でも数多くの物語・民話が残っている。「山ん婆」や「よべーむん(呼ぶ者、の意)」、海坊主、魔物(まむん)、人魚など妖怪の類の話なども多くあるが、中でも海難法師の話は漫画『地獄先生ぬ〜べ〜』などにも引用されるなど、非常に有名である。海難法師は伊豆諸島の島ごとに少しストーリーが異なっており、リンク先の話とは異なるが、ここでは新島の例の概要を紹介する。

かつて伊豆諸島を視察して回っていた悪代官がいた。こんな人間が各島を回っては迷惑がかかり気の毒だ、と考えた伊豆大島は泉津の若者たちが、船の栓を抜いて沈没させ、悪代官ともども溺死した。この亡霊が村を徘徊し、見た者には不幸が訪れると言う。溺死した代官の亡霊を見た物は発狂するととも失明するとも言われており、実際にそうなった人がいる、と言ういくつもの逸話が村にある。

今でもその話を信じる習慣は残っていて、1月24日は「かんなんぼーし」と呼び、漁業を控え、夜は外出せず静かに過ご

[5] 神津島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%B4%A5%E5%B3%B6

本島は式根島とは10kmほどしか離れていない。伊豆諸島の有人島としては最も西にある。ひょうたん型をしており天上山(標高571m)を中心とした北部と秩父山のある南部とに大きく分けられる。

天上山には火口原があり、ここに、「表砂漠」「裏砂漠」と呼ばれる砂地がある。頂上が平坦で高度もあまり高くないにもかかわらず、本州では2000m級の高山に生育しているような高山植物も見られる山である。天上山は838年(承和5年)に大規模な噴火をしたことが『続日本後紀』の記録などから明らかになっている。

南部と北部の間の西側の前浜沿いに主な集落がある。島の他の地域には字滝川、字高処山のように字があるが、この地域には字も町名も指定されていない。

御蔵島や青ヶ島など伊豆諸島には断崖絶壁に囲まれた島が多い中、神津島は比較的平坦で砂浜海岸が多い。また近海を黒潮が流れており、観光事業は発足していないが、マッコウクジラなどの鯨類もいる。

歴史[編集]

本島は、840年(承和7年)に伊豆国賀茂郡上津嶋として名が現れる。

神津島では、砂糠崎(さぬかさき)や沢尻湾、ほか恩馳島で黒曜石が産出し、後期旧石器時代から石器の材料として採取され、大量に本州に送られた。その流布範囲は広く、東は東京都、西は静岡県西部、さらに内陸部の山梨県北杜市の横針前久保遺跡にまで達し、半径約180kmまで拡がっていた。これは同時に旧石器時代の人々が船を使っていたことを示す貴重な間接証拠でもある。採掘は縄文時代まで続いた。

神話によれば伊豆の島々を造った神様が集まるところということから「神集島」の名が生まれ、それが転訛して神津島といわれる。古文書の中には「神集島」と書かれたものもある。

江戸時代初期、キリシタンの朝鮮人女性ジュリアおたあが流罪になり、神津島で没したという伝説があり、島内には墓所とされるものがある。また、ジュリア祭が毎年行われている。

関連項目[編集]

STARHORSEシリーズ - セガの競馬メダルゲーム。架空のGI競走「WORLD BREEDERS' CUP TURF」及び「WORLD BREEDERS' CUP」で開催される架空の競馬場 極東競馬場の舞台であると表現されている。

外部リンク[編集]

[6] 八丈島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E4%B8%88%E5%B3%B6

[編集] 歴史

考古学的には縄文時代から人が住んでいて、勾玉が出土している[要出典]。

律令制度においては東海道駿河国を派遣している。

平安時代に伊豆大島へ流罪となった源為朝が渡来し、八丈小島で自害した伝説が残っている[要出典]が、八丈島の公式な流人第一号は、慶長5年関ヶ原の戦いに西軍石田三成方に属した宇喜多秀家である。

秀家の子孫は、秀家の正室であった豪姫の実家である加賀藩前田氏の援助を受けながら数家に分かれて存続し、明治維新後の1869年に至ってようやく赦免された(実際には「徳川の臣に下る」ことを条件とした赦免が用意されていたが、五大老まで務めた秀家がこれに甘んじることはなかった)[要出典]。赦免と同時に直系の者は島を離れて板橋宿の加賀藩下屋敷跡に土地を与えられて移住したが、数年後に島へ戻った子孫の家系が現在も秀家の墓を守っている。

最後の流人(最後まで流刑状態にあった人物)は北方探検で知られる旗本近藤重蔵の嫡男、近藤富蔵である。1826年(文政9年)に殺人を犯して八丈島に遠島となり50年以上もの間、島で流人としての日々を送った。1880年(明治13年)にようやく明治政府により赦免。彼が流人生活の間に記した『八丈実記』は島の研究の資料として高く評価されている。また、吉村昭の『漂流』は、18世紀末、漂着した無人島での十数年の自給生活を経て自力で船を建造し生還した船乗り達の実録だが、彼らが青ヶ島を経由して生還した地が八丈島であり、五ヶ村四千戸が地役人を中心に統治され本土との連絡も緊密な様子が終盤に描写されている。

太平洋戦争の際には、連合軍の南方からの侵攻に備えるべく、小笠原諸島が陥落した際の次なる防衛拠点とされていた。また東日本では唯一の回天基地も造られた。結局八丈島での戦闘は起こらなかったものの、「防衛道路」や「鉄壁山」などにその跡が残っている。

戦後の八丈島は観光産業が発達し、1960年代にはその温和な気候から日本のハワイとの異名をとり、首都圏からの新婚旅行先としても人気が高かったが、海外旅行の制限が廃止され、本物のハワイが身近になった1970年代以降観光客の入込数は減少傾向にある。ただし現在でも観光が島にとって重要産業であることに変わりない。

[編集] 方言

詳細は「八丈方言」を参照

上代東国方言の名残を残している独自の八丈方言を使用している。八丈島の方言

[7] 父島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%88%B6%E5%B3%B6

[編集] 概要

小笠原諸島最大の島であり、周囲の兄島、弟島などの島とともに父島列島を形成する。一度も大陸と陸続きになったことがない海洋島で、多くの固有種が存在する。島全体が小笠原国立公園に指定されている。東京都小笠原村の中心的機能を担う島であり、小笠原村役場はこの島に所在する。集落は島の北西部の大村地区が中心。島の西側に西に開けた二見湾があり、湾の北部に二見港がある。

1920年代から陸軍によって砲台などの軍施設が建設され、太平洋戦争の頃には更に増強が進み父島要塞となった。現在でも夜明山や衝立山などには軍施設・塹壕・砲台の跡、高射砲などの残骸が残っている。現在では、海上自衛隊の父島基地や宇宙航空研究開発機構(JAXA)の小笠原追跡基地、国土地理院のVLBI観測局などが設置されている。

面積:23.80km²

人口:約2,000人

[8] 南鳥島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%B3%A5%E5%B3%B6

約20万年前 - 隆起して島となる。

1864年(元治元年) - アメリカの船(ハワイ王国の宣教師船という説もある)モーニングスター号が来訪。マーカス島と命名する。

1879年(明治12年) - 日本人が訪れる。

1896年(明治29年)6月30日 - 水谷新六が到達、母島より46人が移住し、集落に「水谷」と命名。

1898年(明治31年)7月24日 - 「南鳥島」と命名され、東京府小笠原支庁に編入される。

1902年(明治35年) - アメリカが領有を試みてハワイから軍艦を出航させるが、それを察知した日本も軍艦を派遣し、先に上陸して牽制。島で小競り合いが起こったが、最終的には和解して日本領が確定。

1933年(昭和8年) - 全島民が撤収、無人島になる。

1935年(昭和10年) - 海軍気象観測所開設。

1942年(昭和17年)3月4日 - 太平洋戦争中、ハルゼー中将麾下のアメリカ海軍の第16任務部隊(空母エンタープライズ旗艦)により、南鳥島は東京府内で初めて空襲を受けた。その後も1943年(昭和18年)8月31日など何度も空襲を受けた。

1943年(昭和18年)7月1日 - 東京都制施行(東京府廃止)。

1945年(昭和20年) - 日本を占領下に置いた連合国軍の一国であるアメリカ軍が占領。

1952年(昭和27年) - サンフランシスコ条約によって、アメリカの正式軍政下に入る。

1968年(昭和43年)6月26日 - アメリカより返還され、東京都小笠原村に属する。海上自衛隊南鳥島航空派遣隊が編成される。

1993年(平成5年) - ロランC局(南鳥島ロランC局)を管理していたアメリカ沿岸警備隊が撤収。海上保安庁が管理を引き継ぐ。

2006年(平成18年)9月1日 - 台風12号接近により、気象観測所職員全員が一時島外避難。

2009年(平成21年)11月1日 - 環境省が鳥獣保護区に指定。

2009年(平成21年)12月1日 - ロランC局(南鳥島ロランC局)廃止に伴い海上保安庁職員が撤収。

2010年(平成22年)5月18日 - 南鳥島などの離島の保全を目的とした低潮線保全・拠点施設整備法案が衆議院を全会一致で通過。5月26日、参議院で全会一致で可決・成立し、一部規定を除き6月24日施行。

2011年(平成23年)3月31日 - 南鳥島港湾保全管理所の仮庁

[9] 小笠原諸島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E8%AB%B8%E5%B3%B6

日本の気候区分では「南日本気候」、ケッペンの気候区分では、聟島(むこじま)列島・父島列島・母島列島・西之島が温帯に、火山列島・南鳥島・沖ノ鳥島が熱帯に属するが、温帯に属する地域は一般的に亜熱帯とされる。それに併せて海洋性気候にも属する。年間を通じて暖かく、夏と冬の気温差は少ない。春 - 初冬にかけて台風の接近・影響を受けることが多い。梅雨前線はこの地の北に現れ、太平洋高気圧の支配下となるため、北海道と同様に梅雨が無いとされる[2]。

気象庁による有人観測施設は、父島気象観測所・南鳥島気象観測所(2か所とも高層気象観測も実施)、アメダスが母島(雨量のみ観測)に設置されている。なお、小笠原諸島には気象レーダーが設置されておらず、気象レーダーによる観測が行われていない[3]。また、2008年3月26日まで、日本全国で唯一気象に関する注意報・警報が発表されていなかった[4]。ただし、小笠原諸島周辺海域は現在でも地方海上予報区[5]の区域外であり、海上警報も発表されない。

[編集] 自然

詳細は「小笠原諸島の自然」を参照

1972年(昭和47年)10月16日に一部の島や地域を除き小笠原国立公園として、国立公園に指定された。小笠原諸島は形成以来ずっと大陸から隔絶していたため、島の生物は独自の進化を遂げており、「東洋のガラパゴス」とも呼ばれるほど、貴重な動植物が多い。しかし、人間が持ち込んだ生物や島の開発などが原因でオガサワラオオコウモリやオガサワラノスリ、アカガシラカラスバト、ハハジマメグロなどの動物やムニンツツジ、ムニンノボタンといった植物など、いくつかの固有種は絶滅の危機に瀕している。1980年(昭和55年)3月31日に国指定小笠原諸島鳥獣保護区(希少鳥獣生息地)に指定された(面積5,899ha、うち特別保護地区1,331ha)。周辺の海域では鯨やイルカが生息しており、それらを見るために島を訪れる人も多い。また陸上では、人間が持ち込み野生化したヤギも生息している。

2011年には世界遺産に登録された。その範囲は小笠原諸島の自然#世界遺産を参照のこと。

「小笠原村#名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事」も参照

[編集] 歴史

[編集] 年表

古第三紀 - 凝灰質砂岩・泥岩・石灰岩などの海底噴出物より形成される[6]。

北硫黄島には先史時代のものとみられる石野遺跡がある[7]。

[10] 沖ノ鳥島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E3%83%8E%E9%B3%A5%E5%B3%B6

沖ノ鳥島(おきのとりしま)は、東京都小笠原村に属する、太平洋上に浮かぶ日本最南端の島(サンゴ礁)である。満潮時に沈まないのは東小島(ひがしこじま)、北小島(きたこじま)と呼ばれる2つの小島で、大部分は海面下にある。

日本は「海洋法に関する国際連合条約」(国連海洋法条約)発効に併せて制定した「排他的経済水域及び大陸棚に関する法律」(平成8年法律第74号)に基づき、沖ノ鳥島を中心とする排他的経済水域(Exclusive Economic Zone、略称:EEZ)を設定しているが、2003年以降、中華人民共和国(中国)及び大韓民国(韓国)の2か国から日本の主張に対する異議が申し立てられている(詳細は#地位に関する論争を参照)。

地理[編集]

東京から1,740km、硫黄島から720km、フィリピン海プレートのほぼ中央、九州・パラオ海嶺上に位置する、太平洋の絶海に孤立して形成された南北約1.7km、東西約4.5km、周囲約11kmほどのコメ粒形をしたサンゴ礁の島である。北回帰線の南に位置するため熱帯に属する。

干潮時には環礁の大部分が海面上に姿を現すが、満潮時には礁池内の東小島と北小島の2つの小島を除いて水没する。なお第二次世界大戦の前の調査では最大2.8mの北露岩を含めて6つの露岩が満潮時にも姿を現していたが、現在では北小島(北露岩から改称)と東小島(東露岩から改称)の2つのみである。1933年の記録では高さ2.25mの南露岩が記されているが、1938年に流失が確認されている。1968年に日本へ管轄権が返還された後も1982年以前は4つとされていた。

この島は過去100年あたり1cmという、地盤の沈下が極めて小さいことでも知られ、地球温暖化などに伴う海面の水位変化を調べるのに役立っている。ただし近年のGPS調査によると、沈降こそ無いものの、N70°W5.0cm/年(1年間に進む距離が、真北から西へ70度回った方向に5cm)で西北西に移動している事が確認されている[2]。

沖ノ鳥島周辺は海面と海底の海水の温度差が年間を通じて20℃程あり、海洋温度差発電にふさわしい条件が揃っている。

北小島[編集]

東京都小笠原村沖ノ鳥島1番地。旧称は北露岩。北緯20度25分31秒東経136度4分11秒に位置する。面積7.86m²。海抜は第二次世界大戦以前の海図では2.8mと記載されていたが

[11] 西之島新島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E4%B9%8B%E5%B3%B6%E6%96%B0%E5%B3%B6

西之島新島(にしのしましんとう)は、1973年に小笠原諸島で形成された陸地(島)。西之島隣接海域で発生した火山の噴火によって形成された。当時は「新島ブーム」とマスコミに報道され、大きな話題となった。後に西之島と接合し、ひとつの島となった。行政区画は、東京都小笠原村。

なお、このように既存の領海内に自然現象で新たに島が出現した場合は、国際法上自動的に領海の所属国に帰属し、「先占(実効支配)」の必要性はない。西之島新島の場合も自動的に日本の領土として認定されている。

地理[編集]

東京の南約1,000km、父島の西約130kmにある。火山列島(硫黄列島)と同一火山脈に属し、付近は海底火山活動が活発である。西之島火山は海底から計測すると4,000mにもなる大火山であるが、海面に出ているのはその最上部にすぎない。

1973年に西之島火山が噴火し、西之島新島が形成された。その後、西之島(旧島)と接合したため、陸地としての実態は西之島と一体である。現在、「西之島新島」および「新島」と特に呼ぶ場合は、この時の噴火により形成された陸地の範囲(旧島を除く範囲)を指すことが多い。

1999年時点での新島部分の面積は0.25km²、最高標高は15.2mである。また、旧島部分を含めた西之島全体の面積は0.29km²、最高標高は25mである。

島の周囲は波の浸食を受けて断崖となっており、上陸は難しい。島には雑草やコケ類が生えている。火山噴火が終息後、漂着した種子からグンバイヒルガオが繁殖、セグロアジサシやカツオドリが飛来するなど動植物も確認されている。周辺は好漁場となっているが、座礁事故も起こっている。

歴史[編集]

1973年(昭和48年) - 4月に変色水が確認された。同年5月30日西之島の東方600mで海底火山の噴火があり、同年9月11日に新島が出現、同年12月21日に「西之島新島」と命名された。

1974年(昭和49年) - 3月には新島と旧島が接続。馬蹄形の形状となる。東海大学の調査隊が上陸。

1975年(昭和50年) - 新属新種のニシノシマホウキガニが発見されたが、その後、島内では絶滅した(他海域で再発見)。

1982年(昭和57年) - このころには湾口が閉じて湾が湖になり、釣鐘型の形状となる。

参考文献[編集]

青木斌・小坂丈予編 『海底火山の謎:西之島踏査記』 東海大学出

[12] 西之島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E4%B9%8B%E5%B3%B6

西之島(にしのしま)は、小笠原諸島の島(無人島)。1973年に付近の海底火山が噴火し、新島(西之島新島)が誕生、後に西之島と接合し、一体化した陸地となった。そのため、現在の「西之島」の呼称は、西之島新島とあわせた陸地全体を指す。行政区画は、東京都小笠原村。

地理[編集]

東京の南約1,000km、父島の西約130kmにある。火山列島(硫黄列島)と同一火山脈に属し、付近は海底火山活動が活発である。西之島火山体は海底から計測すると比高4,000mにもなる大火山であるが、海面に出ているのはその最上部にすぎない。

1973年から1974年にかけての噴火により新島ができるまでの西之島(旧島)は、面積0.07km²、東西650m、南北200mの細長い島だった。現在は、噴火とその後の侵食と堆積によって新島と一体化。1970年代は、新島と旧島に挟まれた「コ」の字型の湾をもつ島だったが、堆積作用によって、1982年には湾口が閉じて完全に一体化。円形の島になった。なお、1999年時点での新島部分の面積は、0.25km²。

現在は新島と旧島は完全に一体化している。島の周囲は波の浸食を受けて断崖となっており、上陸は難しい。

自然[編集]

西之島は海洋島であり、噴火後まだ時間が経過していないため、植物相は貧弱でスベリヒユ、オヒシバ、イヌビエ、グンバイヒルガオ、ハマゴウ及びツルナの6種しか確認されていない[1]。これらの多くは、種子の海流散布を行う植物である。アカオネッタイチョウやアオツラカツオドリ、オオアジサシ、オーストンウミツバメ、カツオドリ、オナガミズナギドリ、セグロアジサシなどの12種類の鳥類の生息、そのうち9種類の繁殖が確認されている[1]。その他にはアリやクモ、カニの生息が確認されている[1]。このため、2008年8月1日に国指定西之島鳥獣保護区(集団繁殖地)に指定されている(面積29ha、全域が特別保護地区)。

歴史[編集]

西之島に井戸水はない上に農耕にも適さないため、遭難船の漂着者を除いて、人が居住していた記録はない。ただし、西之島に産出しない半深成岩でできた、石の面に見える長さ23cmの石が、東海大学の調査隊によって採取されている[2]。

約1000万年前 - 火山活動により島が誕生。

1702年 - スペインの帆船ロザリオ号が発見し、「ロザリオ島」と命名。

1801年 -

[13] 安達太良山 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%81%94%E5%A4%AA%E8%89%AF%E5%B1%B1

特徴[編集]

数万年前までは、マグマ噴出を繰り返す活動が活発な火山であったが徐々に沈静化。約2,400年前の噴火の際にマグマ噴出以降は、時折、マグマ水蒸気爆発を繰り返す程度となる。

主な地形[編集]

北から

鬼面山 1,482 m

箕輪山 1,728 m 最高峰[1]

鉄山 1,710 m[2]

沼ノ平火口

篭山 1,548m

矢筈森 1,673 m

安達太良山 1,700 m

船明神山 1,667 m

薬師岳 1,322 m

和尚山 1,602 m

前ヶ岳 1,340 m

噴火災害記録[編集]

1658年 地すべり、死者多数

1899年 8月24-25日、11月11-12日 小規模水蒸気噴火

1900年 7月17日 沼の平で水蒸気爆発、沼ノ平火口を形成し火砕サージが西側斜面の沼尻鉱山を襲う、死者72名、負傷者10名

1997年 9月15日 沼ノ平火口付近で硫化水素ガスにより死者4名

災害対応[編集]

噴火時のハザードマップは、沼ノ平火口が西側を向いているため、おもに猪苗代町を被害の対象としている。なお、西よりの風が常風のため、噴火時には二本松市側にも大量に降灰する可能性は大きい。気象庁では地震計、空振計、GPS観測装置、カメラを設置し常時観測を行っている。解析結果等は毎月上旬に気象庁のウェブサイトで公表されている。

観光[編集]

沼ノ平周辺の荒涼とした火山の景観がみどころ。また、ガンコウラン、クロマメノキなどの高山植物を始めとし、ヤエハクサンシャクナゲ、サラサドウダン、レンゲツツジなどが咲き誇り、田中澄江著「花の百名山」の一座にも選ばれている。この火口を中心とする優れた景観と、高山植物を保護するため、磐梯朝日国立公園に指定されている。

また、岳温泉、奥岳温泉、塩沢温泉、野地温泉、横向温泉、沼尻温泉など、多くの温泉場が取り囲んでいる。冬期は、あだたら高原、塩沢、箕輪の各スキー場が運営される。緩やかな山体から山スキーのメッカとしても名高い。

文学[編集]

万葉集にも歌われ、また高村光太郎の『智恵子抄』“樹下の二人”の節にも名が見える。深田久弥の随筆『日本百名山』にも登場する。

登山[編集]

全体として緩やかな山体であり、また、夏期でも奥岳から薬師岳に、スキー場のゴンドラリフトが運行されており、標高1,300m付近まで上がれるため、初心者でも比較的登りやすいとされる。主

[14] 中之島 (鹿児島県) - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%B9%8B%E5%B3%B6_%28%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E7%9C%8C%29

中之島(なかのしま)はトカラ列島に所属する島。面積は34.47km²。周囲30km、最高点は御岳(トカラ富士)の979m。人口は167人、世帯数は97世帯(2004年10月1日現在)[1]。

島名は七島の中ほどにある島であるということに由来している[2]

地名(行政区画)としての「中之島」は鹿児島県鹿児島郡十島村の大字となっており、島の全域がそれに該当する。

概要[編集]

十島村で最も人口が多く、1956年までは村役場の所在地であった。村役場が村外の鹿児島市に移転した後も2008年までは支所が置かれ、駐在所や民俗資料館・天文台などの施設が集まる実質的な村の中心地である。

地域[編集]

公衆浴場[編集]

温泉(公衆浴場)[3]が数か所存在する。西海岸沿いに設けられた東区温泉、西区温泉は、ともに乳白色のミョウバン・硫黄・塩分を含んだ天然温泉である。泉質:硫黄泉、効能:神経痛・筋肉痛・痔疾・冷え性という。

交通[編集]

島内を周回する道路は多数存在するものの未舗装の箇所が多い。島内は琉球寒山竹の生育が著しく、これらの未舗装の道の中には通行不可能になったものも少なくない。

十島村の他の島と比べると大きな島だがバス・タクシーは存在しない為、民宿にて車をレンタルするかフェリーで持ち込まないと島内での活動が制限される。

施設[編集]

十島村役場中之島支所

中之島天文台

十島村立中之島小中学校

鹿児島中央警察署中之島駐在所

十島村に唯一存在する駐在所であり、中之島駐在所の管轄区域は鹿児島郡十島村の全域が指定されている[4]。

中之島郵便局

中之島灯台

十島村歴史民俗資料館

十島村開発総合センター

店舗[編集]

永田商店

最低限の日用品と焼酎・ビール・アイスクリーム・タバコを取り扱っている。

通信[編集]

携帯電話はNTTドコモのみ利用可能である。十島村開発総合センターに公衆電話がある。

歴史[編集]

江戸時代以降[編集]

中之島という地名は江戸期より見え、薩摩国川辺郡のうちであった。薩摩藩直轄地で郷には属さず、薩摩藩の船奉行の支配下に置かれていた。

口之島や宝島と同様に津口番所、異国船番所、異国船遠見番所が併置されており、鹿児島城下より派遣された在番と横目が常駐していた。中之島の在番は中之島の他に諏訪之瀬島、悪石島を管轄しており、在番の指示を受けた郡司が島政に当たったとされる。「薩

[15] 小笠原村 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E6%9D%91

地理[編集]

東京都本庁から小笠原村本庁である父島までは、約1,000 km離れている。

山: 父島の最高峰は名前の無い山(326m・中央山ではない)、母島の最高峰は乳房山(463 m)

河川

八ッ瀬川

歴史[編集]

「小笠原諸島#歴史」および「小笠原支庁#歴史」も参照

1940年(昭和15年)4月1日 - 普通町村制の適用により、東京府小笠原支庁の父島に大村・扇村袋沢村が、母島に沖村・北村が、硫黄島に硫黄島村が設置される[3]。

1943年(昭和18年)7月1日 - 東京都制施行。(東京府廃止)

1946年(昭和21年) - アメリカ合衆国軍の直接統治の下に置かれる。

1952年(昭和27年) - サンフランシスコ講和条約により、5村は日本国政府の行政から分離され廃止。アメリカ合衆国の施政権下に置かれ引き続きアメリカ合衆国軍管理となる。これに伴い各村役場は廃止され、役場の一般事務は東京都総務局行政部地方課分室で行われる。

1953年(昭和28年)4月28日 - 小笠原支庁廃止[4]

1968年(昭和43年)6月26日 - 南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定発効により、アメリカ合衆国軍から返還、本土復帰すると同時に小笠原支庁の全村が合併し、東京都小笠原村となる[5]。小笠原総合事務所(国の機関)[5]、東京都小笠原支庁および小笠原村役場の行政機関設置。

1979年(昭和54年)

4月22日 - 村議会議員および村長の設置選挙

4月23日 - 村政確立(それより前は東京都小笠原支庁長が小笠原村長職務執行者であった)

行政区域変遷[編集]

変遷の年表

小笠原村村域の変遷(年表)

月日

現小笠原村村域に関連する行政区域変遷

[16] 鵜渡根島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%9C%E6%B8%A1%E6%A0%B9%E5%B3%B6

経緯 - 北緯34度28分21秒、東経139度17分38秒

面積 - 0.4km²

外周 - 3.3km

標高 - 210m

その他の情報[編集]

かつてはニホンアシカの生息地の一つだった。

この島周辺には大きなサメが住み着いている。

御蔵島から利島に移り住んだミナミハンドウイルカが当島周辺や式根島、新島等にも住み着いている。

この島は今では無人島であるが、明治時代には養蚕を営む人が住んでいたので、島には今も神社があり、そこに祭られている神鵜渡根后明神がこの島の由来にもなっている。

本島には磯場が点在し大型の、尾長メジナ、イシダイ、イシガキダイ、モロコ、カンパチ、ヒラマサ、マグロ、カジキ、イサキ、シマアジなどが釣れ、釣り人が渡船を使ってしばしば上陸する。しかしこの周辺の海域は時化やすく、年に50回くらいしか渡礁できない。

[17] 御嶽山 (長野県) - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%B6%BD%E5%B1%B1_%28%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C%29

火山活動[編集]

御嶽山は東日本火山帯の西端(旧区分による乗鞍火山帯の最南部)に位置し、古生層と中生代の濃飛流紋岩類を基盤(基底部は17 km四方の広さ)とし、基盤からの高さが1,400-1,900 mのカンラン石、複輝石、安山岩などで構成される成層火山である[5][9][32]。各方向に溶岩流を流れ出しているが、西に流れた摩利支天山第6溶岩流は、最も延長が長く約17kmに及ぶ。末端には安山岩の大岩壁巌立がある[33]。一ノ池を中心として、摩利支天山、継母岳、王滝頂上を結ぶ外輪山の内側がカルデラであると推測され、カルデラ形成前の姿は、富士山に匹敵する高さの成層火山であったと推測される。大爆発によって崩壊した土砂は土石流となって川を流れ下った岐阜県各務原市付近の各務原台地には御嶽山の土砂が堆積しており、水流によってできた火山灰堆積物が地層となっている。この大爆発によって剣ヶ峰、摩利支天山、継母岳の峰々が形成された複成火山であり、その山容はアフリカのキリマンジャロ山に似ている[34][35]。

従来、最後のマグマ噴火は約2万年前で以降は水蒸気爆発と考えられていたが、2006年(平成18年)に行われた岐阜県の調査および2008年(平成20年)に行われた国土交通省多治見砂防国道事務所や産業技術総合研究所の調査によれば、約5200年前の火砕流を伴う噴火を含め、2万年間に4回(約1万年前以降、約1万年前、約9000年前、約5200年前、約5000年前)のマグマ噴火を起こしている[32][36]。信濃毎日新聞の2007年(平成19年)4月30日の紙面に掲載された記事によると、岐阜県の調査によって、剣が峰北西6キロの下呂市小坂町内において、約5200 - 6000年前の火砕流が堆積してできた地層が発見され、五ノ池火口からの噴出物と考えられる火砕流の痕跡が確認された。最近の2万年以降の活動は水蒸気爆発と限定していた岐阜県・長野県それぞれにおいて、火砕流も想定しての、ハザードマップなど防災に関する見直しが行われる可能性が指摘されている。

1979年以降は断続的(1991年、2007年)に小規模な噴気活動が続いている[37][38]。気象庁により「火山防災のために監視・観測体制の充実等が必要な火山」に指定されていて[39]、山頂周辺には火山活動の観測のための地震計、空振計、傾斜計、火山ガ

[18] 桜島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E5%B3%B6

桜島の大部分を構成する御岳は南北に並ぶ北岳、中岳、南岳から成り、山腹に多くの側火山を配する。山裾が海まで伸びているため平地はほとんどないが、北西部と南西部の海岸沿いに比較的なだらかな斜面があり、農地として利用されている。温暖湿潤な気候でありながら、山肌に木々が乏しい上に、火山噴出物からなる土壌のため保水性が低く、川はほとんどが涸れ川となっている。

桜島は全域が鹿児島市(1889年時点では西桜島村、東桜島村[10])に属し、桜島地区では7,329haの区域が霧島錦江湾国立公園に指定されている[2]。

明治以前は2万以上であった島内の人口は、大正大噴火の影響によって9,000人以下に激減。その後も減少が続き、1985年(昭和60年)には約8,500人、2000年(平成12年)には約6,300人、2010年(平成22年)には約5,600人となった。

御岳[編集]

北岳(標高1,117m)

桜島の最高峰。山頂に直径約500mの火口があり雨が降ると池ができることもある。有史以来山頂火口から噴火した記録はないが、北東斜面に安永大噴火の火口がある。

中岳(標高1,060m)

北岳から約900m南に位置する。有史以来噴火の記録はない。南岳の寄生火山の一つである。

南岳(標高1,040m)

中岳から約500m南に位置する。山頂に直径約700mの火口があり、その内側に二つの小火口(A火口とB火口)を擁する。火口内にはかつて白水と呼ばれる池があった[11]。この火口は1955年(昭和30年)以降活発な噴火活動を続けており、山頂火口から半径2km以内は警戒区域に指定され、立ち入り禁止となっている。南側山腹には安永大噴火の火口、東側山腹には昭和噴火の火口がある。

寄生火山(側火山)

湯之平(ゆのひら、標高373m): 北岳の西側斜面に位置する溶岩ドーム。御岳の山頂付近を間近に眺めることのできる湯之平展望所がある。

春田山(はるたやま、標高408m): 湯之平の東側に隣接する溶岩ドーム。京都大学の火山観測施設が設置されている。

権現山(ごんげんやま、標高350m): 南岳の東側斜面に位置する溶岩ドーム。

鍋山(なべやま、標高359m): 南岳の東側斜面に位置する火口跡。南側に大正大噴火の火口(東火口)がある。

引ノ平(ひきのだいら、標高565m): 中岳の西側斜面に位置する溶岩ドーム。北東部に

[19] 嫁島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AB%81%E5%B3%B6

嫁島(よめじま)は、東京都小笠原村に属する無人島。聟島列島の最南端の島で、父島列島から最も近い位置にあり、父島の北約50kmにある。面積0.81km²。小笠原国立公園に含まれている。季節的漁業者の停泊地として用いられている。

現在は無人島だが、戦前は住民が暮らしており、1907年の調査では人口6人、1918年の調査では人口20人を数えていた。住民が定住するまでは森林が分布していたと考えられているものの、定住やかつての住民が飼っていたヤギが野生化したことで植生破壊が行われていた。このため、東京都によって元来の環境を取り戻すため、ヤギの駆除が行われ、2001年に根絶が達成された[1]。現在はウドノキ林のような元来の植生の回復が図られている[2]。

植物種としてコゴメビエなどが存在する。海鳥類ではクロアシアホウドリが生息するほか、2013年にはコアホウドリの繁殖が確認されている[3]。2000年にはアホウドリが営巣し抱卵していることが確認されているが、その後は確認されていない[4]。

註[編集]

^ “ノヤギ”. 小笠原自然情報センター. 2014年3月19日閲覧。

^ “小笠原の自然環境の保全と再生に関する基本計画”. 環境省. p. 18 (2007年3月). 2014年3月19日閲覧。

^ “コアホウドリの新たな繁殖場所(小笠原諸島嫁島)の確認について”. 東京都 (2013年5月27日). 2014年3月19日閲覧。

^ “アホウドリの小笠原における営巣確認について”. 環境省 (2000年12月27日). 2014年3月19日閲覧。

[20] 八丈町 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E4%B8%88%E7%94%BA

歴史[編集]

年表[編集]

1908年(明治41年)4月1日 - 島嶼町村制が施行され、八丈支庁の八丈島に大賀郷村・三根村・樫立村・中之郷村・末吉村が設置される。

1947年(昭和22年)5月3日 - 地方自治法が施行され、八丈小島に鳥打村・宇津木村が設置される

1954年(昭和29年)10月1日 - 三根村・樫立村・中之郷村・末吉村・鳥打村が合併し、八丈村となる。

1955年(昭和30年)4月1日 - 八丈村は大賀郷村・宇津木村を編入。

同日、八丈村は町制施行し八丈町となる。

1966年(昭和41年)3月 - 八丈小島の住民から八丈町議会に「移住促進、助成に関する請願書」が提出される。6月に八丈町議会が請願を採択。

1967年(昭和42年)9月 - 八丈町から東京都に対し「八丈小島の全員離島の実施に伴う八丈町に対する援助」の陳情が行われる。

1968年(昭和43年)10月 - 土地買収に関する住民との協議が成立。

1969年(昭和44年)6月 - 八丈小島全島民の移住が完了(全島民撤退時の島の人口は旧宇津木村9戸31人、旧鳥打村15戸60人)。「全国初の全島民完全移住」として注目された。

行政区域変遷[編集]

変遷の年表

八丈町町域の変遷(年表)

月日

現八丈町町域に関連する行政区域変遷

[21] 口永良部島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A3%E6%B0%B8%E8%89%AF%E9%83%A8%E5%B3%B6

面積:38.04km²

周囲:49.67km

長径:12km

最大幅:5km

最高点:657m(古岳)

人口:137人

世帯数:82戸

集落 [ 編集 ]

島の中心は港のある本村地区で、島の人口の大半が集中している。同地区には、役場出張所や商店、学校、ガソリンスタンド等が立地している。

本村

岩屋泊

新村

田代

向江浜

湯向

火山 [ 編集 ]

口永良部島は、薩南火山群島最大の 火山島 で、気象庁による『常時観測火山』に指定されている。 複数の 安山岩 質の 火山 からなり特に東側の火山は新鮮な火山で仁田尾山(526m)・三角点山(600m)・古岳(657m)・新岳(626m)があり、古岳火山南西から南東山麓には複数の安山岩質溶岩流が発達する。また、現在活動している新岳には山頂に直径200mの 火口 がある。

噴火史 [ 編集 ]

活動開始時期は不明で、50万年前頃までには海面上まで成長していたと考えられている。高堂森火山は約10万年前頃までに、野池火山の主部は約1万年前ごろまでに形成され、15,000年前から11,000年前にかけて2回の大規模な火砕噴火を生じた。最近1万年間の活動は、「古岳」「新岳」「鉢窪火山」で発生している。

有史以降の活動

目撃記録は無いが、古岳火口でも江戸時代末まで噴火が発生していた。

1841年 ( 天保 12年)

5月23日 新岳で噴火。

8月1日 集落が焼失。死者多数。

1914年 ( 大正 3年) 溶融硫黄噴出、鳴動。

1931年 ( 昭和 6年) [2]

3月 鳴動。

4月2日 新岳の西側山腹(新岳火口西縁)で噴火。土砂崩壊、負傷者2名、馬、山林田畑被害。

5月15日 爆発、降灰。硫黄流出、土地隆起。

1933年 (昭和8年)から1934年 七釜集落は噴石により全滅、死者8名、負傷者26名。

1945年 (昭和20年)11月3日 新岳火口東外壁で割れ目噴火。(水蒸気噴火?)

1966年 (昭和41年)11月22日 新岳で噴火し小規模火砕流。空振は、鹿児島市や種子島でも体感。負傷者3名。

1968年 から 1970年代 新岳で噴火、(1968年、1969年、1972年、1973年、1974年、1976年)

1980年 (昭和55年)9月28日 新岳東側斜面で水蒸気噴火。爆裂火口多数形成。マグマ噴出量は0.0001 DREkm 3 。

[22] 箱根山 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%B1%E6%A0%B9%E5%B1%B1

概要 [ 編集 ]

箱根山は40万年前に活動を開始した 第四紀 火山 である。 カルデラ と 中央火口丘 、二重の 外輪山 で構成され、内側には 堰止湖 の 芦ノ湖 を形成している。現在でも 大涌谷 などで 噴煙 や硫黄などの火山活動が見られ、致死性の 火山ガス を噴出する場所もあるが、有史の噴火記録はない。

箱根火山の熱源であるマグマだまりの規模や大きさは不明であるが、これまでの地震観測の結果からマグマだまりの上端は地下5㎞以下の位置にあると考えられている [1] 。山体の南側に大きく侵食された 湯河原火山 が接している。

また、山腹・山麓の多くの場所で 温泉 が湧出し、古くより 湯治場 として温泉郷が形成され 箱根温泉 が発展した。 近代 からは観光開発が始まり、多くの人が訪れる地となった。

2007年 、「 箱根火山 」として 日本の地質百選 に選定され、2012年9月には 箱根ジオパーク として 日本ジオパーク 認定を受けた。

2015年5月6日、 気象庁 は噴火警戒レベルを1(平常)から2(火口周辺規制)に引上げた [2] 。

[23] 中ノ鳥島 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E3%83%8E%E9%B3%A5%E5%B3%B6

中ノ鳥島 (なかのとりしま、 英 : Ganges Island )は、 北緯30度05分 東経154度02分  /  北緯30.083度 東経154.033度 座標 : 北緯30度05分 東経154度02分  /  北緯30.083度 東経154.033度 に存在したとされる 幻の島 。別名「 ガンジス島 」。また、近傍には「ガンジス礁」もあったとされる。

自然科学 の観点から見れば実在したとは考えられないが、 日本 の 領土 として正式に認定されていた時期がある点で、世界各地の「幻の島」「 伝説の島 」とは一線を画する。

海図 等では「中ノ鳥島」の表記が用いられたが、日本政府の発する 命令 ( 政令 ・ 省令 等)では「 中鳥島 」の表記が多く用いられた( 日本国憲法 下での 官報 掲載例は前者2件、後者27件)。

概歴 [ 編集 ]

1907年 ( 明治 40年)8月、 東京市 小石川区 諏訪町(現在の 東京都 文京区 後楽 )の 山田禎三郎 が、 東京府 小笠原島 から560 哩 の位置に 島嶼 を発見、上陸して 探検 、 測量 まで試みた。

東京府知事 阿部浩 から 内務大臣 原敬 に宛てて提出された「新島嶼ノ行政区割ニ関シ上申」に付属する「小笠原島所属島嶼発見届」によると、 島 は外周1 里 25 町 (約6.67 km )、面積64万3700 坪 (約2.13 km² )、 サンゴ礁 と思われる 植生 もあった。また、島には 鳥の糞 が積もってできる 燐鉱石 で覆われており、これは当時、 火薬 原料や 肥料 として重要視されるものであった。

山田はこの島を開発するため日本による 領有 を訴え、翌 1908年 (明治41年)7月22日に 閣議決定 により「中ノ鳥島」と名付けられ、日本領に編入された [1] 。山田が発見した島は、海図の「ガンジスアイランド」に相当すると届けられたが、当時の 海軍省 水路部 が記した『日本水路誌』には 北緯30度47分 東経154度15分  /  北緯30.783度 東経154.250度 ) に「ガンジス島」があるとされ、「其ノ位置ニハ多少ノ差異アルニ依リ他日確定スルノ必要アルヘキ」と所在が未確定ながら「帝国ノ版図ニ属スヘキハ論ナキ」と日本領に組み込むのは当然とされた。

しかし、中ノ鳥島はそれ以来再び発見すること

[24] 幻想諸島航海記/[特別篇]沖ノ鳥島の謎――歴史篇 (3), , http://homepage3.nifty.com/boumurou/island/sp01/history3.html

アメリカ占領時代の沖ノ鳥島

日本が戦争に敗れた後、東京都小笠原支庁に属していた島々――広義の小笠原諸島、すなわち小笠原諸島(小笠原群島・西之島・火山列島)および南鳥島・中ノ鳥島・沖ノ鳥島――は、1946(昭和21)年1月29日の連合国最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の覚書(SCAPIN-677「若干の外廓地域を政治上・行政上日本から分離すること」)により、日本の施政権から切り離され、 GHQ/SCAP の直接統治下に置かれることとなった。1952(昭和27)年4月28日に対日平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効し、日本が独立した後も、この島々は引き続きアメリカの占領下に置かれた。なお、東京都小笠原支庁はこのときいったん廃止されている。

なお、1955(昭和30)年、日本は米軍より南方定点観測のために沖ノ鳥島観測所の復活建設を勧告されたが、これは費用の関係で実現しなかったという (『沖ノ鳥島災害復旧工事誌』、須田皖次「沖の鳥島夢物語」) 。かといって、アメリカが独自にこの珊瑚礁をどうこうした、ということも特になかったようである。費用の点もさることながら、敗戦により(少なくともタテマエ上は)軍備を放棄し、しかも南洋群島を失った(1947年より国際連合信託統治領としてアメリカが統治)日本にとって、たとえ気象観測に極めて役に立つとはいっても、戦前の計画をそのまま続けるメリットは実のところほとんどなくなってしまった、と考えるべきではないだろうか。須田は、その回想録を

台風監視の立場からいうと南方定点観測の外に、更にこの観測所が出来たらそれこそ鬼に金棒となりましょう。或はあのボロ船の観測船上で危険におびえながら台風観測をやるよりも、むしろ沖の鳥島の観測所を復活する方が余程賢策かもしれません。この夢が実現すれば気象観測以外に灯台、無線電信の業務が始まる外、安全な漁港も出来ましよう。更に熱帯海産生物の実験場が出来、世界最大の天然水族館も造れましよう。日本からこの島へ観光船が出るようになつたら、それこそ無人、無樹木のアトール 〔環礁〕 も世界有数のユトピアーになりましよう。この夢を五島慶太さん 〔1882-1959。東急グループの実質的な創立者〕 か堤康次郎さん 〔1889-1964。西武グループの実質的な創立者。箱根・伊豆の観光開発などを巡る二人のライヴァル関係は有

[25] 石野遺跡 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%87%8E%E9%81%BA%E8%B7%A1

北硫黄島は東京の南約1000キロに広がる 小笠原諸島 に属する、三島で構成される 火山列島 の一番北側にある島である。西方には 沖縄本島 などから構成される 南西諸島 があり、南方には マリアナ諸島 などが属する ミクロネシア がある。一方、東側は遠く ハワイ諸島 の北西にある ミッドウェー島 まで島らしい島はない。小笠原諸島は他の陸地から離れた場所に位置しており、これまで大陸や大きな島と地続きとなったことがない 海洋島 に分類されるが、小笠原諸島の有史以前の文化は、北の日本列島、西の沖縄諸島、南のミクロネシアのいずれかから伝えられたものと考えられている [1] 。

北硫黄島は火山活動によって形成された火山島で、南北約3.5キロ、東西約2キロ、面積は5.57平方キロメートルの南北に長い楕円形をしている。標高792メートルの榊ヶ峰を筆頭に島の中心部の南北に山が並び、海岸の多くは急峻な 海食崖 であり、島全体としても急峻な地形が多く平坦な場所は少ない。その中で島の中心部から流れ出す沢が海に注ぐ場所には小規模ながら 扇状地 が見られ、緩斜面を形成している。戦前に集落があった島東部の石野村や北西部の西村は、そのような扇状地部分に形成された [2] 。

北硫黄島周辺の海では、北東部と西部を除き幅約100メートル程度の 裾礁 があり、特に石野村と西村付近の沿岸部は裾礁が発達している。中でも旧石野村沿岸の裾礁には切れ目が存在し、大きな入江がない外洋の島であるため接岸が困難である北硫黄島の中では、波を遮る効果がある裾礁に囲まれ、しかも小船が通れる切れ目がある旧石野村は最も接岸が容易な場所であった。石野遺跡は接岸が最も容易で扇状地の緩斜面がある、北硫黄島の中では最も居住に適していると考えられる石野村付近にある [3] 。

島の発見と開発の開始 [ 編集 ]

1543年 、 スペイン 船サン・ファン号は3つの島から構成される火山列島を発見した。この時点で火山列島は無人島であったとされ、そのため石野遺跡は16世紀以前のものであると考えられている [4] 。 16世紀 後半以降、火山列島はフィリピンからメキシコへ向かうスペインの ガレオン船 航路に近かったため、北硫黄島の目撃情報も散見される [5] 。

1876年 ( 明治 9年)、日本政府は小笠原諸島の領有を諸外国に通知し認められた [

履歴

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