伊豆半島

伊豆半島

[1] 伊豆半島

Webページ

[2] 伊豆半島一周ウォーキング12(宇久須~安良里編): クロコダイル大作戦, , http://codile.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/12-266a.html

クロコダイル大作戦

伊豆半島をMTBでウロチョロしてます。

♪ 流したその汗だけは嘘じゃないぜ~ 流したその涙は明日へ続く~ ♪

土肥第2・第1・賀茂トンネルを避けて旧道を歩きます。

土肥第2トンネルは昭和60年竣工とあるので、旧道は脇役となって25年経過していることになります。

旧道は封鎖されていませんが、天下の往来で天草が干してあります。

この辺がおおらかな静岡らしい。

相変わらずいい天気。

しばらく歩くと旧道もだんだん道幅が狭くなってきて怪しくなってきました。

アスファルトを覆った草は絨毯をめくるようにはがして道幅が確保されています。

旧道からの景色は最高。

映画のオープニングにも使えそうな岩。

これから行く宇久須方面の景色。

この旧道、一見現役かと思いましたが、伊豆市と西伊豆町の境界あたりの200m区間だけ封鎖されていました。

断崖に咲くアロエ

昭和50年にモルタル補強された跡。

廃道にはおなじみの放置車両。

現道に復帰。

正面の山が削られていますが、ひっきりなしにダンプが削った岩を港に運んでいます。

その行き先がこちら。

なんでも羽田空港の新滑走路の埋め立てに使うらしい・・・

こちらは黄金崎クリスタルパーク

そして黄金崎へ向かう宇久須隧道。

昭和7年2月竣工だけあっていい面構えです。

何でも完成後しばらくは開通を記念して内部に斧が埋め込まれていたらしいのですが、ある日突然なくなったそうです。残念。

こちらは反対側。

黄色いのは黄金崎の岩に含まれるプロピライトの特徴なのでしょうか???

ここで疑問がひとつ。

この道の先は黄金崎に突きあたって行き止まりなのですが、黄金崎に行くためだけに昭和7年の昔にこんな立派な隧道を作ったのでしょうか?

そんなはずはないですよね。

おそらく黄金崎トンネルができる以前は安良里までつながる西伊豆の主要道だったに違いない。黄金崎トンネル開通にともない廃道になったものと考えられます。

とりあえず、黄金崎を観光してみます。

よく見る黄金崎の風景。

この黄褐色の岩は安山岩がポリピライト作用を受けて風化してできた独特の色で、夕日があたると黄金色に輝くといいます。

こちらもお馴染みの黄金崎からの富士山。

こちらは反対側、これか向かう今山・田子島方面の景色。

さて一通り観光した後は安良里への旧道跡を探してみます。

それらしき道をすすんだ先の景

[3] REPORT - 107 │ 未完成ループ橋|6Frogs - 行ってみたら凄かった。 │ 廃墟や廃村、秘境や遺構の調査レポート, , http://ameblo.jp/6blogs/entry-10922398673.html

湯川ヤツモモウラ

向かい谷新洞

尾須沢鍾乳洞

青木ヶ原樹海

峰の沢鉱山社宅

旧柴崎橋

波崎ウィンドファーム

小串鉱山跡

友が島

南大東島

煙草屋旅館

西大寺会陽

杉戸林道

犬島

田代島

持倉鉱山跡

不老山薬師温泉

老松温泉

北茨城炭鉱群

旧上岡小学校

旧森林鉄道三弦橋

永谷集落

川俣檜枝岐林道(再訪)

喜楽旅館

下ノ廊下

鹿沼市石裂集落

未完成ループ橋

上暮地の石碑

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静岡県│未完成ループ橋(赤沢八幡野連絡橋)

滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 赤沢八幡野連絡橋/八幡野ループ橋

どんよりと曇った伊豆の山中、旧国道沿いに在ると言う通称未完成ループ橋を見にやって来た。この物件も沢山の廃墟系サイトで紹介されていて御馴染みっちゃー御馴染みなんだけど色々と謎も多い廃橋で個人的に調べて見たかったのです。

ネット上では諸説語られてお

[4] 静岡県/誕生!海の県道223(ふじさん)号/県民だより2013年5月号, , http://www.pref.shizuoka.jp/kikaku/ki-110b/201305/korabo/index.html

駿河湾から富士山の絶景が楽しめる、海上の県道223(ふじさん)号が産声を上げました。静岡市の清水港と伊豆地区を結ぶ海上の「みち」です。静岡県の新たな観光資源として、交流人口の拡大に大きな期待がかかります。

県道223号は、静岡市清水区の清水港から伊豆市土肥を結ぶフェリー航路全長約30キロに当たります。全国でも唯一、観光に特化した海路を県道として認定しました。正式な路線名は、「県道223号清水港土肥線」です。

これまで伊豆地域と静岡市は駿河湾を隔てているため、観光面での連携が不十分でした。このため、県道223号の誕生を契機として、地域一丸となって観光交流人口の拡大を図るために、駿河湾を取り巻く市町、観光協会、交通事業者などが集まり、「環駿河湾観光交流活性化協議会」が発足しました。両地域が一体となって観光交流促進や、広告宣伝、周遊ルートの開発を進めます。

県道223号は、駿河湾から望む世界文化遺産登録を目指す富士山の眺望がなんといっても最大の魅力です。そして、静岡市の名勝・日本平、国宝の久能山東照宮を巡り、「海の県道」を利用し、伊豆半島に渡れば温泉を楽しみ、自然景観が多彩な伊豆半島ジオパークも探訪できます。静岡市と伊豆の観光を同時に満喫することができます。

さらに同協議会による観光交流活性化事業が5月7日からスタートします。「ぐるっと駿河湾」の愛称で、(1).フェリー運賃と(2).フェリー・伊豆半島内のバス・鉄道をセットにしたフリーパス「伊豆ドリームパス」の割引を行います。この機会にぜひ、県道223号を利用した周遊の旅を体験してみませんか。

■フェリー/自動車運賃●平日5割引き 土、日曜、祝日2割引き 旅客運賃●2割引き

例)平日、大人2人(乗用車全長4~5メートル)の場合 計4,760円(通常は計8,200円)

■伊豆ドリームパス(フェリー・伊豆半島内バス・鉄道のセット)/●5割引き

●割引運賃は5月7日から7月31日まで(第1弾)

※第2弾以降の詳細はホームページをご覧ください

http://www.dream-ferry.co.jp/gurutto-surugawan/

※ホームページ開設は5月1日から

問い合わせ/ 環駿河湾観光交流活性化協議会 TEL/ 054(353)2221

[5] 伊東線 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E7%B7%9A

[編集] 概要

熱海から伊豆半島東岸を走り伊東に至る路線である。熱海駅では東海道本線と東海道新幹線に接続し、また伊東駅以南では当路線を延長する形で伊豆急行線が伊豆半島南部の下田まで延びており、直通運転が行われている。東京方面から東海道本線を経由して多くの特急列車が乗り入れ、観光路線としての役割を担う。

0キロポストは来宮駅に置かれているが、正式な起点は、線路名称上の起点である熱海駅となっている。そのため、熱海駅 - 来宮駅間は併走する東海道本線との重複区間である。ただし東海道本線上に来宮駅のホームはない。

日本国有鉄道(国鉄)の路線として初めて列車集中制御装置 (CTC) を導入した線区である。

伊豆多賀駅 - 網代駅間のカーブはほとんど半径300mから400mである。また宇佐美駅 - 伊東駅間は山地が迫る海岸沿いを走る。全線の約3割がトンネル区間だが、沿線は伊豆半島特有の軟弱地層のため、大雨が降ると土砂崩れの危険性が高く、しばしば運転見合わせになることがある。

当線の来宮駅 - 伊東駅間は単線であるものの、全駅で行き違い可能となっているが、ほとんどY字分岐のため進入時に減速を余儀なくされる。先に普通列車が停車していても、通過する特急列車が運転停車することが多い。

旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「東京近郊区間」、およびIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアに含まれている。

静岡県内を通るJR線で、唯一県内で完結する路線でもある。

[編集] 路線データ

管轄:東日本旅客鉄道(第一種鉄道事業者)・日本貨物鉄道(第二種鉄道事業者)

路線距離(営業キロ):16.9km

軌間:1067mm

駅数:6(両端を含む)

伊東線所属駅に限定した場合、東海道本線所属の熱海駅[1]が除外され、5駅となる。

複線区間:熱海駅 - 来宮駅間(1968年完成)

電化区間:全線(直流1500V・架空電車線方式)

閉塞方式:自動閉塞式

保安装置:ATS-PN

運転指令所:熱海CTC

最高速度:95km/h

最長トンネル:新宇佐美トンネル (2941m)

全区間がJR東日本横浜支社の管轄となっている。

[編集] 運行形態

多くの列車が伊東駅で伊豆急行線と、熱海駅で東海道線(東京方面)とそれぞれ直通運転を行っている。

普通列車は、早朝と夜間は熱海駅 - 伊東駅間の折り返し運行となるが、それ以

[6] 隧道レポート 沼津市口野の “隧道の辻”, , http://yamaiga.com/tunnel/kutino/main.html

【mapion 現在地】

「道路トンネル大鑑」の巻末リスト(※ORJにてこれを加筆修正し『隧道データベース』として公開している)によれば、主要地方道沼津土肥線には6本の隧道がある。

この資料は昭和40年頃のものであるが、現在この6本の隧道は全て旧道化している(一本は開削済)上に、3本の隧道に対応する現道は国道への昇格を果たしている。

右の図中の赤いラインが、一連の旧道である。

今回のレポートでは、このうち4本の隧道の現状をお伝えすると共に、その途中にある“道路特異点”を紹介しよう。

それは、私が勝手に“隧道の辻”と名付けたが、一般に辻というのは交差点のことである。

このレポートには、

おそらく日本で最も多くの隧道が面する交差点が、登場する。

レポートの開始地点は、沼津市口野の金桜神社参道下だ。

2008/2/4 9:04

金桜神社のある高台から見下ろす江浦湾。

江浦湾は沼津湾の小湾で、沼津湾は巨大な駿河湾の一部である。

古い地図と現在を較べると全体的に海岸線は前進しており、随所で埋め立てが行われた結果である。

そして、静岡県内有数の都市で、政令指定都市へ向けての取り組みも見られる沼津都市圏に飲み込まれつつあるように見える。

これから紹介する一連の隧道達は、この江浦湾の海岸線が切り立った崖や磯ばかりであった時代に作られたものである。

町並みとのアンバランスが見所だ。

金桜神社の(正規の)参道下から400mほど主要地方道沼津土肥線を北上すると、やや鋭角に旧道が右へ別れる。

写真のフレーム外だが、現道の左側は防波堤の海岸線に接している。

早速、旧道へ入る。

見ての通り集落内の道であるから、「生活道路」として現役である。

しかし、入口には思わぬ看板が立っていた。

“進入禁止 この道路は産業道路に付き 進入はご遠慮下さい 口野自治会”

進入禁止というのはまあ分かる気もする。

生活道路であるから、抜け道として利用するような部外者の通行を自粛してもらおうという道は良くある。

だが、「産業道路」というのは珍しい表現である。

今日、このコトバは余り馴染みのないものとなったが、戦後、高度経済成長の時代には各地に産業道路と通称される道が生まれている。

明確な定義はないのだが、主に工業地帯における貨物輸送を最大の目的とした道路のことをいう。

そして、その

[9] 亀石峠 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E7%9F%B3%E5%B3%A0

歴史[編集]

江戸時代には伊豆半島東海岸の宇佐美・伊東(現伊東市)から、当時の伊豆半島の中心であり代官所のあった韮山(現伊豆の国市)へ向かう道として、南側の柏峠とともに重要な峠であった。1898年には豆相鉄道(現伊豆箱根鉄道駿豆線)が南条(現・伊豆長岡)まで開業したため、他地域から宇佐美・伊東へ向かうメインルートとなった。その後、県道熱海伊東線(現国道135号)や国鉄伊東線にメインルートの座こそ譲ったものの、宇佐美大仁道路(現静岡県道19号伊東大仁線)と伊豆スカイラインの開通により、今でも西側(沼津・静岡方面)から東伊豆へ至る交通の要所となっている。

名前の由来[編集]

峠の路傍にあった亀の形をした岩「亀石」に由来する。この亀石はかつての峠道ぞいにあったが、現在では県道の伊東市行き車線の脇に移設されている。

亀石の伝承[編集]

亀石については、以下のような伝承が残っている。

宇佐美(伊東市)に住む雄の亀は、大仁(伊豆の国市)に住む恋人の下へ通うため、この峠を通っていた。ある夏の日、いつものとおり大仁から帰るために歩いていた亀であったが、あまりの暑さのために峠を越えたところで力尽きてしまった。そして故郷の宇佐美を見下ろしたまま、石になってしまったという。

[10] 静岡県道223号清水港土肥線, , http://roadkawasaki.web.fc2.com/pr/pv/pv223a.htm

県道223号清水港土肥線は、清水港から駿河湾フェリー航路を経て伊豆市土肥の土肥港に至る一般県道です。たまたま欠番であった「223」が「ふ・じ・さん」と掛けまして、駿河湾フェリーの活性化の狙いも兼ねて2013年4月に県道認定されました。

[11] 東海道 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93

律令時代 [ 編集 ]

概説 [ 編集 ]

律令時代 の東海道は、東海道の諸国の 国府 を駅路で結ぶもので、各道に派遣された官人が諸国を巡察する為に整備された路を指す。律令時代に設けられた七道の一つで、中路である [2] 。律令時代の東海道の道幅は、中世や江戸時代の道より広く、より直線的に建設された。

その一方で、当時は大河川に橋を架ける技術は発達しておらず、 揖斐川 ・ 長良川 ・ 木曽川 ・ 大井川 ・ 安倍川 ・ 富士川 ・ 多摩川 ・ 利根川 (当時)といった渡河が困難な大河の下流域を通過するため、むしろ東山道の山道の方が安全と考えられていた時期もあり、東海道が活発になるのは、渡河の仕組が整備された 10世紀 以降のことと考えられている [3] 。

中世に大半が改廃されたため、当時の正確な道筋については議論されているが、おおむね以下のような経路を通っていた考えられている。

畿内から近国まで [ 編集 ]

首都 が 飛鳥 に置かれた時期には、 大和国 の 宇陀 が、東海道方面への入口だったと考えられているが、その後、 平城京 に遷都されると、平城京から 平城山 を北上し、木津から木津川の谷間を東へ入って 伊賀国 に入り、 鈴鹿山脈 と 布引山地 の鞍部を 加太越え で越えて 伊勢国 へ、 木曽三川 を下流域で渡って 尾張国 津島 へ、 名古屋市 を通り、 三河国 と続いていったと考えられている。およそ、現在の 国道163号線 ・ 国道25号線 ・ 国道1号 に沿ったルートであった。

ただし、木曽三川の下流部は古来より水害が激しく、実際には船による移動に頼っていたと考えられ、あるいは 飛鳥 や 平城京 から 鈴鹿峠 を経由してそのまま伊勢国の港から 伊勢湾 を横断する海路が用いられる事も多かったとみられている。だが、その一方でこうした船には馬を同伴させることが出来ず、東国から馬に乗ってきた旅行者は三河国か尾張国で馬を他者に預けて伊勢国に向かう船に乗る必要が生じたが、帰途時に馬の返還を巡るトラブルなどもあった(『日本書紀』大化2年3月甲申条)。このため、徒歩や馬で旅を続けようとする人の中には、本来は認められていなかった尾張国府から北上して美濃国にある東山道の 不破関 に出る経路も用いられていた。伊勢湾を横断する海路と東山道に出る脇道の存在は、江戸時代の 七里の渡

[12] 道路レポート 旧三原山ドライブウェイ, , http://yamaiga.com/road/miharayama/main.html

“島さ行がねが”シリーズの次なる舞台は、 大島 へ。

私に島の楽しさを教えるためにあつらえられたかのような絶妙さで、東京の沖合に浮かぶ個性豊かな多数の島々からなる伊豆諸島。

このうち大島、またの名を伊豆大島は、同諸島中最大の面積と最大の人口を有する本土に最も近い島である。伊豆半島との最短距離は22kmほどで、東京港から約100kmの南方海上に浮かぶ。

島には観光名所が豊富にあり、海路・空路とも便数は潤沢であるから、同諸島中では圧倒的に訪れやすい。

長径15km、短径9kmの南北に細長い楕円形の島は面積91㎢で、中央に聳える複式成層火山の三原山(標高758m)が営々と形成した、我が国の中でも活発な活動を続ける火山島のひとつである。

直近では昭和61(1986)年11月に大規模な噴火が発生し、当時の全島民約1万人が1ヶ月にわたって島外避難を余儀なくされた出来事は、ブラウン管に写し出された鮮明な噴火の映像と共に記憶している方は多いと思う。

伊豆半島の東岸、東伊豆町稲取港から遠望した、大島の姿。

島のほぼ全体が、複式成層火山である三原山により形成された、火山島である。

全体的になだらかなシルエットは、非常に流動性が高い玄武岩質の溶岩による。

ハワイのキラウエア火山、イタリアのストロンボリー火山と共に、世界三大流動性火山に数えられている。

そんな大島にあったのが、表題の「 三原山ドライブウェイ 」である。

この道路は、伊豆諸島中の歴史の中で唯一の有料道路だ。

それも、「ドライブウェイ」という名のイメージ通り、自動車専用の道路だった。

道路運送法に定められた「一般自動車道」という種類の道であったため、自動的に 自動車以外(原付も、自転車も、もちろん歩行者も)の通行は許されなかった。

「一般自動車道」は一種の私道であり、大島登山自動車道株式会社という民間企業が一切の管理を行っていた。

右図は、島に有料道路が有った当時(昭和57(1982)年)の道路地図だ。

有料道路を意味する青色の線が、三原山の中腹から山頂にかけて伸びている。

三原山ドライブウェイという道路名や、麓側の入口近くにある料金所の記号、そして普通車800円大型車3200円という通行料金も見て取れる。

また、巻末の有料道路一覧表には、自動二輪車の通行料金が600円であったことや、 全長が4.1kmで

[13] PhotoGallery, , http://photogallery.phj.jp/docroot/view/detail/id/izugeopark/galley_id/125/public/1/lang/1/pictnum/izugp000086/page/1/

現在の沼津市口野と伊豆の国市江間を結ぶ切通しで、明治期に開通している。切通しの両側は海底火山の噴火による火山灰などが降り積もってミルフィーユ状の層をなしており、人々の興味を掻き立てるが、残念ながら現在この切通しは通行止めとなっている。

[14] ガソリン焙煎珈琲: 口野切通し, , http://gasolineroastedcoffee.blogspot.jp/2012/12/blog-post_19.html

口野切通し in Japan

伊豆半島ジオパークのツイッターを見ていて見に行きたくなったので、行ってみました。

捜索に時間が掛かるかなと思ったらアッサリ発見。

車両の進入は出来ないものの、徒歩ならば入れるようなので入ってみました。

封鎖から時間が経っているようで、かなり大きな落石が道を塞ぎ、落ち葉が厚く積もっていました。

[15] 隧道レポート 旧口野隧道, , http://yamaiga.com/tunnel/kutino2/main2.html

今回からは、いよいよ表題の「旧口野隧道」を探しにかかる。

この隧道に関しての机上情報は極めて少ないが、ほぼ唯一の“存在証明”といえるのが、日本帝国陸地測量部が明治28年に測量して発行した初代・5万分の1地形図(沼津)と、その子孫として改訂されて来た昭和22年版までの同図である。

次に発行された昭和27年版からは、隧道の表記が消えて、切り通しのような描かれ方となっている。

また、最近の地形図では、峠前後の道自体が消えてしまっている。

前回紹介の、明治35年と40年に相次ぎ竣工した「沼津・四日町往還」に較べて、地図に見る“初代ルート”は距離も短く、隧道の数も一本だけだった。

しかしそこには、大交通を阻害する何らかの問題点があったのだろう。

「沼津・四日町往還」は、韮山方面の石材輸送や、沼津御用邸からの行幸路、中伊豆方面の著名温泉地への観光道路などとして末永く活躍し、現在はそのバイパスが国道になっている。

この繁栄の原点にありながら、歴史の陰に隠された初代ルートの謎を解き明かそう。

2008/2/26 7:13

再びこの写真の場所。

しろ氏から情報を得るまでは、全く何の気もナシに素通りしていた三叉路だが、そう言われてみればイイカンジな追分だ。

両者の離れていく自然なカーブなど、今日の区画整理によっては生まれようもないものだ。

今回もクルマは少し離れた駐車場に止めており、ここへはチャリでやって来た。

首尾良く初代ルートをチャリごと踏破する目論見だが、果たしてどうなるか。

左折すると、車一台がやっとの狭い道になった。

両側には民家や駐車場の塀が迫っていて、緩い上り坂であることと合わせ、かなり圧迫感がある。

もっともそれは、私の緊張を多分に反映した感想である。

この先に峠や廃隧道の存在を想定し、ましてそこを通り抜けようなどと考えない人にとっては、普通の閑静な住宅街の風景かもしれない。

一目見て古そうだと感じられる石垣が現れた。

石材の空積みで、高さはないが延々と法面を覆っていて、城壁のような重々しさがある。

草生した表面は、これが明治のものではないかと私に疑わせるに、十分な風格を持っている。

周囲の林からは、いたずらに不安を煽るようなヤマバトの鳴き声や、サカリの付いたにゃんこどもの、焦りを誘う叫びが聞こえていた。

民家が密集しているエリアを過ぎると

[17] 台ヶ岳 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E3%83%B6%E5%B2%B3

[編集] 概要

ススキの名所として有名な仙石原すすき草原の南側にそびえるお椀型の山で、周辺の山々とともに富士箱根伊豆国立公園に指定されている[1][2]。

山麓のすすき草原は散策路が整備され観光客で賑わう一方で、台ヶ岳山頂への登山道は整備されておらず、山一帯はヤブに覆われている[3][1]。

箱根山中央火口丘群の活動が活発だった約4万年前~1万年前の時期に形成された溶岩ドームであり、台ヶ岳北東の小塚山(859 m)もほぼ同時期に出現した溶岩ドームである。この時期には古期神山の火砕流によって台ヶ岳北側の早川が堰き止められて、仙石原地域一帯に仙石原湖と呼ばれる堰止湖が出現していた。その後、約3100年前に神山で発生した岩屑なだれで仙石原一帯が埋没して高原地帯となり、湖尻付近が堰き止められて現在の芦ノ湖が誕生した(詳しくは箱根火山の形成史を参照)。

[編集] 周辺の山など

山容

名称

標高(m)

台ヶ岳からの

方角と距離(km)

備考

[18] 沼津市 三津坂 三津坂隧道・旧三津坂隧道, , http://izutansaku.web.fc2.com/izu_mitozaka1.html

沼津市三津から伊豆の国市へと抜ける、静岡県道144号線の三津坂隧道。

そしてその南の山中には、井上靖の著作「しろばんば」にて主人公の少年も通った、

国の重要文化財でもある旧三津坂隧道があります。

この両隧道を訪ねてみることにします。

[19] 黄金崎 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%87%91%E5%B4%8E

黄金崎(こがねざき)は、静岡県賀茂郡西伊豆町にある岬である。駿河湾に面し、夕日で黄金色に染まる美しい崖で知られる。この崖の地層は海底火山の噴出物であり、後に温泉水や地熱の作用によって変質・変色したもの。伊豆半島の西岸に位置する黄金崎は西伊豆を代表する夕日スポットとなっている。昭和63年には静岡県の天然記念物に指定された。

[編集] 外部リンク

西伊豆町観光サイト黄金崎 座標: 北緯34度50分30秒 東経138度45分40秒 / 北緯34.841667度 東経138.761111度

[20] 隧道レポート 伊東線旧線 宇佐美隧道, , http://yamaiga.com/tunnel/usami/main.html

2007/7/25 11:55 【静岡県伊東市宇佐美】

目の前を軽快なステンレスカーが駆け抜けていく。

水平線と空をイメージしたのだと容易に分かるカラーリングのそれは、伊豆急行線の8000形電車という。

伊東から先の下田まで、国鉄が果たせなかった伊豆循環鉄道の使命を一部受け継いで、昭和36年に開業した私鉄だが、その当初の使命を思い出させるかのように、JRの線路を熱海まで悠々と乗り入れている。その逆も然りである。

ここは、宇佐美隧道の宇佐美駅側坑口に最寄りの小さな踏切である。

実は、既にこの地点では新旧線の切り替えが済んでおり、旧線のレールも踏切の両側に残されている。

だが、踏切部分のレールは綺麗に撤去されており、通行していてそれに気付くことはない。

遮断棒手前の道路右側に、黄色いバーが二本横に渡されているが、この位置で旧線は道路を横切っていた。

上の写真と同じ地点で、左手、すなわち網代駅方向(宇佐美隧道方向)を見ると、柵に沿って小径が続いている。

また、柵の内側には線路との間に広い雑草帯が続いているが、この中にレールは埋もれているのだ。

私も当初は気付かなかったが、小径を進んでいるうちに気付くこととなった。

小径に少し入って、宇佐美駅方向を振り返って撮影。

奥から来て緩やかにカーブする線路が見えるが、旧線はカーブの起点あたりでなお直進し、左の草藪へ続いていた。

旧線から新線に切り替えられて20年以上を経過しているとはいえ、将来の複線化のため古い設備を存置したままになっているという話からすれば、大分トーンダウンした風景である。

ちなみに、新線との分岐器は無いようだ。

そう。

ここで私は旧線にも、線路がちゃんと残っていることを知った。

それは、僅か1mほど、何故か草が全く生えない帯があったのだ。(除草剤か)

…一応はバラストの上に乗せられているはずの軌道敷きが、これほど藪化してしまうという事実に驚いた。

まして、私が生まれた余裕で後の話である。

小径は、徐々に深くなる掘り割りの縁に沿って続いている。

途中にはポツポツと、鉄道用地を示す「工」の文字の刻まれた標柱が立っている。

写真は小径から隧道方向を撮影している。

前方には、天城山地の支脈として行く手を阻む、海抜350mほどの山地が迫る。

中央に写る鞍部は、今の海岸沿いの車道が通ずる以前

[21] 隧道レポート 小坪のゲジ穴, , http://yamaiga.com/tunnel/kotubo/main2.html

2007.3.31 8:10 【鎌倉市 材木座】

現在地は国道134号・小坪地内を北上中。

見ての通り、この区間の国道は深い掘り割りになっており、古い地形図に描かれていた“目指す隧道”への道は分断されているようだ。

しかし、今の地形図にあっても隧道の掘られていた山の形に変化は無いように見えるから、道はさておき隧道は現存する可能性が高い。

そう期待しての訪問である。

とりあえず、掘り割りと隧道への道の交点と思われる位置まで北上を続ける。

ちなみに前話の最後でも少し触れたが、現在は国道134号として無料開放されているこの道は、以前は日本道路公団の管理する「湘南道路」という自動車専用の有料道路だった。(開通年および無料開放年度不明。)

そんな由来の道だから歩道も無くて、圧迫感のある掘り割りの底を車に追い立てられるようにチャリで走るのは怖い。

さらに進むと、『逗子小坪プロジェクト マンション建設予定地』と大書きされた真っ青な看板が現れた。

そこから左の山中へ向けて、鉄板敷きの工事用道路が伸びているのだが、すぐ先に高いゲートが設置されており、奥はまるっきり見通せない。

位置的には、この辺りが目指す隧道への入口になると思うのだが…。

長いあいだ沿道利用が進まなかった元有料道路沿いの、ようやく始まった開発のようであるが、嫌な予感がする。

隧道は無事なのか!

そして、一番肝心なのは、私にこの奥へと近づく術があるのか。

ダンプが頻繁に出入りし、守衛が睨みを効かせる入口前で、無惨なはげ山となった現場の山へとカメラを向ける。

…これは…

隧道の現存はもはや… 絶望的 なのでは……。

国道を悶々としながらさらに30mほど進むと、いよいよ行く手に逗子市を画する飯島トンネルが迫ってくるのだが、その手前で左に折れる小道発見!

国道から逃げ込むようにそこへ入った私だが、5m先に門扉が。

その奥には、綺麗に手入れされた庭園路が丘の上に向かって続いており、セレブの薫りがする。

というか、門の前にチャリで止まった刹那、隠されていたスピーカーから「ご用の方はインターホンを…」などと声がいきなりしたもんだから、場違いな私はびびって逃げ出した。

…だめだ。

国道の海側はこの2カ所の枝を除いては全てコンクリの法面だし、枝も全く立ち入り禁止。

正攻法での接近は無理。

湘南で不法侵入

[22] 新編鎌倉志巻之七, , http://homepage2.nifty.com/onibi/kamakurasi7.html

新編鎌倉志巻之七

やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇

鬼火へ

新編鎌倉志卷之七

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志」梗概は「新編鎌倉志卷之一」の私の冒頭注を参照されたい。底本は昭和四(一九二九)年雄山閣刊『大日本地誌大系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』を用いたが、これには多くの読みの省略があり、一部に誤植・衍字を思わせる箇所がある。第三巻より底本データを打ち込みながら、同時に汲古書院平成十五(一九九三)年刊の白石克編「新編鎌倉志」の影印(東京都立図書館蔵)によって校訂した後、部分公開する手法を採っている。校訂ポリシーの詳細についても「新編鎌倉志卷之一」の私の冒頭注の最後の部分を参照されたいが、「卷之三」以降、更に若い読者の便を考え、読みの濁音落ちと判断されるものには私の独断で濁点を大幅に追加し、現在、送り仮名とされるルビ・パートは概ね本文ポイント平仮名で出し、影印の訓点では、句読点が総て「。」であるため、書き下し文では私の自由な判断で句読点を変えた。また、「卷之四」より、一般的に送られるはずの送り仮名で誤読の虞れのあるものや脱字・誤字と判断されるものは、( )若しくは(→正字)で補綴するという手法を採り入れた。歴史的仮名遣の誤りは特に指示していないので、万一、御不審の箇所はメールを頂きたい。私のミス・タイプの場合は、御礼御報告の上で訂正する。【 】による書名提示は底本によるもので、頭書については《 》で該当と思われる箇所に下線を施して目立つように挿入した。割注は〔 〕を用いて同ポイントで示した(割注の中の書名表示は同じ〔 〕が用いられているが、紛らわしいので【 】で統一した)。原則、踊り字「〻」は「々」に、踊り字「〱」「〲」は正字に代えた。なお、底本では各項頭の「〇」は有意な太字である。本文画像を見易く加工、位置変更した上で、適当と判断される箇所に挿入した。なお、底本・影印では「已」と「巳」の字の一部が誤って印字・植字されている。文脈から正しいと思われる方を私が選び、補正してある。【テクスト化開始:二〇一一年十二月十二日 作業終了:二〇一二年一月二十一日】]

新編鎌倉志卷之七

〇小町 小町コマチは、若宮小路ワカミヤコウヂの東より南へ折クジけて行、夷堂橋ヱビスダウバシまでの間を云。【東鑑】に、建久二年三月四日、小町大路コマチヲホヂの邊ヘン失火

[23] ミニレポ第157回 犬走島の隧道 , , http://yamaiga.com/koneta/koneta_157.html

伊豆半島南部の港都、下田。 (下田市の位置)

稲生沢川の河口に位置するこの街の中心部は、天然の良港として名高い下田湾を抱きかかえるような形になっている。

下田湾は奥行き1.5km、幅800mほどの小さな湾だが、湾内にはいくつかの小島が浮かんでいる。

犬走(いぬばし)島も、そのひとつだ。

犬走島は、下田湾口のほぼ中間に浮かぶ周囲300mほどの小島だが、現在は西の「和歌の浦」側の陸地と、長さ350mほどの防波堤でつながっている。

したがってこの防波堤を通れば、船を用いずに島へ上陸することが出来る。

島は無人だが、東に30mほどの海上に「下田犬走灯台」が設置されており、和歌の浦と犬走島と灯台は全て防波堤でつながっている。

そうして全長500m近い波よけを形作り、下田の街の中心部を高波から守っている。

1/25000地形図では島に道路は描かれていないが、「スーパーマップル・デジタル11」など、さらに縮尺の大きな地図を見ると、島の中央に1本のトンネルが存在することが分かる。

島を防波堤が貫いているように見えるが、その貫かれた部分が短いトンネルになっているのだ。

このトンネルの存在が気になった私は、なんとなく鮮やかな夕日に期待して、夕方に行ってみた。

もちろん上陸手段は、前述した防波堤歩きだ。

2010/1/14 17:22 【現在地】

…ちょっとばかり、来る時間が遅すぎたかも。

近くの下田市立図書館が閉館してから来たのだが、すでに太陽は洋上遙か彼方に没した後で、冬の宵空はしんと静まりかえっていた。

あくまで海が穏やかなのは救いだが。

写真は、和歌の浦側の渡島口から下田湾口部を臨んでいる。

対岸に見えるのが須崎半島。

この位置で、左に45度向きを変えると…。

あれに見えるが、

犬 走 島!

…ちょっと余計に盛り上げてみたが、まあ小さな島である。

でも、確かにトンネルがある!

島の形はフタコブラクダのようで、大きなコブと小さなコブの間の鞍部の下、

海面とほぼ同じ高さに素堀と思しきトンネルの姿が確認された。

そのトンネルは相当に短いらしく、透けて対岸の海岸線が見えていたが、

くぐってみたいという気持ちに変わりはなかった。

防波堤は、和歌の浦と犬走島がもっとも接近している部分に渡されている。

海峡の幅は330mほどだが、防波堤は中央でくの字に屈曲してい

[24] 道路レポート 東京都道211号若郷新島港線, , http://yamaiga.com/road/tpr211/main2.html

2013/3/31 6:40 【現在地(マピオン)】

これが私を島へ運んでくれる、頼もしい相棒か。

神新汽船の中型客船「あぜりあ丸」460トンは、出港3時間前の人影まばらな波止場で静かに泊っていた。

この船の第一印象…… 「思ったよりも小さいな…」。

今回私が向かう新島へは、東京港竹芝桟橋から出帆する東海汽船の大型客船「かめりあ丸」3837トンを使っていくのが、おそらくメジャールートなのだろう。

しかし私は下田より発つこの船を選んだ。その理由として、それなりに揺れる経験を積みたいと言うこともあったが、一番は探索用の「大きな荷物」を持って都心を横断する事の億劫さ(電車で行った場合)や、侮り難い3日分の駐車場料金(車で行った場合)を嫌ったという、そんなせこい理由が挙げられる。

これが今回の私の携行品一式だ。

左から順に、愛車の入った輪行袋、リュックサック(60リットル)、ウエストバッグ。

携行品の取捨選択にはかなり気を遣ったつもりだが、それでも随分嵩張ってしまった。

今回の島旅は2泊3日を予定しており、2泊とも野宿をしたいと思っている。そのために荷物が増えてしまったのだが、ただでさえ船賃を取られる旅なので、宿泊代などは最大限切り詰めたいという、またしてもせこい思惑があった。

それに、明るい時間は全て探索に費やしたいので、民宿などでは色々不都合もあろう…。

8:30 (出航50分前)

だいぶ早くに着いてしまったので2時間ほど車で仮眠した後、ようやく窓口の開いた「神新汽船下田営業所」にて、乗船券の購入を行なう。

何もかも初めてなのでいちいちどぎまぎしてしまうが、窓口のおばちゃんが親切にやり方を教えて下さった。

結果、神新汽船の運賃は新島までの乗船券代金4070円に加え、輪行袋に入った自転車の手荷物代500円を徴収された。

そしてこのチケット購入の際、おばちゃんが事も無げに言ったことを聞き逃さなかった。

「新島は今日、“条件”が出ていますが、よろしいですね?」

私はこの“条件”という言葉の意味を、やんわりとだけ予習していた。

これは「条件付き出港」の略であり、新島近海まで行っても悪天候のために接岸できず、そのまま帰ってくる可能性があると言うことである。

はっきり言って、私のようなビギナーには、神新汽船が口にする“条件”というのがどのくらいマジなのかを判断し

[25] 道路レポート 神津島黒根の未成道, , http://yamaiga.com/road/kurone/main4.html

2013/4/2 7:54 【現在地】

今回のサブタイトル、「駆け抜けろ!! 神津島版の“アレ”」の、アレとは、もちろんアレである。

交通の難所のネーミングとしては、おそらく日本一有名なアレ。

まさか、この嵐の日に、離島でアレを披露する事になるとは思わなかったが、アレをしない限りは探索の目的を完遂出来なかったのでやむを得なかった。

その場面はもう少しで出現する。

つうか、もう見えてる。

返浜(かえすはま)ヘ向け、残り350m程度と推定される前進を開始する。

ああ、これはあかんやつや。

よくテレビのニュースなんかにも出てくる、例の、高波を見に行ったら波にさらわれるってヤツ。

こういう漁船がひとつも海に漕ぎ出しよらん日は、我々海の素人が海岸に近寄っちゃなんねぇ。

分かってる。

分かっているのに、止められない。止まらない!好奇心が盗んだピストバイクで走り出してる。

なぜなら、そこに道があるかもしれないからだ!!! (←あかんやつや)

で、問題の「紛らわしいもの」へとやって来た。

今回は別に勿体ぶりはしない。

だってこの穴、本当にただの岩の凹みに過ぎなかったんですもの!! (フニャ○ン)

…まあ、多分そうだろうとは思っていたよ。

そんな都合よく廃隧道や掘り掛の未成隧道が転がっていてたまるか。

ここへ来る途中も、例の落石防止ネット以来はなんら道路を感じさせるものを見ていないので、近付くにつれ期待感は冷静な落胆へと変わってきていた。

そしてそれを最終的に近付いて確認したが、凹みの内部の写真を撮り忘れるほど、どうでも良いささやかな凹みであった。

ま、いわゆる“誘い込み”ってやつですナ。

で、

軽い予定調和的落胆の後に待ち受けていたのが、

今回の本題となる、アレである。

廃隧道攻略がアレだと思った人にはゴメンナサイ。

しかし、島の廃道(つうか地形)を攻略するならば、やっぱりこういう場面が出てくるのは避けがたいのでしょう。

アレ = 親不知・子不知

すなわち、波が引き潮になった瞬間(波間)を狙って、波被りの岩場を駆け抜けて向こう側へ行くという、歴史的に有名な跋渉のスタイルである。

かつてこの国を旅する人には当然のように求められていた、タイミング系歩行術だ。

この屏風のように切り立った岩場の向こう側に、目指す返浜があるはずだ。

まあ、具体的に岩場がどのくらい続くの

[26] 道路レポート 静岡県道19号伊東大仁線 宇佐美〜亀石峠, , http://yamaiga.com/road/kameisi/main.html

よっしゃ!!

今日は伊東市の宇佐美から、「亀石峠」 を目指してみるぜ!!!

通る道は、静岡県道19号伊東大仁線だぜ!!

……… え?

廃道じゃあないよ。

バリッバリ現役の主要地方道だぜっ!

…待って。

ブラウザ閉じないで〜。

面白いからさ。 俺はチョー好きだよココ。

道路、特に峠道が好きな人だったら、おっ!と来るはずだからさ。

ヨッキれんを、猛烈にアツくさせてしまった亀石峠は、ここにある!!

↓ ↓ ↓

亀石峠は、静岡県伊東市と伊豆の国市を隔てている、標高450mの峠である。

現在はここを県道19号伊東大仁(おおひと)線が通過している。

この県道の起点であり峠の登り口にあたる宇佐美は伊東市北部の大字で、相模灘に面する西高東低の小都会。近世には伊豆石の積出港として賑わったところでもある。

県道の終点である大仁は平成の大合併までは大仁町の中心であった中伊豆の古い商都で、南北と東西の交通路が交差する要衝だ。

これら宇佐美と大仁を最短で結ぶ亀石峠は、当然のように歴史の古い峠である。

だが、そこを自動車が通れるようになったのは、戦後だいぶ下ってからのことだった。

そしてこれは独り亀石峠だけでない、東伊豆と中伊豆を結ぶ多くの峠道に共通の歴史であり、地域の悩みでもあった。

亀石峠の兄弟分たちを、ご覧下さい(画像にカーソルオン!)。

ここでピックアップした峠は全て県道の峠越え(トンネルで通過する道は除外した)で、かつ東伊豆と中伊豆を隔てる分水嶺を越えるものである。

標高も歴史もまちまちだが、北寄りの熱海峠、山伏峠、亀石峠の三つは特に東側の傾斜が厳しい立地条件にある。

今回はここから亀石峠をセレクトし、中でも特異な道路景観が楽しめる東側(伊東市側)を攻略・紹介することにしたい。

この図の範囲の峠で、馬車の通行を最初に許したのは冷川峠(明治39年開通)で、次は昭和初期の熱海峠開通を待たねばならなかった。

伊東や熱海は昔から繁盛の都会であったがにも拘わらず、背後の山は厳しく東西交通路の発展を阻害し続けたのである。

もっとも鉄道まで視野に入れるならば、昭和9年の丹那トンネルの開通は熱海を一躍東西交通路の主役の座に押し上げる効果があった。

続いて亀石峠周辺の地図をご覧いただくが、ちょっとだけ指向を変えて立体図としてみた。

2007/7/26 17:18 【現在地】

[28] 鋸山散策, , http://sanpo01.lolipop.jp/sanpo/2008/kanto/sanpo077.html

むき出しの岩壁が連なる鋸山は、その名前のとおり鋸の形をしております。

鋸山は南房総国定公園に指定されている、風光明媚な場所で、かつ夏涼しく冬暖かい温暖な気候に恵まれており、四季を通じて観光客が絶えず、年間約80万人が訪れるそうです。

鋸山はその全体が日本寺の境内となっています。

日本寺は約1300年前、聖武天皇の勅詔と、光明皇后のおことばを受けて、神亀2年(西暦725年)高僧行基菩薩によって開かれた関東最古の勅願所です。

初めは法相宗に属していましたが、次いで天台、真言宗を経て徳川三代将軍家光の時、曹洞禅宗となって今日に及んでいます。

[29] 梅雨の晴れ間の大井川流域林道ツーリング 前編 (WR250F) : Nakaの泥轍日記, , http://naka1md30.exblog.jp/22456079/

6月最後の日曜日、静岡県の大井川流域の林道を走ってきました。 東日本ではここのところ、土日の度に雨が降っていて、どうしようかと思案していたところ、静岡県より西側の天気予報が晴れになっていることに気がついたので、急遽、静岡方面へ走りに行ってみることにしました。 朝4時に雨の中を出発。 本降りの首都高から東名道を抜けて、御殿場からは新東名道へ。 最初の休憩に立ち寄った駿河湾沼津サービスエリアに着く頃には、すっかり雨が上がり、低く垂れ込めた雲の下に鉛色の駿河湾と伊豆半島西海岸が見えていました。

新東名道の島田金谷インターチェンジを降りる頃には、完全に雲が消えて真っ青な夏空が広がってきました。 たった250km西へ行っただけなのに、関東の土砂降りが嘘のような快晴です! ちなみに、自分が大井川流域に走りに来るのは、実に10年ぶりになります。 かつて、ランクル70で春埜山林道に走りに来た前回の来訪から長い年月が経過し、果たしてダートの林道がどれぐらい残っているのか?という不安な気持ちが半分、気持ちの良い夏空の下を走れるという楽しみな気持ちが半分でした。

[30] 十六島, , http://www.dai3gen.net/upruy.htm

ORIG: 96/10/01 REV1: 97/07/17 format 図版のこと追記

REV2: 97/08/31 図版は「目井浦」とのこと REV3: 97/10/12 ご指摘にも応えて

島根半島に「十六島」と書いて「ウップルイ」と読む半島・集落があります。

この地名の語源・語義に就いて、以前から興味を持っていましたので、調べてみた事を

まとめて見ましたので、各位のコメントを頂戴できれば幸いです。

0.出雲風土記・楯縫郡の所で「於豆振」(オツフリ)と出ているのが

「十六島」(ウップルイ)とされている。(岩波日本古典文学大系の風土記ではP177)

これに関して、読者の方から、岩波も採用している「於豆振」との表記は不確実であり、

必ずしも「オツフリ」ではない、とのご指摘を頂きました。ありがとう御座います。このご指摘が

意味するところは、現行の呼称「ウップルイ」が風土記の「オツフリ」に溯れるのか、に就いては疑問が

ある、と言うことで、即ち、「ウップルイ」呼称がどこまで溯れるのかは判らない、と言う意味で

あります。しかし、いつから始まったのか現在に至るまで「ウップルイ」と呼ばれているのは事実

なので、これの語源探索自体には意義があります。

同ご指摘によると、先達のご研究の中で広く支持されているものは、要約しますと、

金関丈夫氏の説で、その「十六島名称考」(『考古と古代』所収)にて、『風土記』の記事は

「許豆埼」であろうとされ、加藤義成氏の『修訂 出雲国風土記参究』で、

「定説とすべき」とされていることの由です。

さしづめ、「於豆振」は誤記で「許豆振」が正しいのであろう、ということかと思います。いずれにせよ、

其の地がウップルイと呼ばれてきていることには変わり無く、小生の興味としての、ウップルイの語源、

語義は相変わらず不明、ということかと思います。また、「許豆」の語義に就いて

考えた所を下記に追記しておきます。

一つのアプローチは、「オツフリ、が古く、ウップルイ、が新しい。つまり、

ウップルイの語源は、オツフリである。としてオツフリの更なる語源を

求める」ことでしょう。

もう一つは「実は、その地名は昔からウップルイと言っていた筈だ、それを

『於豆振』と漢字を宛てたに過ぎない。だから、ウップルイの語源を求める」

ということになりましょうか。

1.オツフリ の語源

第1

[31] 箱根山 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%B1%E6%A0%B9%E5%B1%B1

概要 [ 編集 ]

箱根山は40万年前に活動を開始した 第四紀 火山 である。 カルデラ と 中央火口丘 、二重の 外輪山 で構成され、内側には 堰止湖 の 芦ノ湖 を形成している。現在でも 大涌谷 などで 噴煙 や硫黄などの火山活動が見られ、致死性の 火山ガス を噴出する場所もあるが、有史の噴火記録はない。

箱根火山の熱源であるマグマだまりの規模や大きさは不明であるが、これまでの地震観測の結果からマグマだまりの上端は地下5㎞以下の位置にあると考えられている [1] 。山体の南側に大きく侵食された 湯河原火山 が接している。

また、山腹・山麓の多くの場所で 温泉 が湧出し、古くより 湯治場 として温泉郷が形成され 箱根温泉 が発展した。 近代 からは観光開発が始まり、多くの人が訪れる地となった。

2007年 、「 箱根火山 」として 日本の地質百選 に選定され、2012年9月には 箱根ジオパーク として 日本ジオパーク 認定を受けた。

2015年5月6日、 気象庁 は噴火警戒レベルを1(平常)から2(火口周辺規制)に引上げた [2] 。

[32] 広重, , http://www42.tok2.com/home/toyotane/hirosige.html

歌川(安藤)広重の六十余州名所図会(え)

奥 州とも呼ばれた陸奥の国は六十余州の最北東端に位置し、山形・秋田以外の東北地方全域にあたる。

陸奥 松島風景 富山眺望之略図

最 上川は出羽三山(月山、湯殿山、羽黒山)を囲繞し、山形盆地を流れ、大石田上流の基点・隼などの恐ろしい難所をこえ、

庄内・最上境の連山板敷山の北を流れて酒田の海に入る。

出羽 最上川 月山遠望

常 陸(ひたち)国は関東平野の東北隅に位置して、西は下野(しもつけ)、南は利根川が流れる下総(しもうさ)、

北は奥州へつらなる磐城(いわき)の諸国があり、東は太平洋に面している。

常陸 鹿嶋大神宮

下 野(しもつけ、ほぼ現在の栃木県全域)の「裏見滝」は日光市の荒沢川にあり、滝の裏側から流れ落ちる飛瀑を眺めることが出来る滝で、

「華厳滝」「霧降滝」とともに日光三名瀑のひとつに数えられます。

下野 日光山 裏見ノ瀧

こ のあたりは昔、毛野(けぬ)とよばれる国であったのが分割して上毛野と下毛野となり、その後国名から「毛」が抜け(!)、上野、下野となったのだけれど、

音には「こうずけ」「しもつけ」と「け」が残っているのです。

榛名山(はるなさん)は山岳信仰の対象とされた山で、山頂にはカルデラ湖と榛名富士がある。妙義山、赤城山とあわせて上毛三山と呼ばれる。

上野 榛名山 雪中

千 葉県鴨川市にある内浦湾は別名「鯛の浦」とも呼ばれ、世界有数の鯛の群生地として国の「天然記念物」に指定されています。

貞応元年(1222)2月16日が日蓮聖人が安房の小湊(あわのこみなと)に生まれました。小湊には日蓮聖人生誕にゆかりの誕生寺があります。

安房 小湊 内浦

上 総(かずさ)の国は現在の千葉県の房総半島の北部にあたる。

伝承に拠れば「矢さしか浦」というのは矢指浦で、古名は玉の浦というが源頼朝の命令で1里ごとに矢を指したので矢指浦の名が付き、

またその矢が99本に達したことから「九十九里浜」と呼ばれるようになった。

浜の中央、どちらから数えても49本目となる場所(山武市蓮沼)には箭挿(やさし)神社が今も残る。

上総 矢さしか浦 通名九十九里

下 総(しもうさ)国は、南に上総ご境を接し、平野が広く開け、その他国との分界が難しく、武蔵・上野・常陸の諸国と分れたのは、

大体河の流れによったも

[33] 廃線レポート 豆相人車鉄道・熱海鉄道 大黒崎周辺, , http://yamaiga.com/rail/zusou/main5.html

2016/2/21 12:18 【現在地】

戦慄を誘う謎の井戸を後に、さらに南へと向かって軌道跡を進むことにする。

この軌道跡に出会った地点からここまで、上部を並走する国道の間隔は徐々に狭まってきており、まだ見上げてもその路肩が見えるわけではないが、行き交う車の音はひっきりなしに聞こえるようになった。

このまま近付けば、私の前にどのような場面が登場するのかは、だいたい予想がつく。

それはひとことで言えば、良くない未来の予感だった。

ぬぅわ〜!!

いきなり、来やがったーー!!

井戸の地点から南に進むと、小さな尾根を回り込んだ辺りから猛烈なササ藪が始まり、それだけでなく、ここまで途切れず続いていた足元の平場が、無くなった。

これはいったいどうしたことだ。

地形はさほど急峻ではないので、頑張って藪を掻き分ければ、まだ進めるが…。

12:24 【現在地】

で、我慢して数十メートル進んだのだが…

これは、アカンです。

もう路盤がどこか分からないし、藪が半端なく濃いために、1m進むのだってえらく面倒だ。しかも、少し意地を張って進んだ所で、その目的となるような場所も無い。

せいぜい、路盤上(正確には路盤の延長線の斜面上)から見えるようになった、現国道の路肩が目的地となり得たのだが、ここから斜面を斜めに進んで向かうのは、藪を進む距離が長く余りに面倒。

結局、この辺りの路盤が斜面化して失われている理由は、関東大震災などの被災によるのか、国道の拡幅に伴う残土投棄の結果なのか、不明だが、国道に近付けば路盤が失われるだろうという“予感”は、現実になってしまったのである。

私は悩んだ末、少し引き返して斜面の藪の浅い場所から、国道へと脱出することにした。

12:28 【現在地】

おおよそ40分ぶりに、廃線の眠る森から、国道の喧騒世界へと復帰した。

現在地は大名ヶ丘バス停と大洞台バス停の間で、自転車を路肩に置いてきた“入山”地点から、国道を300mばかり南下した地点だった。

すなわち、私がこれまでに辿った軌道跡の長さも300m程度ということだった。

この写真に重ねて、非常に大雑把ではあるが、今回辿った軌道跡と、そこへの出入りに使ったルートを表示した。

山林や藪が濃いため、国道からではほんの少しでさえ、この斜面の中腹に幅2〜3m程度の軌道跡が存在する様子は窺い知れない。

[34] エスパルスドリームフェリー - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%91%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%BC

静岡市の 清水港 と 伊豆市 の 土肥港 を65分で結ぶカーフェリー「 駿河湾フェリー 」を運航している。伊豆半島は渋滞しやすいので、船でのアクセスは快適であり、天気がよければ駿河湾上から雄大な 富士山 を眺めることができる。

2002年 (平成14年)3月31日までは西伊豆フェリーとして、 富士市 の 田子の浦港 と土肥港を55分で結んでいたが業績不振のため航路を変更し、同年4月13日から清水港と土肥港を結ぶ航路となった。田子の浦港 - 土肥港航路は当初、駿河湾カーフェリー株式会社が「あまぎ」(約490t)と「しらいと」(同)の2隻で運航されていたが、駿河湾カーフェリーは廃業し静岡観光汽船(現:エスパルスドリームフェリー)に譲渡された。

観光振興を目的として 2013年 (平成25年)4月12日に静岡 県道 223号清水港土肥線(番号は富士山(ふじさん)にちなんだ語呂合わせ)となった。この番号は以前は千頭停車場寸又峡線であったが、同区間が現在の 県道77号線 に再編された後は欠番であった。県道の標識は海上の代わりにフェリーの甲板に設置されている。

就航中の船舶 [ 編集 ]

駿河湾フェリーに就航中の船舶

船名

富士

建造

[35] 「JR禁止の旅」東京→大阪2016 (3ページ目) - Togetterまとめ, , http://togetter.com/li/1019191?page=3

東京駅から大阪駅まで、JR線や飛行機、高速バスなどを使わず、私鉄や一般路線バスなどだけで行ってみました。(帰りは非JR系の高速バスを利用)

とりあえず、旅行の部分だけまとめてみます。

この後補足説明等ありますので完成版はしばしお待ちください。

[36] 世界遺産・コモドの海 #2 チェンホー号に乗船 | のぶろぐ, , http://nob-log.info/2015/07/27/komodo-cruise-cheng-ho-2/

2日目は朝5時起床

モーニングコールがかかってくるはずでしたがかかってこない?

時差で時間間違えてるかなーと思いつつロビーへ行くとすでに人がいたのでチェックアウトをしていざ空港へ

デンパサールの国内線は去年と比べてもお幅に綺麗になっていて

・ムダな荷物のセキュリティ検査がなくなった

・チェックインカウンターに1列で並ぶように仕切りができた

・空港使用料を払わなくてよくなった

という感じですごくスムーズにチェックイン出来るようになりました

これなら自分で乗継しなきゃいけない事があっても大丈夫だと思います

ターミナル内もすごく綺麗になっていて高いけどコーヒーも飲めるし快適

ただし、飛行機が何時に飛ぶんだかはさっぱりわからないのは相変わらずです。。

搭乗口の前でホテルで貰った朝食を食べつつ待ってると急に呼ばれてバスに乗って飛行機へ

前回はLCCのライオンエアーでしたが今回はガルーダ・インドネシア

なので預けて荷物が43キロまで無料!これも凄く楽でした、、が帰りにトラブルもありましたけどね(^_^;)

飛行機からはタンボラ山とサンゲアン島が見えました

写真は多分どっちかじゃないかと・・・w

さてさて、1時間半ぐらいのフライトで空港に到着して港へ

いやー、暑い暑い

空港を省略しましたが、ラブハンバジョの看板とコモドドラゴンの像がなくなり

変な空港ターミナルがほぼ完成してました

ラブハンバジョは今急速に人口が増えているそうなのでその準備だとは思うけど・・・もったいないですね

そして10分もかからず船に到着

今回の船はチェンホー号

すぐ横には前回乗ったシーサファリ号もとまってました

スケジュールはホワイトボードに書いてあります

朝食がホテルでもらったやつ、飛行機内で出た機内食に引き続き3回目・・w

昼食も直ぐなので食べませんでした

ブリーフィングまで時間があるので船をウロウロ

船の2階の後部はソファーエリア

今回泊まった部屋

前回のシーサファリ号よりだいぶ広いです

タオルも毎日交換してくれるし、シャワーも一応お湯が出るし快適空間です

1階のデッキ

船の乗って最初に器材をセッティングしたらあとはそのままタンクをチャージしてくれるし、運んでくれるので重い思いはありません

タンクチャージする際も器材に触るのは日本人スタッフのじゅんこさんが必ずやってく

[37] ミニレポ第224回 熱海の野中山トンネル, , http://yamaiga.com/mini/224/main.html

先日、地理院地図を眺めているときに、面白いトンネルを見つけた。

あなたにも、見つけてもらいたい。

↓↓↓

↓↓↓

ここ、どうなってるの?!

ごくごく短いトンネルが、180度のカーブを描いているように見える。

この奇妙なトンネルの道は、行き止まりのようだが、とても気になる。

実際にどんな景色が現地にはあるのか、見に行ってみよう。

場所は、日本有数の温泉歓楽街である、熱海(あたみ)だ。

2016/2/21 13:29 【現在地(マピオン)】

ここは、静岡県熱海市のJR熱海駅前。

東海道本線と東海道新幹線そして伊東線が停車するこの賑わいの駅を、観光やビジネスなどで訪れた経験を持つ人は大勢いることだろう。

しかし私はこの日この場所へ鉄道を使わずやってきた。

遙か昔に失われた 豆相人車鉄道 の跡を、人車鉄道並みの速度しか出ない自転車で追い掛けながら、辿り着いたのだ。

もっとも、ここに辿り着く直前に、人車鉄道の探索は終わっていた。かの鉄道の終点は、この近くではあるが、現在の駅前ではない。

前置きが長くなったが、私が初めて駅頭に立った熱海駅前から眺める景色は、溢れかけた宝石箱の印象を与えた。

瀟洒な洋装を纏う巨大な建造物たちは、猫額の海岸沿い低地から容易く溢れ出て、後背の山岳地(これは手ぬるい丘の如きものでは無く、伊豆半島の主山脈に属する本格派だ)をも支配的に居立していた。ここには立体的で迷宮的な、熱海という名の宝石箱都市(Jewel box city)の姿があった。

地図上に見つけた“奇妙なトンネル”を探すトレジャーハンティングの始まりだ。

13:50 【現在地】

熱海駅前を自転車で出発してから20分後、私は地図を頼りに辿り着いた。

駅から1kmほど西に離れた熱海市咲見町の一角、目指すトンネルへと通じる唯一の道の入口へと。

とても目立たない、青看も信号機もない交差点だった。

手前の2車線の道は交通量の多い市道であるが、そこからわざわざ、この見るからに狭く、見通しが悪く、急勾配が威圧的な脇道へと出入りするクルマは、今のところ見あたらない。

しかし良く見れば、この脇道の行き先が看板によって明かされていた。「両国予備校熱海研修会館」「Relax Resort Hotel」「野中山マンション」「東京実業健保組合保養所サンライズ熱海」といった、いかにも熱海色

[38] 静岡県道416号静岡焼津線 浜当目トンネル旧道, , http://yamaiga.com/road/toume/main3.html

「問」

2017/6/17 16:43 《現在地》

自転車と一緒に、ここ (道幅10cm未満) を越えるためには、どうすれば良いか?

↓↓

自転車を―

片手で持って宙づりにして通る。

……という、あまりにもシンプルで工夫の入る余地のない方法でもって――

――自転車と一緒に、崩壊現場を越えることに成功した。

側溝さん、ありがとう!

対岸で自転車を“構えて”から渡り終えるまでの実質の所要時間は1分も掛かっていない。

これを「無謀!」と思う方がいるかも知れないが、最近の私のレポートを多く読んで貰えば、私自身が無茶と思うような真似をネタとして行っていないことが分かって貰えると思う。

これは無理は何もしていない、自然に行けると感じたことを行動に移しただけである。

今回はたまたま「巾10cm」とか、「下がすっぱり切れている」とかの状況のクリティカルさが分かりやすく目立つ場面であったというだけで、これまでいろいろな廃道を自転車同伴で突破してきた中では、こんなふうに「自転車を片手で持ってバランスを保ちながら狭いところを通る」動作は珍しいことではなく、慣れた動作だったといえる。

それでも一つだけ怖いと思ったのは、「片手で持って宙づりにして通る」の写真を撮影しようという悪戯心が出てしまい、右手でカメラを構えファインダーをのぞき込んでいた最中だった。その瞬間も当然自転車は左手だけで空中に支えられていたわけだが、ファインダーを覗く行為をしていると、視界が極端に狭いせいか、身体のバランスがどこにあるのか実感しづらかったのである。

16:45 《現在地》

ともかくこんな感じでギリのギリに残された道幅を2往復することで、この区間を廃道に変えてしまった致命的崩壊現場を自転車と全ての荷物を持って突破し終え、このまま先へ進める出来る状況を手にした。この先がどうなっているのかは不明であり、最悪、この先の当目隧道の状況次第では引き返す羽目になるかも知れないが、そのときはそのときだ。

ということで、ここから廃道区間の焼津側状況をお伝えしていく。

写真は崩壊現場を振り返って撮した。

なんとなく雑然としているが、道路の崩壊が起きてから行われた復旧工事(実際には新道を作るという復旧になったが)に関係する物が、ほとんど撤去されないままに残っている。設置された赤色灯が物々しい。

もっとも、探索

[39] 道路レポート 東京都道236号青ヶ島循環線 青宝トンネル旧道, , http://yamaiga.com/road/tpr236_seihou/main.html

ついに行ったった、 青ヶ島 あおがしま !!

青ヶ島は、東京都心から南へ遙か360km、黒潮の絶海に浮かぶ、伊豆諸島における最南の有人島である。

緯度的にも長崎市より南であり、私の訪問地における南極を圧倒的に更新する存在。

私は初めての島旅を同じ伊豆諸島の新島と神津島に得た2013年当時から、この地の訪問を夢見ていた。

これまでに行った全ての島旅は、ある意味において、この離島ビギナー向けではない島へ挑むためのトレーニングであった。そんな大仰な気構えさえ持つほどに、青ヶ島は私にとって“高嶺の花”だと思える存在だった。

それは旅人として、あるいは、オブローダーとしてもである。

このわずか約6km 2 (河口湖と同程度)、外周9kmの小さな島には、土木を愛するものを惹きつける魅力がある。

私はそのことを、この島を体験した幸運な数人の情報提供者によって、ここ10年ほどの間に何度か唆された。

そのために、私はいつか自転車と一緒にこの島へ渡ってみたいと思うようになった。

私が初めて行きたいと思った島は、実はこの青ヶ島である。

多くの特徴に彩られたこの島の一般的なプロフィールについては、既に多数の情報が巷にあるから、ここでは簡単に箇条書きで触れるに留める。詳しく知りたい方は、別途この島の名前を検索すると良い。でも、敢えて知らないまま読み進めるのも一興かもしれない。

《 青ヶ島についての “ごく一般的な” 情報 》

都心から南へ約360km離れた太平洋上に浮かぶ、面積約6km 2 、外周約9kmの小さな島。

最寄りの島は八丈島だが、約64km離れている、文字通りの絶海の孤島。伊豆諸島では最南端の有人島。

東京都青ヶ島村を一島のみで構成しており、人口は約170人。同村は日本で最も人口の少ない自治体。

世界的にも珍しい二重のカルデラを持つ小型の火山島で、固有の生物や植物もある。

江戸時代の天明5(1785)年(今から230年ほど前)に最後の大噴火があり、多くの住民が焼死。生き残った人々は八丈島に避難し、以後数十年無人となった。

島には旅客船が発着する港と、ヘリポートがあり、海路と空路で訪問が可能。本土からの直通便はなく、船もヘリも八丈島との往復である。

有人島としては、日本でも有数の訪問が難しい島として知られる。(後述)

さて、私にとって青ヶ島訪問の最初にして最大の関門と

履歴

[43] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24343926394099850

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