九道の辻

九道の辻

[1] 九道の辻

35.7440479636855 139.466865062714

Webページ

[2] 新しいページ 2, , http://www.asahi-net.or.jp/~hm9k-ajm/musasinorekisi/kamakurakaidounosyuku/koigakubokarakumegawae/koigakubokumegawa3/koigakubokumegawa3.htm

恋ヶ窪から久米川へ 3

旧鎌倉街道跡はブリジストン東京工場までたどれました。

そこで、広大な工場敷地内に吸い込まれますが、工場北側の「九道の辻」で再び顔を出します。

武蔵野の原の中、なぜ9つもの街道が集まったのか不思議です。

そこには、埼玉方面への鎌倉街道の分岐点があり、重要な課題を含んでいます。

ここから久米川宿までは3キロ程です。

ブリジストン東京工場敷地内に吸い込まれた旧鎌倉街道を後にして

やむなく、これまでの道を左折し、府中街道に出て北進します。交通戦争さながらの修羅場です。

排ガスにあえぎ、辟易して進む間に西武拝島線の踏切に着き、その先は森になっています。

自動車の比較的空く昼食時間に、信号の途切れを待つと

信じられないような空間が生ずることがあります。

津田塾大学周辺とここは、府中街道のオアシスかも知れません。

併せて、過去の景観を描くことがどれだけ慎重を要するのか実感します。

明治14年の地図では、この一帯は現在と同じように、雑木で覆われている様子が描かれています。

しかし、鎌倉時代には、荒野・曠野、広漠の原野であったように語られます。

この差は、江戸の雑木林植林の結果であったのか、それ以前からの景観であったのか

きちんと分析する手だてはないものでしょうか?

そして到達するのが「九道の辻」(くどうのつじ)です。

ここは、東村山市と小平市の行政境にもなっていて、鎌倉街道の分岐点でもありました。

明治の地図を見ると、多くの街道が集中していることが読みとれます。

画像の案内柱(小平市)には

『ここ九道の辻は、旧鎌倉街道のほぼ中間で、鎌倉へ十八里(七十二キロメートル)、前橋へ十八里(七十二キロメートル)の地点にあった。

江戸街道、引股道(ひきまたどう)、宮寺道、秩父道、御窪道、清戸道、奥州街道、大山街道、鎌倉街道の九本の道がこの地に分岐していたことから、九道の辻という名がついた。

この辻の付近は、野火止用水が開通するまで広漠たる原野の中にあったといわれる。

明治以降の交通機関の発達にともなう道路の改変は、この辻にも例外なく、往時の九道の辻の姿は今日、全く消え失せてしまった』と書かれています。

厄介なことには、案内柱にも書かれているように、どれが9道なのか、はっきりしなくなっていますが、それ以上に頭を悩ませることが起こります。

[3] 新しいページ 1, , http://homepage2.nifty.com/katohjuk/kami5-3.htm

鎌倉歴史散策の歴散加藤塾別館、鎌倉古道を訪ねる頁です。

鎌倉古道 鎌倉街道・鎌倉往還

五の�V 津田塾(鎌倉橋)から九道の辻まで

「鎌倉橋」を渡ったらまっすぐ進む、道の左側に「鎌倉街道」の標識がある。

明治の地図では緩く左へ曲がって、先の交差点からの道と真っ直ぐつながっていたようだが、おそらく戦後の農地改良で付け替えてしまったのだろう。とにかくまっすぐ進もう。地図で分かるように西側には「津田塾大学」がある。大学の歴史をネットで見たら、皆聞いたことのある名「津田梅子さん」である。

1871年(明治4)、欧米視察の岩倉具視大使一行がアメリカへ旅立つ船上に幼い少女の姿がありました。それは開拓使が募集した女子留学生のうち最年少の少女、津田梅子。満6歳のことです。 渡米後、梅子はワシントン郊外のランマン夫妻のもとで現地の初等・中等教育を受け、アメリカの生活文化を直接体験しました。 そして11年後の1882年(明治15)の暮れ、帰国の途につきます。 アメリカで多感な少女時代を送った梅子にとって、帰国後の生活はカルチャーショックの連続でした。日本の女性が置かれていた状況に驚き、女性の地位を高めなければという思いが募ります。

1900年(明治33)、梅子は先駆的な私立女子高等教育機関の一つである「女子英学塾」を創設します。梅子は「男性と協力して対等に力を発揮できる、自立した女性の育成」をめざしました。日本政府からアメリカに派遣され、勉強の機会を与えられた梅子の胸中には「学んだ知識を社会に還元したい」という強い願いが刻まれていたのです。梅子が開校式で語った建学の精神は、今も変わることなく、津田塾大学の教育理念として受け継がれ

ています。

歩いていると右側の住宅の間に、物置を大きくしたような建物があり、「津田町立坑」の看板が出ている。なんだろうと近づくとステンレスの扉に「列車通過中 扉の開閉注意」と赤い字で書かれている。武蔵野線の地下線路部分のメンテナンス用の立坑と判明。

芳賀先生の本の地図には、名所の印があり「まいまいず井戸跡」と書かれている。明治の地図に「畑」の文字の1cm位上に点と周りに薄く和が見える。これか?

まいまいず井戸とは、武蔵野台地では水脈が深く周囲の土質がもろく、竪堀の井戸では周囲を抑える技術が無かったので、直径10m位すり鉢状に穴を掘り、ラセン状に小道を下

[4] 九道の辻, , http://www.geocities.jp/yokanbay/higamura-kudoutsuji.html

所在地 : 東村山市栄町3-18付近 地図

九道の辻は、旧鎌倉街道のほぼ中間で、鎌倉まで十八里(72km)、前橋まで十八里(72km)の地点にあった。

江戸道・引股道・宮寺道・秩父道・御窪道・清戸道・奥州街道・大山街道・鎌倉街道の九本の道がこの地に分岐していたことから、九道の辻の名がついた。

[5] 九道の辻公園/赤レンガの遊歩道と赤松並木|東京都小平市, , http://www.city.kodaira.tokyo.jp/kurashi/000/000126.html

九道の辻公園付近

この付近は、その昔、鎌倉街道、江戸街道など9本の道が交差しており、九道の辻と呼ばれました。 春先にはかたわらにあった「迷いの桜」が旅人のやすらぎとなっていたそうです。 野火止用水の流れに沿って作られたこの公園は、水と緑をテーマとした和風公園で、 3基のモニュメントとあいまって、現代の憩いの場となっています。

九道の辻公園(小平市小川東町2-3-4)

西武多摩湖線八坂駅下車 徒歩3分

面積 :3,432平方メートル

問合せ:水と緑と公園課 Tel:042-346-9556

履歴

[7] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933241375

メモ