所在地:大阪市旭区赤川4丁目、大阪市東淀川区菅原町1丁目
最寄駅:
旭区側より 市バス「赤川3丁目」下車、城東貨物線に沿って、北へ
日吉神社本殿の裏手の土手を上がると、右手の方向に1989年(平成元年)に開通した「菅原城北大橋」が、左手の方向には1929年(昭和4年)に架設された城東貨物線の「赤川の鉄橋」が、ほぼ等距離の位置に見える。
2019年(平成31年)春には「おおさか東線」の全面開通により、現在の様に貨物線用鉄橋と併設されている人道橋は姿を消す運命にあるらしいので、想い出作りに対岸まで渡ってみたが、お目当ての貨物列車は橋を往復した往復の時間帯には遭遇せず、残念なことであった。
「赤川の鉄橋」は勿論史蹟ではなく、現役バリバリの橋であり、「赤川の鉄橋」という名も通称名で、正式には「淀川橋梁」と呼ぶそうだが、、筆者自身にとっては「赤川の鉄橋」は幼い頃から馴染んできた名でもあり、風景でもある。
先の大戦で、終戦間際にこの城東貨物線を狙った米軍の絨毯爆撃で、特に都島区側の線路際(現UR都島リバーシティから桜宮高校辺りにかけ)にあった捺染工場などが壊滅的な損害を受け、その跡地には爆弾池がいくつも出来ており、池に住み着いたザリガニを獲って遊んだものだ。
もともとこの城東貨物線は複線で設計されており、筆者の子供の頃(終戦直後)から、貨物線は複線になり、電車が通ると言い聞かされてきたので、今回「おおさか東線」の実現すると地元の人たちにとっては、実に戦後70年以上も経って夢が実現することになる。尤も、地元の赤川に駅が出来ないのは残念なことではあるが。
城東貨物線の想い出といえば、終戦直後は駐留軍の兵士の輸送に使われ、兵隊さんを乗せた列車が通ると線路際の家々の子供たちは線路に駆け上がり、列車を追いかけ、菓子をねだったものだ。何故か列車はゆっくり、ゆっくりと走り、駄菓子屋では売られていないチョコレートやキャンディが車窓から身を乗り出した兵隊さんは子供たちに手渡してくれた。
少し時代が下がると、奈良方面へのショートカットで、修学旅行の生徒や天理教の大祭ごとに信者を乗せた臨時列車が頻繁に通るようになり、近いうちに電車が通るのはあながちうわさ話ではないと思われたが、いつかその話も立ち消えになってしまった。